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2017年2月18日土曜日

「ちょっと疲れました」

οἷς οὖν οὕτω δέδοκται καὶ οἷς μή, τούτοις οὐκ ἔστι κοινὴ βουλή, ἀλλὰ ἀνάγκη τούτους ἀλλήλων καταφρονεῖν ὁρῶντας ἀλλήλων τὰ βουλεύματα. 

これを信じる人と信じない人話し合いの接点はなく、それぞれの考えにおいて必ず互い見下すことになる

プラトーン(※)の「クリトーン」(※)からの引用です。

※ 大学の教養課程でギリシア語を履修したので母音の長短を区別しないと気がすみません。誰だって自分の名前を間違って発音されると嫌でしょう。日本語訳はリンク先のサイトが単語や文法を解説しているので、それを参考にしました。

ミ語法やク語法の論文を書くまでは国際的な科学の学会誌への投稿しか経験しませんでした。日本語の論文を書くのも初めてでした。それまで常識だと思っていたことが国語学の学会では常識でないことに気付きました。

国際的な学会では著者と査読者は対等です。大人が大人の論文を評価するのですから当然です。査読者(reviewer)が不受理(reject)と判断した場合編集委員(editor)は著者(author)にその理由を知らせます。著者は査読者に誤解があれば(あると思えば)指摘しますし、理由に間違いがあれば(あると思えば)反論します。しかし国語学の世界で査読者は不可謬と考えられているようです。不受理と決まった場合通常は理由を知らせないのだそうです。国際的な学会の常識から見ればとても信じられません。しかし国語学の学会から見れば、おそらく理由を知らせるほうが非常識なのかもしれません。

国際的な学会、理系の学会しか経験しなかった私が、日本国内だけの学会、文学系の学会に論文を投稿し、その反応を見て、今まで常識だと思っていたことが、国語学という未体験の世界では常識でなかったことを知りました。恐らく、国語学の学会の人たちも私の常識が理解できないかもしれません。二つのcultures(校風や学風などの風に近い)の常識がぶつかり合いました。

文学と科学技術の間に相互理解がないことは、C. P. Snowが1959年のThe Two Culturesで指摘しています。有名な箇所を引用して私訳を付します。


A good many times I have been present at gatherings of people who, by the standards of the traditional culture, are thought highly educated and who have with considerable gusto been expressing their incredulity at the illiteracy of scientists. Once or twice I have been provoked and have asked the company how many of them could describe the Second Law of Thermodynamics. The response was cold: it was also negative. Yet I was asking something which is the scientific equivalent of: Have you read a work of Shakespeare’s?



ある集まりによく出席していた。参加者は、伝統的な文化の基準では、皆教養のある人たちとされる。彼らの格好の話題に、科学者は信じられないほど本を読まないというのがあった。一二度挑発的な質問をしたことがある。「あなた方のうち何人が熱力学の第二法則の定義を言えるのですか」と。無視されたり否定されたりした。だが、科学の世界では、この質問は「シェイクスピアを読んだことがありますか」と同じなのである。


C. P. Snowが指摘するのは文系と理系の違いではなく、文学という感性の学問と科学という理性の学問の学風(cultures)の違いでしょう。法学や経済学は後者に含まれます。前者の仲間は音楽や美術や演劇などです。「ダメよ~ダメダメ」や「ラッスンゴレライ」が面白いかどうかは論理で決められません。判断する個々の人の感性の問題です。多数決を取るにしても、権威とされる人物の判断は他の人の意見の何倍や何十倍の価値を持ちます。加重多数決と書いたのはその意味です。

タイトルは現在の私の気持ちでもありますが、少し前に萬葉学会とのやりとりで先方の担当者(編集委員?)から言われた言葉です。人間は他人から理解されない場合、意見が否定された場合、最初は相手を説得しようと試みますが、それが難しいとわかると相手を無視する言動をとります。実験心理学と言うと、日本では動物を対象とすることが多いのですが、アメリカは人間を用いた実験を平気で行なってきました。そのお陰で、そのような人間の行動が明らかにされました。しかし実験は人類が薄々気付いていたことを確認しただけです。最初に引用したようにプラトーンがソークラテースの言葉として伝えています。

もちろん私も何故こんな常識が通じないのだろうと考えてはいました。さすがに「疲れた」などとは書きませんでした。それは国際的な学会の中で様々な考えの人がいることを見聞きし、様々な常識がぶつかり合うことを経験したからでもあります。他人と理解しあうには時間が掛かることを実体験として知っています。国語学の研究者の主体は大学の教員です。普段「先生」と呼ばれ、知識や思考力で劣る学生を相手にしていることも関係しているのでしょうか。自分が正しく相手が間違いであるという結論に到達する速度が速いのかもしれません。

国語学は言語学の一分野です。言語学は経験科学です。したがって感性ではなく論理で判断されるはずです。しかし大学の教育制度では国文学と国語学は同じ学科です。今まで「国語学の論文に特有の非論理的な推論」を連載してきました。現象を記述しましたが、何故そのような推論が行なわれるかを述べませんでした。

新聞の短歌や俳句に応募して不採用になったとしても理由を知らされません。文学賞に応募しても同じでしょう。文学や美術、音楽の評価は個人の主観に依るからです。「ダメよ~ダメダメ」が何故面白いか、あるいは面白くないかは論理で説明できません。短歌や俳句や小説が不採用だとしても、その理由を論理的に示すことはできません。感性の問題ですから、反論を許せば永遠の水掛け論になるでしょう。

国語学は本来は言語学という経験科学ですが、事実上は国文学に属し、国文学の感覚的な理由付けで論文が書かれてきたのではないでしょうか。そう考えると、国語学の論文の非論理性の理由がわかり、萬葉学会の査読者の思考の辻褄が合います。「思われるから」という主観を前提とした推論は国文学の研究者由来のものでしょう。「理由無き断定」も感性に基く判断だからでしょう。「逆は真なり」はさすがに芸術でも許される論理ではありませんが、それは研究者たちが論理の訓練を怠ったからです。萬葉学会の査読者は、流行のモダリティを取り入れた論文で雑誌を飾りたい、と考えたのかもしれません。もちろん、それは学術論文を書く方法や査読する方法として不適切であり、改めるべきものであることは言うまでもありません。学術論文は美学で評価されるものでなく、その学問の発展にどれだけの貢献をする(した)かで価値が測れるものです。

「ずは」の語法が永久の解けないなどと言われたのも、国語学が科学になっていなかったのが原因ではないでしょうか。仮説と検証という経験科学の方法を用いれば、既に見たように簡単に解けてしまいます。

2017年2月1日水曜日

ク語法の真実 その6 リンゴが落ちるのを見て誰もが重力を発見するだろうか

 ニュートンがリンゴの実が落ちるのを見て重力を思い付いたとする説には疑問があるそうです。したがって、火星の軌道を見てそれが楕円であると気付くか、とすべきかもしれませんが、それではリンゴと重力ほど分かりやすくはないでしょう。最近今まで通じた常識的な議論が通じないことを経験しました。ニュートンの発見への疑義を書いたのは、一つの間違いを指摘して全体を否定するような詭弁への予防線です。

 熟したリンゴの実が木から落ちる。その光景を見た人はどう考えるでしょうか。「物体はすべて落下する」、「昔からそう決まっている」、国語学の研究が宣長の時代から大きな進展を見せないのは、そう考える人が国語学の学会の主流だからではないでしょうか。「あれも当たり前である」、「これも当たり前である」、そこで思考を中止するから新しい考えが出てこないのです。自然科学が進歩したのは、そこで立ち止まらずに、「なぜ落下するのか」と考える人がいたからです。

 空から目に見えない多数の粒子が降り注いでいる。それがリンゴの実を押すのである。国語学の論文に特有の非論理的な推論 その6 説得力に述べたような「説得力」はあります。しかし、では、風船はなぜ上昇するのでしょうか。正解は大気に働く重力が風船に働くものより大きいからです。目に見えない粒子でも説明できないことはありません。そのような仮説は多数の人が時間を掛けて考えれば何十と出てきます。いや、何百かもしれません。しかし、様々な検証の中で棄却され、生き残る仮説は僅かです。

 地球とリンゴが引き合うのである。この仮説は大胆です。ここを読む人は、ニュートン以前の時代に生きていたとして、同じことを思い付く自信はありますか。このような推論を仮説検証法と言いますが、Charles Sanders Peirceはabductionと呼びました。演繹のdeduction、帰納のinductionに対比させた命名ですが、誘拐の意味でもあるのでretroductionと呼ばれることも多いようです。

 推論の方法は他に演繹と帰納があります。演繹は問題の中に答えが存在します。帰納は観察の積み重ねです。仮説は簡単に言えば結果を見て原因を推測することです。かくばかり恋ひつつあらずは その0 仮説と検証に述べた「かめや」の方法です。国語学の論文に特有の非論理的な推論 その3 歌意が通ることに述べましたが、国語学の論文で未知の語の意味の推測に多用され、国語学の世界ではしばしば証明と混同されます。

 違いは何でしょうか。仮説検証法は多数の仮説を検討するに対して国語学の「逆は真なり」は一つの仮説を提出するだけです。また仮説検証法が多数の検証を行なうに対して「逆は真なり」は通例一つか二つの検証しか経ません。なぜでしょうか。答えは簡単です。仮説を考え出すのは発想力が求められ、その発想力を誰もが備えていないのです。一つの仮説しか思いつかないことも珍しくありません。国語学の世界は特にそうです。一つしか思いつかないから、それ以外にないと考えてしまい、それをあたかも証明された事実のように錯覚してしまうのです。

 仮説は一旦誰かが思い付けばコロンブスの卵と同じで、仮説を考える苦労をしたことがない人には当たり前に見えてしまいます。国語学の世界にはそのような苦労をした人は少ないでしょうから、他人の仮説が何の苦労もなく自然に出てきたものと思ってしまうのでしょう。しかし無から有を生じせしめるabductionは非凡な才能が要求され、誰もが容易に行なえるものではありません。だからこそ科学の発展を決定する発見を為したのは少数の天才たちなのです。

 ここで、萬葉学会の査読者と編集委員に聞きたいのですが、ク語法がアクという動詞に由来するものであり、その動詞が知覚を意味するという説は、加行延言と言われた江戸時代から平成の今まで一度でも登場したでしょうか。一度も登場しなかったというのは本稿で述べた説が簡単に思いつくような単純なものでない証拠です。ク語法を見た誰もがそこに知覚するという意味を読み取らないのは、リンゴが落ちるのを見た誰もが重力を発見しないのと同じです。

 萬葉学会の査読者は非論理的な修辞法の「理由無き断定」を用いて、「新知見とは言いえない」と言い切っていますが、今まで謎とされてきた「なくに」という打消のク語法、「ざらなくに」という二重打消のク語法の理由が合理的に説明されただけでも十分に新知見なのです。


参考文献
Umberto Eco (Ed), Thomas A. Sebeok (Ed), (1988) The Sign of Three: Dupin, Holmes, Peirce (Advances in Semiotics), Indiana University Press.