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2018年2月25日日曜日

TSONTS-26 高山善行(2005)を何故批判するのか(6) なぜ高山善行(2005)なのか

Q6. 高山善行(2005)が何故選ばれたのですか。
A5. 偶然的な理由と必然的な理由があります。

私の投稿(ク語法の論文)を萬葉学会が不掲載と判断した理由を知りたかったのです。査読者(Q氏)が所見に「モーダルな意味があると捉える点は興味深い。」と述べ、「構文上にモーダルな意味が付加されているのか、それともアクそれ自体の語義によっているのかが、本論では明らかではない。」を不掲載の理由の一つとしたためです。私自身は当該の論文でmodalityを論じる意図はなかったので、Q氏の感想や理由は意外でしたし、Q氏が「モーダル」という言葉で何を意図しているかもわかりませんでした。それでP氏(編集委員)にQ氏のモダリティの定義を教えてほしいと頼んだのですが、査読結果に対して質問することすら許さないと考えるP氏から満足な回答は得られませんでした。そこで古典語のモダリティの論文で有名な高山善行氏の一連の論文を読みました。以上が偶然の理由です。

そのようにして読んだ論文の一つが高山(2005) です。萬葉学会を初めとする国語学の学会に共通する問題がそこにあると感じました。国語学の世界では「権威による論証」が幅を利かせているようです。素人が書いたから間違いである。国語学者が言ったから正しい。正しいことの理由が発言者の権威なのです。それが間違いなのは言うまでもありません。しかし国語学者の多くがそう信じているとしたらどうでしょう。一般の人も学者の言うことだから正しいに決まっていると思うかもしれません。

この項目のタイトルのTSONTSはto sue or not to sueです。長いので略しました。裁判のことは詳しくありませんが、一般の人が裁判員となるかもしれません。初歩の論理学の専門教育を受けた人たち(大学の理系学部や法学部などを卒業した人)だけでなく、そういう教育を受けていない人たち(たとえば国語学者の多く)にも理解してほしいのです。

高山善行(2005)は「従来の帰納的方法に対して, 本稿では演繹的方法を用いる。」と述べています。帰納と演繹の違いが同論文の主眼でしょう。しかし、高山善行氏がそこで用いたのでは帰納法であって演繹法ではありません。

高山氏は127例の用例を調べ、時間や場所の表現との共起がないという事実を観察しました。次に高山氏はその事実を帰納して、連体法の「む」は時間や場所の表現と共起できないと一般化しました。ソクラテスが死んだ。プラトンが死んだ。これらの個別の事実を帰納して一般化する。だから人間は死ぬものである。教科書通りの帰納法です。

次に高山氏は「共起できない」という機能的結論の理由として、 連体法の「む」は非現実の事象を表わすという仮説を遡及推論から提案しました。遡及推論はretroductionとも呼ばれます。結果を見て原因を推論します。置き忘れた財布が無い。あいつが盗んだと仮定すれば財布がないことを説明できる。したがってあいつが犯人である。この論法が間違いであることは誰しも認めます。しかし国語学の世界ではしばしば用いられます。

そもそも言葉の意味を推定するのは言語学です。その言語学は経験科学です。経験科学において演繹だけで新しい知見が得られないことは今さら議論の余地がない常識です。演繹で何かがわかるのは、絶対的な真理から出発した場合だけです。数学は人間が絶対的に正しいと定めた公理から出発します。法律も憲法から演繹されたものと言えます。神学も聖なる書物に書いてあることは絶対に正しいとするなら演繹が有効でしょう。中世ヨーロッパの天文学などには演繹による惑星間の距離の証明などがあります。しかし現代人がそれを正しいと認めることはあり得ません。高山善行(2005)はこの点でも問題です。

帰納や遡及推論を演繹と主張する論文が他分野で書かれることはあり得ません。何かの間違いで書かれたとしてもそれが査読を通って雑誌に掲載されることはあり得ません。論理的に物事を考える、論文を書く、論文を審査するという、研究の初歩的な能力において、高山善行(2005)がそれを満たしているとは言えませんし、それを審査してそのまま掲載した日本語学会の査読者もそれを満たしているとは言えません。つまり、どちらも研究の仕方や論文の書き方では素人であって専門家でないのです。先行文献を引用し違いを明確に述べることは論文の著者の義務ですが、前回書いたようにそれも守られてはいません。

高山善行(2005)を選んだのは大学の教員だから正しいだろうという予断(prejudice)を持つことは危険です。それが高山善行(2005)を選んだ第二の必然的理由です。

高山善行氏だけではありません。国語学者を名乗る人たちの多くは研究の仕方と論文の書き方では素人です。誰某は専門家だから正しい。また、誰某は大学の文学部を出ていないから素人であり、したがって言っていることは間違いである。そのようなおかしな論理で他人の論文を評価すべきではありません。専門家は本来自分の目だけで他人の仕事の結果の大凡の価値を判断できるものです。著者が大学の国文科を卒業しているかどうかだけで判断するなら、国語学は何十年、何百年経っても江戸時代から1mmも進歩しません。


いつものおまじないを書いておきます。こういう常識をわざわざ書かなくていけないのも情けなくはあります。

「公表された作品については、みる人ぜんぶが自由に批評する権利をもつ。どんなにこきおろされても、さまたげることはできないんだ。それがいやなら、だれにもみせないことだ。」

藤本弘(藤子・F・不二雄)氏の「エスパー魔美」からの引用である。「法華狼の日記」さんのサイトに詳細な解説とそれに対する読者の反論と議論がある。セリフに漢字が少ないことから窺えるように、この漫画は小中学生を読者と想定したものである。自分の論文が批判されて怒っていたら理系の研究者はやっていられない。相互批判は学問の共同体の当然の権利であり、それが学問を発展させるのである。この当然すぎる常識を萬葉学者たちが受け入れてくれることを祈る。

※ このブログの記事のことは萬葉学会にメールして以下の伝言を高山善行氏に伝えるようお願いしました。宛先には萬葉学会編集委員長の関西大学の乾善彦氏も入れてあります。ですから必ず伝わっていることと思います。伝言の部分を再掲します。

「
高山善行殿

高山善行(2005) 「助動詞「む」の連体用法について」 『日本語の研究』  1(4), 1-15, 2005の問題点を次の記事で論じています。

高山善行(2005)の問題点(1) 演繹でない推論
https://introductiontooj.blogspot.jp/2017/11/to-sue-or-not-to-sue-2.html

高山善行(2005)の問題点(2) データの整理が不適切である
https://introductiontooj.blogspot.jp/2017/11/to-sue-or-not-to-sue-3-20052.html

高山善行(2005)の問題点(1再) 演繹でない推論(つづき)
https://introductiontooj.blogspot.jp/2017/11/to-sue-or-not-to-sue-4-20051.html

高山善行(2005)の問題点(3) モダリティの理解不足
https://introductiontooj.blogspot.jp/2017/11/to-sue-or-not-to-sue-5-20053.html

高山善行(2005)の問題点(4) 主観と客観の混交
https://introductiontooj.blogspot.jp/2017/11/to-sue-or-not-to-sue-6-20054.html

今後も継続する予定です。上記記事並びにその継続記事に対して意見があればコメントまたはメールにて連絡をお願いします。
」


引用文献
山田孝雄(1908)『日本文法論』(宝文館)
山田孝雄(1936)『日本文法概論』(宝文館)
Reichenbach, Hans (1951) The Rise of Scientific Philosophy.
Popper, Karl (1959) The Logic of Scientific Discovery.
Popper, Karl (1972) Objective Knowledge: An Evolutionary Approach.
野崎昭弘(1980)『逆接の論理学』(中公新書)
北原保雄(1984)『文法的に考える』(大修館書店)
和田明美(1994)『古代日本語の助動詞の研究ー「む」の系統を中心とするー』(風間書房)
Palmer, Frank R. (1979) Modality and the English Modals.  飯島周訳『英語の法助動詞』(桐原書店)
Palmer, Frank R. (1990) Modality and the English Modals. 2nd ed.
村上陽一郎(1994)『科学者とは何か』(新潮社)
Palmer, Frank R. (2001) Mood and Modality, 2nd Edition.
高山善行(2002)『日本語モダリティの史的研究』(ひつじ書房)
安田尚道(2003) 「石塚龍麿と橋本進吉--上代特殊仮名遣の研究史を再検討する」 『国語学』 54(2), p1-14, 2003-04-01
山本淳(2003)「仮定・婉曲とされる古典語推量辞「む」の連体形」 山形県立米沢女子短期大学紀要 38, 47-62, 2003-06-30
高山善行(2005)「助動詞「む」の連体用法について」 『日本語の研究』  1(4), p1-15, 2005
Priest, Graham (2008) An Introduction to Non-Classical Logic, Oxford University Press.
Cruse, Alan (2011) Meaning in Language: An Introduction to Semantics and Pragmatics (Oxford Textbooks in Linguistics) Oxford University Press. 
高山善行(2011)「述部の構造」 金水敏ら(2011)『文法史』 (岩波書店)の第2章
高山善行(2014)「古代語のモダリティ」 澤田治美編(2014)『モダリティ 1』 (ひつじ書房)に収録
高山善行(2016)「中古語における疑問文とモダリティ形式の関係」 『国語と国文学』 第93巻5号 p29-41

2018年1月31日水曜日

TSONTS-25 高山善行(2005)を何故批判するのか(5) 違いを説明する義務

Q5. 高山善行(2005)に論文としての価値はありますか。
A5. 学術論文が備えるべき要件とされるのは独自性(originality)と新規性(novelty)と重要性(significance)です。他人の真似でないことが独自性です。以前査読者による盗用の話をしましたが、国語学の学会がこの点を全く考慮していないのが不思議です。新規性は今までになかった発見や考え方です。既に誰かが言ったことや書いたことと同じでは新規性の面から価値がありません。他の研究者の研究に役立つかが重要性です。高山善行(2005)の場合、連体用法の「む」は未解決の問題なので重要性は問題ありません。問題になるのは新規性です。似た論文が存在するのに引用していません。気付かなかったでは済まされません。論文の著者は似た論文を調べて探し出し違いを説明する義務があります。山本淳(2002)にあまりに似すぎています。また「む」が非現実を表わすとする説は山田孝雄(1908)が述べたものです。少なくともこの二つの論文と比較し、違いを述べなくてはいけません。理科系の論文の査読者であれば引用させ違いを説明させます。

上記に加え、実験や調査のデータに間違いがないこと、結論を導く推論に誤りがないことが当然求められます。また、論文のテーマや題材が持つ本質的な難しさは別にして、記述の仕方をわかりやすくすることも求められます。もちろん、数式が難しいから数式を使わずに書けなどという要求は認められません。わかりやすくというのは、データの提示などです。高山善行(2005)はAとBという二つの表現の共起関係の比較を行ないますが、AとBの母数が大きく違い、AはBの6倍近くあります。ということは、Aの共起が11例、Bの共起が2例であった場合、Bの共起の確率が大きいということです。高山氏は大きな違いのみ数字を示していますが、母数を示さないとAの共起例が多く受け取られやすくなります。また違いが小さい場合は数字を示していません。Aの共起例を3例示し、Bの例が一つしかなかったと書いている箇所がありますが、それでは母数の差からBが共起しやすいという高山善行(2005)と逆の結論が導かれます。データの提示のわかりにくさは査読で指摘すべきでした。

何度も書きましたが、「演繹的方法を用いた」というのは誤りです。これが訂正されない限り論文を受理できません。というのは、経験科学において演繹的方法で何かが発見されることがないからです。星座の配置から結論した、宇宙人から電話があった、と書くのと変わりません。著者の恥となることですから、査読者は注意すべきでした。事実、高山善行(2005)が用いた推論は、演繹でなく、二段階の遡及推論による仮説の提示です。調べた範囲で共起例がなかったという結果から共起できないという一般法則を仮定し、さらにその理由として、連体「む」が非現実を表わすからであるという理由を仮定しています。

高山氏の名誉のために付け加えれば、このような仮説の提示をあたかも正しい推論から得られた結論の如く扱う国語学者が少なからず存在します。しかしまた、国語学者がそのような間違いを犯すことが問題です。学生や一般人が信じてしまいます。「金谷武洋氏なほもて批判さる、いはんや高山善行(2005)をや」というのはそういう意味なのです。一般人が間違う以上に学生や国語学者の卵が影響を受けるのが問題です。

本稿が参考にしたのは田川拓海氏のこのブログ記事です。

いつものおまじないを書いておきます。こういう常識をわざわざ書かなくていけないのも情けなくはあります。

「公表された作品については、みる人ぜんぶが自由に批評する権利をもつ。どんなにこきおろされても、さまたげることはできないんだ。それがいやなら、だれにもみせないことだ。」

藤本弘(藤子・F・不二雄)氏の「エスパー魔美」からの引用である。「法華狼の日記」さんのサイトに詳細な解説とそれに対する読者の反論と議論がある。セリフに漢字が少ないことから窺えるように、この漫画は小中学生を読者と想定したものである。自分の論文が批判されて怒っていたら理系の研究者はやっていられない。相互批判は学問の共同体の当然の権利であり、それが学問を発展させるのである。この当然すぎる常識を萬葉学者たちが受け入れてくれることを祈る。

※ このブログの記事のことは萬葉学会にメールして以下の伝言を高山善行氏に伝えるようお願いしました。宛先には萬葉学会編集委員長の関西大学の乾善彦氏も入れてあります。ですから必ず伝わっていることと思います。伝言の部分を再掲します。

「
高山善行殿

高山善行(2005) 「助動詞「む」の連体用法について」 『日本語の研究』  1(4), 1-15, 2005の問題点を次の記事で論じています。

高山善行(2005)の問題点(1) 演繹でない推論
https://introductiontooj.blogspot.jp/2017/11/to-sue-or-not-to-sue-2.html

高山善行(2005)の問題点(2) データの整理が不適切である
https://introductiontooj.blogspot.jp/2017/11/to-sue-or-not-to-sue-3-20052.html

高山善行(2005)の問題点(1再) 演繹でない推論(つづき)
https://introductiontooj.blogspot.jp/2017/11/to-sue-or-not-to-sue-4-20051.html

高山善行(2005)の問題点(3) モダリティの理解不足
https://introductiontooj.blogspot.jp/2017/11/to-sue-or-not-to-sue-5-20053.html

高山善行(2005)の問題点(4) 主観と客観の混交
https://introductiontooj.blogspot.jp/2017/11/to-sue-or-not-to-sue-6-20054.html

今後も継続する予定です。上記記事並びにその継続記事に対して意見があればコメントまたはメールにて連絡をお願いします。
」


引用文献
山田孝雄(1908)『日本文法論』(宝文館)
山田孝雄(1936)『日本文法概論』(宝文館)
Reichenbach, Hans (1951) The Rise of Scientific Philosophy.
Popper, Karl (1959) The Logic of Scientific Discovery.
Popper, Karl (1972) Objective Knowledge: An Evolutionary Approach.
野崎昭弘(1980)『逆接の論理学』(中公新書)
北原保雄(1984)『文法的に考える』(大修館書店)
和田明美(1994)『古代日本語の助動詞の研究ー「む」の系統を中心とするー』(風間書房)
Palmer, Frank R. (1979) Modality and the English Modals.  飯島周訳『英語の法助動詞』(桐原書店)
Palmer, Frank R. (1990) Modality and the English Modals. 2nd ed.
村上陽一郎(1994)『科学者とは何か』(新潮社)
Palmer, Frank R. (2001) Mood and Modality, 2nd Edition.
高山善行(2002)『日本語モダリティの史的研究』(ひつじ書房)
安田尚道(2003) 「石塚龍麿と橋本進吉--上代特殊仮名遣の研究史を再検討する」 『国語学』 54(2), p1-14, 2003-04-01
山本淳(2003)「仮定・婉曲とされる古典語推量辞「む」の連体形」 山形県立米沢女子短期大学紀要 38, 47-62, 2003-06-30
高山善行(2005)「助動詞「む」の連体用法について」 『日本語の研究』  1(4), p1-15, 2005
Priest, Graham (2008) An Introduction to Non-Classical Logic, Oxford University Press.
Cruse, Alan (2011) Meaning in Language: An Introduction to Semantics and Pragmatics (Oxford Textbooks in Linguistics) Oxford University Press. 
高山善行(2011)「述部の構造」 金水敏ら(2011)『文法史』 (岩波書店)の第2章
高山善行(2014)「古代語のモダリティ」 澤田治美編(2014)『モダリティ 1』 (ひつじ書房)に収録
高山善行(2016)「中古語における疑問文とモダリティ形式の関係」 『国語と国文学』 第93巻5号 p29-41


2018年1月11日木曜日

TSONTS-20 萬葉学会の何が問題か(5)

Q5. 査読者の交替を要求しなかったのですか。
A5. それ以前に反論さえ認めないと言っています。

理系の学会は投稿者と査読者は対等です。査読者が理解不十分で査読に相応しくないと判断すれば当然の権利として編集者に査読者の交替を要求します。萬葉学会はそれとは全く別の常識が支配する世界です。以下は私の推測です。国語学者であれば当然の発見の如く書くでしょうが、常に客観的に表現することを訓練された理系人の控えめな書き方は国語学者たちから見れば「説得力がない」かもしれません。国語学者風に書いてみましょう。

萬葉学会は未熟な投稿者を専門家である国語学者が指導育成すると考える。国語学者は不可謬であり、その発言は絶対の真理である。投稿者はけして逆らってはならない。天は人の上に査読者を作り、人の下に投稿者を作る。萬葉学会はそう考えるのである。

投稿者は査読者の言い付けを遵守して論文を改良すること。ゆめ査読者が間違っているなどと思ってはならない。書き直して論文の価値が下がったとしたら、それは投稿者が査読者の真意を誤解したからである。萬葉学会の聖なる書物にはそう書かれている。

そのような方法で審査する限り、従来説を覆すような画期的進歩は起こらない。人間は自分を物差しとしてしか評価できない。自分を超えるものの価値が理解できるだろうか。結局は査読者たちの常識に整合する論文ばかりが掲載される。「萬葉」にここ十年ほど画期的な論文が掲載されただろうか。従来説の焼き直しばかりではないか。地動説を唱えるものを有罪とするようなやり方は科学(知的活動)を停滞させるばかりか逆行させる。

萬葉学者は論文を文学作品と同じと理解している。新しい発見があることは重要でない。結論が従来説と同じであっても、当該の論文が用いたとは別の例えが使われていれば説得力があると感動する。海外の専門家が書いた言語学の定番の教科書が引用されていれば、たとえその引用が誤訳であっても良い。大切なのは正確さでなく説得力なのだから。権威の発した言葉は錦の御旗となる。たとえ上下逆に掲げていたとしても。

慣れないことをするものではありませんね。断定的に書くという点では国語学者風でしたが、決まり文句の「思われる」「だったのである」を使い忘れました。

Thomas KuhnのいうParadigme shiftを実現するには、国際的な学会(理系はすべてそう)が採用しているように、投稿者と査読者は対等である、という原則を貫くべきです。でないと、査読者の思いも寄らなかったような新しい発見は出てきません。国語学に進歩がないとしたら、そのような審査方法が原因なのかもしれません。ちなみに、「ミ語法の」論文のほうは、三名の査読者があり、反論も認められました。また、今回のク語法の論文の査読理由のような、明晰でない日本語や意味が不明な英単語の使用もありませんでした。今まで書いてきた理系の論文もそうでした。萬葉学会だけたまたま不明瞭な文章を書く人に当たり、萬葉学会だけ査読に反論が認められないのかもしれません。 


参考文献
Kuhn, Thomas (1996), The Structure of Scientific Revolutions, 3rd Ed. (Univ. of Chicago Press)



TSONTS-19 萬葉学会の何が問題か(4)

Q4. なぜク語法の論文をブログに公開したのですか。
A4. 査読者による盗用を防ぐためです。萬葉学会は何ら盗用対策を講じていません。

高山善行(2005)の問題点(6) 引用すべき論文が引用されていないに書きましたが、村上陽一郎(1994)の第5章の「窃盗同様の行為」の節から引用します。

「
もっと極端な事例として知られるのは、次のようなレフェリー絡みの話である。興味深い内容の論文原稿があるレフェリーの手許に回ってきた。そのレフェリーは、その論文にケチを付けて、著者に変更の要求とともに返送すべきである、という審査結果を出した。編集委員会が、この結果に基づいて手続きをしている聞に、このレフェリーは、当の論文の重要な部分を自分の論文に仕上げて、さっさと審査を通過させ、発表してしまった、というのである。これでは、窃盗と言われでも仕方あるまい。
」

そういうことが起こりうることは誰もが予想することです。国際的な学会では、投稿した原稿のコピーのすべてのページに渡る日付の入った受領の穿孔印を押して返却するなど、何年何月何日にどういう内容の投稿をしたかの証明が為されます。萬葉学会ではそのような初歩的な対策さえ為されていません。

あなたは知らない人に領収書もなく現金を預けますか。学会誌へ投稿するということはそれと同じです。アイデアのような形のないものは盗んでも証拠が残りません。

人間の記憶力は曖昧です。誰かから聞いた話や何かで読んだ話であっても、年月の立つうちに、自分が昔から考えていた、となるのです。また、他人のアイデアを聞いても、そこに自分の考えを付け加えれば、二人の共同のアイデアでなく、自分だけのものと思う人もあります。

安田尚道(2003)のような事例は石塚龍麿が自分のアイデアを書き止めていたからこそ明らかになったのです。国語学の雑誌に論文を投稿し、それが査読者に犯意がなくても結果として登用されることがないとは言えません。


参考文献
村上陽一郎(1994)『科学者とは何か』(新潮社)
安田尚道(2003) 「石塚龍麿と橋本進吉--上代特殊仮名遣の研究史を再検討する」 『国語学』 54(2), p1-14, 2003-04-01

 

TSONTS-18 萬葉学会の何が問題か(3)

萬葉学会の審査の妥当性の検討(3)に予告したことの続きである。

Q3 自分の論文が掲載されないから怒っているのですか。

A3. 違います。妥当な理由なら従います。今回の萬葉学会の不掲載の理由は理不尽を絵に描いたようなものです。証拠も示さずに新知見と言えないと言ったり、ク語法の意味をはっきりと知覚することだと書いたら、はっきりしないが普通に知覚することの言い方がないから意味がないとか、萬葉集に使われる上代語に関する論文なのに平安時代や鎌倉時代の意味を考察しろと言ったり、言語道断を絵に描いたようなものです。

被害を受けたのは私ひとりでありません。

萬葉学会の過去十年の掲載論文の著者は、一名を除いて大学の教員または院生です。その人は高等学校の教諭です。奈良女子大の卒業生らしい。恐らく国文科の卒業生でしょう。

つまり大学の国文科と関係がない在野の研究者の発表の機会が奪われています。

さらに、萬葉学会の会員は新しい知見を知る権利があります。今回の萬葉学会の不当な理由による不掲載の決定はその人たちの権利を侵害するものです。

雑誌「萬葉」はP氏によると「同人誌」と言われているそうです。同人誌なら会員すべての論文を載せるものです。しかし掲載されるのは特定の人たちに集中しています。逆に言えば同人とは大学関係者だけです。

大学関係者以外の会員の多くは自分の研究を発表する場として入会しているはずです。かつてある理系の学会の事務担当者から言われたことがありますが、学会費は会誌の購読朗ではなく発表する権利に対して払っているのだそうです。理系の学会に入る人は職場や学校に学会誌が置いてあります。

そうであれば尚更萬葉学会のしている行為は詐欺に該当すると言えます。ある人は高齢で年金生活だそうです。乏しい収入からやりくりをして萬葉学会に入っていたそうです。しかし一度も投稿が採用されることがなかったそうです。






TSONTS-17 萬葉学会の何が問題か(2)

萬葉学会の審査の妥当性の検討(3)に予告したことの続きである。

Q2. 論文の採否は運で決まるのではありませんか。

A2. それは当落線上の論文の場合です。今まで検討してきた高山善行(2005)を例にとります。

高山善行(2005)の結論は以下です。
「用言(の連体形)+人」の形は

「
無標の名詞句であり, 現実性一非現実性の意味解釈は基本的には文脈によって決定される。
」

「用言(の未然形)+「む」+人」の形は

「
「む」でマークされることによって, 現実性の解釈は排除され, 必ず非現実性解釈となる。
」

良く似た論文として山本淳(2003)があります。結論は

「
i 連体形「む」は、未確認の事実について想像する推量辞であり、「む」が持っている本来のはたらきである。
ii 連体形「む」の有無に関して、話者が未確認の事実であることを明示する必要があると判断した時に表れて、その使用については恣意的である。
iii 連体形「む」は、未確認の事実についての想像を示すということと関わって、「む」と意味的に相関する文節に推量辞を伴いやすい。
」

です。 連体形「む」がある意味を明示する必要があると話し手が判断したときに現われることは全く同じです。違いは「む」の意味だけです。「む」が表わすのは山本淳(2003)が「未確認」、高山善行(2005)が「非現実」です。

その「非現実」の意味は山田孝雄(1908)に「む」は「非現実性の思想をあらはす複語尾」と記されています。

高山説は山田説と山本説を組み合わせたものです。高山善行(2005)が主張する「演繹」が演繹でないことは高山善行(2005)の問題点(1) 演繹でない推論と高山善行(2005)の問題点(1再) 演繹でない推論(つづき)に書きました(※)。とすると高山論文に新規性があるかが論文の採否を決定します。これは査読者により当落が分かれます。運が働くのはこのような論文の場合だけです。殆どの論文は当落線上でありません。査読者が何人いても判断が一致します。

※ このブログの記事のことは萬葉学会にメールして以下の伝言を高山善行氏に伝えるようお願いしました。宛先には萬葉学会編集委員長の関西大学の乾善彦氏も入れてあります。ですから必ず伝わっていることと思います。伝言の部分を再掲します。

「
高山善行殿

高山善行(2005) 「助動詞「む」の連体用法について」 『日本語の研究』  1(4), 1-15, 2005の問題点を次の記事で論じています。

高山善行(2005)の問題点(1) 演繹でない推論
https://introductiontooj.blogspot.jp/2017/11/to-sue-or-not-to-sue-2.html

高山善行(2005)の問題点(2) データの整理が不適切である
https://introductiontooj.blogspot.jp/2017/11/to-sue-or-not-to-sue-3-20052.html

高山善行(2005)の問題点(1再) 演繹でない推論(つづき)
https://introductiontooj.blogspot.jp/2017/11/to-sue-or-not-to-sue-4-20051.html

高山善行(2005)の問題点(3) モダリティの理解不足
https://introductiontooj.blogspot.jp/2017/11/to-sue-or-not-to-sue-5-20053.html

高山善行(2005)の問題点(4) 主観と客観の混交
https://introductiontooj.blogspot.jp/2017/11/to-sue-or-not-to-sue-6-20054.html

今後も継続する予定です。上記記事並びにその継続記事に対して意見があればコメントまたはメールにて連絡をお願いします。
」

山田孝雄(1908)は国会図書館のデジタルコレクションで自宅のPCから閲覧できます。「演繹」については論理学(と言っても高校レベルですが)が苦手な人でも納得して貰えるような説明を考えているところです。

最後に慣例となった引用を行う。

「公表された作品については、みる人ぜんぶが自由に批評する権利をもつ。どんなにこきおろされても、さまたげることはできないんだ。それがいやなら、だれにもみせないことだ。」

藤本弘(藤子・F・不二雄)氏の「エスパー魔美」からの引用である。「法華狼の日記」さんのサイトに詳細な解説とそれに対する読者の反論と議論がある。セリフに漢字が少ないことから窺えるように、この漫画は小中学生を読者と想定したものである。自分の論文が批判されて怒っていたら理系の研究者はやっていられない。相互批判は学問の共同体の当然の権利であり、それが学問を発展させるのである。この当然すぎる常識を萬葉学者たちが受け入れてくれることを祈る。


引用文献
山田孝雄(1908)『日本文法論』(宝文館)
北原保雄(1984)『文法的に考える』(大修館書店)
和田明美(1994)『古代日本語の助動詞の研究ー「む」の系統を中心とするー』(風間書房)
Palmer, Frank R. (1979) Modality and the English Modals.  飯島周訳『英語の法助動詞』(桐原書店)
Palmer, Frank R. (1990) Modality and the English Modals. 2nd ed.
Palmer, Frank R. (2001) Mood and Modality, 2nd Edition.
高山善行(2002)『日本語モダリティの史的研究』(ひつじ書房)
山本淳(2003)「仮定・婉曲とされる古典語推量辞「む」の連体形」 山形県立米沢女子短期大学紀要 38, 47-62, 2003-06-30

TSONTS-16 萬葉学会の何が問題か(1)

田川拓海氏のブログに興味深い記事があった。QA形式でまとめられているのだが、Q1とQ5の質問の文言が参考になった。それを以下のように変えて使わせていただこうと思う。

Q1. なぜ萬葉学会を批判しているのですか。
Q2. なんでそんなに長々と書くのですか。心が狭いのですか。

回答は次の次の回を予定している。
」

と予告した。

なぜ田川氏のブログに行き着いたか。金谷武洋の著書にAmazonに低評価のレビューがあった。それを検索する過程で見付けた。金谷氏の本を読んでおかげで私は三上章氏を知った。三上氏の著書を読んで感じたのは、非常に頭の回転の速い人ということ。ランダウの教科書を読んでいるようだった。神社の参道に急な男坂と緩い女坂があるが、当時の教科書はランダウに限らず皆男坂だった。今のは女坂を更に緩くした感じだ。

教科書の式はすべてfollowすること。それが常識だった。なぜあの式からこの式が導けるのか。下手をすると数日考えることもあった。理系の学生に読ませるならそれでも良かったろう。昔は国立大学の定員を足し合わせても今の東京大学の定員より少ないと言う。三上氏は頭の回転が速かったからこそ、あのそっけない書き方で理解できると思ったのだろう。三上氏が理解され難かった理由の一つに簡潔すぎる説明があったかもしれない。頭の回転が遅い私はこのようにだらだらと長く書きすぎてしまう。閑話休題。

Q1. なぜ萬葉学会を批判しているのですか。

A1. 論文の審査に疑義があるからです。

私が投稿したク語法の論文の不掲載の理由を前回まで検討してきました。大きな問題点は以下です。

1 査読者のQ氏は「新知見と言いえない」と言って拒絶(reject)した。そのような判定をする場合、当該論文と同様の内容が書かれた文献を証拠として示すのが常識である。しかるにQ氏は証拠を示していない。

2 「あく」という動詞の意味を「はっきりと知覚される」と仮定したが、はっきりでもおぼろげでもない「普通の知覚」に対して特立させる形でなければ「あく」によるク語法の価値がないとQ氏は言う。これは拒絶の理由にならない。そもそも「はっきりと」は「おぼろげでない」という意味である。もちろんその表現がわかりにくいというのであれば訂正する用意はある。しかしQ氏言うことは理不尽である。「明言する」は「はっきりと言う」意味であるが、Q氏の論法を適用するとこの単語に存在理由がなくなってしまう。Q氏は言葉と意味の関係に気付いていない。

言葉 → 意味
あく → はっきりと知覚される
X → ぼんやりと知覚される
Y → (普通に)知覚される
言う → (普通に)言う
明言する → はっきりと言う

逆が必ずしも真でないことに気付いていない。私はク語法の意味は「はっきりと知覚される」だと書いた。なぜク語法が「普通に知覚される」などという意味でなければいけないのか。

3 萬葉学会に投稿した上代語に関する論文なのにその後の意味の変化を記述することを求めている。これは論文の範囲を超える。Q氏は中古語が専門と見受けられるが、上代や中世における意味の考察がないという理由で論文が拒絶されても受け入れるのか。まったく芥川龍之介Q氏の論法は芥川龍之介が『侏儒の言葉』の「批評学」で述べた「木に縁って魚を求むる論法」そのものである。

(つづく)


2018年1月8日月曜日

TSONTS-15 萬葉学会の審査の妥当性の検討(5) Q氏の不掲載理由(下)

萬葉学会のQ氏による査読理由の検討を続ける。不掲載の理由の全文は萬葉学会の審査の妥当性の検討(1) 拒絶理由と最初の反論を参照されたい。

Q氏は続ける。

「
また形式名詞の有無に関わらず、明確ではない知覚(けっして朧気というのではない)すなわちplainな知覚に対して特立される形でなければ、「アク」によるク語法の価値がないから、それとの対比がどうしても必要になる。
」

この部分の意味がすぐにわからなかった。とりわけ「plainな知覚」がわかりにくい。何を何と対比するのか。最初の反論では従来説との対比だと考えて次のように書いた。

「
ク語法は用言を体言化するものであるという従来の仮説との対比は大量の用例の検討の中で十分に為されていると考えます。 
」

後でわかったのだが、Q氏は「plainな知覚」を思いも寄らない意味に使っていた。手元のMerriam Webster's Collegiate Dictionary 11th editionによると、飾りがない、余計なものを含まない、視界を妨げない、心や感覚に明白な、はっきりした、単刀直入な、ありふれた、特徴のない、単純な、複雑でない、美しさも醜さもない等の意味が並んでいる。しかし、plain perceptionならば純粋な知覚、明白な知覚を思い浮かべないか。

テレビの人気番組に「良い子、悪い子、普通の子」というのがあった。それまでは良い子でないのは悪い子であり、悪い子でなければ良い子だった。良い子でも悪い子でもない普通の子という範疇を作ったのが新鮮だった。Q氏はその番組を見て育った世代だろうか。つまり、はっきりした知覚でなく、朧気な知覚でもない、普通の知覚と言いたかったのだ。それを何故覚束ない英語で表現しなくてはならないのか。

想像するに「普通の知覚」では稚拙な表現にQ氏は感じたのだろう。 しかし「plainな知覚」は更に稚拙である。このような本来の意味と違う意味での英単語の使用は高山善行氏の一連の論文にも散見された。Q氏が高山氏であるとすると辻褄が合う。念の為に書くが、このような推論は「逆は必ずしも真ならず」である。更に念の為に書くが、必ずしも真ならずは、必ず偽ではない。

本稿で「はっきりした知覚」と書いたのは良い子と悪い子の二元論しかなかった時代の意味である。「ぼんやりした知覚」を排除するためである。つまり、私の分類の良い子はQ氏の分類で良い子と普通の子になる。大量の用例の現代語訳を読んでもそのことは明白と考える。

そもそも「あく」の意味を「はっきりと知覚される」と書いた。Q氏の言う「plainな知覚」の対応物を何故考えなくてはならないのか。「明言する」の意味を「はっきりと言う」と定義したとき、「普通に言う」の対応物は何かと問う意味があるのだろうか。Q氏は論点をおかしな方向に逸そうとしている。

いずれにしろ、本稿の「あく」はQ氏の考える「普通の知覚」の意味を含む。

最後にQ氏は述べる。

「
意見としていえば、仮設動詞アクを想定することは、ク語法による動詞名詞句に具体的な意味傾向を付加することになるが、ク語法という文法的環境下ではその具体性は捨象されて準体句のあり方とは異なり、〇〇のような機能を負担するに至ったという形で改めて立論されるべきものと思う。
」

最初の反論では次のように述べた。

「
本稿ではアクが終止形の場合と連体形の場合の区別を検討しています。終止形の場合は準体句となりません。そのことが用例の解釈の上で従来説と大きく異なる結果を与えます。「具体性が取捨される」とは考えていません。あくまでも「明確に知覚する」という意味が程度の大小はあれ残存しています。

いずれにしましても、本稿はク語法の成立を明らかにすることを第一目的としております。その目的は十分に果されたと考えます。

」

本稿は上代の語法について書いたものである。近世にク語法が単なる名詞句と扱われただろうことは、現代語の意味との連続性から理解できる(数学で言う中間値の定理)。それは萬葉学会の雑誌「萬葉」に投稿した上代語の論文である本稿の範囲を超える。Q氏は高山善行氏と同じく中古語が専門のようであるが、だからこそ、上代以降の意味の変化に関心があるのだろうが、ではQ氏の書く中古語の論文に江戸時代や現代の日本語の意味が議論されていないとして拒絶されたら、言語道断と感じないのだろうか。

Q氏の論法は芥川龍之介が『侏儒の言葉』の「批評学」で述べた「木に縁って魚を求むる論法」である。『侏儒の言葉』から引用する。

「
『全否定論法』或は『木に縁って魚を求むる論法』とは先週申し上げた通りでありますが、念の為めにざっと繰り返すと、或作品の芸術的価値をその芸術的価値そのものにより、全部否定する論法であります。たとえば或悲劇の芸術的価値を否定するのに、悲惨、不快、憂欝等の非難を加える事と思えばよろしい。又この非難を逆に用い、幸福、愉快、軽妙等を欠いていると罵ってもかまいません。一名『木に縁って魚を求むる論法』と申すのは後に挙げた場合を指したのであります。
」

この論法を使えばどんな論文をも拒絶できる。芥川龍之介は誰でも気付くばからしさを前提に「批評学」を書いたのだろうが、Q氏はそれを現実化した。

追記:2018年1月14日午前0時32分にplainな知覚の部分を一部修正。
 

TSONTS-14 萬葉学会の審査の妥当性の検討(4) Q氏の不掲載理由(中の二)

萬葉学会のQ氏による査読理由の検討を続ける。不掲載の理由の全文は萬葉学会の審査の妥当性の検討(1) 拒絶理由と最初の反論を参照されたい。

前回書き忘れたが、今まで読んだmodalityの教科書や研究書に「 文法上の名詞句の働きとして、構文上にモーダルな意味が付加されている」等という記述はなかった。正しい記述が複数の文献で一致するのは珍しくないが、間違った記述が一致することは滅多にない。正しいことは一つしかないが、間違いは多数あるからである。

Q氏と高山善行氏の考えが一致したのは単なる偶然だろうか。印欧語のmoodは動詞の屈折で表わされる。一方、modalityは助動詞や接尾辞、接頭辞で表される。構文上にmodalityが付加されるとはどういうことだろう。

次の意見はQ氏の独自見解であって査読理由に書くことではない。

「
さらに明確な知覚という場合、上代では、「世の中は空しきものと知るときしいよよ益々悲しかりけり」の副助詞「し」は副詞性助詞として「知れば知るほどに」と程度強調を表す例がある。
」

これに付いては前回に書いた。その点はP氏も同意している。Q氏は続けて、

「
つまり明確に知られるという場合には、副助詞などによる「とりたて」が存在する。そうしたとりたて表現に対して、ク語法はどのように異なるのかを明らかにしないと、仮設動詞アクの語性を適用しても解釈可能だというだけでは新知見とは言いえない。
」

と言う。最初の反論では次のように述べた。

「
「し」が「とりたて」であるか否かを別にして、「とりたて」とアクが関連するとは考えていません。そのことは大量の用例の検討から明らかだと思います。ク語法が用言の体言化であるという従来説も、そう仮定すれば歌意が通じるという理由から定説と扱われているに過ぎません。しかし本稿の仮説は記紀万葉の歌や続日本紀宣命の散文の解釈に新たな境地を開いたと考えます。公開して研究者ならびに記紀万葉の愛読者の参考に供する意義は十分にあると考えます。
」

そもそも「 つまり・・・「とりたて」が存在する。」はQ氏の独自見解である。主観を理由に他人の論文を拒絶できないことは言うまでもない。従って、 「そうしたとりたて表現に対して、ク語法はどのように異なるのかを明らかにしないと、」と要求できないし、「新知見とは言いえない」というQ氏の拒絶理由の理由にならない。

学術論文に要求されるのは、学問の発展に寄与する新しい知見であることである。従って、新規性がないことは拒絶の理由になりうる。しかし、新規性がないことを言うには、そのことが過去に知られていたという証拠(公知材料)を示さなくてはならない。特許庁の審査官が審査が請求された特許出願を新規性がないことを理由に拒絶する時は、必ず先行技術を示す特許広報や技術文献を参照する。私が今まで経験した論文の審査でも、新規性がない場合は必ず先行文献を示す。もちろん、発明者や論文の著者が先行技術や先行文献を知っているかどうかに無関係である。先に誰かが類似の特許や論文を書いていれば後のものは無効になる。

しかし、萬葉学会は証拠を示さず、一方的に「新知見とは言いえない」と断定した。このような査読が許されるならば、どんな論文も拒絶できてしまう。掲載の可否は査読者の主観ではなく客観的な理由に基づかなくてはならない。萬葉学会は学術論文を文芸作品のように考えているのだろうか。

P氏によると、「萬葉」は「同人誌」だそうだが、大学の教員や院生や国文科の卒業生だけが同人であって、大学に所属しない、国文科卒でもない会員は外部の人間なのだろうか。

学術雑誌は新しい知見を研究者が共有することを目的としている。萬葉学会の行為は萬葉学会の会員の知識の享有の権利を妨害するものである。会員には知らせる権利と知る権利がある。

追記:この記事は2018年1月9日の午前0時59分に一部文言を追加した。「前回書き忘れた・・・」の部分である。

2018年1月7日日曜日

TSONTS-13 萬葉学会の審査の妥当性の検討(3) Q氏の不掲載理由(中の一)

萬葉学会のQ氏による査読理由の検討を続ける。不掲載の理由の全文は萬葉学会の審査の妥当性の検討(1) 拒絶理由と最初の反論を参照されたい。

「
しかしながら、本論は仮設動詞アクの語義分析ではなく、ク語法という準体句相当の語法の解析を目指しているはずである。
」

この「目指しているはずである 」は「国語学の論文に特有の非論理的な推論 その6 説得力」の「6-6 説得力の六」に書いた「理由無き断定」である。理系の論文を読んだり書いたりしていたものが、国語学の論文を読むときに抵抗を感じるのは、当該分野の研究者の一致した見解とも言えないことを、このように理由を示さず、かつ、それまでの論理の流れから独立に断定的に述べることである。

「ク語法という準体句相当の語法」は従来説である。それに対して、用言の連体形に「あく」という動詞が付いたもので、その「あく」の形は終止形と連体形の二つの場合があるとする説を提案した。例えば「言はく」ならば「言ふ」に「あく」が下接して「言はく」という形ができた、その「言はく」は終止形と連体形の二つの場合がある、という解釈をした。

そのような立場に立つ以上「準体句相当の語法の解析」は出来ない。地動説の論文を書いて「この論文は天動説を説明していない」と言われるようなものである。例えば誰かが「モダリティ論」を用いた論文を書いたとして、「本論は従来の助動詞論の立場からの説明を目指しているはずである」と言う人はいるだろうか。著者はどう思うだろうか。

「理由」をメールで受信した当日に書いた反論には次のように書いた。

「
ク語法は用言を体言化する用法である、あるいは、アクという形式名詞が付加されたものであるという従来仮説と本稿が大きく異なるため、なかなか理解されがたいだろうと考え、異例とも言える大量の用例の検討を行ないました。

>本論は仮設動詞アクの語義分析ではなく、ク語法という準体句相当の語法の解析を目指しているはずである。

本稿はク語法の成立を明らかにすることが第一の目的です。仮定した四段動詞アクは終止形の場合と連体形の場合があります。連体形の場合準体句を形成しますが、準体句の場合も他の活用語の準体句に順ずるものであると考えた解釈を示しました。とくにアクの準体句だけに特別な用法があるとは思いません。「はっきりと知覚される」という意味の動詞の準体句と考えて何ら矛盾することころはありません。
」

なお、この「はっきりと知覚される」という表現は「かすかに知覚される」状況でないという意味で「はっきりと」という副詞句を付けた。Q氏はのいう「plainな知覚」については次回述べる。

本稿の目的は「ク語法という準体句相当の語法の解析」ではなく、「ク語法の解明」であり、ク語法の本質を明らかにすることである。本質とは準体句等という見かけの姿でないという意味である。従来説では解明できなかった「 ナクニ止め」の謎が明らかになったことは本稿の大きな成果である。「ナクニ止め」とは「思はなくに」などで切れる歌のことであり、その意味は従来詠嘆と解釈されたきた。詠嘆説ではなぜ「なくに」の形だけが詠嘆の意味を持つかが説明できない。従来説は「詠嘆の印象を与えるからきっと詠嘆の意味があるのであろう」という遡及推論、つまり、従来説は後件肯定という論理的誤謬に基く推論の結果である。そのような成果を握りつぶした(意図的にか知らずにか)萬葉学会のP氏とQ氏は雑誌「萬葉」の読者の利益を損ねたことに気付いてほしい。

従来の所説では解明できなかった「 ナクニ止め」の謎が明らかになったことは本稿の大きな成果である。

「
文法上の名詞句の働きとして、構文上にモーダルな意味が付加されているのか、それともアクそれ自体の語義によっているのかが、本論では明らかではない。
」

これに対して、最初の反論には次のように書いた。

「
様相性(modality)の研究が盛んですが、言明が命題と様相とにはっきりと区分されはしません。様相性を表わすとする語のどこまでが命題の一部なのかどこからが様相を表わすのか区分できる研究者はいないと思います。事実数理論理学では命題に様相性演算子が付加されたものもまた命題です。命題と様相という区分は多分に便宜上のものと考えます。たとえば「に違いない」は様相を表わすと言う意見が一般的のようですが、これを命題の一部と捉えても何ら問題はありません。対応する英語のmustがあるからその訳語を様相性を表わす表現と看做しているに過ぎません。言語学における様相性(modality)は印欧語の直説法や仮定法などの法(mood)に準ずるものとして考えられたものですが、それと同じものが日本語にあるか否かは難しい問題だと思っています。

様相性について本稿は「アクが証拠性を担う助動詞であると断定してよいかは現時点で判断が付かない」と述べるに留めました。この証拠性はevidentialityの意味で使いました。日本語の様相性の問題は今後の課題としたいと思います。

アクの担う意味については用例の解釈の中で十分に示したと考えます。従来のク語法は用言の体言化という仮説では解釈が難しいものを解釈できたと思います。
」

Q氏の「文法上の名詞句の働きとして、構文上にモーダルな意味が付加されている」の意味がわからなかった。そこでいう「名詞句」は「言はく」なのか「言ふ」なのか。前者は「言はく」を名詞句と考える従来説、後者は「言はく」を「言ふ」という連体形と「あく」という四段動詞の連語と考える本稿の説だが、Q氏は従来説を絶対的な真実と考えているようだ。Q氏の言う「モーダルな意味」は本稿の「はっきりと知覚される」という説明をQ氏がモダリティと考えたためだが、「構文上に・・・意味が付加される」とはどういうことか。その後高山氏の一連の論文を読んでわかったのだが、高山氏は構文が単独で意味を持つと考えているようだ。Goldbergの提唱する構文文法(construction grammar)は動詞の意味と屈折が示す法や態と名詞の格が一体となって特有の意味を生ずることではないかと思う。高山氏は構文という観念的なものに意味が付加されると考えているのだろうか。Q氏が高山善行かどうかは分からないが、高山氏と良く似た考えをするようである。

唯物論を信じる私は、ヘーゲルのような観念論は理解しがたく、いや、ヘーゲルがしていたのは観念論的な表現なのかもしれないが、文や句の意味単語(接尾語や活用を含む)自体と単語の組み合わせ(語順やイントネーションを含む)だけで決まると考える。Q氏や高山善行氏のように構文自体が単独で意味を持つと考える人はいないのではないだろうか。

話が拡散した。Q氏の指摘に戻る。動詞「あく」の意味は論文で述べた。上接するのは用言の連体形である。その構文が表わす意味も論文の中で十分議論した。文法理論から検討した概論を述べ、数十の用例の各々に現代語訳を付けた。それの何処が明らかでないと言うのだろう。ここまで詳しく意味を議論した論文は過去に無いのではないか。私の論文は「あく」の意味が「はっきりと知覚される」であると仮定した。それで「明らかではない」とは原稿を斜め読みしかしていないのか。読解力ないのか。これではどんな論文も「明らかではない」の一言で拒絶できてしまう。

そもそも、私が仮定した「あく」をなぜモダリティと決め付けるのか。Q氏はモダリティをどう定義するのか。これをP氏に質問したが、Q氏からの回答は無かった。国語学の世界では、このように、査読者の説に従わない論文は拒絶できるのだろうか。P氏やQ氏や萬葉学会は学問の進歩を願っていないのだろうか。

「
 さらに明確な知覚という場合、上代では、「世の中は空しきものと知るときしいよよ益々悲しかりけり」の副助詞「し」は副詞性助詞として「知れば知るほどに」と程度強調を表す例がある。
」

これに対して

「
「し」が「とりたて」であるか否かを別にして、「とりたて」とアクが関連するとは考えていません。そのことは大量の用例の検討から明らかだと思います。ク語法が用言の体言化であるという従来説も、そう仮定すれば歌意が通じるという理由から定説と扱われているに過ぎません。しかし本稿の仮説は記紀万葉の歌や続日本紀宣命の散文の解釈に新たな境地を開いたと考えます。公開して研究者ならびに記紀万葉の愛読者の参考に供する意義は十分にあると考えます。
」

と述べた。これについては編集委員のP氏も同意している。上代の文学を読みなれていたら、Q氏のような考えはしにくいのではないだろうか。Q氏は高山善行氏のように中古文学が専門なのかもしれない。しかしそういう人物に萬葉学会が査読を依頼するだろうか。萬葉学者から見て素人が書いた論文であればそのような人物で十分と考えたのだろうか。

田川拓海氏のブログに興味深い記事があった。QA形式でまとめられているのだが、Q1とQ5の質問の文言が参考になった。それを以下のように変えて使わせていただこうと思う。

Q1. なぜ萬葉学会を批判しているのですか。
Q2. なんでそんなに長々と書くのですか。心が狭いのですか。

回答は次の次の回を予定している。
 
追記:2018年1月14日午前0時50分に以下を追記。

1. Adele GoldbergのConstructionsの翻訳書を読んだ。構文自体が意味を持ちえないという従来の常識に対して、それ自体が意味を持つような構文があると彼女は考えている。ただし、高山善行氏の考えとは違うようだ。Goldbergの構文文法については後日書く。

2. 田川拓海氏のブログのQAにならった記事は下記のページから始まる。
https://introductiontooj.blogspot.jp/2018/01/tsonts-16.html


2018年1月6日土曜日

TSONTS-12 萬葉学会の審査の妥当性の検討(2) Q氏の不掲載理由(上)

本ブログを通じて、ク語法の論文の投稿に付き、萬葉学会の担当者の編集委員をP氏、査読者をQ氏と呼んでいる。以下、萬葉学会の審査の妥当性を検討するため、Q氏の示した不掲載の理由を詳細に見ていく。

「
本論はク語法の語構成を「活用語連体形+あく」と捉え、「あく」は四段活用動詞であって、「ものごとの存在が五感を通じてはっきりと知覚される」「その存在がはっきりと知覚される」意味があるとする。
」

Q氏の理解は少し違う。念の為論文の仮定を引用する。

「
仮定1 ク語法は従来考えられていた活用語を名詞化するものでなく、活用語の連体形にアクという四段動詞が下接したものである。

仮定2 アクの根源的意味は、モノ(人や事物)やコト(状態や行為、伝達される内容)が視覚、聴覚、嗅覚、触覚、温度感覚などを通じて「その存在がはっきりと知覚される」ことである。

仮定3 アクは金田一春彦1950の継続動詞に相当し、瞬間動詞に相当しない。

」

「
そして、ク語法による名詞句を「~することは明確であるのに/明らかである」として情態副詞「明らかだ」節のように解釈している。
」

私はク語法を名詞句だとは書いていない。また「あるのに」と訳したのは助詞の「に」が「あく」に後接された場合だけである。Q氏の査読は斜め読みなのだろうか。最初から掲載する他の論文が決まっていたのだろうか。

本稿の新規性の一つは、従来詠嘆とされる「思はなくに」などの「なくに」が多用される理由を合理的に説明し、その意味が「思っていないことが明らかなのに」という新知見を示したことにある。Q氏はここを全く理解していない。

「
仮説としてアク接尾がもと四段動詞だと考え、その仮設された語義・語性からク語法の用例群を検証するという方法は誤りではない。
」

「もと」とは書いていない。名詞句だと誤解したところと合わせてQ氏は論文を正しく読んでいない。何度も書いたように、経験科学である言語学は「仮説と検証」以外に方法がない。高山善行(2005)を読み、高山氏は少なくとも当該の論文の執筆の時点で、純粋に演繹的な方法で研究が行なえると考えていたことを知った。Q氏も高山氏と同じ考えのようである。

「
さらに、ク語法に対して明確な知覚の表明という、モーダルな意味があると捉える点は興味深い。
」

これには驚いた。本稿はモダリティについて論じてはいない。Q氏はモダリティをどう定義しているかをP氏に問い合わせたが、回答を得ていない。P氏は陳述と同じだとか、仁田義雄氏や益岡隆志氏のモダリティと同じだと言うが、彼らは「はっきりと知覚される」「明らかである」 という意味をモダリティと扱うのだろうか。

萬葉学会の審査の妥当性の検討(1)に 「この時点でP氏は反論に納得し、Q氏を説得できると考えているように思えた。」と書いたが、P氏は一転して、新しい拒絶理由を持ち出してきた。勤務先の法学の研修で習った「一事不再理」という言葉を思い出した。査読者が言わなかった新たな理由を追加して何が何でも不掲載ということにしたいのかと思った。P氏の追加した新たな理由については後述する。

2017年11月3日金曜日

To sue or not to sue その1 知らない町で乗ったタクシーの料金を何故踏み倒さないのか

Why is reciprocity important for the ability to trust strangers? First, it explains why the complex web of trust that underlies modern social life does not unravel as soon as unscrupulous individuals test its strength. Economist Kaushik Basu describes a simple problem. You take a taxi ride in a large, unfamiliar city, and when you have reached your destination you pay the driver the amount you owe. You have benefited from the ride and you will never see the driver again, so why do you bother? (This is the kind of question that sometimes gets economists a bad name.) 

持ちつ持たれつの関係が見知らぬ人を信頼する能力にとって何故大切なのか。まず、この関係が説明するのは、現代社会を生きる基盤である信頼関係の複雑なしがらみがどれほど強いかを、悪意ある個人が試そうとしたとき、それがほどけてしまわないのは何故かである。経済学者のカウシク・バスの述べるわかりやすい例がある。知らない大都市でタクシーに乗るとする。目的地に着けば運転手にしかるべき料金を支払う。既に移動の便益は受けている。運転手に再び会うことはない。それなのに払わずにいられないのは何故か。(この手の質問でしばしば経済学者が汚名を着せられる。)

以上はPaul SeabrightのThe Company of Strangersから引用した。手元にあるのは2004年の初版である。現行の第二版は大幅に改定されているようだ。ページ数が294から376と増えている。

さらに、運転手が料金を受け取りながら受け取っていないと主張することがないのは何故か。揉め事が裁判所に持ち込まれたとき、裁判官が賄賂で動かないのは何故かも検討される。そこに「持ちつ持たれつの関係」(reciprocity)があるからなのだが、それは仲間内に限られる。

百パーセント良い人も百パーセント悪い人もいないのが水戸黄門や昔のアメリカの西部劇と違う現実の人間の社会である。アメリカ大陸で先住民の命や財産を奪って平気だったヨーロッパ人も母国では良い人だったかもしれない。アウシュビッツでユダヤ人を工場さながらに処理していたドイツ人も妻や子の前では良き夫であり良き父だったと言う。日本人も同じである。風土記を読めば、大和政権側は彼らが異民族と考えた「つちぐも」と呼ばれた人々を汚い騙まし討ちにしたことが得々と綴られている。どちらも恐らく我々の先祖だろうが、人間は「うち」に対しては平和で友好的でも、「そと」に対しては一変した対応をする。

萬葉学会の編集委員のP氏はによると雑誌『萬葉』は「同人誌」と言われていると言う。P氏もそれを是認して、良い論文にするため投稿者に何度も書き直しをお願いするような指導をすると言う。しかし、一方で、P氏は普通は不掲載理由を投稿者に知らせないとも言う。私のク語法の論文は私が事前に尋ねたから不掲載の理由を特別に知らせたと言う。

P氏の言葉は矛盾しているが、次のように考えれば矛盾が解消される。つまり、同人誌の同人は萬葉学者である国文科の教員とその卵である学生や院生だけなのだ。彼らの投稿であれば「指導」するが、在野の研究者には不掲載の理由さえ知らせないのだ。雑誌『萬葉』のバックナンバーがネット上に公開されている。私たちが見た限り、掲載された論文の投稿者は萬葉学者とその卵である。大昔の高校の教員の投稿があったが、それは学者と卵の中間の存在であろう。「持ちつ持たれつの関係」(reciprocity)は萬葉学者の間に限られ、在野の研究者は初めから排除されている。

掲載論文が萬葉学者の投稿に限られる理由として、在野の研究者の投稿は学術論文としての水準が低いという萬葉学会の反論があるかもしれない。しかし、Q氏が述べる不掲載の理由は学術論文を査読するには不適切なものである。不掲載の理由のどこに問題があるかを「その2」以降で検討して行く。また、雑誌『萬葉』が「指導」の末「良い論文」とした幾つかについても、その問題点を検討したい。

知人は年金生活の乏しい収入の中から萬葉学会の会費を払っていたが、幾ら投稿しても掲載されなかったと言う。雑誌『萬葉』は図書館でも読めるし、一年経てばネットに公開される。発表の場を求めて入会した在野の研究者は知人一人ではあるまい。私も同じ目的で萬葉学会と契約を締結した。萬葉学会は私に発表の場を提供する。雑誌の掲載には審査が行なわれるが、その審査は公正であると期待された。その代償として私は学会費を払う。そのような契約を結んだのである。

萬葉学会に初めから在野の研究者の論文を掲載する意志がないならば詐欺である。雑誌『萬葉』の投稿規定に「採否決定は、編輯委員会に一任のこと」とある。萬葉学会のP氏はその文言を盾に「部分社会の法理」を主張しとしているようである。しかし気象学会が提訴された裁判がある。東京地裁の判決は「部分社会の法理」を主張していない。気象学会に非がないとする理由の中で論文の審査のあるべき姿を示している。萬葉学会の審査はそのガイドラインを逸脱するものである。

P氏は私を「困った人」と思っているかもしれないし、P氏の回りの人たちもそう言っているのかもしれない。人間は他人の意見に影響されやすいものである。しかしP氏は私の回りにもP氏を悪意ある人物と考える人たちがいるはずと考えるべきであった。事実そういう人たちはいる。私はP氏を「意思疎通に困難を感じる人」と思っている。しかしP氏を悪人とは思っていない。査読をしたQ氏とて悪人ではなかろう。

ただし今回の、それから他の在野の研究者の会員に対して行なったことに非がないとは思わない。妻子には良き夫や良き父であったとしても、ドイツの役人たちがやったことが許されないのと同じである。しかしアウシュビッツと異なり、本件はまだやり直しが効く。出来れば話し合いで解決したい。間に他人が入れば出費が増える。P氏は訴えるなら萬葉学会ではなく自分個人を訴えてくれと言う。では自宅住所を教えてほしいと言ったところ返信がない。

タイトルのTo sue or not to sueに関連して、西アフリカのある地域の人々はシェークスピアのハムレットを信じないと言う。Laura Bohannanという人がNatural Historyという雑誌に1966年に発表したShakespeare in the Bushという論文がある。萬葉学会のP氏やQ氏と中々分かり合えないのも文化の違いが原因かもしれない。

2017年2月18日土曜日

「ちょっと疲れました」

οἷς οὖν οὕτω δέδοκται καὶ οἷς μή, τούτοις οὐκ ἔστι κοινὴ βουλή, ἀλλὰ ἀνάγκη τούτους ἀλλήλων καταφρονεῖν ὁρῶντας ἀλλήλων τὰ βουλεύματα. 

これを信じる人と信じない人に話し合いの接点はなく、それぞれの考えにおいて必ず互いを見下すことになる。

プラトーン(※)の「クリトーン」(※)からの引用です。

※ 大学の教養課程でギリシア語を履修したので母音の長短を区別しないと気がすみません。誰だって自分の名前を間違って発音されると嫌でしょう。日本語訳はリンク先のサイトが単語や文法を解説しているので、それを参考にしました。

ミ語法やク語法の論文を書くまでは国際的な科学の学会誌への投稿しか経験しませんでした。日本語の論文を書くのも初めてでした。それまで常識だと思っていたことが国語学の学会では常識でないことに気付きました。

国際的な学会では著者と査読者は対等です。大人が大人の論文を評価するのですから当然です。査読者(reviewer)が不受理(reject)と判断した場合編集委員(editor)は著者(author)にその理由を知らせます。著者は査読者に誤解があれば(あると思えば)指摘しますし、理由に間違いがあれば(あると思えば)反論します。しかし国語学の世界で査読者は不可謬と考えられているようです。不受理と決まった場合通常は理由を知らせないのだそうです。国際的な学会の常識から見ればとても信じられません。しかし国語学の学会から見れば、おそらく理由を知らせるほうが非常識なのかもしれません。

国際的な学会、理系の学会しか経験しなかった私が、日本国内だけの学会、文学系の学会に論文を投稿し、その反応を見て、今まで常識だと思っていたことが、国語学という未体験の世界では常識でなかったことを知りました。恐らく、国語学の学会の人たちも私の常識が理解できないかもしれません。二つのcultures(校風や学風などの風に近い)の常識がぶつかり合いました。

文学と科学技術の間に相互理解がないことは、C. P. Snowが1959年のThe Two Culturesで指摘しています。有名な箇所を引用して私訳を付します。

「
A good many times I have been present at gatherings of people who, by the standards of the traditional culture, are thought highly educated and who have with considerable gusto been expressing their incredulity at the illiteracy of scientists. Once or twice I have been provoked and have asked the company how many of them could describe the Second Law of Thermodynamics. The response was cold: it was also negative. Yet I was asking something which is the scientific equivalent of: Have you read a work of Shakespeare’s?
」

「
ある集まりによく出席していた。参加者は、伝統的な文化の基準では、皆教養のある人たちとされる。彼らの格好の話題に、科学者は信じられないほど本を読まないというのがあった。一二度挑発的な質問をしたことがある。「あなた方のうち何人が熱力学の第二法則の定義を言えるのですか」と。無視されたり否定されたりした。だが、科学の世界では、この質問は「シェイクスピアを読んだことがありますか」と同じなのである。
」

C. P. Snowが指摘するのは文系と理系の違いではなく、文学という感性の学問と科学という理性の学問の学風(cultures)の違いでしょう。法学や経済学は後者に含まれます。前者の仲間は音楽や美術や演劇などです。「ダメよ~ダメダメ」や「ラッスンゴレライ」が面白いかどうかは論理で決められません。判断する個々の人の感性の問題です。多数決を取るにしても、権威とされる人物の判断は他の人の意見の何倍や何十倍の価値を持ちます。加重多数決と書いたのはその意味です。

タイトルは現在の私の気持ちでもありますが、少し前に萬葉学会とのやりとりで先方の担当者(編集委員?)から言われた言葉です。人間は他人から理解されない場合、意見が否定された場合、最初は相手を説得しようと試みますが、それが難しいとわかると相手を無視する言動をとります。実験心理学と言うと、日本では動物を対象とすることが多いのですが、アメリカは人間を用いた実験を平気で行なってきました。そのお陰で、そのような人間の行動が明らかにされました。しかし実験は人類が薄々気付いていたことを確認しただけです。最初に引用したようにプラトーンがソークラテースの言葉として伝えています。

もちろん私も何故こんな常識が通じないのだろうと考えてはいました。さすがに「疲れた」などとは書きませんでした。それは国際的な学会の中で様々な考えの人がいることを見聞きし、様々な常識がぶつかり合うことを経験したからでもあります。他人と理解しあうには時間が掛かることを実体験として知っています。国語学の研究者の主体は大学の教員です。普段「先生」と呼ばれ、知識や思考力で劣る学生を相手にしていることも関係しているのでしょうか。自分が正しく相手が間違いであるという結論に到達する速度が速いのかもしれません。

国語学は言語学の一分野です。言語学は経験科学です。したがって感性ではなく論理で判断されるはずです。しかし大学の教育制度では国文学と国語学は同じ学科です。今まで「国語学の論文に特有の非論理的な推論」を連載してきました。現象を記述しましたが、何故そのような推論が行なわれるかを述べませんでした。

新聞の短歌や俳句に応募して不採用になったとしても理由を知らされません。文学賞に応募しても同じでしょう。文学や美術、音楽の評価は個人の主観に依るからです。「ダメよ~ダメダメ」が何故面白いか、あるいは面白くないかは論理で説明できません。短歌や俳句や小説が不採用だとしても、その理由を論理的に示すことはできません。感性の問題ですから、反論を許せば永遠の水掛け論になるでしょう。

国語学は本来は言語学という経験科学ですが、事実上は国文学に属し、国文学の感覚的な理由付けで論文が書かれてきたのではないでしょうか。そう考えると、国語学の論文の非論理性の理由がわかり、萬葉学会の査読者の思考の辻褄が合います。「思われるから」という主観を前提とした推論は国文学の研究者由来のものでしょう。「理由無き断定」も感性に基く判断だからでしょう。「逆は真なり」はさすがに芸術でも許される論理ではありませんが、それは研究者たちが論理の訓練を怠ったからです。萬葉学会の査読者は、流行のモダリティを取り入れた論文で雑誌を飾りたい、と考えたのかもしれません。もちろん、それは学術論文を書く方法や査読する方法として不適切であり、改めるべきものであることは言うまでもありません。学術論文は美学で評価されるものでなく、その学問の発展にどれだけの貢献をする(した)かで価値が測れるものです。

「ずは」の語法が永久の解けないなどと言われたのも、国語学が科学になっていなかったのが原因ではないでしょうか。仮説と検証という経験科学の方法を用いれば、既に見たように簡単に解けてしまいます。

2017年2月1日水曜日

ク語法の真実 その6 リンゴが落ちるのを見て誰もが重力を発見するだろうか

 ニュートンがリンゴの実が落ちるのを見て重力を思い付いたとする説には疑問があるそうです。したがって、火星の軌道を見てそれが楕円であると気付くか、とすべきかもしれませんが、それではリンゴと重力ほど分かりやすくはないでしょう。最近今まで通じた常識的な議論が通じないことを経験しました。ニュートンの発見への疑義を書いたのは、一つの間違いを指摘して全体を否定するような詭弁への予防線です。

 熟したリンゴの実が木から落ちる。その光景を見た人はどう考えるでしょうか。「物体はすべて落下する」、「昔からそう決まっている」、国語学の研究が宣長の時代から大きな進展を見せないのは、そう考える人が国語学の学会の主流だからではないでしょうか。「あれも当たり前である」、「これも当たり前である」、そこで思考を中止するから新しい考えが出てこないのです。自然科学が進歩したのは、そこで立ち止まらずに、「なぜ落下するのか」と考える人がいたからです。

 空から目に見えない多数の粒子が降り注いでいる。それがリンゴの実を押すのである。国語学の論文に特有の非論理的な推論 その6 説得力に述べたような「説得力」はあります。しかし、では、風船はなぜ上昇するのでしょうか。正解は大気に働く重力が風船に働くものより大きいからです。目に見えない粒子でも説明できないことはありません。そのような仮説は多数の人が時間を掛けて考えれば何十と出てきます。いや、何百かもしれません。しかし、様々な検証の中で棄却され、生き残る仮説は僅かです。

 地球とリンゴが引き合うのである。この仮説は大胆です。ここを読む人は、ニュートン以前の時代に生きていたとして、同じことを思い付く自信はありますか。このような推論を仮説検証法と言いますが、Charles Sanders Peirceはabductionと呼びました。演繹のdeduction、帰納のinductionに対比させた命名ですが、誘拐の意味でもあるのでretroductionと呼ばれることも多いようです。

 推論の方法は他に演繹と帰納があります。演繹は問題の中に答えが存在します。帰納は観察の積み重ねです。仮説は簡単に言えば結果を見て原因を推測することです。かくばかり恋ひつつあらずは その0 仮説と検証に述べた「かめや」の方法です。国語学の論文に特有の非論理的な推論 その3 歌意が通ることに述べましたが、国語学の論文で未知の語の意味の推測に多用され、国語学の世界ではしばしば証明と混同されます。

 違いは何でしょうか。仮説検証法は多数の仮説を検討するに対して国語学の「逆は真なり」は一つの仮説を提出するだけです。また仮説検証法が多数の検証を行なうに対して「逆は真なり」は通例一つか二つの検証しか経ません。なぜでしょうか。答えは簡単です。仮説を考え出すのは発想力が求められ、その発想力を誰もが備えていないのです。一つの仮説しか思いつかないことも珍しくありません。国語学の世界は特にそうです。一つしか思いつかないから、それ以外にないと考えてしまい、それをあたかも証明された事実のように錯覚してしまうのです。

 仮説は一旦誰かが思い付けばコロンブスの卵と同じで、仮説を考える苦労をしたことがない人には当たり前に見えてしまいます。国語学の世界にはそのような苦労をした人は少ないでしょうから、他人の仮説が何の苦労もなく自然に出てきたものと思ってしまうのでしょう。しかし無から有を生じせしめるabductionは非凡な才能が要求され、誰もが容易に行なえるものではありません。だからこそ科学の発展を決定する発見を為したのは少数の天才たちなのです。

 ここで、萬葉学会の査読者と編集委員に聞きたいのですが、ク語法がアクという動詞に由来するものであり、その動詞が知覚を意味するという説は、加行延言と言われた江戸時代から平成の今まで一度でも登場したでしょうか。一度も登場しなかったというのは本稿で述べた説が簡単に思いつくような単純なものでない証拠です。ク語法を見た誰もがそこに知覚するという意味を読み取らないのは、リンゴが落ちるのを見た誰もが重力を発見しないのと同じです。

 萬葉学会の査読者は非論理的な修辞法の「理由無き断定」を用いて、「新知見とは言いえない」と言い切っていますが、今まで謎とされてきた「なくに」という打消のク語法、「ざらなくに」という二重打消のク語法の理由が合理的に説明されただけでも十分に新知見なのです。


参考文献
Umberto Eco (Ed), Thomas A. Sebeok (Ed), (1988) The Sign of Three: Dupin, Holmes, Peirce (Advances in Semiotics), Indiana University Press.

2017年1月26日木曜日

国語学の学会というギルドと五円玉に働く念力

小学生の頃に見たテレビ番組です。五円玉の穴に紐を通して縛ります。長さは10-15cm。その端を指で摘まんで五円玉をぶら下げ、「動け、動け」と念を送り続けます。程なくすると五円玉が少しずつ動き始めます。番組の出席者は一同に驚いていました。

早速真似してやってみました。何もしていないのに念を送るだけで五円玉が動きます。次に紐をテーブルの端に固定して念を送ってみました。すると全く動きません。何もしていないのではなく、紐を支える手を本人が気付かないほど僅かに動かしていたのです。それが積み重なって五円玉が動き出すという仕掛けですが、紐の長さも重要です。それで固有振動数が決まります。

このブログに発表したズハの論文、A雑誌に投稿したミ語法の論文、B雑誌に投稿したク語法の論文ともう一本の論文の合計四本の論文を、大学の国文科を卒業して高校で古文を教えていた知人に読んでもらいました。知人は嬉しい指摘と残念な指摘の両方をしてくれました。前者は論文としての水準が高いこと、後者は掲載される可能性が非常に低いことでした。水準が高く、かつ、従来の定説を覆す論文の著者が外部の人間であれば、国語学の雑誌に認められるはずがないのだそうです。

その意見を聞いたときの私の気持ちは半信半疑でした。それまで所属していた(今も所属している)学会では考えられないことだったからです。しかし知人はいくつかの実例をあげてもくれました。知人はガラパゴス化という言葉を使いましたが、ギルドと私は感じました。既得権益を部外者に渡さないための排他的な団体という意味です。

多くの学会ではギルドを作ろうとしても作れません。発表の場は世界中にあります。日本の学会が外部の人間の論文を掲載しなかったら、その著者は海外の雑誌に投稿すれば良いのです。しかし知人がガラパゴスという国語学に限れば、発表の場はほぼ国内に限られます。国際的な研究が為されている学会ではあれば、そのようなギルドは維持できませんが、国語学会のような国内に限られた学会であれば維持できます。

とすると、問題は学会の各会員がギルドの維持を目指す行動をするか否かになります。私が今まで参照した国語学の学会誌の「日本語の研究」、「国語学」、「萬葉」、「国語と国文学」、「国語国文」に掲載された論文の著者は、
① 大学の国文科などの教員
② 国文科の学生や院生
③ 国文科卒で中学高校などの教員
に限られます。もちろん、掲載されたすべての論文を調べたわけではありません。漏れもあるでしょう。しかし今まで読んで論文については大部分が①、稀に②、更に稀に③でした。

今まで所属していた(今も所属している)理系の学会の場合は著者の大部分が企業の研究者です。実験を行なうには高価な設備と機器が必要です。その点で企業が有利だからです。大学に限れば、これも予算の関係でしょう、旧帝大の教員と学生が圧倒しています。寺田寅彦氏や中谷宇吉郎氏の時代のような予算を使わない研究をしているのは、国内ならば予算が少ない大学の研究者、海外ならば名前が東欧風や中国風の研究者に多い。

国語学の研究のうち雑誌に発表されるのは大学関係者のものが殆どです。それ以外の著者の論文を少なくとも私は読んだことがありません。しかし、萬葉学会や日本語学会の会員のうち文学部以外の卒業生はどれだけなのか、彼らの投稿数はどれほどなのか、その数字もゼロなのでしょうか。

私は自分が書いた論文について、海外の見知らぬ研究者や学生から別刷りを送って欲しい、引用文献の写しが欲しいなどの依頼を受けるのは珍しくありませんし、初対面の大学の先生や他企業の研究者に電話で問い合わせをしたことが何度もあります。いずれも親切に対応してもらいました。同じことを国語学の大学教員に対して行なったことがありますが、「私の論文は各大学の図書館が所蔵していますから近くの大学に問い合わせてください」のような、今までの自分の中の常識から言えば不親切極まりない対応ばかりでした。理系の研究者であれば自分の研究を知って欲しいと考えているので、特にお願いしていないにも関わらず論文集や論文の別刷りを送っていただくことも頻繁にありました。

その違いについて件の知人に尋ねたところ、それが国語学の教員の外部の人間に対する当たり前の態度であると言われました。私が問い合わせをした人たちがとくに変わっていたわけではなく、一般的な対応なのだそうです。自分たちの研究は非常に専門性が高い、ゆえに外部の人間の理解するところではない、ゆえに相手にするのは無駄な時間である。そのように考えているのでしょうか。

理系の学問の世界に非専門家が入っていくことは困難です。専門的な教育が担うのは知識の養成だけでなく、数学などの論理的な思考の訓練を含みます。前者は本から知識を得られますが、後者はスポーツや楽器演奏の実技のようなものです。誰かコーチがいないと出来ません。問い合わせをする人は同じ専門家に限られます。だから親切に応じるのでしょうか。

一方、万葉集や源氏物語は専門教育を受けていなくても読めます。それゆえ非専門家が参入することがあり得ます。また海外から問い合わせが来るなどということは滅多にありません。見知らぬ人に慣れていないから、そして見知らぬ人は非専門家に限られるから、閉鎖的になるのでしょうか。あるいは次のようなこともあるのかもしれません。

文学と科学技術の間に相互理解がないことは、C. P. Snowが1959年のThe Two Culturesで指摘しています。しばしば引用されるという箇所を私訳します。


ある集まりによく出席していた。参加者は、伝統的な文化の基準では、皆教養のある人たちとされる。彼らの格好の話題に、科学者は信じられないほど本を読まないというのがあった。一二度挑発的な質問をしたことがある。「あなた方のうち何人が熱力学の第二法則の定義を言えるのですか」と。無視されたり否定されたりした。だが、科学の世界では、この質問は「シェイクスピアを読んだことがありますか」と同じなのである。

今にして思えばもっと簡単な質問をすれば良かった。たとえば、「質量や加速度の意味がわかりますか。これは科学の世界では字が読めますかと同じなんですよ」と。そうすれば、その教養のある人たちの、せいぜい十人に一人には、私の言葉の意味が通じただろう。物理学の巨塔は日々成長を続けている。西洋の知識人でも、その大多数が見通せる度合いは、新石器時代のご先祖と変わらないのである。


文学部の人たちが理系の学部の人は本を読まないと指摘するかもしれませんが、理系の学部の人たちが文学部の人は科学を知らないということはありません。個々の場合ごとに考えれば良いことです。無理に一般化する必要がありませんし、一般化が可能でもありません。もしも文学部の卒業生が理系の学会誌に論文を投稿した場合、学歴や職歴は査読に影響しません。論文の内容だけで判断されます。展開される推論に誤りはないか、結論に新規性はあるか。論点はそれだけです。今まで誰も言わなかったことを正しい推論で述べていればその論文は受理されます。

その逆はどうなるか。国語学に特有の非論理的な推論で指摘してきたように国語学の論文には感性(感情)に基く推論が用いられます。そのような論文が査読を通るということは査読する人たちも非論理的な推論をするということです。国語学は本来は科学ですが、現状は文学や芸術の仲間なのでしょう。論理ではなく感性(感情)に基く判断や推論が為されます。そのような判断は客観性に欠けることは言うまでもありません。

日本語学会の投稿規定に投稿原稿査読の二重秘匿性という項目があります。「と思われる」式の非論理的な推論が主体であれば、査読結果が査読者の感性(感情)の影響を強く受けるのは仕方のないことです。そのような影響を避けるには、不掲載の場合の理由を明らかにして投稿者との間で意見交換を行なう理系の学会で一般に用いられている方法にすべきではないでしょうか。国文学が感情的な判断であることを否定しませんが、国語学は言語学であって自然科学あるいは社会科学に属する分野です。そこに非論理的な推論を持ち込むことに問題があります。

文学部の卒業生が理系の論文を投稿しても学歴が文学部卒だからという理由で拒絶されることはあり得ません。査読者は論文の新規性と推論の妥当性だけを見るからです。一方、他学部の卒業生が国語学の論文を投稿した場合はどうでしょう。査読者の中にSnowが指摘するような「科学者は信じられないほど本を読まない」ことをしばしば話題にする学風(culture)があれば、必要以上に問題点を探そうとするかもしれません。また、その問題点の指摘に非論理的な「と思われる」式の推論を用いるかもしれません。逆に投稿者が専門家であれば、問題点を探そうとする努力が必要に満たないかもしれません。問題点が認められても非論理的な推論の結果見逃すかもしれません。

非専門家だから間違いがあるはずだと思って読めば、間違いでないものを間違いとしてしまうのは、冒頭で述べた五円玉の振り子に念を送る話と同じです。専門家だから正しいと思って読めば、間違いであっても間違いでないとしてしまうかもしれません。これも五円玉の振り子と同じです。

非専門家に古典文学は理解できないという間違った思い込みと、「と思われる」式の非論理的な推論があいまって、結果として国語学の学会をギルドにし、投稿された部外者の論文を不掲載としてきたのではないでしょうか。知人の言うことは、そのような歴然とした悪意はなくとも、結果としてそのような状況を作り上げているという点で正しかったと思うに至りました。

2017年1月12日木曜日

万葉集は誰のものか 日本語は誰のものか

万葉集や源氏物語などの日本の古典は日本語話者全員が共同所有する財産です。日本語という言語もそうです。一部の人たちの占有物ではありません。日本の古典には日本の自然や古代の日本人の文化が描かれていることから、国民の財産と言い替えても良いでしょう。

何をそんな当たり前のことをと思う人も多いでしょう。日本の古典や日本語が日本語話者や日本国民の財産であることに異論はないはずです。

万葉集など上代の言語にはよく分からないことがたくさんあります。ク語法やミ語法の意味はわかっていません。このブログでとりあげたズハの語法の意味もわかっていません。国語学の論文に特有の非論理的な推論に少し書きましたが「今は漕ぎ出な」の「な」の意味もはっきりしません。

一方国語国文系の学会事情に詳しい知人は、従来説を覆すような説を部外者が論文に書いても掲載される可能性は非常に低いだろう、と言います。もしもそれが事実であれば、悪意の有無は別にしても、国民の財産である古典文学の意味を国民が知ることを妨害する行為と言えます。

理系のある学会の論文誌の査読を頼まれたことがあります。編集委員は今までにない新しい説なのでぜひ掲載したいと言います。最初に査読した人の結論は棄却だったのですが、その人が通すかもしれないと私の名前をあげたそうです。今までにない説であれば、途中の推論が妥当であればですが、ぜひ自分たちの雑誌に掲載したいと考えるのは当然です。

国語系の学会も同じと思っていたのですが、もしも外部の人間が新説を投稿しても掲載しないとすれば、理系の学会とは別な文化がそこにあることになります。理系の学会は国語系の学会の基準で言えば、論文の著者の大部分が外部の人間です。世界中で同じテーマが研究されています。日本の学会だけが内部の人間のためのギルドになったとしても、ギルドの効果は発揮できません。外部の人間の投稿を拒絶すれば彼らは外部の別な論文誌に投稿します。しかし国語系の学会ではギルドが有効に機能します。研究の殆どが日本でしか行なわれていないからです。

以上はあくまでも仮説です。ギルドがあると仮定しても、それは理系の学会では機能しえませんが、国語系の学会では十分に機能することは確かめられます。このブログをお読みの方々の中にも国語系の学会から見れば「外部の人」となる方があるはずです。もしも国語学の学会が新しい説を推論が妥当であるにも係らず拒絶したとすれば、それは国民の共有財産の私物化になりはしないでしょうか。前回とりあげた法廷で争われた査読の妥当性に新たな判例を追加することになるでしょう。古典文学や日本語は一部の学者たちのものではなく日本語話者や日本国民の共有の財産だからです。

なお前回の記事で重要なのは論文の著者と審査した学会のどちらが勝ったかではなく、裁判所が査読の方法に一定の基準を示したことです。もしも意図的に外部の人間を排除するギルド的な査読が行なわれるとしたら、その学会は論文の著者だけでなく財産の所有者である国民全員の権利を妨害したことになります。

2016年12月27日火曜日

法廷で争われた査読の妥当性

国語学の論文や著作を読み始めて非論理的な推論が多いことに気付きました。そのことに前回の記事「国語学の論文に特有の非論理的な論理」で触れました。独特の論理が用いられる学会で査読を通る論文を書くにはどうすれば良いかと悩みました。

一方で国語国文系の学会事情に詳しい人から次のような話を聞かされました。曰く、学会の大御所の説に異を唱えるような論文は投稿しても掲載されない。曰く、学会は非常に保守的であり、外部の人間の成果を認めようとしない。

そんな前近代的な審査が行なわれているのだろうか。半信半疑でした。幾つかの学会に論文の審査について尋ねました。そこで分かったのは科学の論文とかなり異なる審査方式だということです。

科学の論文の審査は著者(author)と査読者(reviewer)が対等です。査読者が不受理(reject)と判断した場合、編集委員(editor)は査読結果とその理由を著者に知らせます。それに納得できなければ著者は査読者の結論に反論を書き編集委員に送ります。査読者がそれに反論し、著者が再び反論するなどが繰り返されることもあります。両者が納得しなければ編集委員の判断に委ねられます。

ところが国語学の論文の審査はそのように行なわれないようです。著者は原稿が拒絶されても反論の機会は与えられないそうです。査読者が拒絶して編集委員会が認めればそれで決定だそうです。査読の結果に反論可能な学会は、少なくとも私が問い合わせた中には、ありませんでした。

また、そこには問い合わせていませんが、投稿規定に、原稿に論文の著者の名前を書いてはいけないし、著者が誰であるか分かるような書き方をしてもいけない、と記載するところもありました。裏を返せば、著者の名前で査読結果が左右されるともとれます。ライバルの研究者やライバルの研究グループに属する人物の投稿は意図的に拒絶する。そういう人がいるということでしょうか。あるいは、そのような疑いを持たれるのを防ぐための予防策でしょうか。

知人の言葉と著者の名前を査読者に知らせないような注意書きとから不安になりました。掲載されないのは良いとしてアイデアを盗用されたらどうしようか。意識して盗む人はいないでしょうが、他人から聞いたことを、いつしか自分が昔から考えていたと錯覚することは珍しくありません。過去に誰かが書いたことと同じことがその後の論文に、引用文献を書かずに、つまり自分の説として、書かれていることを国語学の論文でときどき見ます。偶然の一致なのかもしれませんが、そうでないこともあるようです。一例として安田尚道氏の「石塚龍麿と橋本進吉」をあげておきます。

査読の妥当性が法廷の場で問われ、最高裁まで行った例があります。原告の弁護士さんのサイトからの引用です。他に判決文を載せているサイトが見付からなかったためです。私は原告を応援する立場ではありません。

判決文へのリンク



原告の著書や論文を過去に幾つか読みました。勤務先のロジェクトのための事前調査の一環としてです。今回争われた点についてどちらが正しいかの判断は私には出来ません。原告の原稿を読んでいないからです。

興味深いのは裁判所が本件の査読の妥当性について次のような具体的事実を指摘をしている点です。


この観点から,本件拒否行為1をみるに,被告の編集委員会が,専門家である査読者2名の意見を聞き,査読者が, 2名とも原告の本件論文には科学的に論拠が不足しているとし,細部にわたって問題点を指摘したことを受け,2度にわたり原告に原稿を書き直す機会を与えた上で,相応の科学的根拠をもって掲載することはできないと判断したものであるから,不法行為の成立を認めることはできない。


引用部分の要点は、査読者2名の意見、細部にわたって問題点を指摘、2度にわたり書き直す機会を与え、相応の科学的根拠をもって、でしょう。著者に反論を認めない国語学の学会の査読の妥当性が法廷で問われたとき裁判所がどのような指摘をするか興味深いと思います。

知人のコメントの真偽について、私は未だに半信半疑です。それが事実だとしても、競争相手を排除しようという悪意に基くものなのか、単に論理的な推論が行なわれていないだけなのか。

このような裁判はもっと起こされるべきだと考えます。古典文学は国民の財産です。それを正しく解釈すべく学問の発展を推進する義務が国語学の学会にあるはずです。もしも学会が排他的で学問の発展を妨げているなら、それが意図的であれ無意志的であれ、国民の利益に反する行為です。そのような裁判は国民の利益を増進するものです。行動しない限り社会は変わりません。

かつて原告の著書や論文を読んだときの印象は推論に妥当性を欠くというものでした。本件の原稿を見ていないので被告の行なった審査の妥当性については何も言えませんが、原告の行動はあちこちで行なわれているかもしれない妥当性を欠く論文の審査を改善する良い機会になると考えます。ご自身の投稿の査読結果に疑義を感じる方があれば参考にしていただきたいと思います。

本件に関連して次に読んでみたいのはガリレオの宗教裁判の記録です。科学の発展を結果的に妨害するようになった判決がどのような推論で行なわれたかに興味があります。 天動説は神学から演繹されたものだそうです。その推論の中に思い込みはなかったか。星や太陽ではなく大地が動いているという考えに到達するには大きな発想の転換を要します。言われてみればなるほどでしょうが、その発想の転換が難しい。ズハの語法もそうですが、問題が解けないのは問題の難しさよりも心の中に無意識のうちに植え付けられた固定観念が妨害する場合が多いのです。

2016年12月3日土曜日

プライオリティと査読と盗用と

上代語の研究をブログで公開することについて、プライオリティは大丈夫かと心配される方がありました。

企業の研究所にいて他の研究者や大学の先生方とお付き合いしていると、ときどき聞くのが「取った」「取られた」の話題です。私自身も体験しました。そのとき上司からこんな話を聞きました。

二人の人間が話をすると、相手が言ったことか自分が言ったことかの区別が付かなくなることがある。悪意の有り無しにかかわらず、結果として盗用されることがある。その被害を防ぐには文書化が大切である。社内であれば報告書を書くこと。社外であれば論文誌へ投稿すること。

ある学会に出席したとき、宿泊先の近くの居酒屋へ一人で出掛けるとカウンターにいたおじさんが話し掛けてきました。最初は地元の人かと思いましたが、某大学の教授でした。学会の講演会は話すところでなくて、研究の種を仕入れるところである。話すよりPRLへ投稿すること。べらべらしゃべっても何の得にもならない。二十年以上前のことですから記憶が不確かですが、そのようなお話でした。

他の大学の人からは酒の席でもっと生々しい体験も聞きましたが、 とてもお話できません。歴史に残る有名な研究者でも、アインシュタインはポアンカレのアイデアを、ニュートンはフックの、などという話を聞きますが、真偽のほどは私には分かりません。日々のニュースにも某大学の教授の論文盗用が発覚したなどということがしばしば伝えられます。

物を盗んだ場合は、その物が元の場所から盗んだ人の手元に移動します。 盗まれても気付きます。物の存在が盗んだことを証明します。しかし情報という形がない物の場合は、元の場所にそのまま存在します。紙幣であれば番号がありますが、情報には印が付いていません。さらにまた、一度知られた情報は元に戻すことが出来ません。

発明や発見には特許制度がありますが、無断で特許を利用されてもその証拠を確保することは簡単ではありません。同業他社へアイデアが漏れることを防ぐために、特許を取得せずノウハウに留めることがあります。しかしその情報が漏れて他社に先に特許権を取得されては本末転倒です。昔のように定年まで同じ会社にずっと勤めることが普通ではなくなりました。試作品や製造装置を外注した先の業者が同業他社に営業のために訪れて、あそこの会社から最近こういう装置の注文を貰いましたなどと話すこともあります。業界首位の企業の動向は二位以下の企業の技術者の関心の的です。

そうなっては困りますから、各企業とも先使用権の確保に懸命です。アイデアのような形のないものでも、いつ社内の誰が思い付いたかを記録し、社内や社外の認証を得る様々な工夫を行なっています。人間が皆正直であればこんな無駄な仕事をしなくて済むのになどと当時は思ったものです。

「はじめに」に書きましたが、研究の一端をいくつかの雑誌に投稿しました。その時に驚いたことがあります。驚いたというのは理系の学会では常識だと思っていたことが、国語学関係の学会では常識でなかったからです。どちらの常識が正しいかという話ではありません。それは相対的なことです。それぞれの常識が正しいのです。

理系の学会では、少なくとも私が投稿した雑誌では、投稿された論文の審査は次のような手順を経ます。

①雑誌の編集者(editor)に原稿とそのコピーを送る。
②編集者は受領の日付(date of receipt)が入った穿孔印を原稿のコピーに押して投稿者に返送する。
 ※ 受領の日付は掲載が決定した日付(date of acceptance)とともに雑誌に記載されます。滅多にないとは思いますが、査読者による盗用を防いでくれもします。穿孔印ですから全ページに押されます。
③編集者は原稿を査読者に送り査読を依頼する。
④査読者は掲載の可否と理由を編集者に通知する。
⑤不掲載の判断の場合、編集者はその理由を投稿者に送り反論を求める。
⑥場合によっては④から⑤が繰り返される。
⑦編集者は両者の意見を吟味した上で掲載の可否を決定する。

国語学の学会の多くは、少なくとも私が問い合わせたところはすべて、②と⑤がありませんでした。

②がないと、どんな内容の原稿を送り、それがいつ受領されたかの証拠が残りません。理系の学会は世界的な組織ですから、研究者ごとに所属する文化や道徳の基準が異なります。また、多数の研究者が関わるので研究の進捗速度も速く、文字通り一刻を争います。「取った」「取られた」の争いを防ぐためには原稿の全文に渡る受領の証明が必要なのだと考えます。

大人が大人の意見を判断するのですから、⑤がないのも不思議でした。投稿者が個人的に嫌いだからとか、投稿者の所属する大学に手柄を渡したくないとか、そういう悪意ある人物はいないという理想主義的な考えだとは思いますが、一方で、国語系の学会の中には論文の原稿に投稿者の名前がわかるようなことを書いてはいけないと投稿規定に書いているところもあります。それが現実なのでしょうか。それも重要でしょうが、投稿者に反論を認めるようなシステムであったらと思います。私が所属してきた世界では個人的な感情ややライバルの手柄を云々は聞きませんが、自分の理論と違うから間違いであるという結論を出す人はいました。それが分かったのも⑤があったからです。論文の内容を理解できないために、あるいは誤解したために、棄却される可能性がないとは言えません。

国語系の学会の査読者を疑う気持ちはありませんが、この②と⑤がないというのは理系の学会で活動して来た者には大いに不安を感じさせます。念の為、投稿の前に原稿のコピーを友人たちに送り受領の日付と署名をお願いしました。また、企業の研究所で学んだいくつかの対策も施しました。別件で弁護士に会う機会があったので、そこでも対策を相談しました。意外なことが裁判で証拠として通用すると教えて貰いました。

友人は全員理系なので、大学の国文科を出て高校で古文を教えていた知人にも原稿を見てもらいました。良い評価を得られたので安心しました。もちろん、本人は掲載されて当然の水準にあると信じてはいましたが、それは身贔屓の可能性があります。客観的な意見が聞けて良かったと思います。

これからブログで発表して行く内容は、投稿して落選したものが中心になるでしょう。重要な発見については国際的な言語学の論文誌への投稿を予定しています。しかし、これから述べるかもしれないミ語法、ク語法、その他もけしてつまらない内容ではなく、今までにない新しい知見を提供できると信じています。個人的には今まで半導体の物理でしてきた仕事以上のものであると思います。ご期待ください。けして素人のトンデモ系の論説ではありません。

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