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2017年1月31日火曜日

ク語法の真実 その5 萬葉学会の査読の妥当性

 2016年9月19日付けの郵便で送付し、同年9月25日付けの葉書で受領の連絡があったク語法の論文「「言はく」は「言ふこと」か」は、萬葉学会の査読者に不掲載と判断され、萬葉学会がその査読を承認しました。不掲載の理由はク語法の真実 その0 萬葉学会の不掲載理由に示しました。萬葉学会の査読の妥当性について考えてみたいと思います。

 理由を再掲します。


所見
論題:「言はく」は「言ふこと」か
評定:不採用

評言:本論はク語法の語構成を「活用語連体形+あく」と捉え、「あく」は四段活用動詞であって、「ものごとの存在が五感を通じてはっきりと知覚される」「その存在がはっきりと知覚される」意味があるとする。

そして、ク語法による名詞句を「~することは明確であるのに/明らかである」として情態副詞「明らかだ」節のように解釈している。

仮説としてアク接尾がもと四段動詞だと考え、その仮設された語義・語性からク語法の用例群を検証するという方法は誤りではない。

さらに、ク語法に対して明確な知覚の表明という、モーダルな意味があると捉える点は興味深い。

しかしながら、本論は仮設動詞アクの語義分析ではなく、ク語法という準体句相当の語法の解析を目指しているはずである。

文法上の名詞句の働きとして、構文上にモーダルな意味が付加されているのか、それともアクそれ自体の語義によっているのかが、本論では明らかではない。

さらに明確な知覚という場合、上代では、「世の中は空しきものと知るときしいよよ益々悲しかりけり」の副助詞「し」は副詞性助詞として「知れば知るほどに」と程度強調を表す例がある。

つまり明確に知られるという場合には、副助詞などによる「とりたて」が存在する。そうしたとりたて表現に対して、ク語法はどのように異なるのかを明らかにしないと、仮設動詞アクの語性を適用しても解釈可能だというだけでは新知見とは言いえない。

また形式名詞の有無に関わらず、明確ではない知覚(けっして朧気というのではない)すなわちplainな知覚に対して特立される形でなければ、「アク」によるク語法の価値がないから、それとの対比がどうしても必要になる。

意見としていえば、仮設動詞アクを想定することは、ク語法による動詞名詞句に具体的な意味傾向を付加することになるが、ク語法という文法的環境下ではその具体性は捨象されて準体句のあり方とは異なり、〇〇のような機能を負担するに至ったという形で改めて立論されるべきものと思う。


 査読者の誤解は次の点です。

5-1 仮説としてアク接尾がもと四段動詞だと考え、その仮設された語義・語性からク語法の用例群を検証するという方法は誤りではない。

 査読者は「逆は真なり」という国語学の論文でしか通用しない論法が証明であると考えているのでしょうか。未知の語の意味を知るには仮説と検証の方法しかありません。未知の言語には辞書も文法書もありません。ある意味を仮定し、それが妥当であるか多数の用例について検証を重ねる。それ以外の方法はありません。

5-2 ク語法に対して明確な知覚の表明という、モーダルな意味があると捉える点は興味深い。

 少なくとも私はこのアクがmodalityを表すと断言していません。ク語法の真実 「言はく」は「言ふこと」か その3 仮説の検証


このことから、アクが証拠性を担う助動詞であると断定してよいかは現時点で判断が付かない。口語訳はアクの意味を強調したが、上代人の語感と同じかどうか。証拠性云々は別にして、助動詞に近いものだったのかもしれない。


と記すに止めました。

 この証拠性はevidentialityの訳語として用いたものです。Palmer (1986)はevidentialityをそれがirrealisであればmodalityに含めていますが、Portner (2009)の著書ではevidentialityをmodalityに分類する立場としない立場を紹介しています。私が書いた論文ではク語法は活用語の連体形にアクという四段動詞が付いたものですが、それが現に知覚されている状態ではrealksですから、Palmerに従うにしてもmodalityとは言えなさそうです。なさそうと書くのは、正直に言って、現時点でこれをeventialityと言って良いのかどうか判断が付きませんし、ましてや、それがmodalityかどうかも私には分かりません。それを明らかにするには様々な角度からの検討が必要です。この論文の扱う範囲を大幅に超えるものです。

5-3 本論は仮設動詞アクの語義分析ではなく、ク語法という準体句相当の語法の解析を目指しているはずである。

 査読者はそう思ったのかもしれませんが、この論文が目指すのはク語法の起源と意味の解明です。なぜそのように誤読したのか分かりません。萬葉学会の編集委員は普通は教えない不掲載の理由を特別に教えたと言いますが、このような誤解に基く不掲載の判定があるのであれば、今後もすべての論文の査読に理由を明らかにすべきです。でなければ、万葉集の解釈に貢献するかもしれない良質の論文が査読者の誤解のために水泡に帰してしまいます。萬葉学会が万葉集の解釈の発展を目指すのであれば、不掲載の場合の理由を開示し、誤解があれば誤解を解くよう努力すべきです。

5-4 文法上の名詞句の働きとして、構文上にモーダルな意味が付加されているのか、それともアクそれ自体の語義によっているのかが、本論では明らかではない。

 論文ではアクがそのような意味であるから構文がそのような意味となると説明しています。査読者はそもそもmodalityをどう捉えているのか。名詞句がmodalな意味を与えるようなmodalityのシステムが世界のどの言語にあるというのか。査読者はmodalityを誤解しているように私には思えます。もしも誤解してないというなら、査読者のmodalityの定義を明らかにしていただきたい。

 言語学におけるmodalityは様相論理(modal logic)と表裏一体のものです。国語学の分野は様相論理と独立にモダリティを考えているようです。それで言語の解釈に問題がなければ様相論理は不要と言う考えもあるようですが、それができないからこそ英語圏では可能世界に基く様相性の定式化が試みられたのです。様相論理の簡潔で正確な説明は小野寛晰(1994)が良いと思います。可能世界についてはLewis (1986)が綿密な議論を展開しています。最近名古屋大学出版会から和訳の『世界の複数性について』が出ました。

 このモダリティについて、編集委員からそれがmodalityと異なるなら査読者の言うモダリティを構文と読み替え、構文を明らかにせよという要求が出ました。しかし構文についてはク語法の真実 「言はく」は「言ふこと」か その3 仮説の検証で50以上の例文の構文を検討しました。これ以上何を書けというのでしょうか。査読者や編集委員は自分の論文でも私が今回検討した以上の多数の用例の構文を検討しているのでしょうか。自分ができないことを他人に要求しているように思えます。

5-5 さらに明確な知覚という場合、上代では、「世の中は空しきものと知るときしいよよ益々悲しかりけり」の副助詞「し」は副詞性助詞として「知れば知るほどに」と程度強調を表す例がある。

 これについては前回触れました。査読者はそう考えるかもしれませんが、それが正しいという根拠はありません。

5-6 つまり明確に知られるという場合には、副助詞などによる「とりたて」が存在する。

 査読者独自の考えを前提にしてしまっています。

5-7 そうしたとりたて表現に対して、ク語法はどのように異なるのかを明らかにしないと、仮設動詞アクの語性を適用しても解釈可能だというだけでは新知見とは言いえない。

 前提が査読者独自の考えである以上、この査読者の主張が正しいという根拠はありません。従来説ではク語法は用言の名詞化であって特別な意味がないとされてきました。しかし「なくに」は詠嘆を表すとされ、その説と矛盾します。

 その長らく説明不能だった「なくに」に対して新しい説明を与えました。それだけでも十分な知見とは言えないのでしょうか。

5-8 また形式名詞の有無に関わらず、明確ではない知覚(けっして朧気というのではない)すなわちplainな知覚に対して特立される形でなければ、「アク」によるク語法の価値がないから、それとの対比がどうしても必要になる。

 私は「はっきりとした知覚」と書きました。そのような知覚の集合の補集合は「はっきりとしない知覚」です。つまり、ぼんやりとした知覚でないことを強調するために「はっきりと」という副詞を用いました。査読者は英語のplainの意味を「限定修飾語が付かない」の意味に解釈しているようです。そうであれば、査読者の言う「plainな知覚」は「はっきりした」でも「ぼんやりした」でもない知覚という意味になりますが、「はっきりした」でない知覚は補集合の意味の説明のとおり「ぼんやりした知覚」です。とすれば査読者の言う「plainな知覚」は空集合です。したがって対比は不要です。

5-9 意見としていえば、仮設動詞アクを想定することは、ク語法による動詞名詞句に具体的な意味傾向を付加することになるが、ク語法という文法的環境下ではその具体性は捨象されて準体句のあり方とは異なり、〇〇のような機能を負担するに至ったという形で改めて立論されるべきものと思う。

 これは地動説の論文に対して地球が静止していることの証明を要求するようなものです。

 査読者はク語法を「ク語法という文法的環境下ではその具体性は捨象され」たものと捉えているようです。従来説はそのとおりです。しかし本稿はク語法に「はっきり知覚される」という意味があるとするものです。地球は静止しているという従来の仮説に対して地球は動いているという新しい仮説を提案するものです。そこでsemantic bleachingについて述べよというのでは、論文のどこをどう読んだのでしょう。

 これに対して、査読者が誤解するような書き方に問題があると言う人もあるかもしれません。そのような議論が成り立つなら、Allan Sokalの論文を掲載したSocial Textの査読に何ら落ち度がなく、価値があるかのように誤解させる書き方をしたSokalに問題があると言うのでしょうか。デタラメの論文を掲載してしまったSocial Textの編集者の判断が誤りです。

 ただし論文が掲載に値するか迷った場合、それを掲載するのは正しいやり方です。疑わしきは罰せずは論文の査読にも言えます。明らかに間違いと言えない場合は掲載して判断を後の研究に委ねるべきです。

 今回の萬葉学会の査読とそれを承認した萬葉学会の行為は、国民の財産である万葉集の正しい解釈の研究の健全な発展を妨害する行為と言えます。


参考文献
David Lewis (1986), On the Plurality of Worlds, Blackwell.
Robert Frank Palmer (1986), Mood and Modality, Cambridge University Press, Cambridge.
小野寛晰(1994)『情報科学における論理』(日本評論社)
Paul Portner (2009), Modality, Oxford University Press.






2017年1月29日日曜日

国語学の論文に特有の非論理的な推論 その6 説得力

C'est un langage estrange que le Basque ...
On dit qu'ils s'entendent, je n'en croy rien.

Basque is really a strange language ...
It is said that they understand one another,
but I don't believe any of it.

Joseph Justus Scaliger (1540-1609)

以上はDeutscher (2005)より引用。

バスク語は実に変わった言語だ・・・
バスク人同士は理解し合うと言うが、私は全く信じない。

 国語学の論文に特有の非論理的な推論という題名でその5まで書き綴ってきました。他分野の研究者から見れば非論理的なことは明らかですが、国語学の研究者同士はその推論で理解し合えています。ということは、そこに何らかの規則性があるはずです。でなければ、国語学の研究者同士の議論が噛み合わなくなってしまいます。つまり、国語学の論文は闇雲に非論理的な推論を積み重ねているのではなく、非論理的ではあるが国語学の学会内では他の研究者を説得するに十分な推論が使われているはずです。そのような非論理的ではあるが国語学の学会内では妥当な推論とされるものを説得力のある推論と呼ぶことにします。国語学の学会の中で非論理的な推論のすべてが妥当とされるのではなく、一部のものだけが説得力を認められているのです。

 ここで「説得力」という言葉を使ったのは論理でなく感情に訴えて信じ込ませる意味にしばしば用いられるからです。理系では使われない言葉ですが、哲学ではどうでしょう。八木沢敬(2014)から引用します。


こういうぐあいに大まかに流れをなぞってみると、この議論はかなり説得力があるようにみえる。多くの論客は、このレベルで説得されて(結論)を受け入れるか、もしくは説得されないままでいながらも議論の欠点を指摘することもできず当惑するか、どちらかである。



これはある程度説得力のある論法のように見えるかもしれないが、非の打ちどころは大いにある。


 ここでも説得力は論理的でなく感情に訴える論法のような印象を与えています。国語学の論文の例を金水敏(1989)から引用します。


これは説得力のある説明であり,多くの研究者に影響を与えた学説となった。しかしながら,ここに疑問を呈したい。


 やはりここでも論理的に正しいという意味ではなく一見正しく見えるという意味に使っているようです。国語学会特有の推論を表すに妥当な言葉と思います。

6.1 説得力の一 逆は真なり
 説得力のある推論の第一は「逆は真なり」です。論理的な推論は「逆は必ずしも真ならず」ですが、国語学では単語の意味の推定にこの「逆は真なり」がしばしば用いられます。かくばかり恋ひつつあらずは その0 仮説と検証に書いた「かめや」の方法です。国語学の論文に用いられたものは国語学の論文に特有の非論理的な推論に濱田敦(1948a)の例を示しました。濱田氏に個人的な恨みがあるわけでは勿論ありません。同様の例は国語学の論文に多数あります。存命著者の場合は気分を悪くされるのではないかと考えたからです。

 この論法を論理式で書くと次のようになります。

A⊃B, B ⊢ A

AならばBである。Bである。従ってAである。

お前が私の財布から金を盗めば私の財布に金がない。私の財布に金がない。従ってお前が盗んだのである。

「な」が願望の意味であるという仮定が正しければ歌意が通る。歌意が通る。従って「な」が願望の意味であるという仮定が正しい。

 どれも同じです。単なる検証の不十分な仮説なのですが、国語学ではこの方法がしばしば証明の如く扱われます。

6.2 説得力の二 現代語を基準にしたりしなかったり
 国語学でしばしば用いられる非論理的な推論は国語学の論文に特有の非論理的な推論 その5 現代語を基準とする時としない時に書いたものです。国語学の巨人である橋本進吉氏の論文、橋本進吉(1951)から例を引用しました。「かくばかり恋ひつつあらずは」の「あらずは」を現代語の「いないでは」に対応させる説明です。しかしこれは簡単でありません。橋本氏の推論が正しいためには「あらず」と「いない」、「あらずは」と「いないでは」、上代語の「は」と現代語の「は」のすべてが一対一に対応することが証明されなくてはなりません。しかしそのような証明を橋本氏は行なっていませんし、橋本氏以前に行なわれてもいません。とすると、現代語を基準にする方法は非論理的な推論ですが、国語学では説得力を持ちます。

 この方法で問題なのは、上代語と同じ用法が現代語にないときです。その場合に橋本進吉(1951)は「古代に於てはかやうな場合にも打消の場合と同等に「は」が用ゐられたものと見られるのである。」で片付けています。対応する表現が現代語にあれば、現代語でそういう言い方をするのだから上代語でもそういう言い方をしたのだと言い、対応する表現が現代語になければ、現代語がそういう言い方をしないからと言って上代語もそういう言い方をしなかったとは言えないと言う。実に自分勝手な論法です。理系の世界ならば「ちょっと待ってください」ですが、国語学の世界ではそれでも説得力を持つのが不思議です。

6-3 説得力の三 加重多数決
 他の研究者の記述も強い説得力を持ちます。たとえその記述が何ら論理的な推論の結果でなくともです。これは文学や芸術分野の感性による判断の影響だと考えます。ある絵や彫刻を見て、ある音楽を聴いて、それを美しいと感じるかどうかは個人的な感覚です。その場合は多数決が意味を持ちます。しかし論理の世界は別です。天動説と地動説で多数決をとる意味はありません。科学は文学や芸術のような感性で決定されるものでないからです。

 他の研究者が歴史に残る大御所であれば多数決に一人数票の効果があることは言うまでもありません。それが加重の意味です。しかし理系の世界ではノーベル賞学者の意見でも間違いは間違いです。昔の学会誌には論文について書簡で討論が行なわれることがありましたが、ノーベル賞受賞者のある研究者が熱力学の第二法則について学生並みの間違った解釈をしているのを見たことがあります。他の研究者から誤りを指摘されていました。このように論理が支配する世界では大御所であろうと駆け出しであろうと誰が言ったかではなく何を言ったかが基準で判断されます。その点で国語学は科学の世界と異なっています。

6-4 説得力の四 仮定の追加
 国語学の論文に特有の非論理的な推論 その3 歌意が通ることに書きましたが、願望の「な」は願望と解せない場合があります。そのために新たな仮説を追加して、主語の人称に応じて意味が変わると仮説を修正しています。理系の世界ではこのような仮定の追加は仮説の信憑性を失わせます。例えば天動説は惑星の運動を説明するため、惑星を内惑星と外惑星に分け、それぞれについて仮定を付け加えています。しかし国語学ではこのような仮定の追加は大目に見られるようです。一見して他に説明する仮説がなければ、その仮説が絶対的に正しい、現実と合わないのは仮定が足りないのだ、だから仮説を修正するしかない、という論法かもしれません。理系の世界ではその場合、その仮説の正しさを疑い、他の仮説を考えます。

6-5 説得力の五 早い者勝ち
 萬葉学会へ投稿したク語法の論文はク語法の真実 その0 萬葉学会の不掲載理由に示したように、大変残念な結果になりました。正直言って悔しく思います。論文を書くためにどれだけの時間と労力を費やしたか。それを査読者の信じる仮説と違うという理由だけで拒絶されました。しかもその査読者の判断を萬葉学会が承認しました。全く不当な判断だと思います。

 その後の萬葉学会とのやり取りで「従来説でもク語法を説明できている」という意味(文言は違います)の指摘を受けました。天文学にたとえれば次のような論法です。惑星の運動は天動説で説明が出来ている。地動説は後から出てきた説だから、天動説に対して優位性を示さなくてはならない。ここまで理不尽なことを言われるとは思いませんでした。理系の世界では天動説に対して地動説を提出することはそれだけで価値があります。同じ現象を違う仮説で説明できるからです。何らかの有意性はその後の比較検討の中で示されるものです。それが国語学の学会の論法だから従えと言うのなら、私は反論します。その論法は科学でないからです。国文学は芸術かもしれませんが、国語学は言語に関する科学です。そこに必要なのは論理的な推論であって、感覚的なあるいは感情的な説得力ではありません。

6-6 説得力の六 理由無き断定
 論理に窮した場面で特に用いられるのが理由を示さず断定することです。論理がないのだから理由を示しようがありません。断定することで一見絶対的真理であるかのような印象を与えます。論理に窮した劣勢から起死回生の妙手に見えますが、通じるのは論理に疎い相手だけです。

 ク語法の真実 その0 萬葉学会の不掲載理由に示された次の文言です。


そうしたとりたて表現に対して、ク語法はどのように異なるのかを明らかにしないと、仮設動詞アクの語性を適用しても解釈可能だというだけでは新知見とは言いえない。


 「新知見とは言いえない」と断言していますが、理由は示されていません。とりたて表現云々は査読者独自の意見ですが、仮にそれが正しかったとしても、それとの違いを明らかにしないと何故新知見と言いえないのでしょう。恐らく査読者自身が理由を「言いえない」のではないでしょうか。同様の方法は「説得力の二」に示した橋本進吉氏の「と見られるのである」にも言えます。論理に疎い読者に対してだけ有効ですが、論理に窮した場面を救う起死回生の修辞法です。

 芥川龍之介の『侏儒の言葉』の「批評学」に興味深い記述があります。Mephistophelesが言う「半肯定論法」も同類でしょう。「畢竟それだけだ」の理由が示されていません。「木に縁って魚を求むる論法」はまさに萬葉学会の査読のモダリティ云々や文法化云々がそれでした。

 最初に戻りますが、バスク語は非論理的でありません。バスク語は近隣のフランス語やスペイン語から見て異質な言語です。日本語や英語、フランス語、スペイン語は対格性言語ですが、バスク語は能格性言語です。Dixon (1994)の用語を用いて、他動詞の動作主をA、他動詞の動作対象をO、自動詞や述語形容詞の唯一の項をSとします。現代日本語はAにガ格を、Oにヲ格を、Sにガ格を用います。ガ格が主格であり、ヲ格が対格です。このような言語の性質を対格性と言います。これに対して、Aに能格(ergative)を用い、OとSに絶対格(absolutive)を用いる言語の性質を能格性と言います。この程度のことはWikipediaにも書いてありますが、対格性や能格性という現象はさらに奥が深いのです。それだけで専門書が一冊書ける程です。

 さわりだけを説明しても何が何だか分からない能格性ですが、そのために欧州でバスク語が難解とされてきたのです。しかしバスク語は対格性言語と同じ程度に論理的です。そこがバスク語と国語学の論文に用いられる推論の違いです。

(つづく)

 最後に重要な注意点があります。ネットは著作権を放棄したと考える人もいるようですが、それは違います。また、著作権が放棄されたものならば無断引用は可能と考える人もいるようですが、それも違います。その点、十分にご注意ください。本ブログのすべての記事および本稿の著作権は著者である江部忠行が保有するものです。殆どの人にこのような注意書きが不要なのですが、ほんの僅かな人がいるために書かなくてはなりません。まあ、そういう裁判を起こせばこの研究が注目されるかもしれないというメリットはあります。

参考文献

濱田敦(1948a) 「上代に於ける願望表現について」 『國語と國文學』 25(2)
橋本進吉(1951) 「上代の国語に於ける一種の『ずは』について」 『上代語の研究』 (1951 岩波書店)
金水敏(1989)「「報告」についての覚書」『日本語のモダリティ』(くろしお出版)
Robert M. W. Dixon (1994), Ergativity, Cambridge University Press
Guy Deutscher (2005), The Unfolding of Language, William Heinemann, London.
八木沢敬(2014)『神から可能世界へ』(講談社)

2017年1月28日土曜日

ク語法の真実 その4 「言はく」は「言ふこと」か 結論

 ク語法を「連体形+アク」と考え、そのアクを「はっきりと知覚される」という意味の四段動詞の終止形や連体形と仮定して万葉集、記紀歌謡、続日本紀宣命を解釈できることが示された。本稿の仮説が正しいとすれば、次のことが言える。

1、ク語法は用言の体言化でなく、用言の意味が「はっきりと知覚される」「明らかである」状態を表わす語法である。

2、従来詠嘆とされてきた「なくに」や「なけなくに」「ざらなくに」は相手の誤解を解くための発話である。

3、過去の状態や動作の体言化とされてきた「しく」はその状態や動作の記憶が蘇える意味である。

4、形容詞のク語法はその形容詞の意味が強く知覚されること、実感されることである。

5、「まく欲り」「まく欲し」の上接語に「見る」が多い理由が合理的に説明される。

6、重複とされてきた「言はく…言ふ」の「言はく」はその意味が「言うことには」でなく、言う行為や伝達される内容が明らかになることや明らかであることを示す。

 本稿の仮説による新しい解釈は上代人の伝えたかった意味に多少は近付くものであると確信する。


註1 動詞の自他の交替に関しては諸説があるが、解決を見ない。様々な言語に生ずる現象であることだけは確かである。

註2 金田一春彦1955の「既然態」を「既然相」と言い替えた。Comrie 1976は既然相を相に含めないが、それが絶対とは言えない。


(2016年9月19日付の郵便で萬葉学会に投稿した論文の原稿は以上)

 最後に重要な注意点があります。ネットは著作権を放棄したと考える人もいるようですが、それは違います。また、著作権が放棄されたものならば無断引用は可能と考える人もいるようですが、それも違います。その点、十分にご注意ください。本ブログのすべての記事および本稿の著作権は著者である江部忠行が保有するものです。殆どの人にこのような注意書きが不要なのですが、ほんの僅かな人がいるために書かなくてはなりません。まあ、そういう裁判を起こせばこの研究が注目されるかもしれないというメリットはあります。 


参考文献
Aston 1877 A grammar of the Japanese written language, 2nd ed. (古田東朔1981による)
Aston 1904 A grammar of the Japanese written language, 3rd ed. (カリフォルニア大学のサイトで閲覧)
有坂秀世1940 「シル(知)とミル(轉)の考」 『国語と国文学』 『国語音韻史の研究 増補新版』(1957 三省堂)に収録
有坂秀世1944 「国語にあらはれる1種の母音交替について」 『国語音韻史の研究』 (明世堂) 『国語音韻史の研究 増補新版』(1957年 三省堂)に収録
金田一春彦1950 「国語動詞の一分類」 『言語研究』(名古屋大学) 15     『日本語動詞のアスペクト』(1976 むぎ書房)に収録
金田一春彦1955 「日本語動詞のテンスとアスペクト」 『名大文学部研究論集』(名古屋大学) 10 文学 4 『日本語動詞のアスペクト』(1976 むぎ書房)に収録
大野晋1955 「万葉時代の音韻」『万葉集大成 6言語編』(1955 平凡社)
大野晋1957 「校注の覚え書」 『日本古典文学大系 万葉集1』(1957 岩波書店)
北條正子1973 『品詞別日本文法講座 10 品詞論の周辺』 (1973 明治書院)
井手至1964 「ク語法(加行延言)アクの説は悪説か」 『国文学 解釈と鑑賞』 29年11号
井手至1965 「万葉集のク語法」 『人文研究』 16(3)大阪市立大学
木下正俊1972 「なくに覚書」 『万葉集研究 第1集』(1972 縞書房)
Bernard Comrie 1976, Aspect, Cambridge University Press
古田東朔1981 「外の人々から見たク語法」 『香椎潟』 26 福岡女子大学山田小枝1984 『アスペクト論』(三修社)
日本国語大辞典 第2版(2001 小学館)
山口佳紀2009 「家持歌『悲しけくここに思ひ出』考」 『美夫君志』 79号 『古代日本語史論研究』(2011 風間書房)に収録
金水敏2011 『文法史』(2011 岩波書店)
小田勝2015 『古典文法総覧』(2015 和泉書院)

ク語法の真実 その3 「言はく」は「言ふこと」か 仮説の検証

3.1 動詞に下接した場合
 ク語法の構造を仮説に従って検証する。まず、動詞のク語法の例をあげて、本稿の仮説に基いた口語訳を解釈として示す。口語訳は現代語として自然であることよりも、アクの意味を際立たせることを目的にして、上代語と現代語の単語を一対一に対応させた。

 アクの主語となる動詞の時制が現在の場合、「はっきりと知覚される」は状況に応じて「見える」「聞こえる」「匂う」「わかる」「知られる」「感じられる」「明らかである」などと訳す。また、主格と対格を入れ替えて、「ある事実がはっきりと知覚される」を「(人が)ある事実を実感する」などとも訳す。

3.1-1 寺々の女餓鬼申さく(申久)大神の男餓鬼賜りてその子産まはむ   万16-3840
解釈 あちこちの寺の女餓鬼が申すのがはっきりと聞こえる…。
 「申さく」は従来「申すこと」と口語訳されてきた。また、しばしば原文にない助詞を補って「申すには」とも訳されてきた。本稿の仮説に従えば、「女餓鬼申さく」は「女餓鬼申す(連体形)+アク(終止形)」である。連体形の「申す」の意味は前節で述べた行為のコトである。「申さく」は「申しているのがはっきりと知覚される」である。現代語らしく言い直すならば「聞こえる」あるいは「分かる」が相応しい。従来の口語訳でも歌意は通じるが、本稿の仮説にしたがったほうが、そこにク語法を使う積極的な意味付けが理解できると考える。

 「申す」と「申さく」の違いは、前者が伝聞や推定を含むのに対して、後者はそれが確かに存在することを話し手が近くで確認したことを強調する。このことから、アクが証拠性を担う助動詞であると断定してよいかは現時点で判断が付かない。口語訳はアクの意味を強調したが、上代人の語感と同じかどうか。証拠性云々は別にして、助動詞に近いものだったのかもしれない。

3.1-2 白真砂御津の埴生の色に出でて言はなくのみぞ(不云耳衣)我が恋ふらくは(恋楽者)   万11-2725
解釈 …言わない内容が知られるばかりである、私が恋していることが知られる場合は。
 連体形の「言はぬ」の意味は前節で述べた伝達される内容のコトである。

3.1-3 み吉野の玉松が枝ははしきかも君が御言を持ちて通はく(加欲波久)   万02-0113
解釈 …あなたのお言葉を持って通っているのがはっきりと分かります。

3.1-4 相思はずあるらむ子ゆゑ玉の緒の長き春日を思ひ暮らさく(晩久)   万10-1936
解釈 …[長き春日を]悩みながら日を送るのが明らかである。
 3.1-1と1-3、1-4のク語法のアクは終止形である。

3.1-5 直に逢はずあらく(阿良久)も多く敷栲の枕去らずて夢にし見えむ   万05-0809
解釈 直接会わないでいるのを実感することが多く…。

3.1-6 梅の花散らく(知良久)はいづくしかすがにこの城の山に雪は降りつつ   万05-0823
解釈 梅の花の散るのが見えるのはどこか…。
 3.1-5と1-6はアクに上接する動詞連体形が状態や動作を表わす。

3.1-7 めづらしき人に見せむと黄葉を手折りぞ我が来し雨の降らくに(零久仁)   万08-1582
解釈 …雨が降っているのが明らかなのに。

3.1-8 萩の花咲きのををりを見よとかも月夜の清き恋まさらくに(益良国)   万10-2228
解釈 …益々(萩が)好きになるのが明らかなのに。
 3.1-7と1-8はアクの連体形に助詞の「に」が下接した例である。

3.1-9 我がここだ偲はく(斯努波久)知らに霍公鳥いづへの山を鳴きか越ゆらむ   万19-4195
解釈 私がこれほど思い慕っているのが明らかなのを知らないで…。

3.1-10イ …前つ戸よい行き違ひうかがはく(字迦々波久)知らにと… 古事記歌謡22
3.1-10ロ …己が命を殺せむとぬすまく(農殊末句)知らに… 日本書紀歌謡18
3.1-10ハ …大き戸よりうかがひて殺さむとすらく(須羅句)を知らに… 日本書紀歌謡18(一云)
解釈 それぞれ、窺っているのが、盗もうとしているのが、殺そうとしているのが、明らかなのを知らないで…。
 3.1-9と1-10は「知らに」の前にク語法を使用することで話し手の憤りが感じられる。

3.1-11 天下の公民を恵び賜ひ撫で賜はむとなも、神ながら思しめさく(佐久)と詔りたまふ天皇が大命を、諸聞きたまへと詔る。 続日本紀宣命 第1詔
解釈 …[神ながら思しめ]すことが明らかであると…。
 3.1-11のアクも終止形である。これを自動詞と考えたのはここに敬語がないためであるが、助動詞化しているのかもしれない。


3.2 打消しの助動詞に下接した場合の一 単純否定と逆接
 万葉集には約150例の「なくに」の形のク語法がある。いくつかを引用し、本稿の仮説に従った解釈を述べる。

3.2-1 宇治間山朝風寒し旅にして衣貸すべき妹もあらなくに(有勿久尓)    万01-0075
解釈 …衣を貸してくれる娘もいないことが明らかなのに(知りながら寒く吹くのか)。
 上代語の「に」は単なる接続助詞であって、順接や逆接の意味を持たない。順接や逆接が問題になるのは口語訳のときである。現代日本語では順接か逆接かのどちらかを選択しなければならないからである。具体的には「ので」か「のに」となる。ここで後者を選択したのは、次の理由による。
 
 この歌が否定的事実の「あらぬ」が明らかであると強調するのは、聞き手(この場合は風)がその事実の逆の「あり」と誤解しているかもしれない(と話し手が考えている、あるいは考えていることにしている)からである。そのような場面を現代語で表現する場合には逆接の接続詞が選択される。
 打消しが用いられるのは、「そうでないことが明らかである」という相手の誤解の可能性を否定するためである。現代語の肯定で使われる「全然」(誤用とされる)が正にその例であろう。「全然良い」は「良くない」と聞き手が思っている(と話し手が考えている)ときに限り使用される。「全然」そのものに否定の意味はないが、否定とともに用いられる副詞であるから、その使用は話し手の否定的な意図を表わす。

 以下、話し手に聞き手の誤解を否定しようとする意図があると思われる例をあげる。
3.2-2 苦しくも降り来る雨か3輪の崎狭野の渡りに家もあらなくに(不有国)    万03-0265
解釈 …雨宿りする家もないことが明らかなのに。

3.2-3 軽の池の浦廻行き廻る鴨すらに玉藻の上にひとり寝なくに(宿名久2)    万03-0390
解釈 …鴨でさえ藻の上に独りで寝ないことが明らかなのに。

3.2-4 春なればうべも咲きたる梅の花君を思ふと夜寐も寝なくに(祢奈久尓)    万05-0831
解釈 …梅の花よ、あなたを思って私が夜も寝ないでいることが明らかなのに。

3.2-5 滝の上の3船の山に居る雲の常にあらむと我が思はなくに(不念久尓)    万03-0242
解釈 …雲が常にあると私が思っていないのが明らかなのに。

3.2-6 明日香河川淀さらず立つ霧の思ひ過ぐべき恋にあらなくに(不有国)    万03-0325
解釈 …思い忘れてしまうような恋でないことが明らかなのに。
 
 以上の「なくに」はすべて逆接の「ないのに」と訳された。


3.3 打消しの助動詞に下接した場合の二 二重否定と逆接
 次に、2重否定の例をあげる。

3.3-1 吾が大君ものな思ほし皇神の継ぎて賜へる我なけなくに(莫勿久尓)   万01-0077
解釈 …[継ぎて賜へる]私がいないのでないことが明らかなのに(いないとお思いかもしれませんが)。

3.3-2 今さらに君はい行かじ春雨の心を人の知らずあらなくに(不知有名国)   万10-1916
解釈 …春雨の(あなたを帰さないために降る)気持ちに人が気付かずにいないのが明らかなのに(それでも帰ろうとするのは気付いていないからですね)。

3.3-3 ま葛延ふ小野の浅茅を心ゆも人引かめやも我がなけなくに(莫名国)   万11-2835
解釈 …私がいないのでないことが明らかなのに。

3.3-4 思はずもまことあり得むやさ寝る夜の夢にも妹が見えざらなくに(美延射良奈久尓)   万15-3735
解釈 …お前の姿が夢にも見えていないのでないことが明らかなのに。

 二重否定が用いられるのは相手が否定している事実を更に否定して肯定するためと考える。つまり、最初の否定は相手の誤解であり、次の否定はその誤解の否定である。そのような心理がなければ二重否定でなく「あらくに」「知らくに」などと肯定で表現したであろう。


3.4 打消しの助動詞に下接した場合の三 単純否定と順接
 次のような場合は順接に訳される。

3.4-1 月読の光りに来ませあしひきの山きへなりて遠からなくに(不遠国)    万04-0670
解釈 …遠くないのが明らかなので。

3.4-2 ちはやぶる神の社に我が懸けし幣は賜らむ妹に逢はなくに(不相国)    万04-0558
解釈 …返していただきましょう、恋人に会わないのが明らかなので(願を掛けたが、その通りにならなかったことが明らかなので)。
 現代日本語はこのような場合に可能動詞を使って「会えない」と言う。「会えないのが明らかなので」と訳すべきかもしれない。

3.4-3 渡り守舟早渡せ一年にふたたび通ふ君にあらなくに(有勿久尓)    万10-2077
解釈 …早く船を出して渡してください、一年に二度通ってくる君でないのが明らかなので。

3.4-4 愛しと我が思ふ妹は早も死なぬか生けりとも我れに寄るべしと人の言はなくに(云名国)    万11-2355
解釈 …人が言わないのが明らかなので。

以上は命令の理由を説明する状況である。


3.5 打消しの助動詞に下接した場合の四 単純否定と終止形
 次に「に」の付かない終止形のアクを用いる「なく」を検討する。以下の用例の「知る」は有坂秀世1940が述べるように自動詞であろう。この「知る」の口語訳は「分からない」が相応しいと考える。

3.5-1 岩戸破る手力もがも手弱き女にしあればすべの知らなく(不知苦)    万03-0419
解釈 …(手弱女であるから腕力に頼らないとすれば)どうして良いか分からないのが明らかである。

3.5-2 春の雨はいやしき降るに梅の花いまだ咲かなく(未咲久)いと若みかも    万04-0786
解釈 …まだ咲かないことが明らかである(見ての通り確認されている)…。

3.5-3 茂岡に神さび立ちて栄えたる千代松の木の年の知らなく(不知久)    万06-0990
解釈 …樹齢が分からないのが明らかである。

3.5-4 天の川去年の渡り瀬荒れにけり君が来まさむ道の知らなく(道乃不知久)    万10-2084
解釈 …(荒れてしまったので)道が分からないのが明らかである。

3.5-5 はろはろに鳴く霍公鳥我が宿の植木橘花に散る時をまだしみ来鳴かなく(奈加奈久)…    万19-4207
解釈 …(ホトトギスが)来て鳴かないことが明らかである。
 

3.6 形容詞に下接した場合
 以下、形容詞のク語法を検討する。感情や感覚がはっきりと知覚されることを「実感する」と、形状や状態がはっきりと知覚されることを「はっきりしている」と機械的に訳す。前者は「強く感じる」「つくづく思う」など、後者は「明らかに…」などの代案も考えられるが、いずれが上代人の語感に近いか。

3.6-1 …痛けく(伊多家苦)の日に異に増せば悲しけく(可奈之家口)ここに思ひ出 いらなけく(伊良奈家久)そこに思ひ出 嘆くそら安けなく(夜須家奈久)に…    万17-3969
解釈 …痛みを実感することが日ごとに増すと悲しみを実感する。ここで思い出して辛さを実感する。そこで思い出して嘆く心が静まらないのを実感するが…。

3.6-2 玉津島見てしよけく(善雲)も我れはなし都に行きて恋ひまく思へば    万07-1217
解釈 …良いと実感することも私にはない…。

3.6-3 恋しけく(恋家口)日長きものを逢ふべくある宵だに君が来まさずあるらむ    万10-2039
解釈 恋しさを実感する日が長いものだが、逢うのが当然であることが明らかな宵でさえ…。

3.6-4 我が命の長く欲しけく(欲家口)偽りをよくする人を捕ふばかりを    万12-2943
解釈 …長生きをしたいと実感している…。

3.6-5イ …前妻が肴乞はさば立柧棱の実の無けく(那祁久)をこきしひゑね 後妻が肴乞はさば柃(いちさかき)実の多けく(意富祁久)をこきだひゑね…     古事記歌謡9
3.6-5ロ …前妻が肴乞はさば立柧棱の実の無けく(那鶏句)をこきしひゑね 後妻が肴乞はさば柃(いちさかき)実の多けく(於朋鶏句)をこきだひゑね…     日本書紀歌謡7
解釈 …実の無いのがはっきりしているのを…実の多いのがはっきりしているのを…。

3.7 「し」に下接した場合
 過去の事実が「はっきりと知覚される」というのは記憶が蘇えりその光景がはっきりと思い浮かぶことである。

 「しく」が「せく」とならないのは、単音節が理由ではないかと考える。母音の連続を避ける方法には、前の母音を落とす、後ろの母音を落とす、二つの母音が融合する、母音の間に子音を挿入する、の4通りの方法があるが、どれが選択されるかは現時点で明らかではないようである。

 ク語法の他の例はすべて母音が融合する。「し」にアクが下接した場合だけ、アクの母音が落とされる。回想の「き」の連体形とされる「し」は単音節語が由来であろう。一方、推量の「む」がかつては「あむ」であり、打消しの「に」(連用形)がかつては「あに」だったとするのは大野晋1955の説であるが、それが正しいとすれば、そちらは2音節である。これらの助動詞が動詞と完全に融合していない時代には、アクがついて「あまく」や「あなく」となっても元の語の半分の音節は残される。しかし、「し」が単音節であれば、「せく」となっては識別されにくい。また、単音節であれば、その音節にアクセントがあるので、それだけ音節の形を保ちやすい。そのために、「し」の場合に限り、アクの頭母音を落としたものと考える。

 同じことは、二段活用や上一段活用の連用形に「あむ」や「あに」が付いた場合にも言える。使役を表わす「す」や自発や受身を表わす「る」が二段活用や上一段活用、サ変、カ変に付いた場合に子音を介在されるのも同じ理由ではないだろうか。稿者は「し」の母音が2重母音であったとは考えない。その理由は新たな仮定に基づくため説明が非常に長くなる。別稿としたい。

 以下、「しく」を「はっきりと思い浮かぶ」と機械的に訳す。

3.7-1 住吉の名児の浜辺に馬立てて玉拾ひしく(拾之久)常忘らえず    万07-1153
解釈 …玉を拾ったことのはっきりと思い浮かぶその光景が長いこと忘れられない。

3.7-2イ 我が背子をいづち行かめとさき竹のそがひに寝しく(宿之久)今し悔しも    万07-1412
3.7-2ロ 愛し妹をいづち行かめと山菅のそがひに寝しく(宿思久)今し悔しも    万14-3577
解釈 …背中合わせに寝たことのはっきりが思い浮かぶのが今となっては悔しく思われる。

3.7-3 秋の野の尾花が末を押しなべて来しく(来之久)もしるく逢へる君かも    万08-1577
解釈 …来たことのはっきりと思い浮かぶその行為の効果も覿面で…。

3.7-4 夜のほどろ我が出でて来れば我妹子が思へりしく(念有49)し面影に見ゆ    万04-0754
解釈 …物思いに耽っていたことのはっきりと思い浮かぶその姿が(面影に見ゆ)。

3.7-5イ 道の後古波陀嬢子は争はず寝しく(泥斯久)をしぞもうるはしみ思ふ     古事記歌謡46
3.7-5ロ 道の後古波陀嬢子争はず寝しく(泥辞区)をしぞうるはしみ思ふ     日本書紀歌謡38
解釈 …共寝をしたことのはっきりと思い浮かぶのを…。


3.8 「む」に下接した場合の一 
 「む」が未来の事象を表わす場合は現代語にそれに相当する語がないので、動詞に直接下接した場合と同じに口語訳して問題ない。「む」が推量の場合は「はっきりと知覚される」よりも「に違いない」が現代語として相応しい。意志の場合は「したいと強く感じる」と機械的に訳す。

3.8-1 我が里に大雪降れり大原の古りにし里に降らまく(落巻)は後    万02-0103
解釈 …[古りにし里に]降るのが見られるのは後である。

3.8-2 あしひきの山の黄葉にしづくあひて散らむ山道を君が越えまく(超麻久)    万19-4225
解釈 …山道をあなたが越えて行くのが目に浮かんでいます。
 3.8-1と8-2の「む」は未来に実現することである。

3.8-3 草枕旅の宿りに誰が嬬か国忘れたる家待たまく(家待真國)に    万03-0426
解釈 …家族が待っているに違いないのに。

3.8-4 絶えず行く明日香の川の淀めらば故しもあるごと人の見まく(見國)に    万07-1379
解釈 理由があると人が見るに違いないが。
 3.8-3と8-4の「む」は推量であろう。

3.8-5 母刀自も玉にもがもや戴きてみづらの中に合へ巻かまく(阿敝麻可麻久)も    万20-4377
解釈 …髪の中に入れて巻きたい気持ちが強く感じられる。

3.8-6 我が家ろに行かも人もが草枕旅は苦しと告げ遣らまく(都気夜良麻久)も    万20-4406
解釈 …旅は苦しいと連絡してやりたい気持ちが強く感じられる。
 3.8-5と8-6の「む」は未来でも推量でもなく願望と考えたい。


3.9 「む」に下接した場合の二 「欲り」「欲し」「惜し」が下接する場合
 「まく欲り」「まく欲し」の上接語は「見る」が圧倒的に多く、他に「聞く」や口に出す意の「かく」が約1例ずつある。見る対象や聞く対象がはっきりと知覚されることは見ることや聞くことと同義である。また、自身の行為をはっきりと知覚することはその行為の実現に他ならない。事実、「見まくほり」「聞かまくほり」は「見たい」「聞きたい」と、「懸けまくほり」は「叫びたい」などと口語訳されてきた。

 他に「まく惜し」があるが、これも上接の動詞が表わす事象が実現されてはっきりと知覚されることが「惜し」の対象である。上接語は「散る」が多い。従来どおり「するのが惜しい」と口語訳して問題ない。

3.9-1 見まく欲り我がする君もあらなくに何しか来けむ馬疲るるに    万02-0164
解釈 会いたい(会うことの実現を私が願う)あなたもいないのが明らかなのに…。

3.9-2 …霍公鳥いまだ来鳴かず 鳴く声聞かまく欲り(伎可麻久保理)と朝には門に出で立ち夕には 谷を見渡し恋ふれども1声だにもいまだ聞こえず    万19-4209
解釈 …「鳴く声を聞きたくて」と…。

3.9-3 …問はまく(問巻)の欲しき我妹が 家の知らなく…    万09-1742
解釈 …問うことが実現するのが望まれるあの子の家が分からないことが明らかだ。
 意訳すると、聞いてみたいあの子の家が分からないことに気付いた。

3.9-4 梅の花散らまく(知良麻久)惜しみ(怨之美)我が園の竹の林に鴬鳴くも    万05-0824
解釈 梅の花が散る(のを実感する)のが惜しくて…。

3.9-5 ひさかたの天見るごとく仰ぎ見し皇子の御門の荒れまく(荒巻)惜しも    万02-0168
解釈 …荒れる(のを実感する)のが惜しい。

(つづく)

 最後に重要な注意点があります。ネットは著作権を放棄したと考える人もいるようですが、それは違います。また、著作権が放棄されたものならば無断引用は可能と考える人もいるようですが、それも違います。その点、十分にご注意ください。本ブログのすべての記事および本稿の著作権は著者である江部忠行が保有するものです。殆どの人にこのような注意書きが不要なのですが、ほんの僅かな人がいるために書かなくてはなりません。まあ、そういう裁判を起こせばこの研究が注目されるかもしれないというメリットはあります。

参考文献
Aston 1877 A grammar of the Japanese written language, 2nd ed. (古田東朔1981による)
Aston 1904 A grammar of the Japanese written language, 3rd ed. (カリフォルニア大学のサイトで閲覧)
有坂秀世1940 「シル(知)とミル(轉)の考」 『国語と国文学』 『国語音韻史の研究 増補新版』(1957 三省堂)に収録
有坂秀世1944 「国語にあらはれる1種の母音交替について」 『国語音韻史の研究』 (明世堂) 『国語音韻史の研究 増補新版』(1957年 三省堂)に収録
金田一春彦1950 「国語動詞の一分類」 『言語研究』(名古屋大学) 15     『日本語動詞のアスペクト』(1976 むぎ書房)に収録
金田一春彦1955 「日本語動詞のテンスとアスペクト」 『名大文学部研究論集』(名古屋大学) 10 文学 4 『日本語動詞のアスペクト』(1976 むぎ書房)に収録
大野晋1955 「万葉時代の音韻」『万葉集大成 6言語編』(1955 平凡社)
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北條正子1973 『品詞別日本文法講座 10 品詞論の周辺』 (1973 明治書院)
井手至1964 「ク語法(加行延言)アクの説は悪説か」 『国文学 解釈と鑑賞』 29年11号
井手至1965 「万葉集のク語法」 『人文研究』 16(3)大阪市立大学
木下正俊1972 「なくに覚書」 『万葉集研究 第1集』(1972 縞書房)
Bernard Comrie 1976, Aspect, Cambridge University Press
古田東朔1981 「外の人々から見たク語法」 『香椎潟』 26 福岡女子大学山田小枝1984 『アスペクト論』(三修社)
日本国語大辞典 第2版(2001 小学館)
山口佳紀2009 「家持歌『悲しけくここに思ひ出』考」 『美夫君志』 79号 『古代日本語史論研究』(2011 風間書房)に収録
金水敏2011 『文法史』(2011 岩波書店)
小田勝2015 『古典文法総覧』(2015 和泉書院)

2017年1月27日金曜日

ク語法の真実 その2 「言はく」は「言ふこと」か 本稿の仮説

 「めく」という動詞を作る接尾語が中古から使われている。意味は「らしくなる」である。例えば「秋めく」ならば季節が秋であることが前提である。潜在していた秋が顕在したことを風の強さや音、気温や植生の変化を知覚して確認したときに初めて「秋めく」と発話する。

 「めく」は*mi-*aku > mekuという音韻変化から「み」と「あく」に分解できる。「白む」「赤む」などの動詞が存在することから、「秋む」という動詞があれば「秋になる」という意味だと推測できる。そうだとすれば、「あく」の意味はものごとの存在が5感を通じてはっきりと知覚されることであろう。

 そのような考えから、かつて「あく」(以降、アクと書く)という動詞が存在し、その意味が「はっきりと知覚される」「明らかである」であったと仮定する。

 「あく」という動詞は上代から現代まで使われている。『日本国語大辞典(第2版)』は「あく(明、開、空)」の語義の最初に「隔てや覆いなどが、とり除かれる。閉じていたものが開く」を挙げ、語法の欄に「『明く』は明るくなる、『開(空)く』は閉じているものが開いてすきまができる、が原義である」と記す。四段の「開く」は上代に用例を見ないが、次の「あく」の意味は「はっきりと知覚される」ではないだろうか。

2-1 沖つ風いたく吹きせば我妹子が嘆きの霧にあかまし(安可麻之)ものを   万15-3616
2-2 渋谿をさして我が行くこの浜に月夜あき(安伎)てむ馬しまし止め   万19-4206

 夜が明ければ、今まで見えなかったものが見えるようになる。また、鳥のさえずりも聞こえ始める。遮蔽物が移動すれば、その向こうにあるものが顕在化して知覚される。あるいは何もない空間が出現する。活用の仕方や使われる漢字に関わらず、「あく」には共通する意味があり、それは知覚による存在の確認であると言える。

 このように仮定すると、「泣く」「鳴く」は「な(音)」を出現させることあるいは聴覚により知覚させることと解釈できる。同様に、「剥く」は「む(実)」を顕在化させることあるいは視覚により知覚させること、「嗅ぐ」は「か(香)」を嗅覚により知覚すること、「湧く」は「ゐ(井)」が顕在化してその存在を知覚させることと言える。このうち、「な」「む」は「ね」「み」のそれぞれの、有坂秀世1944の言う被覆形である。「ゐ」の被覆形として「わ」や「う」が想定可能と稿者は考える。また、アクと「赤」や「明らか」を同語源と仮定しても矛盾はなさそうである。

 アクを動詞と見たとき、その自他が問題となるかもしれない。現代日本語で自他両用のものは「ひらく」「とじる」「ます(増)」など少数に限られる。しかし、漢語を語幹とするサ変動詞の場合は別である。小林英樹2004は「現行の一般国語辞典においてサ変動調として用いられているものを集録した」とある北條正子1973から346語の自他両用の二字漢語動詞を採取している。和語に自他両用動詞が少ない理由は、四段活用対下二段活用、ラ行四段活用対サ行四段活用という明示的な自他の区別が発達したためであろう。そのような区別がなかった時代の日本語の動詞は、現代語の漢語動詞がそうであるように、自他の区別に寛容であったと考える(註1)。

 たとえば、「鳴く」を「音をアク」と考えると、他動詞のアクが対格の「音を」を自身に取り込んで全体として自動詞化されたものである。「湧く」が「(井が)井をアク」であれば、このアクは自分自身を顕在化させるという再帰的な他動詞である。ただし、仮説の検証の過程で、アクに他動詞と看做せるものはなかった。

 次に動詞の終止形の意味を確認する。現代語の場合、動詞終止形は非過去を表わす。動作動詞(「ある」「いる」などの状態動詞や「見える」などの可能動詞以外のもの)の終止形は基本的に未来を表し、現在進行中の動作には「している」の形をほぼ義務的に用いる。一方、古典語の場合は進行中の動作に動詞終止形を用いることが知られている。このことは金水敏2011、小田勝2015が詳述しているので、ここでは議論しない。また、ある条件の下で未来を表わすことも、これらの著書が例を挙げて説明している。

 一方、「あく(開)」の意味が閉じた状態から開いた状態への遷移を表わすことであるとすると、進行相(progressive)はその遷移の過程の継続を表わし、遷移の結果を表わさない。結果を表わすなら既然相(perfect)である。これを相(aspect)と言って良いかという問題があるが、本稿では便宜上既然相と呼ぶことにする(註2)。「あく(開)」と同語源と思われる動詞に「咲く」がある。この動詞の終止形は花弁が開いた状態が継続する意味を表わす。例をあげる。

2-3 春の野に鳴くや鴬なつけむと我が家の園に梅が花咲く(佐久)   万05-0837
2-4 天皇の御代栄えむと東なる陸奥山に黄金花咲く(佐久)   万18-4097
2-5 なにはづにさくやこの花ふゆごもりいまははるべとさくやこのはな   古今集仮名序

 2-4は金鉱を花に例えたものだが、金鉱が存在し続けている以上「咲く」は進行相である。他は言うまでもない。

 従って、「咲く」は状態間の遷移でなく、状態の維持を表わすと言える。とすれば、「咲く」と同様、本稿が仮定する動詞アクも状態の維持を表わすと見たい。そうであれば、アクの終止形は顕在化や知覚の過程でなく、顕在している状態や知覚された状態の維持を表わし、進行相となるときは「知覚されている」あるいは「明らかである」状態を表わすと言える。

 本稿は次の仮定を行い、万葉集、記紀歌謡、続日本紀宣命の用例を検討する。

仮定1 ク語法は従来考えられていた活用語を名詞化するものでなく、活用語の連体形にアクという四段動詞が下接したものである。

仮定2 アクの根源的意味は、モノ(人や事物)やコト(状態や行為、伝達される内容)が視覚、聴覚、嗅覚、触覚、温度感覚などを通じて「その存在がはっきりと知覚される」ことである。

仮定3 アクは金田一春彦1950の継続動詞に相当し、瞬間動詞に相当しない。

 アクを四段動詞と仮定したのは、アクの形が用言的にも体言的にも用いられることが観察されたからである。動詞終止形のように振舞う場合と準体句と考えられる場合があることを次節に示す。

 コトの意味に伝達される内容を追加したのは「言う」や「思う」などの動詞の場合、連体形の意味が伝達という行為の他に伝達される内容の場合が見られるからである。現代語の例を示す。

2-6 言わないことまで言ったことにされた。
2-7 言わないことが相手のためになるとは限らない。

 2-6の二つの「こと」は言う内容であり、2-7の「こと」は言う行為である。

(つづく)

 最後に重要な注意点があります。ネットは著作権を放棄したと考える人もいるようですが、それは違います。また、著作権が放棄されたものならば無断引用は可能と考える人もいるようですが、それも違います。その点、十分にご注意ください。本ブログのすべての記事および本稿の著作権は著者である江部忠行が保有するものです。殆どの人にこのような注意書きが不要なのですが、ほんの僅かな人がいるために書かなくてはなりません。まあ、そういう裁判を起こせばこの研究が注目されるかもしれないというメリットはあります。

参考文献
Aston 1877 A grammar of the Japanese written language, 2nd ed. (古田東朔1981による)
Aston 1904 A grammar of the Japanese written language, 3rd ed. (カリフォルニア大学のサイトで閲覧)
有坂秀世1940 「シル(知)とミル(轉)の考」 『国語と国文学』 『国語音韻史の研究 増補新版』(1957 三省堂)に収録
有坂秀世1944 「国語にあらはれる1種の母音交替について」 『国語音韻史の研究』 (明世堂) 『国語音韻史の研究 増補新版』(1957年 三省堂)に収録
金田一春彦1950 「国語動詞の一分類」 『言語研究』(名古屋大学) 15     『日本語動詞のアスペクト』(1976 むぎ書房)に収録
金田一春彦1955 「日本語動詞のテンスとアスペクト」 『名大文学部研究論集』(名古屋大学) 10 文学 4 『日本語動詞のアスペクト』(1976 むぎ書房)に収録
大野晋1955 「万葉時代の音韻」『万葉集大成 6言語編』(1955 平凡社)
大野晋1957 「校注の覚え書」 『日本古典文学大系 万葉集1』(1957 岩波書店)
北條正子1973 『品詞別日本文法講座 10 品詞論の周辺』 (1973 明治書院)
井手至1964 「ク語法(加行延言)アクの説は悪説か」 『国文学 解釈と鑑賞』 29年11号
井手至1965 「万葉集のク語法」 『人文研究』 16(3)大阪市立大学
木下正俊1972 「なくに覚書」 『万葉集研究 第1集』(1972 縞書房)
Bernard Comrie 1976, Aspect, Cambridge University Press
古田東朔1981 「外の人々から見たク語法」 『香椎潟』 26 福岡女子大学山田小枝1984 『アスペクト論』(三修社)
日本国語大辞典 第2版(2001 小学館)
山口佳紀2009 「家持歌『悲しけくここに思ひ出』考」 『美夫君志』 79号 『古代日本語史論研究』(2011 風間書房)に収録
金水敏2011 『文法史』(2011 岩波書店)
小田勝2015 『古典文法総覧』(2015 和泉書院)

ク語法の真実 その1 「言はく」は「言ふこと」か 背景

以下、2020年06月09日追記。

中高校生の皆さんは読まないでください。学校で教える古典文法と違うことが書いてあります。

これは萬葉学会という国内の小さな学会に、2016年に投稿して不掲載となった原稿を、漢数字を洋数字に変換してそのまま掲載したものです。そのため「三船」が「3船」や「思莫苦二」が「思莫苦2」などの誤変換がありました。様々な検索エンジンで上位に掲載されているようで頻繁にアクセスがあります。みっともないので今訂正しました。

企業の研究所に所属して論文を海外の学会誌に投稿していました。学会誌の査読の経験もあります。 学術論文とは何かを知っているつもりでした。日本物理学会や応用物理学会を通じて大学の先生方とも付き合いがありました。同じ研究者として対等に付き合えました。理系の研究はむしろ企業のほうが予算が多いのです。アメリカのベル研究所などノーベル賞をたくさん受賞しています。

しかし日本の文学部は全く違うculture(風土)なので驚きました。大学の教員たちが習った文法と違うというだけで「説得力がない」と言われました。学術論文は従来説と同じでは意味がありません。今まで誰も言わなかったことや気付かなかったことを書くからこそ意義があります。従来説の繰り返しでは論文ではなく解説記事です。それでは学問が進歩しません。

間違いがあるなら指摘して欲しいし、反証があるなら挙げてほしい。そう言いましたが、「説得力がない」「完成度が低い」の繰り返しです。理系の学会や人文系でも英語圏の学会は、論文の著者と査読者は対等です。査読者の主観で拒絶できません。どこが悪いかの理由を必ず示しますし、その意見に著者は反論できます。論文の審査は個人の主観ではなく客観的な事実や論理に基づいて行われます。しかし萬葉学会や上代文学会は大学の教員の主観的判断が絶対でした。このままではアイデアを盗まれるのではないかと恐れて原稿をそのまま公開しました。

ちなみに同時期に投稿した「ミ語法」の論文は他の学会に受理され、国立国語研究所の『日本語学論説資料』に転載されました。これは私の「ミ語法」の論文が正しいということではありません。従来説と違う説だから掲載され転載されたのです。学術論文とはそういうものです。他と同じ考えを書いても価値がありません。それは研究者のコミュニティの常識だと思っていました。

 以上、2020年06月09日追記。以下は2016年に萬葉学会に投稿した論文の漢数字を洋数字に変換してブログ記事の横書きで読みやすくしたものです。

 ク語法は活用語を名詞化する方法と言われる。「言はく」は「言うこと」、「良けく」は「良いこと」、「降らまく」は「降るだろうこと」と口語訳される。確かにそのように訳せば歌意は通る。しかし、正しい理解が合理的な訳文を導くことは確かだが、意味が通ることはその理解が正しいことを保証しない。

 万葉集に「なくに」の形のク語法が約150例(数え方が訓読に依存するため)ある。たとえば次の歌である。

1-1 み吉野の三船の山に立つ雲の常にあらむと我が思はなくに(思莫苦二)    万03-0244

 ク語法が単に活用語を名詞化するためであれば「思はぬに」でも良い。しかし、万葉集に「思はなくに」が約26首あるに対して「思はぬに」は約7首である。また、「あらなくに」が約45首に対して「あらぬに」は約1首である。この違いは何だろうか。

 「なくに」は詠嘆の余情を残すと言われる。それは現代人の感覚であるが、上代人も同じに感じたのだろうか。

 私事になるが、稿者は高校の英語の授業でhad betterとshouldを習った。前者は「したほうが良い」、後者は「するべき」と教わった。大学に入ってもそう思い続けていた。就職して数年後にアメリカの子会社を担当する部署に異動した。アメリカ人はshouldとは言うが、had betterとは言わない。日本人と違いアメリカ人は直接的な表現を好むのだろうと考えていた。しかし、しばらくして日本語の「したほうが良い」にあたるのがshouldであり、had betterは威圧的な表現だということを知った。相手の表情を見ながらする会話でさえ、had betterは柔らかい言い方、shouldはきつい言い方と思い込んでいると、疑いもなくそう感じてしまう。文字で読むことしかない万葉集では尚更であるまいか。

 活用語の名詞化というク語法の意味に現在まで異論はない。あるとすれば本稿だけだろう。しかし、成立については幾つかの説がある。『日本国語大辞典(第2版)』は以下の(イ)から(2)の説を紹介する。

 (イ)「四段活用・ラ変動詞・助動詞「けり」「り」「む」「ず」の未然形、形容詞には古い未然形「け」にそれぞれ接尾語「く」が付き、その他の場合には、終止形に接尾語「らく」が付き、助動詞「き」は例外として連体形に付くとする。体言的な意味をもつものが未然形に付くとする点や接続が統1的に説けない点などに問題がある。」

 (ロ)「活用語の未然形に、推量の助動詞「む」の零表記を媒介として、「こと」を意味する不完全名詞の「く」が付いたとする。活用語と「く」との中間における推量語の隠在または脱落を認めるには、なお、顕在の例、また音韻論的説明が必要である。」

 (ハ)「活用語の連体形に接尾語「く」が付くとする。その際、連体形の語尾が音変化することの説明が困難である。」

 (ニ)「活用語の連体形に形式名詞「あく」が付くとする。「恋ふるあく」が「恋ふらく」に、「寒きあく」が「寒けく」になどの変化は説明されるが、助動詞「き」に付いて「(思へり)しあく」が「せく」とならず、「(思へり)しく」となることの説明、「あく」が形式名詞として単独に用いられた証拠については、なお問題が残る。」

 その一つ一つを批判することを本稿はしない。ク語法の成立に立ち会った人はいない。各説はいずれも同じ意味を導くものである。定説となっているク語法の意味が正しければ、どの説もそれと整合するものであるから、その真偽を決定できない。もしも、定説の意味が間違いならば、いずれも間違いである。

 自然科学の世界では正しい理論は美しいと言われる。美しいとは数式が単純で対象性があることである。間違った理論は新しい発見のたびに修正を迫られる。そのたびに複雑化する。それまでの観測事実に合致させるためには、誕生した段階で既に複雑である。正しい理論ならば初めから単純であり、新しい発見があっても修正されることがない。そのように考えるならば、正しい理論は美しく、美しい理論は正しい、と自然科学者の多くが信じることに全く根拠がないわけではない。

 ク語法の成立の説明で一番単純なものは、連体形に「あく」という語が付いたとする説である。最初に唱えたのはAston 1877であり、次に唱えたのは大野晋1957である。この「あく」の意味をアストンは「あること」と推定した。大野説によれば「あく」は「ところ」や「こと」の意味だという。成立の説明という点から見れば両説は美しい。しかし、意味の上では、連体形だけで「こと」や「もの」の意味を表わせるのに同じ意味の語を重複させるのは美しくない。

 アストン・大野説を美しくするには「あく」が単なる「こと」の意味であってはならない。さらに、アストンのいうように「あ」が「あり」の「あ」、「く」が「こと」の「こ」であるのだろうか。また、「あくがる」の「あく」に「こと」や「ところ」の意味があるのだろうか。

 本稿の目的はアストン・大野説を美しくすることにある。
(つづく)

 最後に重要な注意点があります。ネットは著作権を放棄したと考える人もいるようですが、それは違います。また、著作権が放棄されたものならば無断引用は可能と考える人もいるようですが、それも違います。その点、十分にご注意ください。本ブログのすべての記事および本稿の著作権は著者である江部忠行が保有するものです。殆どの人にこのような注意書きが不要なのですが、ほんの僅かな人がいるために書かなくてはなりません。まあ、そういう裁判を起こせばこの研究が注目されるかもしれないというメリットはあります。

参考文献
Aston 1877 A grammar of the Japanese written language, 2nd ed. (古田東朔1981による)
Aston 1904 A grammar of the Japanese written language, 3rd ed. (カリフォルニア大学のサイトで閲覧)
有坂秀世1940 「シル(知)とミル(轉)の考」 『国語と国文学』 『国語音韻史の研究 増補新版』(1957 三省堂)に収録
有坂秀世1944 「国語にあらはれる1種の母音交替について」 『国語音韻史の研究』 (明世堂) 『国語音韻史の研究 増補新版』(1957年 三省堂)に収録
金田一春彦1950 「国語動詞の一分類」 『言語研究』(名古屋大学) 15     『日本語動詞のアスペクト』(1976 むぎ書房)に収録
金田一春彦1955 「日本語動詞のテンスとアスペクト」 『名大文学部研究論集』(名古屋大学) 10 文学 4 『日本語動詞のアスペクト』(1976 むぎ書房)に収録
大野晋1955 「万葉時代の音韻」『万葉集大成 6言語編』(1955 平凡社)
大野晋1957 「校注の覚え書」 『日本古典文学大系 万葉集1』(1957 岩波書店)
北條正子1973 『品詞別日本文法講座 10 品詞論の周辺』 (1973 明治書院)
井手至1964 「ク語法(加行延言)アクの説は悪説か」 『国文学 解釈と鑑賞』 29年11号
井手至1965 「万葉集のク語法」 『人文研究』 16(3)大阪市立大学
木下正俊1972 「なくに覚書」 『万葉集研究 第1集』(1972 縞書房)
Bernard Comrie 1976, Aspect, Cambridge University Press
古田東朔1981 「外の人々から見たク語法」 『香椎潟』 26 福岡女子大学山田小枝1984 『アスペクト論』(三修社)
日本国語大辞典 第2版(2001 小学館)
山口佳紀2009 「家持歌『悲しけくここに思ひ出』考」 『美夫君志』 79号 『古代日本語史論研究』(2011 風間書房)に収録
金水敏2011 『文法史』(2011 岩波書店)
小田勝2015 『古典文法総覧』(2015 和泉書院)

ク語法の真実 その0 萬葉学会の不掲載理由

ミ語法の論文をA雑誌にク語法の論文をB雑誌に投稿したことを以前書きました。どちらも2016年9月19日に郵送しています。日本国内ですから9月中に投稿先へ到達したはずです。そのうち萬葉学会へ投稿したク語法の論文が不掲載と決まりました。

不掲載の理由は以下です。


所見
論題:「言はく」は「言ふこと」か
評定:不採用

評言:本論はク語法の語構成を「活用語連体形+あく」と捉え、「あく」は四段活用動詞であって、「ものごとの存在が五感を通じてはっきりと知覚される」「その存在がはっきりと知覚される」意味があるとする。

そして、ク語法による名詞句を「~することは明確であるのに/明らかである」として情態副詞「明らかだ」節のように解釈している。

仮説としてアク接尾がもと四段動詞だと考え、その仮設された語義・語性からク語法の用例群を検証するという方法は誤りではない。

さらに、ク語法に対して明確な知覚の表明という、モーダルな意味があると捉える点は興味深い。

しかしながら、本論は仮設動詞アクの語義分析ではなく、ク語法という準体句相当の語法の解析を目指しているはずである。

文法上の名詞句の働きとして、構文上にモーダルな意味が付加されているのか、それともアクそれ自体の語義によっているのかが、本論では明らかではない。

さらに明確な知覚という場合、上代では、「世の中は空しきものと知るときしいよよ益々悲しかりけり」の副助詞「し」は副詞性助詞として「知れば知るほどに」と程度強調を表す例がある。

つまり明確に知られるという場合には、副助詞などによる「とりたて」が存在する。そうしたとりたて表現に対して、ク語法はどのように異なるのかを明らかにしないと、仮設動詞アクの語性を適用しても解釈可能だというだけでは新知見とは言いえない。

また形式名詞の有無に関わらず、明確ではない知覚(けっして朧気というのではない)すなわちplainな知覚に対して特立される形でなければ、「アク」によるク語法の価値がないから、それとの対比がどうしても必要になる。

意見としていえば、仮設動詞アクを想定することは、ク語法による動詞名詞句に具体的な意味傾向を付加することになるが、ク語法という文法的環境下ではその具体性は捨象されて準体句のあり方とは異なり、〇〇のような機能を負担するに至ったという形で改めて立論されるべきものと思う。


原文は改行されていませんが、モニタの上で読みやすくするために句点「。」ごとに改行しました。以下はこの決定と理由を受け取ってすぐに萬葉学会に送った反論です。二、三箇所誤字があったのでそこだけは訂正してあります。


××先生

お示しいただいた不採用の理由に対する意見を以下に記します。

                                        江部忠行

ク語法は用言を体言化する用法である、あるいは、アクという形式名詞が付加されたものであるという従来仮説と本稿が大きく異なるため、なかなか理解されがたいだろうと考え、異例とも言える大量の用例の検討を行ないました。

>本論は仮設動詞アクの語義分析ではなく、ク語法という準体句相当の語法の解析を目指しているはずである。

本稿はク語法の成立を明らかにすることが第一の目的です。仮定した四段動詞アクは終止形の場合と連体形の場合があります。連体形の場合準体句を形成しますが、準体句の場合も他の活用語の準体句に順ずるものであると考えた解釈を示しました。とくにアクの準体句だけに特別な用法があるとは思いません。「はっきりと知覚される」という意味の動詞の準体句と考えて何ら矛盾することころはありません。

>文法上の名詞句の働きとして、構文上にモーダルな意味が付加されているのか、それともアクそれ自体の語義によっているのかが、本論では明らかではない。

様相性(modality)の研究が盛んですが、言明が命題と様相とにはっきりと区分されはしません。様相性を表わすとする語のどこまでが命題の一部なのかどこからが様相を表わすのか区分できる研究者はいないと思います。事実数理論理学では命題に様相性演算子が付加されたものもまた命題です。命題と様相という区分は多分に便宜上のものと考えます。たとえば「に違いない」は様相を表わすと言う意見が一般的のようですが、これを命題の一部と捉えても何ら問題はありません。対応する英語のmustがあるからその訳語を様相性を表わす表現と看做しているに過ぎません。言語学における様相性(modality)は印欧語の直説法や仮定法などの法(mood)に準ずるものとして考えられたものですが、それと同じものが日本語にあるか否かは難しい問題だと思っています。

様相性について本稿は「アクが証拠性を担う助動詞であると断定してよいかは現時点で判断が付かない」と述べるに留めました。この証拠性はevidentialityの意味で使いました。日本語の様相性の問題は今後の課題としたいと思います。

アクの担う意味については用例の解釈の中で十分に示したと考えます。従来のク語法は用言の体言化という仮説では解釈が難しいものを解釈できたと思います。

>上代では、「世の中は空しきものと知るときしいよよ益々悲しかりけり」の副助詞「し」は副詞性助詞として「知れば知るほどに」と程度強調を表す例がある。

上代語の「し」の意味については十分に解明されていません。「知れば知るほど」の意味は「し」ではなく「いよよ益々」にあると考えるべきではないでしょうか。「し」の意味については、それを程度強調と捉える従来説に対して、別稿を用意しています。いずれにせよ、「し」の語義とアクの解釈は別の問題です。

>そうしたとりたて表現に対して、ク語法はどのように異なるのかを明らかにしないと、仮設動詞アクの語性を適用しても解釈可能だというだけでは新知見とは言いえない。

「し」が「とりたて」であるか否かを別にして、「とりたて」とアクが関連するとは考えていません。そのことは大量の用例の検討から明らかだと思います。ク語法が用言の体言化であるという従来説も、そう仮定すれば歌意が通じるという理由から定説と扱われているに過ぎません。しかし本稿の仮説は記紀万葉の歌や続日本紀宣命の散文の解釈に新たな境地を開いたと考えます。公開して研究者ならびに記紀万葉の愛読者の参考に供する意義は十分にあると考えます。

>形式名詞の有無に関わらず、明確ではない知覚(けっして朧気というのではない)すなわちplainな知覚に対して特立される形でなければ、「アク」によるク語法の価値がないから、それとの対比がどうしても必要になる

ク語法は用言を体言化するものであるという従来の仮説との対比は大量の用例の検討の中で十分に為されていると考えます。

>仮設動詞アクを想定することは、ク語法による動詞名詞句に具体的な意味傾向を付加することになるが、ク語法という文法的環境下ではその具体性は捨象されて準体句のあり方とは異なり、〇〇のような機能を負担するに至ったという形で改めて立論されるべきものと思う。

本稿ではアクが終止形の場合と連体形の場合の区別を検討しています。終止形の場合は準体句となりません。そのことが用例の解釈の上で従来説と大きく異なる結果を与えます。「具体性が取捨される」とは考えていません。あくまでも「明確に知覚する」という意味が程度の大小はあれ残存しています。

いずれにしましても、本稿はク語法の成立を明らかにすることを第一目的としております。その目的は十分に果されたと考えます。


あとで気付いたのですが、査読者の言う「plain」は英語本来の意味ではなく、査読者が仮説した意味のようです。おそらく「限定修飾語が付かない」という意味に査読者は解釈しているようです。また査読者の言う「モーダル」は様相(modal)とは異なる意味であって、仁田義雄氏などの提唱する日本語のモダリティの意味のようです。

査読者は

>仮説としてアク接尾がもと四段動詞だと考え、その仮設された語義・語性からク語法の用例群を検証するという方法は誤りではない。

と述べていますが、古代の未知の語の意味の推測にはその方法しか使えません。国語学の論文に特有な非論理的な推論の「その3」で述べましたが、意味を仮定して歌意が通れば良しとする方法を査読者は証明と考えているのでしょうか。このような非論理的な方法を用いるならば、国語学は学問ではなくなってしまいます。

査読者はまた、

>ク語法という文法的環境下ではその具体性は捨象されて準体句のあり方とは異なり、〇〇のような機能を負担するに至ったという形で改めて立論されるべきものと思う。

と述べていますが、これでは天動説に対して地動説の論文を提出したところ地球が静止していることを証明せよと言っているようなものです。査読者の信奉するであろう従来説はク語法を品詞の切り替えだけをし意味を失った形式名詞と見るものです。

しかし本稿で仮定するアクという四段動詞にそのようなsemantic bleachingが起こったとは考えていません(※)。

以前にも書きましたが、万葉集等の古典は学者の占有物ではありません。国民の財産です。その正しい理解を妨害するような査読は国民の権利を蹂躙するものと言っても過言でありません。

※ Semantic bleachingは意味の漂白と訳されます。しかし漂白は他動詞の語感が強い。意味の色落ちと理解すべきでしょう。現象としては、

0-1 学校へ行く

0-1の助詞の「へ」は「辺(あた)り」の意味の名詞から発達したと考えられていますが、もしもその仮説が正しければ、本来の「辺り」という意味を失って方向を示す文法機能だけを担うようになったことがsemantic bleachingです。

(つづく)

最後に重要な注意点があります。ネットは著作権を放棄したと考える人もいるようですが、それは違います。また、著作権が放棄されたものならば無断引用は可能と考える人もいるようですが、それも違います。その点、十分にご注意ください。本ブログのすべての記事および本稿の著作権は著者である江部忠行が保有するものです。殆どの人にこのような注意書きが不要なのですが、ほんの僅かな人がいるために書かなくてはなりません。まあ、そういう裁判を起こせばこの研究が注目されるかもしれないというメリットはあります。

2017年1月26日木曜日

国語学の学会というギルドと五円玉に働く念力

小学生の頃に見たテレビ番組です。五円玉の穴に紐を通して縛ります。長さは10-15cm。その端を指で摘まんで五円玉をぶら下げ、「動け、動け」と念を送り続けます。程なくすると五円玉が少しずつ動き始めます。番組の出席者は一同に驚いていました。

早速真似してやってみました。何もしていないのに念を送るだけで五円玉が動きます。次に紐をテーブルの端に固定して念を送ってみました。すると全く動きません。何もしていないのではなく、紐を支える手を本人が気付かないほど僅かに動かしていたのです。それが積み重なって五円玉が動き出すという仕掛けですが、紐の長さも重要です。それで固有振動数が決まります。

このブログに発表したズハの論文、A雑誌に投稿したミ語法の論文、B雑誌に投稿したク語法の論文ともう一本の論文の合計四本の論文を、大学の国文科を卒業して高校で古文を教えていた知人に読んでもらいました。知人は嬉しい指摘と残念な指摘の両方をしてくれました。前者は論文としての水準が高いこと、後者は掲載される可能性が非常に低いことでした。水準が高く、かつ、従来の定説を覆す論文の著者が外部の人間であれば、国語学の雑誌に認められるはずがないのだそうです。

その意見を聞いたときの私の気持ちは半信半疑でした。それまで所属していた(今も所属している)学会では考えられないことだったからです。しかし知人はいくつかの実例をあげてもくれました。知人はガラパゴス化という言葉を使いましたが、ギルドと私は感じました。既得権益を部外者に渡さないための排他的な団体という意味です。

多くの学会ではギルドを作ろうとしても作れません。発表の場は世界中にあります。日本の学会が外部の人間の論文を掲載しなかったら、その著者は海外の雑誌に投稿すれば良いのです。しかし知人がガラパゴスという国語学に限れば、発表の場はほぼ国内に限られます。国際的な研究が為されている学会ではあれば、そのようなギルドは維持できませんが、国語学会のような国内に限られた学会であれば維持できます。

とすると、問題は学会の各会員がギルドの維持を目指す行動をするか否かになります。私が今まで参照した国語学の学会誌の「日本語の研究」、「国語学」、「萬葉」、「国語と国文学」、「国語国文」に掲載された論文の著者は、
① 大学の国文科などの教員
② 国文科の学生や院生
③ 国文科卒で中学高校などの教員
に限られます。もちろん、掲載されたすべての論文を調べたわけではありません。漏れもあるでしょう。しかし今まで読んで論文については大部分が①、稀に②、更に稀に③でした。

今まで所属していた(今も所属している)理系の学会の場合は著者の大部分が企業の研究者です。実験を行なうには高価な設備と機器が必要です。その点で企業が有利だからです。大学に限れば、これも予算の関係でしょう、旧帝大の教員と学生が圧倒しています。寺田寅彦氏や中谷宇吉郎氏の時代のような予算を使わない研究をしているのは、国内ならば予算が少ない大学の研究者、海外ならば名前が東欧風や中国風の研究者に多い。

国語学の研究のうち雑誌に発表されるのは大学関係者のものが殆どです。それ以外の著者の論文を少なくとも私は読んだことがありません。しかし、萬葉学会や日本語学会の会員のうち文学部以外の卒業生はどれだけなのか、彼らの投稿数はどれほどなのか、その数字もゼロなのでしょうか。

私は自分が書いた論文について、海外の見知らぬ研究者や学生から別刷りを送って欲しい、引用文献の写しが欲しいなどの依頼を受けるのは珍しくありませんし、初対面の大学の先生や他企業の研究者に電話で問い合わせをしたことが何度もあります。いずれも親切に対応してもらいました。同じことを国語学の大学教員に対して行なったことがありますが、「私の論文は各大学の図書館が所蔵していますから近くの大学に問い合わせてください」のような、今までの自分の中の常識から言えば不親切極まりない対応ばかりでした。理系の研究者であれば自分の研究を知って欲しいと考えているので、特にお願いしていないにも関わらず論文集や論文の別刷りを送っていただくことも頻繁にありました。

その違いについて件の知人に尋ねたところ、それが国語学の教員の外部の人間に対する当たり前の態度であると言われました。私が問い合わせをした人たちがとくに変わっていたわけではなく、一般的な対応なのだそうです。自分たちの研究は非常に専門性が高い、ゆえに外部の人間の理解するところではない、ゆえに相手にするのは無駄な時間である。そのように考えているのでしょうか。

理系の学問の世界に非専門家が入っていくことは困難です。専門的な教育が担うのは知識の養成だけでなく、数学などの論理的な思考の訓練を含みます。前者は本から知識を得られますが、後者はスポーツや楽器演奏の実技のようなものです。誰かコーチがいないと出来ません。問い合わせをする人は同じ専門家に限られます。だから親切に応じるのでしょうか。

一方、万葉集や源氏物語は専門教育を受けていなくても読めます。それゆえ非専門家が参入することがあり得ます。また海外から問い合わせが来るなどということは滅多にありません。見知らぬ人に慣れていないから、そして見知らぬ人は非専門家に限られるから、閉鎖的になるのでしょうか。あるいは次のようなこともあるのかもしれません。

文学と科学技術の間に相互理解がないことは、C. P. Snowが1959年のThe Two Culturesで指摘しています。しばしば引用されるという箇所を私訳します。


ある集まりによく出席していた。参加者は、伝統的な文化の基準では、皆教養のある人たちとされる。彼らの格好の話題に、科学者は信じられないほど本を読まないというのがあった。一二度挑発的な質問をしたことがある。「あなた方のうち何人が熱力学の第二法則の定義を言えるのですか」と。無視されたり否定されたりした。だが、科学の世界では、この質問は「シェイクスピアを読んだことがありますか」と同じなのである。

今にして思えばもっと簡単な質問をすれば良かった。たとえば、「質量や加速度の意味がわかりますか。これは科学の世界では字が読めますかと同じなんですよ」と。そうすれば、その教養のある人たちの、せいぜい十人に一人には、私の言葉の意味が通じただろう。物理学の巨塔は日々成長を続けている。西洋の知識人でも、その大多数が見通せる度合いは、新石器時代のご先祖と変わらないのである。


文学部の人たちが理系の学部の人は本を読まないと指摘するかもしれませんが、理系の学部の人たちが文学部の人は科学を知らないということはありません。個々の場合ごとに考えれば良いことです。無理に一般化する必要がありませんし、一般化が可能でもありません。もしも文学部の卒業生が理系の学会誌に論文を投稿した場合、学歴や職歴は査読に影響しません。論文の内容だけで判断されます。展開される推論に誤りはないか、結論に新規性はあるか。論点はそれだけです。今まで誰も言わなかったことを正しい推論で述べていればその論文は受理されます。

その逆はどうなるか。国語学に特有の非論理的な推論で指摘してきたように国語学の論文には感性(感情)に基く推論が用いられます。そのような論文が査読を通るということは査読する人たちも非論理的な推論をするということです。国語学は本来は科学ですが、現状は文学や芸術の仲間なのでしょう。論理ではなく感性(感情)に基く判断や推論が為されます。そのような判断は客観性に欠けることは言うまでもありません。

日本語学会の投稿規定に投稿原稿査読の二重秘匿性という項目があります。「と思われる」式の非論理的な推論が主体であれば、査読結果が査読者の感性(感情)の影響を強く受けるのは仕方のないことです。そのような影響を避けるには、不掲載の場合の理由を明らかにして投稿者との間で意見交換を行なう理系の学会で一般に用いられている方法にすべきではないでしょうか。国文学が感情的な判断であることを否定しませんが、国語学は言語学であって自然科学あるいは社会科学に属する分野です。そこに非論理的な推論を持ち込むことに問題があります。

文学部の卒業生が理系の論文を投稿しても学歴が文学部卒だからという理由で拒絶されることはあり得ません。査読者は論文の新規性と推論の妥当性だけを見るからです。一方、他学部の卒業生が国語学の論文を投稿した場合はどうでしょう。査読者の中にSnowが指摘するような「科学者は信じられないほど本を読まない」ことをしばしば話題にする学風(culture)があれば、必要以上に問題点を探そうとするかもしれません。また、その問題点の指摘に非論理的な「と思われる」式の推論を用いるかもしれません。逆に投稿者が専門家であれば、問題点を探そうとする努力が必要に満たないかもしれません。問題点が認められても非論理的な推論の結果見逃すかもしれません。

非専門家だから間違いがあるはずだと思って読めば、間違いでないものを間違いとしてしまうのは、冒頭で述べた五円玉の振り子に念を送る話と同じです。専門家だから正しいと思って読めば、間違いであっても間違いでないとしてしまうかもしれません。これも五円玉の振り子と同じです。

非専門家に古典文学は理解できないという間違った思い込みと、「と思われる」式の非論理的な推論があいまって、結果として国語学の学会をギルドにし、投稿された部外者の論文を不掲載としてきたのではないでしょうか。知人の言うことは、そのような歴然とした悪意はなくとも、結果としてそのような状況を作り上げているという点で正しかったと思うに至りました。

2017年1月16日月曜日

国語学の論文に特有の非論理的な推論 その5 現代語を基準とする時としない時

橋本進吉(1951)はこのブログでも取り上げたズハの語法の起源を助詞の「は」がない形に求めます。磐姫の歌とされる

5-1 かくばかり恋ひつつあらずは高山の磐根しまきて死なましものを 万03-0086

の表現の原形は

5-2 かくばかり恋ひつつあらず高山の磐根しまきて死なましものを

であったと述べます。同論文は次の例をあげています。なお、「治る」でなく「直る」は原文のままです。

5-3 手術しないでは直らない。
5-4 手術しないで直らない。

両者の違いは助詞の「は」の有無です。橋本氏は「は」の役割を「手術しないで」が連用中止法でなく修飾語であることを明示するためのものだと述べます。連用中止法とは9-3のように連用形で一旦文が切れる用法です。

5-5 手術しないで、(そして)治らない。

助詞の「は」がないと5-4は5-5の意味とも解釈できます。そのような誤解を防ぐために「手術しないで」が「治らない」を修飾していることを明示するのが「は」の目的だと橋本氏は述べます。

5-3と5-4は同じ意味か、5-3の助詞の「は」の役割は単に5-5と混同されることを防ぐだけか、という疑問が生じますが、それは別途検討します。ここでは橋本氏の主張が正しいものとします。しかし、それでも問題が残ります。上代語の「ず」と現代語の「ないで」、上代語の「は」と現代語の「は」、上代語の「ずは」の結合と現代語の「ないでは」の結合がすべて同じ意味だという保証がありません。同論文は以上のことを自明の如く扱いますが、そうであるという保証はありません。

同論文の別の箇所から引用します。

「  苦労をせずに金をまうけたい。

の如き希望を表はす文に於ては

  苦労をせずには金をまうけたい。

といって「苦勢をせず」といふ条件を特にきはだたせる事は出来ないのである。しかるに問題の歌の「は」は、後の例に於ける「は」と同等の用法であって、古代に於てはかやうな場合にも打消の場合と同等に「は」が用ゐられたものと見られるのである。」

同論文は現代語で「苦労をせずには金を儲けたい」と「は」を挿入できないが、上代には「かくばかり恋ひつつあらずは」のように「は」を用いて語尾を願望で結ぶことができたとする仮定を新たに提案しています。

なお、「見られるのである」とは「判断される」「理解される」の受身の意とも「見ても良い」の可能の意ともとれますが、判断されるという受身は自明でありません。であれば仮定の追加です。

最初の引用箇所では、上代語の「ず」、「は」、「ずは」が現代語訳と完全に同じ意味かどうかの保証がないにも関わらず、あるかの如くに扱い、今度は上代語と現代語は違って当然と扱う。どちらも簡単には答えが出せない問題です。ですが、一言も触れぬまま、同じであることが自明、同じでないことが自明と決めてしまっています。

橋本進吉氏のような「石橋を叩いて渡らない」と評される慎重な研究者でもこのような他の分野の研究者の目には乱暴な推論をしています。これ以上の例を他の論文からあげることはしませんが、国語学ではこのような例は珍しくありません。


引用文献
橋本進吉(1951) 「上代の国語に於ける一種の『ずは』について」 『上代語の研究』 (1951 岩波書店)

2017年1月15日日曜日

国語学の論文に特有の非論理的な推論 その4 強意と詠嘆

日本語の古典文法に登場する特有の意味に強意と詠嘆があります。現代語に強意の助詞や詠嘆の助動詞はあるでしょうか。外国語の文法に強意や詠嘆という言葉は登場するでしょうか。

大野晋(1993)の173ページに次の記述があります。


各種の文法書または辞書を見ると、シまたはシモを「強調」の助詞だと説明している。しかし、考えてみると、最近の古典日本語の文法書は「強調」という用語、何でもかでも押しこめる傾きがある。コソも強調、ゾも強調、ナムも強調、テも強調、ヲも強調、ニも強調、ドモも強調・・・・・・、何でも強調の一語でそれを覆う。強調でもよいが、それならば強調の中で、ナムとヲとニとの間にはどんな違いがあるのかが説明されなくてはならない。ところが何もかにも強調の一語で終りとする。それでは対象は何ら明らかにされない。シまたはシモは、もし強調とすればどこにその特質があるのか、そのことを追究することが必要である。


それよりも、そもそも強調や強意と呼ばれる意味の語が本当にあるのでしょうか。現代語でも「こそ」は使われます。

4-1 今こそ実行すべきだ。

この「こそ」は今」を強調しているのでしょうか。今より前でもなく今より後でもない、丁度今という意味です。今以外を排除する意味があります。

4-2 あの人は愛想こそ良いが何を考えているかわからない。

この「こそ」は「だけは」で言い換えられます。

4-3 あなたこそ不満があるんじゃないですか。

この「あたなこそ」は「むしろあなたに」で言い換えられます。これら1-1から1-3の「こそ」に共通する意味は「それ以外の排除」のようです。更に多数の例文を検討すれば「こそ」の本質に迫れるかもしれません。少なくとも「強意」とは言い切れないようです。

4-4 籠もよ み籠持ち 掘串もよ み掘串持ち この丘に 菜摘ます児 家聞かな 名告らさね そらみつ 大和の国は おしなべて われこそ居れ しきなべて われこそ座せ われこそは 告らめ 家をも名をも


ねえ。ああ…よ。▽強い感動・詠嘆を表す。

と説明しています。もちろん、「ああ、籠よ、素晴らしい籠を持ち」と現代語訳しても状況と大きく矛盾しませんが、かと言って、現代人の若者が初対面の娘の持ち物を見て、そう言うでしょうか。「おや、良い籠をお持ちですね」ぐらいではないかと思います。本当に強い感動を表わすのでしょうか。

4-5 男もすなる日記といふものを、女もしてみむとてするなり 土佐日記

「すなり」と「するなり」の二つの「なり」がありますが、前者の終止形に付く「なり」は「音がする」の意味であり、そこから伝聞・推定を表すとされます。ただし、それは今日の理解であって、戦前は「詠嘆」の意味とされていた時期もありました。

古語辞典や古典文法書には多用される「強意」や「詠嘆」は他の言語の辞書に(すべての言語を調べたわけではありませんが)あまり用いられません。自然言語の中に、そもそも強意や詠嘆の意味の語が発生しうるのでしょうか。

強意と仮定すれば歌意が通る。詠嘆と仮定すれば歌意が通る。そのような論理的と言えない推論の結果、強意や詠嘆の意味が割り当てられてしまった語があるのではないでしょうか。

私は今まで「強意」や「詠嘆」とされた表現を幾つか検討しましたが、そのうちのいくつかはそのような意味がないらしいこと(※1)を示しました。

※1 回りくどい言い方ですが、未知の単語の意味の解釈は仮説と検証という方法を取らざるを得ず、絶対にこうであるという証明ガ不可能なのです。


参考文献
大野晋(1993) 『係り結びの研究』 (岩波書店)

2017年1月14日土曜日

国語学の論文に特有の非論理的な推論 その3 歌意が通ること

国語学の論文ではしばしば歌意が通ることで未知の語の意味を証明したかのような記述があります。国語学の論文に特有の非論理的な推論に述べましたが、願望の助詞とされる「な」について濱田敦(1948a)に次の記述があります。


この「な」は例へば、
いざあぎ振熊が痛手負はずは鳰鳥の淡海の海に潜き潜き勢那和   古事記歌謡38
此の丘に菜摘ます児家吉閑名告らさね   万01-0001
の如く、上に述べた「ずは」と云ふ形に伴はれて現れ、又「ね」と相対照して用ゐられてゐる事などから、この「な」が願望表現である事が容易に理解せられるであらう。


最初の古事記歌謡は振熊の軍勢に追われ、勝ち目がないと悟った忍熊皇子が入水する直前に詠んだものです。敗戦は避けようがない。ならば、敵の手にかかるよりは、と考えた結果の入水でしょう。その次は万葉集の冒頭を飾る有名な雄略天皇の御製です。この丘で菜を摘んでいる娘は素敵な籠と素敵な掘り串を持っていると述べ、続けて「家聞かな。名のらさね。」と歌います。

願望というのですから濱田氏はおそらく「鳰鳥の淡海の海に潜き潜きせなわ(勢那和)」を「カイツブリのように琵琶湖に入水したい」、「家聞かな」を「家を聞きたい」と解釈したのでしょう。

歌意が通るというのは、その場の状況に整合する、矛盾しないという意味です。飛び込もうと思えば飛び込める状況で「入水したい」、聞こうと思えば聞ける状況で「聞きたい」と言うでしょうか。不自然です。もっと相応しい意味がありそうです。

前回も書きましたが、水の入ったコップを手にする人が「水が飲みたい」と願望するでしょうか。そのような感情を意識する前に水を飲んでいます。もしも願望であれば、水を飲むのに誰かの介助や許可が必要など、自分の意志だけで飲めない場合です。上記の二例も願望する状況であり得ません。状況に整合しないのですから、歌意が通るとは言えません。

もしも歌意が通ったとしても、それはその状況で発話される多数の可能性の一つというだけであって、「家聞かな」と「家を聞きたい」が同じ意味である保証はありません。

前回の国語学の論文に特有の非論理的な推論 その2 感性の国のアリスに国語学の論文の「歌意が通るならば語の解釈の仮定が正しい」とする推論と数式の「両辺の値が同じならばXの値の仮定が正しい」とする推論は意味が大きく異なると書きました。数式の場合は

X - 3 = 1


X = 4

を代入すれば両辺は同じ値になります。左辺も右辺も数値を表します。だから等号で結べるのです。しかし

「家聞かな」=「家を聞きたい」

という等号が成立する保証はありません。左辺と右辺の意味が同じかどうか確定しません。右辺の意味を仮定しても状況に整合する、矛盾しないというだけです。それが国語学の論文の推論と方程式の解法との違いです。両者を混同してはいけません。

未知の語の意味は演繹で求められません。それが可能なのは絶対的に正しい辞書がある場合に限られます。 しかし語が未知であればそのような辞書が存在し得ません。演繹で求められないならば仮定と検証に基く推論以外に語の意味を知る方法はありません。

もしもこの「な」が願望を表わすならば、すべての「な」について願望の意味が状況と整合しなくてはなりません。しかし願望で統一して解釈できないことが分かっています。そのために小学館の『日本国語大辞典 第二版』 や三省堂の『時代別国語大辞典 上代編』をはじめとする国語辞典、古語辞典はこの「な」を主語の人称で場合分けして、願望、意志、決意などを表わすとしています。

あたかも天動説が惑星の運動を説明するために新たな仮説を付け加えたのと同じです。「な」の意味に関する仮説は複雑化しています。

これに対して本居宣長(1785)は現代の国語学者より科学的な方法を用いています。宣長は「な」を一律に「む」と同じ意味だとする仮説を提出しています。ただしその方法は例外が生じます。宣長はその例外について誤字を疑っています。一つの仮説で一律に説明できれば良いのですが、できない場合に新たな仮説を追加するよりは、データの再検討を考えるほうが科学的とは言えます。


参考文献
本居宣長(1785) 『詞の玉緒』 『本居宣長全集 第5巻』(1970 筑摩書房)
濱田敦(1948a) 「上代に於ける願望表現について」 『國語と國文學』 25(2)
『時代別国語大辞典 上代編』 (1967 三省堂)
『日本国語大辞典 第二版』 (2001 小学館)

 

2017年1月13日金曜日

国語学の論文に特有の非論理的な推論 その2 感性の国のアリス

アリスは裁判の証人として呼ばれますが、王様がアリスを退廷させるために急遽法律を作ります。王様の非論理性が暴かれる太字の部分に私訳を付けました。

At this moment the King, who had been for some time busily writing in his note-book, cackled out ‘Silence!’ and read out from his book, ‘Rule Forty-two. All persons more than a mile high to leave the court.
「決まりの42番。身長1マイル以上のものは皆退廷すべし。」
Everybody looked at Alice.
‘I’m not a mile high,’ said Alice.
‘You are,’ said the King.
‘Nearly two miles high,’ added the Queen.
‘Well, I shan’t go, at any rate,’ said Alice: ‘besides, that’s not a regular rule: you invented it just now.
「その上、それはちゃんとした決まりじゃない。今作ったんでしょ。」
It’s the oldest rule in the book,’ said the King.
「法律集で一番古い決まりだ。」
Then it ought to be Number One,’ said Alice.
「だったら、決まりの一番のはずよ。」
The King turned pale, and shut his note-book hastily. ‘Consider your verdict,’ he said to the jury, in a low, trembling voice.

Alice's Adventures in Wonderland by Lewis Carroll
CHAPTER XII. Alice’s Evidence

国語学の論文に特有の非論理的な推論に他分野の研究者が国語学の論文を読むときにしばしば遭遇する非論理的な推論について書きました。他分野の研究者はちょうど今引用した箇所のアリスのような気持ちになります。なぜ「決まりの42番」が「一番古い決まり」なんでしょう。

国語学の論文にしばしば現われる非論理的な推論の一つに後件肯定(affirming the consequent)があります。

カラスならば黒い。

から

黒いならばカラスである。

と結論してしまうことです。逆は必ずしも真ならずです。国語学ではこの非論理的な推論がしばしば未知の語の意味の決定に用いられます。つまり、

語の解釈の仮定が正しいならば歌意が通る。

から

歌意が通るならば語の解釈の仮定が正しい。

と断定してしまうのです。これが言えないのは当然ですが、しばしば証明のように扱われます。国語学の研究者の多くはこのような推論が次のような数学の推論と同じだと考えているようです。

X - 3 = 1

ここでX=4と仮定して上の式に代入すると

4 - 3 = 1

X=4であるとした仮定は正しい。したがってX=4である。

上の「歌意が通るならば語の解釈の仮定が正しい」と下の「両辺の値が同じならばXの値の仮定が正しい」は意味が大きく異なります。これは意外と難問かもしれません。次回正解を示します。それまでに考えておいてください・

では、なぜ国語学の論文に非論理的推論が多用されるのでしょうか。それは論文を書く人も査読する人も普段論理を用いないからです。何度も繰り返しますが、論理的であることと頭が良いことは別です。普段論理的な思考をしないでいると論理的にものを考える力が退化して行きます。思考力は筋肉と同じです。使わなければ衰えます。
文学は絵画や音楽の仲間です。理系の学問や法学や経済学と違い、論理より感性が優先されます。ただし、美大の先生は絵画や彫刻を作り、音大の先生は作曲や演奏をしますが、国文科や英文科の先生は普通は自分で詩や小説を書きません。もっぱら鑑賞するだけです。

文学部の先生方は研究対象の詩歌や小説戯曲の中に論理を追うことが稀です。言葉や表現が与える印象に敏感な代わりに、論理に鈍感になっているのではないでしょうか。

そう考えるとAlan Sokalの悪戯の論文がなぜ雑誌の査読を通ってしまったかも理解できます。哲学も文学同様に論理ではなく感性に頼る判断を行なっていたとすればどうでしょう。だから、難解な専門用語や数式や外国語の持つ印象に惑わされ、そこにある論理の誤りを見抜けなかったのではありませんか。

論理が主体の学問分野であれば、読者が追うのは論理の流れだけです。そこに難解な専門用語や外国語が使われていたとしても、それに目を奪われることはありません。推論が論理的かどうかだけを判断します。これに対して、感性が判断を決定する分野では、論理の流れではなく、使われる単語の印象が重要な役割を演ずるのではないでしょうか。だからSokalの悪戯が通ってしまったのではないでしょうか。その論文はインターネット上に公開されていますが、学生が見ても容易に間違いを指摘できるものです。


同じ文章を読んでも、論理で判断する習慣のある研究者は論理の流れを見、感性で判断する習慣のある研究者は文章表現の効果や使われる単語の与える印象に反応してしまう。それがSokalの論文の誤りを見抜けなかった理由ではないでしょうか。

もう一つ付け加えるならば、理系(や恐らく法律などの分野)の研究者は文章の意味は理解できて当たり前と考えます。多義的な表現に出会うことは滅多にありません。そしもあったとすれば書き手の責任ですし、また、その前後を読めば多義性は解消されます。ましてや即座に理解が出来ないような比喩が用いられることはありません。文章が伝える内容は明解であり、難解な部分があるとすれば、その伝える内容がどのような推論でもたらされたかが、途中の省略が多すぎるなどの理由で即座に思い付かない場合です。

一方、文学の場合、多義的に解釈できることがしばしばあり、何らかの比喩表現と推測されても、その比喩が何を表わすかが分からない、あるいは確定しないことがしばしばあります。論語のような哲学書には長い注釈が必要です。その意味が言語が表面的に伝えるものとは大きく違うことも珍しくありません。分からなくて当たり前の世界です。そうであれば、論理を追うことを諦めるのかもしれません。一方、分かって当たり前の世界に住んでいれば、論理が追えれば理解できるのですから、とことん論理を追おうとします。

知人が内田義彦氏の著作を紹介してくれました。氏は経済学史が専門ですが、難解な専門用語の使用が経済学を分かり難くしているとし、外来語や専門語の不必要な使用を戒めています。しかし、理系の学問の場合、難解な用語を使ったために、推論の誤りが隠蔽されることはありません。読者は論理の流れだけを見ていて、用語の難解さに惑わされないからです。そう考えて、ひょっとすると経済学は感性の学問の部分があるのではないかと思い至りました。哲学も、本来は論理を考える学問だったものが、何時の間にか感性の学問になってしまったのではないか。そのように考えていくうちに、Sokalの悪戯が通ってしまったことの理由を理解できました。

2017年1月12日木曜日

万葉集は誰のものか 日本語は誰のものか

万葉集や源氏物語などの日本の古典は日本語話者全員が共同所有する財産です。日本語という言語もそうです。一部の人たちの占有物ではありません。日本の古典には日本の自然や古代の日本人の文化が描かれていることから、国民の財産と言い替えても良いでしょう。

何をそんな当たり前のことをと思う人も多いでしょう。日本の古典や日本語が日本語話者や日本国民の財産であることに異論はないはずです。

万葉集など上代の言語にはよく分からないことがたくさんあります。ク語法やミ語法の意味はわかっていません。このブログでとりあげたズハの語法の意味もわかっていません。国語学の論文に特有の非論理的な推論に少し書きましたが「今は漕ぎ出な」の「な」の意味もはっきりしません。

一方国語国文系の学会事情に詳しい知人は、従来説を覆すような説を部外者が論文に書いても掲載される可能性は非常に低いだろう、と言います。もしもそれが事実であれば、悪意の有無は別にしても、国民の財産である古典文学の意味を国民が知ることを妨害する行為と言えます。

理系のある学会の論文誌の査読を頼まれたことがあります。編集委員は今までにない新しい説なのでぜひ掲載したいと言います。最初に査読した人の結論は棄却だったのですが、その人が通すかもしれないと私の名前をあげたそうです。今までにない説であれば、途中の推論が妥当であればですが、ぜひ自分たちの雑誌に掲載したいと考えるのは当然です。

国語系の学会も同じと思っていたのですが、もしも外部の人間が新説を投稿しても掲載しないとすれば、理系の学会とは別な文化がそこにあることになります。理系の学会は国語系の学会の基準で言えば、論文の著者の大部分が外部の人間です。世界中で同じテーマが研究されています。日本の学会だけが内部の人間のためのギルドになったとしても、ギルドの効果は発揮できません。外部の人間の投稿を拒絶すれば彼らは外部の別な論文誌に投稿します。しかし国語系の学会ではギルドが有効に機能します。研究の殆どが日本でしか行なわれていないからです。

以上はあくまでも仮説です。ギルドがあると仮定しても、それは理系の学会では機能しえませんが、国語系の学会では十分に機能することは確かめられます。このブログをお読みの方々の中にも国語系の学会から見れば「外部の人」となる方があるはずです。もしも国語学の学会が新しい説を推論が妥当であるにも係らず拒絶したとすれば、それは国民の共有財産の私物化になりはしないでしょうか。前回とりあげた法廷で争われた査読の妥当性に新たな判例を追加することになるでしょう。古典文学や日本語は一部の学者たちのものではなく日本語話者や日本国民の共有の財産だからです。

なお前回の記事で重要なのは論文の著者と審査した学会のどちらが勝ったかではなく、裁判所が査読の方法に一定の基準を示したことです。もしも意図的に外部の人間を排除するギルド的な査読が行なわれるとしたら、その学会は論文の著者だけでなく財産の所有者である国民全員の権利を妨害したことになります。