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2018年1月31日水曜日

TSONTS-25 高山善行(2005)を何故批判するのか(5) 違いを説明する義務

Q5. 高山善行(2005)に論文としての価値はありますか。
A5. 学術論文が備えるべき要件とされるのは独自性(originality)と新規性(novelty)と重要性(significance)です。他人の真似でないことが独自性です。以前査読者による盗用の話をしましたが、国語学の学会がこの点を全く考慮していないのが不思議です。新規性は今までになかった発見や考え方です。既に誰かが言ったことや書いたことと同じでは新規性の面から価値がありません。他の研究者の研究に役立つかが重要性です。高山善行(2005)の場合、連体用法の「む」は未解決の問題なので重要性は問題ありません。問題になるのは新規性です。似た論文が存在するのに引用していません。気付かなかったでは済まされません。論文の著者は似た論文を調べて探し出し違いを説明する義務があります。山本淳(2002)にあまりに似すぎています。また「む」が非現実を表わすとする説は山田孝雄(1908)が述べたものです。少なくともこの二つの論文と比較し、違いを述べなくてはいけません。理科系の論文の査読者であれば引用させ違いを説明させます。

上記に加え、実験や調査のデータに間違いがないこと、結論を導く推論に誤りがないことが当然求められます。また、論文のテーマや題材が持つ本質的な難しさは別にして、記述の仕方をわかりやすくすることも求められます。もちろん、数式が難しいから数式を使わずに書けなどという要求は認められません。わかりやすくというのは、データの提示などです。高山善行(2005)はAとBという二つの表現の共起関係の比較を行ないますが、AとBの母数が大きく違い、AはBの6倍近くあります。ということは、Aの共起が11例、Bの共起が2例であった場合、Bの共起の確率が大きいということです。高山氏は大きな違いのみ数字を示していますが、母数を示さないとAの共起例が多く受け取られやすくなります。また違いが小さい場合は数字を示していません。Aの共起例を3例示し、Bの例が一つしかなかったと書いている箇所がありますが、それでは母数の差からBが共起しやすいという高山善行(2005)と逆の結論が導かれます。データの提示のわかりにくさは査読で指摘すべきでした。

何度も書きましたが、「演繹的方法を用いた」というのは誤りです。これが訂正されない限り論文を受理できません。というのは、経験科学において演繹的方法で何かが発見されることがないからです。星座の配置から結論した、宇宙人から電話があった、と書くのと変わりません。著者の恥となることですから、査読者は注意すべきでした。事実、高山善行(2005)が用いた推論は、演繹でなく、二段階の遡及推論による仮説の提示です。調べた範囲で共起例がなかったという結果から共起できないという一般法則を仮定し、さらにその理由として、連体「む」が非現実を表わすからであるという理由を仮定しています。

高山氏の名誉のために付け加えれば、このような仮説の提示をあたかも正しい推論から得られた結論の如く扱う国語学者が少なからず存在します。しかしまた、国語学者がそのような間違いを犯すことが問題です。学生や一般人が信じてしまいます。「金谷武洋氏なほもて批判さる、いはんや高山善行(2005)をや」というのはそういう意味なのです。一般人が間違う以上に学生や国語学者の卵が影響を受けるのが問題です。

本稿が参考にしたのは田川拓海氏のこのブログ記事です。

いつものおまじないを書いておきます。こういう常識をわざわざ書かなくていけないのも情けなくはあります。

「公表された作品については、みる人ぜんぶが自由に批評する権利をもつ。どんなにこきおろされても、さまたげることはできないんだ。それがいやなら、だれにもみせないことだ。」

藤本弘(藤子・F・不二雄)氏の「エスパー魔美」からの引用である。「法華狼の日記」さんのサイトに詳細な解説とそれに対する読者の反論と議論がある。セリフに漢字が少ないことから窺えるように、この漫画は小中学生を読者と想定したものである。自分の論文が批判されて怒っていたら理系の研究者はやっていられない。相互批判は学問の共同体の当然の権利であり、それが学問を発展させるのである。この当然すぎる常識を萬葉学者たちが受け入れてくれることを祈る。

※ このブログの記事のことは萬葉学会にメールして以下の伝言を高山善行氏に伝えるようお願いしました。宛先には萬葉学会編集委員長の関西大学の乾善彦氏も入れてあります。ですから必ず伝わっていることと思います。伝言の部分を再掲します。


高山善行殿

高山善行(2005) 「助動詞「む」の連体用法について」 『日本語の研究』  1(4), 1-15, 2005の問題点を次の記事で論じています。

高山善行(2005)の問題点(1) 演繹でない推論
https://introductiontooj.blogspot.jp/2017/11/to-sue-or-not-to-sue-2.html

高山善行(2005)の問題点(2) データの整理が不適切である
https://introductiontooj.blogspot.jp/2017/11/to-sue-or-not-to-sue-3-20052.html

高山善行(2005)の問題点(1再) 演繹でない推論(つづき)
https://introductiontooj.blogspot.jp/2017/11/to-sue-or-not-to-sue-4-20051.html

高山善行(2005)の問題点(3) モダリティの理解不足
https://introductiontooj.blogspot.jp/2017/11/to-sue-or-not-to-sue-5-20053.html

高山善行(2005)の問題点(4) 主観と客観の混交
https://introductiontooj.blogspot.jp/2017/11/to-sue-or-not-to-sue-6-20054.html

今後も継続する予定です。上記記事並びにその継続記事に対して意見があればコメントまたはメールにて連絡をお願いします。



引用文献
山田孝雄(1908)『日本文法論』(宝文館)
山田孝雄(1936)『日本文法概論』(宝文館)
Reichenbach, Hans (1951) The Rise of Scientific Philosophy.
Popper, Karl (1959) The Logic of Scientific Discovery.
Popper, Karl (1972) Objective Knowledge: An Evolutionary Approach.
野崎昭弘(1980)『逆接の論理学』(中公新書)
北原保雄(1984)『文法的に考える』(大修館書店)
和田明美(1994)『古代日本語の助動詞の研究ー「む」の系統を中心とするー』(風間書房)
Palmer, Frank R. (1979) Modality and the English Modals.  飯島周訳『英語の法助動詞』(桐原書店)
Palmer, Frank R. (1990) Modality and the English Modals. 2nd ed.
村上陽一郎(1994)『科学者とは何か』(新潮社)
Palmer, Frank R. (2001) Mood and Modality, 2nd Edition.
高山善行(2002)『日本語モダリティの史的研究』(ひつじ書房)
安田尚道(2003) 「石塚龍麿と橋本進吉--上代特殊仮名遣の研究史を再検討する」 『国語学』 54(2), p1-14, 2003-04-01
山本淳(2003)「仮定・婉曲とされる古典語推量辞「む」の連体形」 山形県立米沢女子短期大学紀要 38, 47-62, 2003-06-30
高山善行(2005)「助動詞「む」の連体用法について」 『日本語の研究』  1(4), p1-15, 2005
Priest, Graham (2008) An Introduction to Non-Classical Logic, Oxford University Press.
Cruse, Alan (2011) Meaning in Language: An Introduction to Semantics and Pragmatics (Oxford Textbooks in Linguistics) Oxford University Press. 
高山善行(2011)「述部の構造」 金水敏ら(2011)『文法史』 (岩波書店)の第2章
高山善行(2014)「古代語のモダリティ」 澤田治美編(2014)『モダリティ 1』 (ひつじ書房)に収録
高山善行(2016)「中古語における疑問文とモダリティ形式の関係」 『国語と国文学』 第93巻5号 p29-41


2018年1月28日日曜日

TSONTS-24 高山善行(2005)を何故批判するのか(4) 素人と専門家

Q4. 一介の素人に過ぎないあなたが何故専門家の高山善行氏を批判するのですか。
A4. 最初に確認しておきます。私は高山善行氏が書いた論文を批判しているのであって、高山善行氏の人格を批判してはいません。対象は高山善行(2005)という論文です。

論文の価値は誰が書いたかで決まりません。何が書いてあるかです。ニュートンが言おうとアインシュタインが言おうと正しいことは正しく、間違いは間違いです。だから専門家が書いたとか言ったとかは内容の評価に無関係です。

以上は科学的に正しい説明です。理系の学生なら教養課程から叩き込まれて身体に染み付いた考えです。法学や経済学も基本的な考えは同じです。だから、そもそも理系や法律や経済の人たちからそのような質問は出てきません。

そのような質問をするのは文学部の卒業生、人文系の人に限られます。そして、彼らは科学的に正しい説明に納得しません。人文系の人たちには別な説明をしないとなりません。

専門家とは何ですか。専門家の認定は誰が行なうのですか。高山善行氏は愛媛大学で国文学を専攻しました。愛媛大学が文学士(死語?)と認定しました。高山氏は文学の専門家と言えるでしょう。

しかし論文を書くということについて専門家でしょうか。高山善行(2005)に「本稿では演繹的方法を用いる」(第2.1節)とあり、AbstractにThis paper ... based on a deductive method.とあります。もしも理系の学生が高山善行(2005)を書いて、そこに演繹的方法を用いたとか、based on a deductive methodと書いたならば、指導教官から大目玉を食らうでしょう。論文を書くための基本的な論理を理解していないからです。

高山氏は高山善行(2005)を書いた時点では論文を書くことについて専門家とはとても言えません。専門家でないことは演繹の意味の誤解で十分ですが、他にも、データの整理の仕方や先行文献の引用の仕方から、論文を書く上での基本的な作法を心得ていないことがわかります。論文というのは関連する文献を調べ、類似した文献があるなら引用して違いを説明する義務があります。高山善行(2014)でも高山善行(2005)を先駆的論文と自賛しています。とすると、高山善行(2014)を書いた時点でも専門家とは言えません。

高山善行氏はmodalityの専門家でしょうか。ホピ語をevidentialityの例としてあげたことから、Frank Palmer(2001)を引用しながらも読んでいないことが明らかになりました。また同時にmoodやmodalityの基本的な意味を理解していないことも明らかになりました。このことは前回の高山善行(2005)を何故批判するのか(3)に書きました。

大学の国文科では国語学と国文学の両方を教えられています。前者は言語学という社会科学あるいは自然科学の一分野であり、理性と論理に基きまます。後者は広義の文学観賞であり、感性が重んじられます。一人の人が両方の専門家でありえなくはありません。しかし国語学の論文がしばしば非論理的な推論に基くのは、論理(logic)と修辞(rhetoric)が混同されたためではないでしょうか。

萬葉学会のある人が「理系の研究では仮説を検証して、矛盾がなければ、一つの仮説として成り立つのではないかと思いますが、ことばの場合は、他の形式との比較と差異の検証が必要になります。」と反科学的なことを平気で述べたので驚きました。たしかに論理的にそうかもしれないけれど、感覚的に信用できない。そういうことを学問の場で口にすること自体信じられません。もしも信用できないなら、どこかに間違いがあるのです。論理的に正しいが間違いであるということはあり得ません。

言い忘れました。私も論文を書き、国際的な雑誌に受理されています。その点では十分に専門家のつもりです。査読の経験もあります。言語学に関して素人かもしれません。しかしそれは高山善行氏も同じです。

いつものおまじないを書いておきます。こういう常識をわざわざ書かなくていけないのも情けなくはあります。

「公表された作品については、みる人ぜんぶが自由に批評する権利をもつ。どんなにこきおろされても、さまたげることはできないんだ。それがいやなら、だれにもみせないことだ。」

藤本弘(藤子・F・不二雄)氏の「エスパー魔美」からの引用である。「法華狼の日記」さんのサイトに詳細な解説とそれに対する読者の反論と議論がある。セリフに漢字が少ないことから窺えるように、この漫画は小中学生を読者と想定したものである。自分の論文が批判されて怒っていたら理系の研究者はやっていられない。相互批判は学問の共同体の当然の権利であり、それが学問を発展させるのである。この当然すぎる常識を萬葉学者たちが受け入れてくれることを祈る。

※ このブログの記事のことは萬葉学会にメールして以下の伝言を高山善行氏に伝えるようお願いしました。宛先には萬葉学会編集委員長の関西大学の乾善彦氏も入れてあります。ですから必ず伝わっていることと思います。伝言の部分を再掲します。


高山善行殿

高山善行(2005) 「助動詞「む」の連体用法について」 『日本語の研究』  1(4), 1-15, 2005の問題点を次の記事で論じています。

高山善行(2005)の問題点(1) 演繹でない推論
https://introductiontooj.blogspot.jp/2017/11/to-sue-or-not-to-sue-2.html

高山善行(2005)の問題点(2) データの整理が不適切である
https://introductiontooj.blogspot.jp/2017/11/to-sue-or-not-to-sue-3-20052.html

高山善行(2005)の問題点(1再) 演繹でない推論(つづき)
https://introductiontooj.blogspot.jp/2017/11/to-sue-or-not-to-sue-4-20051.html

高山善行(2005)の問題点(3) モダリティの理解不足
https://introductiontooj.blogspot.jp/2017/11/to-sue-or-not-to-sue-5-20053.html

高山善行(2005)の問題点(4) 主観と客観の混交
https://introductiontooj.blogspot.jp/2017/11/to-sue-or-not-to-sue-6-20054.html

今後も継続する予定です。上記記事並びにその継続記事に対して意見があればコメントまたはメールにて連絡をお願いします。



引用文献
山田孝雄(1908)『日本文法論』(宝文館)
山田孝雄(1936)『日本文法概論』(宝文館)
Reichenbach, Hans (1951) The Rise of Scientific Philosophy.
Popper, Karl (1959) The Logic of Scientific Discovery.
Popper, Karl (1972) Objective Knowledge: An Evolutionary Approach.
野崎昭弘(1980)『逆接の論理学』(中公新書)
北原保雄(1984)『文法的に考える』(大修館書店)
和田明美(1994)『古代日本語の助動詞の研究ー「む」の系統を中心とするー』(風間書房)
Palmer, Frank R. (1979) Modality and the English Modals.  飯島周訳『英語の法助動詞』(桐原書店)
Palmer, Frank R. (1990) Modality and the English Modals. 2nd ed.
村上陽一郎(1994)『科学者とは何か』(新潮社)
Palmer, Frank R. (2001) Mood and Modality, 2nd Edition.
高山善行(2002)『日本語モダリティの史的研究』(ひつじ書房)
安田尚道(2003) 「石塚龍麿と橋本進吉--上代特殊仮名遣の研究史を再検討する」 『国語学』 54(2), p1-14, 2003-04-01
山本淳(2003)「仮定・婉曲とされる古典語推量辞「む」の連体形」 山形県立米沢女子短期大学紀要 38, 47-62, 2003-06-30
高山善行(2005)「助動詞「む」の連体用法について」 『日本語の研究』  1(4), p1-15, 2005
Priest, Graham (2008) An Introduction to Non-Classical Logic, Oxford University Press.
Cruse, Alan (2011) Meaning in Language: An Introduction to Semantics and Pragmatics (Oxford Textbooks in Linguistics) Oxford University Press. 
高山善行(2011)「述部の構造」 金水敏ら(2011)『文法史』 (岩波書店)の第2章
高山善行(2014)「古代語のモダリティ」 澤田治美編(2014)『モダリティ 1』 (ひつじ書房)に収録
高山善行(2016)「中古語における疑問文とモダリティ形式の関係」 『国語と国文学』 第93巻5号 p29-41


2018年1月14日日曜日

TSONTS-23 高山善行(2005)を何故批判するのか(3) モダリティ

Q3. 高山善行(2005)はモダリティ論の立場なのですか。
A3. 従来の方法との違いが感じられません。

高山善行(2005)の「はじめに」から引用します。

助動詞「む」は連体用法で《仮定》《婉曲》を表すと言われ, 古典文法では, 「仮定婉曲用法」の名で知られている。しかし実際には, この用法での「む」の性質はよくわかっていない点が多い。本稿では, この問題をモダリティ論の視点から捉え直す。そして, 連体用法での「む」の機能を明らかにすることを目標とする。

中古語の「む」の連体用法は「仮定」「婉曲」の意味を持つと言われています。それを「モダリティ」論の立場から捉え直すというのですが、モダリティの特長を利用した解析を行なっているようには見えません。高山善行(2016)の注3に「本稿での「モダリティ」は「モダリティ形式」を指す。「推量の助動詞」と読み替えても構わない。」とあります。高山善行氏はこのブログの存在を知っています。恐らく読んでいるはずです。違いをコメントしてくれると助かります。

高山善行氏から訂正が入ることを前提に書きますが、高山氏はFrank Palmerの言う意味のmoodやmodalityを理解していないようです。定義が違うというのでありません。Palmerの著書を読んだが理解していないという意味です。なぜそう考えたかを順を追って説明します。高山善行(2014)に次の記述があります。

メリ、終止ナリはそれぞれ、(視覚、聴覚で得た情報をもとにした判断)という意味特徴をもち、「証拠性」(evidentiality)の形式とされる。「証拠性」とは、その事態に関する情報の出所(視覚・聴覚、伝聞など)に基づいた判断を表し、他言語(ホピ語など)においても見られる(Palmer (2001: 8)ではモダリティの一種とされている)。

高山善行氏はevidentialityをmodalityと必ずしも考えていないようです。萬葉学会の査読を思い出してください。閑話休題。Evidentialityにかんして私はFrank Palmer(2001)ともう一冊を読んだだけですが、どちらの本にもHopi語の例はありませんでした。高山善行(2002)の参考文献の中にFrank Palmer(1979)を飯島周氏が訳した『英語の法助動詞』がありました。そこから引用します。

言語によっては,文法的な時制の体系(temporal systems)を持たず,’文法化された’法的な区別(’grammaticalized’ modal distinctions)を持つ(Lyons 1977: 816)ものがあることも重要である.たとえばアメリカインディアンのホピ語(Hopi)には(Whorf 1956 :57-64,207-19), 3種の’時制’があるが,これはLyons(1968: 311)によれば’法(moods)’として記述するほうが適切である.第1は一般的な真実の陳述,第2は知られている,または知られていると思われる出来事についての報告,第3はまだ不確定の範囲にある事件に関するものである.第2と第3は,非法(non-modal)および法(modal)として対照的に見えるが,第2は過去時の事件, 第3は未来の事件を一般に示す.この言語での時の指示は本質的に法性の指示に由来する.

第二版のFrank Palmer(1990)の当該箇所と照合しましたが、特に問題のある翻訳ではありません。高山氏はこの記述からHopi語のmodal pastをevidentialityと判断したようです。しかし、それは高山氏がmoodの意味を理解していないからです。英語のmoodは印欧語の特長を薄めてはいますが、直説法(indicative)、仮定法(subjunctive)、命令法(imperative)が残っています。直説法は現実にあったこと、今起こっていることを表します。仮定法と命令法は非現実を表します。それを法的(modal)と言います。直説法は現実を表わすので非法的(non-modal)です。Moodとは非現実を表わす表現法です。高山氏はmoodの現実対非現実の対立をevidentialityと取り違えています。

高山善行(2005)は「む」が連体修飾語となるときの意味として「非現実」をあげていますが、もしも「む」がmodalityを表わすのであれば、それは当然のことです。Modalityは非現実を表わす形式(irrealis)を用いた表現法です。モダリティ論と言いながら、moodやmodalityの本質的な意味について理解していません。結局、高山氏のモダリティ形式は推量の助動詞の言い替えであり、モダリティ論は推量の助動詞をモダリティ形式と言い替えて行なう議論です。これではてれすこ(telescope)とすてれんきょう(天体望遠鏡)の違いでしかありません。

さらに、以上のことから、高山善行氏は少なくとも高山善行(2014)を書いた時点でFrank Palmer(2001)を読んでいないこともわかります。本の中には多数のevidentialityの例が出てきます。あの言語とこの言語が何度も参照されています。十ページも読めば嫌でも覚えますから、わざわざ関係のないHopi語を例にあげません。

いつものおまじないを書いておきます。こういう常識をわざわざ書かなくていけないのも情けなくはあります。

「公表された作品については、みる人ぜんぶが自由に批評する権利をもつ。どんなにこきおろされても、さまたげることはできないんだ。それがいやなら、だれにもみせないことだ。」

藤本弘(藤子・F・不二雄)氏の「エスパー魔美」からの引用である。「法華狼の日記」さんのサイトに詳細な解説とそれに対する読者の反論と議論がある。セリフに漢字が少ないことから窺えるように、この漫画は小中学生を読者と想定したものである。自分の論文が批判されて怒っていたら理系の研究者はやっていられない。相互批判は学問の共同体の当然の権利であり、それが学問を発展させるのである。この当然すぎる常識を萬葉学者たちが受け入れてくれることを祈る。

※ このブログの記事のことは萬葉学会にメールして以下の伝言を高山善行氏に伝えるようお願いしました。宛先には萬葉学会編集委員長の関西大学の乾善彦氏も入れてあります。ですから必ず伝わっていることと思います。伝言の部分を再掲します。


高山善行殿

高山善行(2005) 「助動詞「む」の連体用法について」 『日本語の研究』  1(4), 1-15, 2005の問題点を次の記事で論じています。

高山善行(2005)の問題点(1) 演繹でない推論
https://introductiontooj.blogspot.jp/2017/11/to-sue-or-not-to-sue-2.html

高山善行(2005)の問題点(2) データの整理が不適切である
https://introductiontooj.blogspot.jp/2017/11/to-sue-or-not-to-sue-3-20052.html

高山善行(2005)の問題点(1再) 演繹でない推論(つづき)
https://introductiontooj.blogspot.jp/2017/11/to-sue-or-not-to-sue-4-20051.html

高山善行(2005)の問題点(3) モダリティの理解不足
https://introductiontooj.blogspot.jp/2017/11/to-sue-or-not-to-sue-5-20053.html

高山善行(2005)の問題点(4) 主観と客観の混交
https://introductiontooj.blogspot.jp/2017/11/to-sue-or-not-to-sue-6-20054.html

今後も継続する予定です。上記記事並びにその継続記事に対して意見があればコメントまたはメールにて連絡をお願いします。



参考文献
山田孝雄(1908)『日本文法論』(宝文館)
山田孝雄(1936)『日本文法概論』(宝文館)
Reichenbach, Hans (1951) The Rise of Scientific Philosophy.
Popper, Karl (1959) The Logic of Scientific Discovery.
Popper, Karl (1972) Objective Knowledge: An Evolutionary Approach.
野崎昭弘(1980)『逆接の論理学』(中公新書)
北原保雄(1984)『文法的に考える』(大修館書店)
和田明美(1994)『古代日本語の助動詞の研究ー「む」の系統を中心とするー』(風間書房)
Palmer, Frank R. (1979) Modality and the English Modals.  飯島周訳『英語の法助動詞』(桐原書店)
Palmer, Frank R. (1990) Modality and the English Modals. 2nd ed.
村上陽一郎(1994)『科学者とは何か』(新潮社)
Palmer, Frank R. (2001) Mood and Modality, 2nd Edition.
高山善行(2002)『日本語モダリティの史的研究』(ひつじ書房)
安田尚道(2003) 「石塚龍麿と橋本進吉--上代特殊仮名遣の研究史を再検討する」 『国語学』 54(2), p1-14, 2003-04-01
山本淳(2003)「仮定・婉曲とされる古典語推量辞「む」の連体形」 山形県立米沢女子短期大学紀要 38, 47-62, 2003-06-30
高山善行(2005)「助動詞「む」の連体用法について」 『日本語の研究』  1(4), p1-15, 2005
Priest, Graham (2008) An Introduction to Non-Classical Logic, Oxford University Press.
Portner, Paul (2009) Modality (Oxford Surveys in Semantics and Pragmatics), Oxford University Press.
Cruse, Alan (2011) Meaning in Language: An Introduction to Semantics and Pragmatics (Oxford Textbooks in Linguistics) Oxford University Press. 
高山善行(2011)「述部の構造」 金水敏ら(2011)『文法史』 (岩波書店)の第2章
高山善行(2014)「古代語のモダリティ」 澤田治美編(2014)『モダリティ 1』 (ひつじ書房)に収録
高山善行(2016)「中古語における疑問文とモダリティ形式の関係」 『国語と国文学』 第93巻5号 p29-41

2018年1月12日金曜日

TSONTS-22 高山善行(2005)を何故批判するのか(2) 演繹

Q2. 高山善行(2005)は演繹に基いていないのですか。
A2. いません。間違いは二つあります。「しない」と「できない」を混同している点と「できない」の理由が内部なのか外部なのかを区別していない点です。

まず「しない」と「できない」の違いを述べます。高山善行(2005)は「用言+む+人」の表現を源氏物語、枕草子、蜻蛉日記から127例採取し、時間、場所の表現に対して共起制限(co-occurrence restriction)があるから、「時空の座標軸上に「人」を位置づけることができない」と書いています。

同論文の4.1節から引用します。

時間・場所表現との共起, テンス形式の生起に制約がある。そのため, 時空の座標軸上に「人」を位置づけることができない。また, 存在詞, アスペクト形式の生起, 人の数量にも制約が見られた。そのため, 現実世界に実在する「人」のく存在〉〈動きの様態〉〈数量〉について描写することができない。なお, ここでの「現実世界」とは, 「作者が作品中において現実のものとして表現する世界」のことであり, いわゆる「史実」とは異なる。

先日図書館の席にいたら一つ置いて隣に座っていた人が長々と放屁しました。すぐに立つのはあてつけがましいので、少し間を置いてから、予定の行動のように席を立ちましたが、おかげで次の例を思い付きました。「光源氏は放屁できない」です。

源氏物語から光源氏の動作に関する表現をすべて抜き出します。これは127例なんてものではないでしょう。数万はあるんじゃないでしょうか。12700例と仮定しましょう。その中に放屁を意味する表現があるかです。私は源氏物語を通読したことがありません。そのような表現がなかったと仮定しましょう。

源氏物語から光源氏の動作に関する表現を12700例抜き出したが、放屁と共起する例は一つもなかった。したがって光源氏は放屁できない。これが高山善行(2005)流の解釈です。人間である以上しないということはありません。したという表現がなかったからと言ってできないとは言い切れません。

以上が「しない」と「できない」の違いです。Alan Cruse(2011)を参考にしました。高山善行(2005)は「共起しなかった(しにくかった)」という観察結果から「表現できない」という一般法則を帰納しています。帰納するには例が少なすぎます。127例あるじゃないかという人はHempelのカラスのパラドックスを参照してください。Wikipediaなどよりも野崎昭弘(1980)の説明がわかりやすく正確だと思います。

次は「できない」の原因が内部か外部かの違いです。火星人が地球に来て動物園を観察したとします。火星人の目は人間とほぼ同じですが、檻だけが見えないとします。火星人はたくさんの動物園のライオンの檻を何度も観測して、ライオンは園内の特定の領域から外へ出られないと帰納的に結論しました。間違いありません。檻があるのですから。しかし火星人の目に檻は見えません。

その後特殊な観測装置を使い、ライオンがそこから出れらない特定の領域を取り囲むように鉄製の柵が設置されているのを発見しました。火星人の科学者のある者は次のように考察しました。ライオンは特定の領域から外へ出ることができない。従って当該の領域の内部に観覧者が入らないように柵を設けたのだ。高山善行(2005)の主張する演繹はこのような考えです。つまりライオンの側に原因があるとするのです。

演繹とは前提から必然的に結論が導かれることです。ライオンがある領域から外へ出られないから柵を設けて領域の内部へ人が入らないようにしているのではなく、柵を設けたからライオンが領域の外へ出られないのです。それと全く同じように、「む」が現実を表現できないから「む」に非現実を表わす意味があるのではなく、「む」に非現実を表わす意味があるから「む」が現実を表現できないと考えるべきです。

高山善行(2005)は「む」には現実を表現できない性質があり、その性質のために「む」が非現実を表わすと考えているようです。これは萬葉学会の査読者が構文に意味が付加されると考えたのと似ています。しかし言語はそのような超自然的なものではありません。言語学は実在するものを扱う経験科学です。

そもそも経験科学が演繹により新知見を得ることはあり得ません。演繹は前提の中に存在していたものを取り出す操作です。もしも演繹で経験科学上の新発見があるとしたら、前提の中にあったものを見落としていたということです。

いつものおまじないを書いておきます。こういう常識をわざわざ書かなくていけないのも情けなくはあります。

「公表された作品については、みる人ぜんぶが自由に批評する権利をもつ。どんなにこきおろされても、さまたげることはできないんだ。それがいやなら、だれにもみせないことだ。」

藤本弘(藤子・F・不二雄)氏の「エスパー魔美」からの引用である。「法華狼の日記」さんのサイトに詳細な解説とそれに対する読者の反論と議論がある。セリフに漢字が少ないことから窺えるように、この漫画は小中学生を読者と想定したものである。自分の論文が批判されて怒っていたら理系の研究者はやっていられない。相互批判は学問の共同体の当然の権利であり、それが学問を発展させるのである。この当然すぎる常識を萬葉学者たちが受け入れてくれることを祈る。

※ このブログの記事のことは萬葉学会にメールして以下の伝言を高山善行氏に伝えるようお願いしました。宛先には萬葉学会編集委員長の関西大学の乾善彦氏も入れてあります。ですから必ず伝わっていることと思います。伝言の部分を再掲します。


高山善行殿

高山善行(2005) 「助動詞「む」の連体用法について」 『日本語の研究』  1(4), 1-15, 2005の問題点を次の記事で論じています。

高山善行(2005)の問題点(1) 演繹でない推論
https://introductiontooj.blogspot.jp/2017/11/to-sue-or-not-to-sue-2.html

高山善行(2005)の問題点(2) データの整理が不適切である
https://introductiontooj.blogspot.jp/2017/11/to-sue-or-not-to-sue-3-20052.html

高山善行(2005)の問題点(1再) 演繹でない推論(つづき)
https://introductiontooj.blogspot.jp/2017/11/to-sue-or-not-to-sue-4-20051.html

高山善行(2005)の問題点(3) モダリティの理解不足
https://introductiontooj.blogspot.jp/2017/11/to-sue-or-not-to-sue-5-20053.html

高山善行(2005)の問題点(4) 主観と客観の混交
https://introductiontooj.blogspot.jp/2017/11/to-sue-or-not-to-sue-6-20054.html

今後も継続する予定です。上記記事並びにその継続記事に対して意見があればコメントまたはメールにて連絡をお願いします。



参考文献
山田孝雄(1908)『日本文法論』(宝文館)
山田孝雄(1936)『日本文法概論』(宝文館)
Reichenbach, Hans (1951) The Rise of Scientific Philosophy.
Popper, Karl (1959) The Logic of Scientific Discovery.
Popper, Karl (1972) Objective Knowledge: An Evolutionary Approach.
野崎昭弘(1980)『逆接の論理学』(中公新書)
北原保雄(1984)『文法的に考える』(大修館書店)
和田明美(1994)『古代日本語の助動詞の研究ー「む」の系統を中心とするー』(風間書房)
Palmer, Frank R. (1979) Modality and the English Modals.  飯島周訳『英語の法助動詞』(桐原書店)
Palmer, Frank R. (1990) Modality and the English Modals. 2nd ed.
村上陽一郎(1994)『科学者とは何か』(新潮社)
Palmer, Frank R. (2001) Mood and Modality, 2nd Edition.
高山善行(2002)『日本語モダリティの史的研究』(ひつじ書房)
安田尚道(2003) 「石塚龍麿と橋本進吉--上代特殊仮名遣の研究史を再検討する」 『国語学』 54(2), p1-14, 2003-04-01
山本淳(2003)「仮定・婉曲とされる古典語推量辞「む」の連体形」 山形県立米沢女子短期大学紀要 38, 47-62, 2003-06-30
高山善行(2005)「助動詞「む」の連体用法について」 『日本語の研究』  1(4), p1-15, 2005
Priest, Graham (2008) An Introduction to Non-Classical Logic, Oxford University Press.
Portner, Paul (2009) Modality (Oxford Surveys in Semantics and Pragmatics), Oxford University Press.
Cruse, Alan (2011) Meaning in Language: An Introduction to Semantics and Pragmatics (Oxford Textbooks in Linguistics) Oxford University Press. 
高山善行(2011)「述部の構造」 金水敏ら(2011)『文法史』 (岩波書店)の第2章
高山善行(2014)「古代語のモダリティ」 澤田治美編(2014)『モダリティ 1』 (ひつじ書房)に収録
高山善行(2016)「中古語における疑問文とモダリティ形式の関係」 『国語と国文学』 第93巻5号 p29-41

TSONTS-21 高山善行(2005)を何故批判するのか(1) 科学の方法

Q1. なぜ高山善行(2005)を問題にしたのですか。
A1. 萬葉学会のP氏が言うには、私の論文には「モーダルな意味」と「構文的な理解」の説明がないからacceptできないそうです。私が理解していたmodalityと査読者のいう「モーダルな意味」が異なります。査読者の定義するmodalityは何かとP氏に尋ねましたが、満足な説明はありませんでした。

古典語のモダリティの論文は高山善行氏が多く書いています。そこで同氏の一連の論文を読んでみました。高山善行氏はFrank Palmerの著作など英米の文献を引用していますが、Palmerらの定義と異なる理解をしているようです。そこにすれ違いの原因があったのではないかと思いました。査読者のQ氏が高山善行氏と同一人物かどうかはわかりませんが、モダリティにかんしては同じような理解をしています。

「構文的意味」も高山善行(2002)を読み、そういう意味だったのかと気付きました。それについては別途書くことにします。

高山善行(2005)をとりあげたのは「演繹」の誤用です。高山氏だけに限りませんが、国語学の論文を読んで気付くのは遡及推論をあたかも論証の如く考える人のあることです。遡及推論とは結論から原因を推論することです。ロッカーの中のコートのポケットに入れたままの財布から金がなくなっていた。太郎が盗んだとすれば結果と整合する。従って原因は太郎が盗んだからだ。このような推論が正しくないのは言うまでもありません。論理学では後件肯定の論理的誤謬と言います。

前件が正しいならば後件が正しい
1 太郎が盗んでいるならば財布に金が無い

1が正しいなら対偶(後件否定)も真(正しい)です。

後件が正しくないならば前件は正しくない
2 財布に金があるならば太郎は盗んでいない

しかし、前件否定と後件肯定は間違いです。

3 太郎が盗んでいないならば財布に金がある
4 財布に金が無いならば太郎が盗んでいる

以上は中学の数学レベルですが、萬葉学者は意外と3が間違いであることに気付かないかもしれません。思考力というのは筋肉と同じで使わないと衰えて行きます。高校の数学レベルの次の問題はどうでしょう。この問題はGraham Priest (2008)からとりました。It is easy to check that the following inferences are valid.とあります。

(A∧B)⊃C ⊢ (A⊃C)∨(B⊃C)
(A⊃B)∧(C⊃D) ⊢ (A⊃D)∨(C⊃B)
¬(A⊃B) ⊢ A

上の式の記号は、∧は「かつ」、⊃は「ならば」、∨は「または」、¬は「でない」と読む。また⊢の記号は推論を表し、左側から右側が論理的に導けると言う意味です。演繹とは何かを判断するには少なくともこの程度の問題が解けなくてはいけません。

理系の人なら暗算で解けます。私も解けます。しかし、萬葉学者の大部分は解けないと思います。頭が悪いからですか。違います。訓練しないから鈍ってしまったのです。

未知の単語の意味を仮定して歌意や文意が通ればその意味が正しいとする方法が国語学の論文にしばしば登場しますが、その方法は上に述べたように論理的誤謬です。

5 連体形の「む」が非現実を表わすならば非現実を表わすと仮定して文意が通る
6 非現実を表わすと仮定して文意が通るならば連体形の「む」は非現実を表わす

上の5は正しい。しかし5の後件肯定の6は間違いです。国語学者の中には6のような推論を演繹と考える人があるようです。高山善行氏もその一人と思います。

このQAは田川拓海氏のブログの「金谷武洋氏への批判記事のまとめ、あるいはFAQ」を参考にしました。正確には金谷武洋氏への批判ではなく金谷氏の著書への批判です。理系の世界では研究者の人格とその意見を別に扱うことが厳しく躾けられます。金谷武洋氏の著書を批判するなら、いわんや高山善行氏の論文をや。国語学、日本語学の研究を担うのは国語学者、日本語学者です。彼らの著書や論文が与える影響は金谷氏の著書以上に大きいのです。さらに、「言語学のような経験科学」において演繹で新しい発見が為されることはありません。演繹は前提の中から結論を取り出す操作です。新しいものを生み出しようがありません。そのような間違った方法論は国語学の健全な発展を阻害します。この二点から、いわんや高山善行説をや、となるのです.

いつものおまじないを書いておきます。こういう常識をわざわざ書かなくていけないのも情けなくはあります。

「公表された作品については、みる人ぜんぶが自由に批評する権利をもつ。どんなにこきおろされても、さまたげることはできないんだ。それがいやなら、だれにもみせないことだ。」

藤本弘(藤子・F・不二雄)氏の「エスパー魔美」からの引用である。「法華狼の日記」さんのサイトに詳細な解説とそれに対する読者の反論と議論がある。セリフに漢字が少ないことから窺えるように、この漫画は小中学生を読者と想定したものである。自分の論文が批判されて怒っていたら理系の研究者はやっていられない。相互批判は学問の共同体の当然の権利であり、それが学問を発展させるのである。この当然すぎる常識を萬葉学者たちが受け入れてくれることを祈る。

※ このブログの記事のことは萬葉学会にメールして以下の伝言を高山善行氏に伝えるようお願いしました。宛先には萬葉学会編集委員長の関西大学の乾善彦氏も入れてあります。ですから必ず伝わっていることと思います。伝言の部分を再掲します。


高山善行殿

高山善行(2005) 「助動詞「む」の連体用法について」 『日本語の研究』  1(4), 1-15, 2005の問題点を次の記事で論じています。

高山善行(2005)の問題点(1) 演繹でない推論
https://introductiontooj.blogspot.jp/2017/11/to-sue-or-not-to-sue-2.html

高山善行(2005)の問題点(2) データの整理が不適切である
https://introductiontooj.blogspot.jp/2017/11/to-sue-or-not-to-sue-3-20052.html

高山善行(2005)の問題点(1再) 演繹でない推論(つづき)
https://introductiontooj.blogspot.jp/2017/11/to-sue-or-not-to-sue-4-20051.html

高山善行(2005)の問題点(3) モダリティの理解不足
https://introductiontooj.blogspot.jp/2017/11/to-sue-or-not-to-sue-5-20053.html

高山善行(2005)の問題点(4) 主観と客観の混交
https://introductiontooj.blogspot.jp/2017/11/to-sue-or-not-to-sue-6-20054.html

今後も継続する予定です。上記記事並びにその継続記事に対して意見があればコメントまたはメールにて連絡をお願いします。



参考文献
山田孝雄(1908)『日本文法論』(宝文館)
山田孝雄(1936)『日本文法概論』(宝文館)
Reichenbach, Hans (1951) The Rise of Scientific Philosophy.
Popper, Karl (1959) The Logic of Scientific Discovery.
Popper, Karl (1972) Objective Knowledge: An Evolutionary Approach.
野崎昭弘(1980)『逆接の論理学』(中公新書)
北原保雄(1984)『文法的に考える』(大修館書店)
和田明美(1994)『古代日本語の助動詞の研究ー「む」の系統を中心とするー』(風間書房)
Palmer, Frank R. (1979) Modality and the English Modals.  飯島周訳『英語の法助動詞』(桐原書店)
Palmer, Frank R. (1990) Modality and the English Modals. 2nd ed.
村上陽一郎(1994)『科学者とは何か』(新潮社)
Palmer, Frank R. (2001) Mood and Modality, 2nd Edition.
高山善行(2002)『日本語モダリティの史的研究』(ひつじ書房)
安田尚道(2003) 「石塚龍麿と橋本進吉--上代特殊仮名遣の研究史を再検討する」 『国語学』 54(2), p1-14, 2003-04-01
山本淳(2003)「仮定・婉曲とされる古典語推量辞「む」の連体形」 山形県立米沢女子短期大学紀要 38, 47-62, 2003-06-30
高山善行(2005)「助動詞「む」の連体用法について」 『日本語の研究』  1(4), p1-15, 2005
Priest, Graham (2008) An Introduction to Non-Classical Logic, Oxford University Press.
Portner, Paul (2009) Modality (Oxford Surveys in Semantics and Pragmatics), Oxford University Press.
Cruse, Alan (2011) Meaning in Language: An Introduction to Semantics and Pragmatics (Oxford Textbooks in Linguistics) Oxford University Press. 
高山善行(2011)「述部の構造」 金水敏ら(2011)『文法史』 (岩波書店)の第2章
高山善行(2014)「古代語のモダリティ」 澤田治美編(2014)『モダリティ 1』 (ひつじ書房)に収録
高山善行(2016)「中古語における疑問文とモダリティ形式の関係」 『国語と国文学』 第93巻5号 p29-41

2018年1月11日木曜日

TSONTS-20 萬葉学会の何が問題か(5)

Q5. 査読者の交替を要求しなかったのですか。
A5. それ以前に反論さえ認めないと言っています。

理系の学会は投稿者と査読者は対等です。査読者が理解不十分で査読に相応しくないと判断すれば当然の権利として編集者に査読者の交替を要求します。萬葉学会はそれとは全く別の常識が支配する世界です。以下は私の推測です。国語学者であれば当然の発見の如く書くでしょうが、常に客観的に表現することを訓練された理系人の控えめな書き方は国語学者たちから見れば「説得力がない」かもしれません。国語学者風に書いてみましょう。

萬葉学会は未熟な投稿者を専門家である国語学者が指導育成すると考える。国語学者は不可謬であり、その発言は絶対の真理である。投稿者はけして逆らってはならない。天は人の上に査読者を作り、人の下に投稿者を作る。萬葉学会はそう考えるのである。

投稿者は査読者の言い付けを遵守して論文を改良すること。ゆめ査読者が間違っているなどと思ってはならない。書き直して論文の価値が下がったとしたら、それは投稿者が査読者の真意を誤解したからである。萬葉学会の聖なる書物にはそう書かれている。

そのような方法で審査する限り、従来説を覆すような画期的進歩は起こらない。人間は自分を物差しとしてしか評価できない。自分を超えるものの価値が理解できるだろうか。結局は査読者たちの常識に整合する論文ばかりが掲載される。「萬葉」にここ十年ほど画期的な論文が掲載されただろうか。従来説の焼き直しばかりではないか。地動説を唱えるものを有罪とするようなやり方は科学(知的活動)を停滞させるばかりか逆行させる。

萬葉学者は論文を文学作品と同じと理解している。新しい発見があることは重要でない。結論が従来説と同じであっても、当該の論文が用いたとは別の例えが使われていれば説得力があると感動する。海外の専門家が書いた言語学の定番の教科書が引用されていれば、たとえその引用が誤訳であっても良い。大切なのは正確さでなく説得力なのだから。権威の発した言葉は錦の御旗となる。たとえ上下逆に掲げていたとしても。

慣れないことをするものではありませんね。断定的に書くという点では国語学者風でしたが、決まり文句の「思われる」「だったのである」を使い忘れました。

Thomas KuhnのいうParadigme shiftを実現するには、国際的な学会(理系はすべてそう)が採用しているように、投稿者と査読者は対等である、という原則を貫くべきです。でないと、査読者の思いも寄らなかったような新しい発見は出てきません。国語学に進歩がないとしたら、そのような審査方法が原因なのかもしれません。ちなみに、「ミ語法の」論文のほうは、三名の査読者があり、反論も認められました。また、今回のク語法の論文の査読理由のような、明晰でない日本語や意味が不明な英単語の使用もありませんでした。今まで書いてきた理系の論文もそうでした。萬葉学会だけたまたま不明瞭な文章を書く人に当たり、萬葉学会だけ査読に反論が認められないのかもしれません。 


参考文献
Kuhn, Thomas (1996), The Structure of Scientific Revolutions, 3rd Ed. (Univ. of Chicago Press)



TSONTS-19 萬葉学会の何が問題か(4)

Q4. なぜク語法の論文をブログに公開したのですか。
A4. 査読者による盗用を防ぐためです。萬葉学会は何ら盗用対策を講じていません。

高山善行(2005)の問題点(6) 引用すべき論文が引用されていないに書きましたが、村上陽一郎(1994)の第5章の「窃盗同様の行為」の節から引用します。


もっと極端な事例として知られるのは、次のようなレフェリー絡みの話である。興味深い内容の論文原稿があるレフェリーの手許に回ってきた。そのレフェリーは、その論文にケチを付けて、著者に変更の要求とともに返送すべきである、という審査結果を出した。編集委員会が、この結果に基づいて手続きをしている聞に、このレフェリーは、当の論文の重要な部分を自分の論文に仕上げて、さっさと審査を通過させ、発表してしまった、というのである。これでは、窃盗と言われでも仕方あるまい。


そういうことが起こりうることは誰もが予想することです。国際的な学会では、投稿した原稿のコピーのすべてのページに渡る日付の入った受領の穿孔印を押して返却するなど、何年何月何日にどういう内容の投稿をしたかの証明が為されます。萬葉学会ではそのような初歩的な対策さえ為されていません。

あなたは知らない人に領収書もなく現金を預けますか。学会誌へ投稿するということはそれと同じです。アイデアのような形のないものは盗んでも証拠が残りません。

人間の記憶力は曖昧です。誰かから聞いた話や何かで読んだ話であっても、年月の立つうちに、自分が昔から考えていた、となるのです。また、他人のアイデアを聞いても、そこに自分の考えを付け加えれば、二人の共同のアイデアでなく、自分だけのものと思う人もあります。

安田尚道(2003)のような事例は石塚龍麿が自分のアイデアを書き止めていたからこそ明らかになったのです。国語学の雑誌に論文を投稿し、それが査読者に犯意がなくても結果として登用されることがないとは言えません。


参考文献
村上陽一郎(1994)『科学者とは何か』(新潮社)
安田尚道(2003) 「石塚龍麿と橋本進吉--上代特殊仮名遣の研究史を再検討する」 『国語学』 54(2), p1-14, 2003-04-01

 

TSONTS-18 萬葉学会の何が問題か(3)

萬葉学会の審査の妥当性の検討(3)に予告したことの続きである。

Q3 自分の論文が掲載されないから怒っているのですか。

A3. 違います。妥当な理由なら従います。今回の萬葉学会の不掲載の理由は理不尽を絵に描いたようなものです。証拠も示さずに新知見と言えないと言ったり、ク語法の意味をはっきりと知覚することだと書いたら、はっきりしないが普通に知覚することの言い方がないから意味がないとか、萬葉集に使われる上代語に関する論文なのに平安時代や鎌倉時代の意味を考察しろと言ったり、言語道断を絵に描いたようなものです。

被害を受けたのは私ひとりでありません。

萬葉学会の過去十年の掲載論文の著者は、一名を除いて大学の教員または院生です。その人は高等学校の教諭です。奈良女子大の卒業生らしい。恐らく国文科の卒業生でしょう。

つまり大学の国文科と関係がない在野の研究者の発表の機会が奪われています。

さらに、萬葉学会の会員は新しい知見を知る権利があります。今回の萬葉学会の不当な理由による不掲載の決定はその人たちの権利を侵害するものです。

雑誌「萬葉」はP氏によると「同人誌」と言われているそうです。同人誌なら会員すべての論文を載せるものです。しかし掲載されるのは特定の人たちに集中しています。逆に言えば同人とは大学関係者だけです。

大学関係者以外の会員の多くは自分の研究を発表する場として入会しているはずです。かつてある理系の学会の事務担当者から言われたことがありますが、学会費は会誌の購読朗ではなく発表する権利に対して払っているのだそうです。理系の学会に入る人は職場や学校に学会誌が置いてあります。

そうであれば尚更萬葉学会のしている行為は詐欺に該当すると言えます。ある人は高齢で年金生活だそうです。乏しい収入からやりくりをして萬葉学会に入っていたそうです。しかし一度も投稿が採用されることがなかったそうです。






TSONTS-17 萬葉学会の何が問題か(2)

萬葉学会の審査の妥当性の検討(3)に予告したことの続きである。

Q2. 論文の採否は運で決まるのではありませんか。

A2. それは当落線上の論文の場合です。今まで検討してきた高山善行(2005)を例にとります。

高山善行(2005)の結論は以下です。
「用言(の連体形)+人」の形は


無標の名詞句であり, 現実性一非現実性の意味解釈は基本的には文脈によって決定される。


「用言(の未然形)+「む」+人」の形は


「む」でマークされることによって, 現実性の解釈は排除され, 必ず非現実性解釈となる。


良く似た論文として山本淳(2003)があります。結論は


i 連体形「む」は、未確認の事実について想像する推量辞であり、「む」が持っている本来のはたらきである。
ii 連体形「む」の有無に関して、話者が未確認の事実であることを明示する必要があると判断した時に表れて、その使用については恣意的である。
iii 連体形「む」は、未確認の事実についての想像を示すということと関わって、「む」と意味的に相関する文節に推量辞を伴いやすい。


です。 連体形「む」がある意味を明示する必要があると話し手が判断したときに現われることは全く同じです。違いは「む」の意味だけです。「む」が表わすのは山本淳(2003)が「未確認」、高山善行(2005)が「非現実」です。

その「非現実」の意味は山田孝雄(1908)に「む」は「非現実性の思想をあらはす複語尾」と記されています。

高山説は山田説と山本説を組み合わせたものです。高山善行(2005)が主張する「演繹」が演繹でないことは高山善行(2005)の問題点(1) 演繹でない推論高山善行(2005)の問題点(1再) 演繹でない推論(つづき)に書きました(※)。とすると高山論文に新規性があるかが論文の採否を決定します。これは査読者により当落が分かれます。運が働くのはこのような論文の場合だけです。殆どの論文は当落線上でありません。査読者が何人いても判断が一致します。

※ このブログの記事のことは萬葉学会にメールして以下の伝言を高山善行氏に伝えるようお願いしました。宛先には萬葉学会編集委員長の関西大学の乾善彦氏も入れてあります。ですから必ず伝わっていることと思います。伝言の部分を再掲します。


高山善行殿

高山善行(2005) 「助動詞「む」の連体用法について」 『日本語の研究』  1(4), 1-15, 2005の問題点を次の記事で論じています。

高山善行(2005)の問題点(1) 演繹でない推論
https://introductiontooj.blogspot.jp/2017/11/to-sue-or-not-to-sue-2.html

高山善行(2005)の問題点(2) データの整理が不適切である
https://introductiontooj.blogspot.jp/2017/11/to-sue-or-not-to-sue-3-20052.html

高山善行(2005)の問題点(1再) 演繹でない推論(つづき)
https://introductiontooj.blogspot.jp/2017/11/to-sue-or-not-to-sue-4-20051.html

高山善行(2005)の問題点(3) モダリティの理解不足
https://introductiontooj.blogspot.jp/2017/11/to-sue-or-not-to-sue-5-20053.html

高山善行(2005)の問題点(4) 主観と客観の混交
https://introductiontooj.blogspot.jp/2017/11/to-sue-or-not-to-sue-6-20054.html

今後も継続する予定です。上記記事並びにその継続記事に対して意見があればコメントまたはメールにて連絡をお願いします。


山田孝雄(1908)は国会図書館のデジタルコレクションで自宅のPCから閲覧できます。「演繹」については論理学(と言っても高校レベルですが)が苦手な人でも納得して貰えるような説明を考えているところです。

最後に慣例となった引用を行う。

「公表された作品については、みる人ぜんぶが自由に批評する権利をもつ。どんなにこきおろされても、さまたげることはできないんだ。それがいやなら、だれにもみせないことだ。」

藤本弘(藤子・F・不二雄)氏の「エスパー魔美」からの引用である。「法華狼の日記」さんのサイトに詳細な解説とそれに対する読者の反論と議論がある。セリフに漢字が少ないことから窺えるように、この漫画は小中学生を読者と想定したものである。自分の論文が批判されて怒っていたら理系の研究者はやっていられない。相互批判は学問の共同体の当然の権利であり、それが学問を発展させるのである。この当然すぎる常識を萬葉学者たちが受け入れてくれることを祈る。


引用文献
山田孝雄(1908)『日本文法論』(宝文館)
北原保雄(1984)『文法的に考える』(大修館書店)
和田明美(1994)『古代日本語の助動詞の研究ー「む」の系統を中心とするー』(風間書房)
Palmer, Frank R. (1979) Modality and the English Modals.  飯島周訳『英語の法助動詞』(桐原書店)
Palmer, Frank R. (1990) Modality and the English Modals. 2nd ed.
Palmer, Frank R. (2001) Mood and Modality, 2nd Edition.
高山善行(2002)『日本語モダリティの史的研究』(ひつじ書房)
山本淳(2003)「仮定・婉曲とされる古典語推量辞「む」の連体形」 山形県立米沢女子短期大学紀要 38, 47-62, 2003-06-30

TSONTS-16 萬葉学会の何が問題か(1)

田川拓海氏のブログ興味深い記事があった。QA形式でまとめられているのだが、Q1とQ5の質問の文言が参考になった。それを以下のように変えて使わせていただこうと思う。

Q1. なぜ萬葉学会を批判しているのですか。
Q2. なんでそんなに長々と書くのですか。心が狭いのですか。

回答は次の次の回を予定している。

と予告した。

なぜ田川氏のブログに行き着いたか。金谷武洋の著書にAmazonに低評価のレビューがあった。それを検索する過程で見付けた。金谷氏の本を読んでおかげで私は三上章氏を知った。三上氏の著書を読んで感じたのは、非常に頭の回転の速い人ということ。ランダウの教科書を読んでいるようだった。神社の参道に急な男坂と緩い女坂があるが、当時の教科書はランダウに限らず皆男坂だった。今のは女坂を更に緩くした感じだ。

教科書の式はすべてfollowすること。それが常識だった。なぜあの式からこの式が導けるのか。下手をすると数日考えることもあった。理系の学生に読ませるならそれでも良かったろう。昔は国立大学の定員を足し合わせても今の東京大学の定員より少ないと言う。三上氏は頭の回転が速かったからこそ、あのそっけない書き方で理解できると思ったのだろう。三上氏が理解され難かった理由の一つに簡潔すぎる説明があったかもしれない。頭の回転が遅い私はこのようにだらだらと長く書きすぎてしまう。閑話休題。

Q1. なぜ萬葉学会を批判しているのですか。

A1. 論文の審査に疑義があるからです。

私が投稿したク語法の論文の不掲載の理由を前回まで検討してきました。大きな問題点は以下です。

1 査読者のQ氏は「新知見と言いえない」と言って拒絶(reject)した。そのような判定をする場合、当該論文と同様の内容が書かれた文献を証拠として示すのが常識である。しかるにQ氏は証拠を示していない。

2 「あく」という動詞の意味を「はっきりと知覚される」と仮定したが、はっきりでもおぼろげでもない「普通の知覚」に対して特立させる形でなければ「あく」によるク語法の価値がないとQ氏は言う。これは拒絶の理由にならない。そもそも「はっきりと」は「おぼろげでない」という意味である。もちろんその表現がわかりにくいというのであれば訂正する用意はある。しかしQ氏言うことは理不尽である。「明言する」は「はっきりと言う」意味であるが、Q氏の論法を適用するとこの単語に存在理由がなくなってしまう。Q氏は言葉と意味の関係に気付いていない。

言葉 → 意味
あく → はっきりと知覚される
X → ぼんやりと知覚される
Y → (普通に)知覚される
言う → (普通に)言う
明言する → はっきりと言う

逆が必ずしも真でないことに気付いていない。私はク語法の意味は「はっきりと知覚される」だと書いた。なぜク語法が「普通に知覚される」などという意味でなければいけないのか。

3 萬葉学会に投稿した上代語に関する論文なのにその後の意味の変化を記述することを求めている。これは論文の範囲を超える。Q氏は中古語が専門と見受けられるが、上代や中世における意味の考察がないという理由で論文が拒絶されても受け入れるのか。まったく芥川龍之介Q氏の論法は芥川龍之介が『侏儒の言葉』の「批評学」で述べた「木に縁って魚を求むる論法」そのものである。

(つづく)


2018年1月8日月曜日

TSONTS-15 萬葉学会の審査の妥当性の検討(5) Q氏の不掲載理由(下)

萬葉学会のQ氏による査読理由の検討を続ける。不掲載の理由の全文は萬葉学会の審査の妥当性の検討(1) 拒絶理由と最初の反論を参照されたい。

Q氏は続ける。

また形式名詞の有無に関わらず、明確ではない知覚(けっして朧気というのではない)すなわちplainな知覚に対して特立される形でなければ、「アク」によるク語法の価値がないから、それとの対比がどうしても必要になる。

この部分の意味がすぐにわからなかった。とりわけ「plainな知覚」がわかりにくい。何を何と対比するのか。最初の反論では従来説との対比だと考えて次のように書いた。

ク語法は用言を体言化するものであるという従来の仮説との対比は大量の用例の検討の中で十分に為されていると考えます。 

後でわかったのだが、Q氏は「plainな知覚」を思いも寄らない意味に使っていた。手元のMerriam Webster's Collegiate Dictionary 11th editionによると、飾りがない、余計なものを含まない、視界を妨げない、心や感覚に明白な、はっきりした、単刀直入な、ありふれた、特徴のない、単純な、複雑でない、美しさも醜さもない等の意味が並んでいる。しかし、plain perceptionならば純粋な知覚、明白な知覚を思い浮かべないか。

テレビの人気番組に「良い子、悪い子、普通の子」というのがあった。それまでは良い子でないのは悪い子であり、悪い子でなければ良い子だった。良い子でも悪い子でもない普通の子という範疇を作ったのが新鮮だった。Q氏はその番組を見て育った世代だろうか。つまり、はっきりした知覚でなく、朧気な知覚でもない、普通の知覚と言いたかったのだ。それを何故覚束ない英語で表現しなくてはならないのか。

想像するに「普通の知覚」では稚拙な表現にQ氏は感じたのだろう。 しかし「plainな知覚」は更に稚拙である。このような本来の意味と違う意味での英単語の使用は高山善行氏の一連の論文にも散見された。Q氏が高山氏であるとすると辻褄が合う。念の為に書くが、このような推論は「逆は必ずしも真ならず」である。更に念の為に書くが、必ずしも真ならずは、必ず偽ではない。

本稿で「はっきりした知覚」と書いたのは良い子と悪い子の二元論しかなかった時代の意味である。「ぼんやりした知覚」を排除するためである。つまり、私の分類の良い子はQ氏の分類で良い子と普通の子になる。大量の用例の現代語訳を読んでもそのことは明白と考える。

そもそも「あく」の意味を「はっきりと知覚される」と書いた。Q氏の言う「plainな知覚」の対応物を何故考えなくてはならないのか。「明言する」の意味を「はっきりと言う」と定義したとき、「普通に言う」の対応物は何かと問う意味があるのだろうか。Q氏は論点をおかしな方向に逸そうとしている。

いずれにしろ、本稿の「あく」はQ氏の考える「普通の知覚」の意味を含む。

最後にQ氏は述べる。


意見としていえば、仮設動詞アクを想定することは、ク語法による動詞名詞句に具体的な意味傾向を付加することになるが、ク語法という文法的環境下ではその具体性は捨象されて準体句のあり方とは異なり、〇〇のような機能を負担するに至ったという形で改めて立論されるべきものと思う。


最初の反論では次のように述べた。


本稿ではアクが終止形の場合と連体形の場合の区別を検討しています。終止形の場合は準体句となりません。そのことが用例の解釈の上で従来説と大きく異なる結果を与えます。「具体性が取捨される」とは考えていません。あくまでも「明確に知覚する」という意味が程度の大小はあれ残存しています。

いずれにしましても、本稿はク語法の成立を明らかにすることを第一目的としております。その目的は十分に果されたと考えます。



本稿は上代の語法について書いたものである。近世にク語法が単なる名詞句と扱われただろうことは、現代語の意味との連続性から理解できる(数学で言う中間値の定理)。それは萬葉学会の雑誌「萬葉」に投稿した上代語の論文である本稿の範囲を超える。Q氏は高山善行氏と同じく中古語が専門のようであるが、だからこそ、上代以降の意味の変化に関心があるのだろうが、ではQ氏の書く中古語の論文に江戸時代や現代の日本語の意味が議論されていないとして拒絶されたら、言語道断と感じないのだろうか。

Q氏の論法は芥川龍之介が『侏儒の言葉』の「批評学」で述べた「木に縁って魚を求むる論法」である。『侏儒の言葉』から引用する。


『全否定論法』或は『木に縁って魚を求むる論法』とは先週申し上げた通りでありますが、念の為めにざっと繰り返すと、或作品の芸術的価値をその芸術的価値そのものにより、全部否定する論法であります。たとえば或悲劇の芸術的価値を否定するのに、悲惨、不快、憂欝等の非難を加える事と思えばよろしい。又この非難を逆に用い、幸福、愉快、軽妙等を欠いていると罵ってもかまいません。一名『木に縁って魚を求むる論法』と申すのは後に挙げた場合を指したのであります。


この論法を使えばどんな論文をも拒絶できる。芥川龍之介は誰でも気付くばからしさを前提に「批評学」を書いたのだろうが、Q氏はそれを現実化した。

追記:2018年1月14日午前0時32分にplainな知覚の部分を一部修正。
 

TSONTS-14 萬葉学会の審査の妥当性の検討(4) Q氏の不掲載理由(中の二)

萬葉学会のQ氏による査読理由の検討を続ける。不掲載の理由の全文は萬葉学会の審査の妥当性の検討(1) 拒絶理由と最初の反論を参照されたい。

前回書き忘れたが、今まで読んだmodalityの教科書や研究書に「 文法上の名詞句の働きとして、構文上にモーダルな意味が付加されている」等という記述はなかった。正しい記述が複数の文献で一致するのは珍しくないが、間違った記述が一致することは滅多にない。正しいことは一つしかないが、間違いは多数あるからである。

Q氏と高山善行氏の考えが一致したのは単なる偶然だろうか。印欧語のmoodは動詞の屈折で表わされる。一方、modalityは助動詞や接尾辞、接頭辞で表される。構文上にmodalityが付加されるとはどういうことだろう。

次の意見はQ氏の独自見解であって査読理由に書くことではない。

さらに明確な知覚という場合、上代では、「世の中は空しきものと知るときしいよよ益々悲しかりけり」の副助詞「し」は副詞性助詞として「知れば知るほどに」と程度強調を表す例がある。

これに付いては前回に書いた。その点はP氏も同意している。Q氏は続けて、

つまり明確に知られるという場合には、副助詞などによる「とりたて」が存在する。そうしたとりたて表現に対して、ク語法はどのように異なるのかを明らかにしないと、仮設動詞アクの語性を適用しても解釈可能だというだけでは新知見とは言いえない。

と言う。最初の反論では次のように述べた。

「し」が「とりたて」であるか否かを別にして、「とりたて」とアクが関連するとは考えていません。そのことは大量の用例の検討から明らかだと思います。ク語法が用言の体言化であるという従来説も、そう仮定すれば歌意が通じるという理由から定説と扱われているに過ぎません。しかし本稿の仮説は記紀万葉の歌や続日本紀宣命の散文の解釈に新たな境地を開いたと考えます。公開して研究者ならびに記紀万葉の愛読者の参考に供する意義は十分にあると考えます。

そもそも「 つまり・・・「とりたて」が存在する。」はQ氏の独自見解である。主観を理由に他人の論文を拒絶できないことは言うまでもない。従って、 「そうしたとりたて表現に対して、ク語法はどのように異なるのかを明らかにしないと、」と要求できないし、「新知見とは言いえない」というQ氏の拒絶理由の理由にならない。

学術論文に要求されるのは、学問の発展に寄与する新しい知見であることである。従って、新規性がないことは拒絶の理由になりうる。しかし、新規性がないことを言うには、そのことが過去に知られていたという証拠(公知材料)を示さなくてはならない。特許庁の審査官が審査が請求された特許出願を新規性がないことを理由に拒絶する時は、必ず先行技術を示す特許広報や技術文献を参照する。私が今まで経験した論文の審査でも、新規性がない場合は必ず先行文献を示す。もちろん、発明者や論文の著者が先行技術や先行文献を知っているかどうかに無関係である。先に誰かが類似の特許や論文を書いていれば後のものは無効になる。

しかし、萬葉学会は証拠を示さず、一方的に「新知見とは言いえない」と断定した。このような査読が許されるならば、どんな論文も拒絶できてしまう。掲載の可否は査読者の主観ではなく客観的な理由に基づかなくてはならない。萬葉学会は学術論文を文芸作品のように考えているのだろうか。

P氏によると、「萬葉」は「同人誌」だそうだが、大学の教員や院生や国文科の卒業生だけが同人であって、大学に所属しない、国文科卒でもない会員は外部の人間なのだろうか。

学術雑誌は新しい知見を研究者が共有することを目的としている。萬葉学会の行為は萬葉学会の会員の知識の享有の権利を妨害するものである。会員には知らせる権利と知る権利がある。

追記:この記事は2018年1月9日の午前0時59分に一部文言を追加した。「前回書き忘れた・・・」の部分である。

2018年1月7日日曜日

TSONTS-13 萬葉学会の審査の妥当性の検討(3) Q氏の不掲載理由(中の一)

萬葉学会のQ氏による査読理由の検討を続ける。不掲載の理由の全文は萬葉学会の審査の妥当性の検討(1) 拒絶理由と最初の反論を参照されたい。

しかしながら、本論は仮設動詞アクの語義分析ではなく、ク語法という準体句相当の語法の解析を目指しているはずである。

この「目指しているはずである 」は「国語学の論文に特有の非論理的な推論 その6 説得力」の「6-6 説得力の六」に書いた「理由無き断定」である。理系の論文を読んだり書いたりしていたものが、国語学の論文を読むときに抵抗を感じるのは、当該分野の研究者の一致した見解とも言えないことを、このように理由を示さず、かつ、それまでの論理の流れから独立に断定的に述べることである。

ク語法という準体句相当の語法」は従来説である。それに対して、用言の連体形に「あく」という動詞が付いたもので、その「あく」の形は終止形と連体形の二つの場合があるとする説を提案した。例えば「言はく」ならば「言ふ」に「あく」が下接して「言はく」という形ができた、その「言はく」は終止形と連体形の二つの場合がある、という解釈をした。

そのような立場に立つ以上「準体句相当の語法の解析」は出来ない。地動説の論文を書いて「この論文は天動説を説明していない」と言われるようなものである。例えば誰かが「モダリティ論」を用いた論文を書いたとして、「本論は従来の助動詞論の立場からの説明を目指しているはずである」と言う人はいるだろうか。著者はどう思うだろうか。

「理由」をメールで受信した当日に書いた反論には次のように書いた。


ク語法は用言を体言化する用法である、あるいは、アクという形式名詞が付加されたものであるという従来仮説と本稿が大きく異なるため、なかなか理解されがたいだろうと考え、異例とも言える大量の用例の検討を行ないました。

>本論は仮設動詞アクの語義分析ではなく、ク語法という準体句相当の語法の解析を目指しているはずである。

本稿はク語法の成立を明らかにすることが第一の目的です。仮定した四段動詞アクは終止形の場合と連体形の場合があります。連体形の場合準体句を形成しますが、準体句の場合も他の活用語の準体句に順ずるものであると考えた解釈を示しました。とくにアクの準体句だけに特別な用法があるとは思いません。「はっきりと知覚される」という意味の動詞の準体句と考えて何ら矛盾することころはありません。

なお、この「はっきりと知覚される」という表現は「かすかに知覚される」状況でないという意味で「はっきりと」という副詞句を付けた。Q氏はのいう「plainな知覚」については次回述べる。

本稿の目的は「ク語法という準体句相当の語法の解析」ではなく、「ク語法の解明」であり、ク語法の本質を明らかにすることである。本質とは準体句等という見かけの姿でないという意味である。従来説では解明できなかった「 ナクニ止め」の謎が明らかになったことは本稿の大きな成果である。「ナクニ止め」とは「思はなくに」などで切れる歌のことであり、その意味は従来詠嘆と解釈されたきた。詠嘆説ではなぜ「なくに」の形だけが詠嘆の意味を持つかが説明できない。従来説は「詠嘆の印象を与えるからきっと詠嘆の意味があるのであろう」という遡及推論、つまり、従来説は後件肯定という論理的誤謬に基く推論の結果である。そのような成果を握りつぶした(意図的にか知らずにか)萬葉学会のP氏とQ氏は雑誌「萬葉」の読者の利益を損ねたことに気付いてほしい。

従来の所説では解明できなかった「 ナクニ止め」の謎が明らかになったことは本稿の大きな成果である。

文法上の名詞句の働きとして、構文上にモーダルな意味が付加されているのか、それともアクそれ自体の語義によっているのかが、本論では明らかではない。

これに対して、最初の反論には次のように書いた。


様相性(modality)の研究が盛んですが、言明が命題と様相とにはっきりと区分されはしません。様相性を表わすとする語のどこまでが命題の一部なのかどこからが様相を表わすのか区分できる研究者はいないと思います。事実数理論理学では命題に様相性演算子が付加されたものもまた命題です。命題と様相という区分は多分に便宜上のものと考えます。たとえば「に違いない」は様相を表わすと言う意見が一般的のようですが、これを命題の一部と捉えても何ら問題はありません。対応する英語のmustがあるからその訳語を様相性を表わす表現と看做しているに過ぎません。言語学における様相性(modality)は印欧語の直説法や仮定法などの法(mood)に準ずるものとして考えられたものですが、それと同じものが日本語にあるか否かは難しい問題だと思っています。

様相性について本稿は「アクが証拠性を担う助動詞であると断定してよいかは現時点で判断が付かない」と述べるに留めました。この証拠性はevidentialityの意味で使いました。日本語の様相性の問題は今後の課題としたいと思います。

アクの担う意味については用例の解釈の中で十分に示したと考えます。従来のク語法は用言の体言化という仮説では解釈が難しいものを解釈できたと思います。

Q氏の「文法上の名詞句の働きとして、構文上にモーダルな意味が付加されている」の意味がわからなかった。そこでいう「名詞句」は「言はく」なのか「言ふ」なのか。前者は「言はく」を名詞句と考える従来説、後者は「言はく」を「言ふ」という連体形と「あく」という四段動詞の連語と考える本稿の説だが、Q氏は従来説を絶対的な真実と考えているようだ。Q氏の言う「モーダルな意味」は本稿の「はっきりと知覚される」という説明をQ氏がモダリティと考えたためだが、「構文上に・・・意味が付加される」とはどういうことか。その後高山氏の一連の論文を読んでわかったのだが、高山氏は構文が単独で意味を持つと考えているようだ。Goldbergの提唱する構文文法(construction grammar)は動詞の意味と屈折が示す法や態と名詞の格が一体となって特有の意味を生ずることではないかと思う。高山氏は構文という観念的なものに意味が付加されると考えているのだろうか。Q氏が高山善行かどうかは分からないが、高山氏と良く似た考えをするようである。

唯物論を信じる私は、ヘーゲルのような観念論は理解しがたく、いや、ヘーゲルがしていたのは観念論的な表現なのかもしれないが、文や句の意味単語(接尾語や活用を含む)自体と単語の組み合わせ(語順やイントネーションを含む)だけで決まると考える。Q氏や高山善行氏のように構文自体が単独で意味を持つと考える人はいないのではないだろうか。

話が拡散した。Q氏の指摘に戻る。動詞「あく」の意味は論文で述べた。上接するのは用言の連体形である。その構文が表わす意味も論文の中で十分議論した。文法理論から検討した概論を述べ、数十の用例の各々に現代語訳を付けた。それの何処が明らかでないと言うのだろう。ここまで詳しく意味を議論した論文は過去に無いのではないか。私の論文は「あく」の意味が「はっきりと知覚される」であると仮定した。それで「明らかではない」とは原稿を斜め読みしかしていないのか。読解力ないのか。これではどんな論文も「明らかではない」の一言で拒絶できてしまう。

そもそも、私が仮定した「あく」をなぜモダリティと決め付けるのか。Q氏はモダリティをどう定義するのか。これをP氏に質問したが、Q氏からの回答は無かった。国語学の世界では、このように、査読者の説に従わない論文は拒絶できるのだろうか。P氏やQ氏や萬葉学会は学問の進歩を願っていないのだろうか。

 さらに明確な知覚という場合、上代では、「世の中は空しきものと知るときしいよよ益々悲しかりけり」の副助詞「し」は副詞性助詞として「知れば知るほどに」と程度強調を表す例がある。

これに対して

「し」が「とりたて」であるか否かを別にして、「とりたて」とアクが関連するとは考えていません。そのことは大量の用例の検討から明らかだと思います。ク語法が用言の体言化であるという従来説も、そう仮定すれば歌意が通じるという理由から定説と扱われているに過ぎません。しかし本稿の仮説は記紀万葉の歌や続日本紀宣命の散文の解釈に新たな境地を開いたと考えます。公開して研究者ならびに記紀万葉の愛読者の参考に供する意義は十分にあると考えます。

と述べた。これについては編集委員のP氏も同意している。上代の文学を読みなれていたら、Q氏のような考えはしにくいのではないだろうか。Q氏は高山善行氏のように中古文学が専門なのかもしれない。しかしそういう人物に萬葉学会が査読を依頼するだろうか。萬葉学者から見て素人が書いた論文であればそのような人物で十分と考えたのだろうか。

田川拓海氏のブログ興味深い記事があった。QA形式でまとめられているのだが、Q1とQ5の質問の文言が参考になった。それを以下のように変えて使わせていただこうと思う。

Q1. なぜ萬葉学会を批判しているのですか。
Q2. なんでそんなに長々と書くのですか。心が狭いのですか。

回答は次の次の回を予定している。
 
追記:2018年1月14日午前0時50分に以下を追記。

1. Adele GoldbergのConstructionsの翻訳書を読んだ。構文自体が意味を持ちえないという従来の常識に対して、それ自体が意味を持つような構文があると彼女は考えている。ただし、高山善行氏の考えとは違うようだ。Goldbergの構文文法については後日書く。

2. 田川拓海氏のブログのQAにならった記事は下記のページから始まる。
https://introductiontooj.blogspot.jp/2018/01/tsonts-16.html


2018年1月6日土曜日

TSONTS-12 萬葉学会の審査の妥当性の検討(2) Q氏の不掲載理由(上)

本ブログを通じて、ク語法の論文の投稿に付き、萬葉学会の担当者の編集委員をP氏、査読者をQ氏と呼んでいる。以下、萬葉学会の審査の妥当性を検討するため、Q氏の示した不掲載の理由を詳細に見ていく。


本論はク語法の語構成を「活用語連体形+あく」と捉え、「あく」は四段活用動詞であって、「ものごとの存在が五感を通じてはっきりと知覚される」「その存在がはっきりと知覚される」意味があるとする。


Q氏の理解は少し違う。念の為論文の仮定を引用する。


仮定1 ク語法は従来考えられていた活用語を名詞化するものでなく、活用語の連体形にアクという四段動詞が下接したものである。

仮定2 アクの根源的意味は、モノ(人や事物)やコト(状態や行為、伝達される内容)が視覚、聴覚、嗅覚、触覚、温度感覚などを通じて「その存在がはっきりと知覚される」ことである。

仮定3 アクは金田一春彦1950の継続動詞に相当し、瞬間動詞に相当しない。




そして、ク語法による名詞句を「~することは明確であるのに/明らかである」として情態副詞「明らかだ」節のように解釈している。


私はク語法を名詞句だとは書いていない。また「あるのに」と訳したのは助詞の「に」が「あく」に後接された場合だけである。Q氏の査読は斜め読みなのだろうか。最初から掲載する他の論文が決まっていたのだろうか。

本稿の新規性の一つは、従来詠嘆とされる「思はなくに」などの「なくに」が多用される理由を合理的に説明し、その意味が「思っていないことが明らかなのに」という新知見を示したことにある。Q氏はここを全く理解していない。


仮説としてアク接尾がもと四段動詞だと考え、その仮設された語義・語性からク語法の用例群を検証するという方法は誤りではない。


「もと」とは書いていない。名詞句だと誤解したところと合わせてQ氏は論文を正しく読んでいない。何度も書いたように、経験科学である言語学は「仮説と検証」以外に方法がない。高山善行(2005)を読み、高山氏は少なくとも当該の論文の執筆の時点で、純粋に演繹的な方法で研究が行なえると考えていたことを知った。Q氏も高山氏と同じ考えのようである。


さらに、ク語法に対して明確な知覚の表明という、モーダルな意味があると捉える点は興味深い。


これには驚いた。本稿はモダリティについて論じてはいない。Q氏はモダリティをどう定義しているかをP氏に問い合わせたが、回答を得ていない。P氏は陳述と同じだとか、仁田義雄氏や益岡隆志氏のモダリティと同じだと言うが、彼らは「はっきりと知覚される」「明らかである」 という意味をモダリティと扱うのだろうか。

萬葉学会の審査の妥当性の検討(1)に 「この時点でP氏は反論に納得し、Q氏を説得できると考えているように思えた。」と書いたが、P氏は一転して、新しい拒絶理由を持ち出してきた。勤務先の法学の研修で習った「一事不再理」という言葉を思い出した。査読者が言わなかった新たな理由を追加して何が何でも不掲載ということにしたいのかと思った。P氏の追加した新たな理由については後述する。

2018年1月5日金曜日

TSONTS-11 萬葉学会の審査の妥当性の検討(1) 拒絶理由と最初の反論

ク語法の論文「「言はく」は「言ふこと」か」を萬葉学会の学会誌『萬葉』に2016年9月19日付けの郵便で投稿した。間も無く9月25日付けの葉書で受領の連絡があった。しかしその後連絡がなかったので2016年11月23日にメールで採否を問い合わせた。12月14日に萬葉学会から連絡があり、不掲載とする査読者の結論と理由が添付されていた。


所見
論題:「言はく」は「言ふこと」か
評定:不採用

評言:本論はク語法の語構成を「活用語連体形+あく」と捉え、「あく」は四段活用動詞であって、「ものごとの存在が五感を通じてはっきりと知覚される」「その存在がはっきりと知覚される」意味があるとする。

そして、ク語法による名詞句を「~することは明確であるのに/明らかである」として情態副詞「明らかだ」節のように解釈している。

仮説としてアク接尾がもと四段動詞だと考え、その仮設された語義・語性からク語法の用例群を検証するという方法は誤りではない。

さらに、ク語法に対して明確な知覚の表明という、モーダルな意味があると捉える点は興味深い。

しかしながら、本論は仮設動詞アクの語義分析ではなく、ク語法という準体句相当の語法の解析を目指しているはずである。

文法上の名詞句の働きとして、構文上にモーダルな意味が付加されているのか、それともアクそれ自体の語義によっているのかが、本論では明らかではない。

さらに明確な知覚という場合、上代では、「世の中は空しきものと知るときしいよよ益々悲しかりけり」の副助詞「し」は副詞性助詞として「知れば知るほどに」と程度強調を表す例がある。

つまり明確に知られるという場合には、副助詞などによる「とりたて」が存在する。そうしたとりたて表現に対して、ク語法はどのように異なるのかを明らかにしないと、仮設動詞アクの語性を適用しても解釈可能だというだけでは新知見とは言いえない。

また形式名詞の有無に関わらず、明確ではない知覚(けっして朧気というのではない)すなわちplainな知覚に対して特立される形でなければ、「アク」によるク語法の価値がないから、それとの対比がどうしても必要になる。

意見としていえば、仮設動詞アクを想定することは、ク語法による動詞名詞句に具体的な意味傾向を付加することになるが、ク語法という文法的環境下ではその具体性は捨象されて準体句のあり方とは異なり、〇〇のような機能を負担するに至ったという形で改めて立論されるべきものと思う。


一読して拒絶の理由として不適切と判断した。主張の裏付けが論理性を欠いていた。私は日本物理学会、日本応用物理学会に所属し、口頭講演、論文投稿、投稿された論文の査読などを行なっていた。学術論文とはどのようなものか、その査読はどのような基準で行なわれるかを知っているつもりである。

すぐに反論をしたためた。同日の2016年12月14日に萬葉学会の編集委員(このブログでP氏と呼ぶ)にメールに添付して送付した。その内容を以下に再掲する。
ク語法は用言を体言化する用法である、あるいは、アクという形式名詞が付加されたものであるという従来仮説と本稿が大きく異なるため、なかなか理解されがたいだろうと考え、異例とも言える大量の用例の検討を行ないました。

>本論は仮設動詞アクの語義分析ではなく、ク語法という準体句相当の語法の解析を目指しているはずである。

本稿はク語法の成立を明らかにすることが第一の目的です。仮定した四段動詞アクは終止形の場合と連体形の場合があります。連体形の場合準体句を形成しますが、準体句の場合も他の活用語の準体句に順ずるものであると考えた解釈を示しました。とくにアクの準体句だけに特別な用法があるとは思いません。「はっきりと知覚される」という意味の動詞の準体句と考えて何ら矛盾することころはありません。

>文法上の名詞句の働きとして、構文上にモーダルな意味が付加されているのか、それともアクそれ自体の語義によっているのかが、本論では明らかではない。

様相性(modality)の研究が盛んですが、言明が命題と様相とにはっきりと区分されはしません。様相性を表わすとする語のどこまでが命題の一部なのかどこからが様相を表わすのか区分できる研究者はいないと思います。事実数理論理学では命題に様相性演算子が付加されたものもまた命題です。命題と様相という区分は多分に便宜上のものと考えます。たとえば「に違いない」は様相を表わすと言う意見が一般的のようですが、これを命題の一部と捉えても何ら問題はありません。対応する英語のmustがあるからその訳語を様相性を表わす表現と看做しているに過ぎません。言語学における様相性(modality)は印欧語の直説法や仮定法などの法(mood)に準ずるものとして考えられたものですが、それと同じものが日本語にあるか否かは難しい問題だと思っています。

様相性について本稿は「アクが証拠性を担う助動詞であると断定してよいかは現時点で判断が付かない」と述べるに留めました。この証拠性はevidentialityの意味で使いました。日本語の様相性の問題は今後の課題としたいと思います。

アクの担う意味については用例の解釈の中で十分に示したと考えます。従来のク語法は用言の体言化という仮説では解釈が難しいものを解釈できたと思います。

>上代では、「世の中は空しきものと知るときしいよよ益々悲しかりけり」の副助詞「し」は副詞性助詞として「知れば知るほどに」と程度強調を表す例がある。

上代語の「し」の意味については十分に解明されていません。「知れば知るほど」の意味は「し」ではなく「いよよ益々」にあると考えるべきではないでしょうか。「し」の意味については、それを程度強調と捉える従来説に対して、別稿を用意しています。いずれにせよ、「し」の語義とアクの解釈は別の問題です。

>そうしたとりたて表現に対して、ク語法はどのように異なるのかを明らかにしないと、仮設動詞アクの語性を適用しても解釈可能だというだけでは新知見とは言いえない。

「し」が「とりたて」であるか否かを別にして、「とりたて」とアクが関連するとは考えていません。そのことは大量の用例の検討から明らかだと思います。ク語法が用言の体言化であるという従来説も、そう仮定すれば歌意が通じるという理由から定説と扱われているに過ぎません。しかし本稿の仮説は記紀万葉の歌や続日本紀宣命の散文の解釈に新たな境地を開いたと考えます。公開して研究者ならびに記紀万葉の愛読者の参考に供する意義は十分にあると考えます。

>形式名詞の有無に関わらず、明確ではない知覚(けっして朧気というのではない)すなわちplainな知覚に対して特立される形でなければ、「アク」によるク語法の価値がないから、それとの対比がどうしても必要になる

ク語法は用言を体言化するものであるという従来の仮説との対比は大量の用例の検討の中で十分に為されていると考えます。

>仮設動詞アクを想定することは、ク語法による動詞名詞句に具体的な意味傾向を付加することになるが、ク語法という文法的環境下ではその具体性は捨象されて準体句のあり方とは異なり、〇〇のような機能を負担するに至ったという形で改めて立論されるべきものと思う。

本稿ではアクが終止形の場合と連体形の場合の区別を検討しています。終止形の場合は準体句となりません。そのことが用例の解釈の上で従来説と大きく異なる結果を与えます。「具体性が取捨される」とは考えていません。あくまでも「明確に知覚する」という意味が程度の大小はあれ残存しています。

いずれにしましても、本稿はク語法の成立を明らかにすることを第一目的としております。その目的は十分に果されたと考えます。
 

同日中に返信があった。P氏はその反論を査読者(本ブログでQ氏とする)に送ると書いてきた。その上で「共通理解を得るには、何度かのやり取りが必要でしょう。」と言う。この時点でP氏は反論に納得し、Q氏を説得できると考えているように思えた。

以上が2016年9月19日の萬葉学会へのク語法の論文の投稿から2016年12月14日の萬葉学会の回答までの出来事である。次回以降、Q氏の不掲載の理由について検討する。 


2018年1月4日木曜日

TSONTS-10 今後の予定

萬葉学会のしていることは詐欺と同じだと思う。学会を名乗り、会員を募る。萬葉集の研究の発展を願う人の集まりだと在野の研究者は思う。在野というのは大学などの研究機関に所属せず、個人として萬葉集を研究している立場である。趣味ではない。それぞれがライフワークとして取り組んでいる。発表の場を求めている。雑誌『萬葉』ならば月遅れ(年遅れ)がネットに公開されている。在野の会員は自分の研究成果の発表が目的のはずだ。ある会員は幾ら投稿しても掲載されなかったと言う。その方は年金で暮らしている。萬葉学会はそういう人たちから金を徴収しながら、それに見合う審査を行なっていないようだ。ようだと言うのは、私の投稿の拒絶理由しか見ていないからだ。

私は自分の論文が掲載されないことに文句を言っているのではない。学術論文として適切な審査を行なわない萬葉学会に改善を求めているのである。在野の研究者を誘うのであれば適切な論文の審査を行なってほしい。 彼らが求めているのは雑誌の講読ではなく発表の場なのだから。

今までの経緯を振り返る。

2016年09月19日。萬葉学会と他の学会へ論文の原稿を送付する。

2016年09月25日付けの葉書で受領確認の連絡が届く。

2016年11月23日。萬葉学会にメールで原稿の採否を問い合わせる。

2016年12月14日。萬葉学会からメールで不掲載の決定とその理由が届く。
萬葉学会のP氏によると、原則として理由は知らせていないという。私のときだけは事前にしつこく問い合わせたためか、メールに添付する形で理由を送ってきた。

一読して非論理的な主張だとわかった。理由にならない理由で拒絶していた。すぐに反論をしたため、P氏にメールした。

P氏はそれを「私的にですが査読者に送ります。共通理解を得るには、何度かのやり取りが必要でしょう。」と返信してきた。

また、P氏は原稿を読んでいないというので、原稿をメールに添付したPDFで送付した。
以上は12月14日のやり取りであった。

2017年01月07日。萬葉学会にメールでその後の状況を尋ねる。査読者(本ブログで一貫してQ氏と呼ぶ)の言語学的知識が当該の論文の査読に相応しくない旨を伝える。理系の学会ならば適任でない査読者の交替の要求は当然の権利。

2017年01月13日。萬葉学会より返信がないのえ再度同趣旨のメールを送る。

2017年01月14日。萬葉学会のP氏よりメールが来る。査読理由への反論のうち、「し」の解釈については同意すると言う。しかし、「一番の問題は、構文的理解が示されていない点と、「成立を問題とする」ことの意味」だと言う。P氏は続けて「成立の組成による意味が、そのまま発話者の意味解釈につながるのか、そうでなく、すでに用法としての意味解釈になっているのかによって、モーダルな解釈が変わってきます。その点では、ク語法の場合、構文的にはやはりモーダルな面を無視できません。「あく」が終止形と連用形との二種類があるならなおさらです。」と言う。

論文では数十の用例について現代語訳を示した。それでも分からないというのだろうか。これほど大量の用例を検討するのは異例だと思う。少なくとも今までに読んだ国語学の論文にそういうものはなかった。「仮説と検証」という方法を用いたからこそ、仮説を多数の用例で検討したのである。

だいたいにして「モーダルな解釈」とは何だろう。「構文的理解」の「構文」はsyntaxなのかstructureなのか。それもわからない。それまであまり気に留めていなかった高山善行氏のモダリティにかんする一連の論文を読むことにした。それが前日までの掲載に至った理由である。

高山善行(2005)を詳細に検討したのは、国語学のような経験科学において演繹的な方法は有効でなく、仮説と検証の方法しかないことを明らかにし、裁判官に知って貰う準備であった。高山氏の言うような、純粋に演繹だけによる研究が可能なのは、人間が作った公理だけに基く数学、神の啓示の解釈だけに基く中世ヨーロッパの神学、他には憲法に基く法学があるぐらいだろう。これは科学研究の常識であり、議論するまでもないのだが、疑問に思う読者は、高山善行氏もここを読んでくれているはずであるが、下記の参考文献から和文のものでは内井惣七(1995)を参照されたい。物理の研究者と科学哲学者の討論の須藤靖、伊勢田哲治(2013)は理(法律、経済)と人文系に何故共通理解が生まれ難いかという点で興味深い。理系対文系でなく、論理に基く理系、法律系、経済系と修辞(文彩)に基く人文科学系の議論の方法の違いが大きい。言語学や国文学は本来は理系の側である。

今後は高山善行氏が何故演繹でないものを演繹と考えるに至ったか、同氏が考えるモダリティとは何か、さらに(可能ならば)それは言語類型学の中にどう位置付けられるか、萬葉学会の査読はどこが非論理的なのか、高山氏とQ氏の類似点などを書いて行く。

萬葉学会が過去に在野の研究者(国文科の学生は在野ではない)の論文を掲載したことは、国文科卒の高校教諭などを除いて例がないようである。国文科を出ていない者に萬葉集が理解できるかと考えているのだろうか。国文科を出ている大学教員でも、国語学や言語学を、その方法論においても、正しく理解してないようである。高山氏の論文の検討によりそれも明らかになってきた。今後はさらにはっきりと理解できるようにする。

いずれにしても、仲間内の大学の教員であれば適切に審査し(あるいは無条件に掲載し)、在野の研究者であれば適切な審査を行なわない(あるいは門前払いとする)ということを萬葉学会や他の古代語の学会が行なっているとしたら、上代語や中古語の研究の進展はないだろう。もしも外部の研究者をもん罪払いにするようなことをするなら、学問の健全な発展に有害である。

なお、To Sue Or Not To Sueを以下TSONTSと略すことにした。

最後に前回までと同様の引用を行う。

「公表された作品については、みる人ぜんぶが自由に批評する権利をもつ。どんなにこきおろされても、さまたげることはできないんだ。それがいやなら、だれにもみせないことだ。」

藤本弘(藤子・F・不二雄)氏の「エスパー魔美」からの引用である。「法華狼の日記」さんのサイトに詳細な解説とそれに対する読者の反論と議論がある。セリフに漢字が少ないことから窺えるように、この漫画は小中学生を読者と想定したものである。自分の論文が批判されて怒っていたら理系の研究者はやっていられない。相互批判は学問の共同体の当然の権利であり、それが学問を発展させるのである。この当然すぎる常識を萬葉学者たちが受け入れてくれることを祈る。


引用文献
Reichenbach, Hans (1951) The Rise of Scientific Philosophy.
Popper, Karl (1959) The Logic of Scientific Discovery.
Popper, Karl (1972) Objective Knowledge: An Evolutionary Approach.
北原保雄(1984)『文法的に考える』(大修館書店)和田明美(1994)『古代日本語の助動詞の研究ー「む」の系統を中心とするー』(風間書房)
Palmer, Frank R. (1979) Modality and the English Modals.  飯島周訳『英語の法助動詞』(桐原書店)
Palmer, Frank R. (1990) Modality and the English Modals. 2nd ed.
村上陽一郎(1994)『科学者とは何か』(新潮社)
内井惣七(1995)『科学哲学入門―科学の方法・科学の目的』(世界思想社)
Palmer, Frank R. (2001) Mood and Modality, 2nd Edition.
高山善行(2002)『日本語モダリティの史的研究』(ひつじ書房)
安田尚道(2003) 「石塚龍麿と橋本進吉--上代特殊仮名遣の研究史を再検討する」 『国語学』 54(2), p1-14, 2003-04-01
山本淳(2003)「仮定・婉曲とされる古典語推量辞「む」の連体形」 山形県立米沢女子短期大学紀要 38, 47-62, 2003-06-30
高山善行(2011)「述部の構造」 金水敏ら(2011)『文法史』 (岩波書店)の第2章
須藤靖、伊勢田哲治(2013)『科学を語るとはどういうことか』(河出書房新社) 高山善行(2014)「古代語のモダリティ」 澤田治美編(2014)『モダリティ 1』 (ひつじ書房)に収録
高山善行(2016)「中古語における疑問文とモダリティ形式の関係」 『国語と国文学』 第93巻5号 p29-41

2018年1月3日水曜日

To sue or not to sue その9 高山善行(2005)の問題点(6) 引用すべき論文が引用されていない

高山善行(2005)の問題点(1) 演繹でない推論に「6 先行文献の引用が不適切。」と書いた。本文で言及されていない論文がある一方、参照されるべき論文が論文が引用されていない。

引用されながら本文で参照されていないのは、
Milsark,  Gary  1974.  Existential  Sentences  in  English, Doctoral dissertation.  MIT,  Cambridge,  MA.
である。There構文に関する共起制限(co-occurrence restriction)が論じられているらしい(他のトピックもあるかもしれない)。もしも高山氏がQ氏(本ブログでク語法の論文を査読した萬葉学会員) であれば、P氏が言う(おそらくQ氏の言葉そのままの)「構文的意味」と関係するのかもしれない。高山氏がQ氏であればいくつかの事実と辻褄が合う。しかし現時点で高山氏がQ氏かどうかは半信半疑である。高山氏はMilsark(1974)を引用して共起制限について語る予定だったのかもしれない。しかし共起制限は何かを演繹的に証明するものではない。その原因を探る仮定で当該の言語の構造や過去の発展について何らかの興味深いアイデアを得るかもしれないだけである(Kreger (2004)の記述を参考にした)。

引用すべきなのに引用されていないのは和田明美(1994)と山本淳(2003)である。

和田明美(1994)『古代日本語の助動詞の研究ー「む」の系統を中心とするー』(風間書房)
山本淳(2003)「仮定・婉曲とされる古典語推量辞「む」の連体形」 山形県立米沢女子短期大学紀要 38, 47-62, 2003-06-30

和田明美(1994)は例えば第6章の一人称の「む」の検討の節で


霍公鳥汝が初声は我れにもが五月の玉に交へて貫かむ(将) 万10-1939
橘は己が枝枝なれれども玉に貫く時同じ緒に貫く 日本書紀歌謡125

」 

など、「む」の有無の例を10組について検討している。同様の検討はこの箇所に留まらない。高山善行(2005)の「人」への連体修飾ではないが、「貫く」と「貫かむ」のような「ミニマルペア」の検討は先行している。

また、第6章の二節の3-VIの「「む」は婉曲を表わすか」では、「言はむ術」と「言ふ術」などの「む」の有無に基くミニマルペアの検討を行なっている。ただし、そこに示されたのは「む」のある用例だけで、ない用例は作例である。しかし、ミニマルペアを比較して婉曲という従来説に疑問を呈しているのであるから、引用して検討すべきであった。高山善行(2002)は明美(1994)を参照論文に上げている。

高山善行(2005)の引用文献に関して最大の問題は山本淳(2003)を引用していないことである。高山氏は中古語が専門であり、その中でもモダリティ(高山氏のモダリティは推量の助動詞と等しい)を詳しく研究している。その高山氏が枕草子を題材として「む」の連体形を「む」の無い形とのミニマルペアで比較し、他の語との共起関係を調べ、次の結論を得ている。


i 連体形「む」は、未確認の事実について想像する推量辞であり、「む」が持っている本来のはたらきである。
ii 連体形「む」の有無に関して、話者が未確認の事実であることを明示する必要があると判断した時に表れて、その使用については恣意的である。
iii 連体形「む」は、未確認の事実についての想像を示すということと関わって、「む」と意味的に相関する文節に推量辞を伴いやすい。


この山本淳(2003)の結論は高山善行(2005)の


Aタイプは無標の名詞句であり, 現実性一非現実性の意味解釈は基本的には文脈によって決定される。一方, Bタイプは「む」でマークされることによって, 現実性の解釈は排除され, 必ず非現実性解釈となる。


と良く似ている。似ていないと高山氏が言うのであれば、山本淳(2003)を引用して違いを明らかにすべきであった。国文系学科の紀要は他大学の国文系学科に配布されるのが通例である。中古語の推量の助動詞を専門とする高山氏である。山本淳(2003)のタイトルを見れば必ず目を通すだろう。当該の紀要が高山氏の勤務先である福井大学の国文科に配布されていなかったとしても、CiNiiのような簡単な検索サイトで発見できる。同僚から紹介もされることもあろう。無人島で電話もメールもなく生活しているわけではない。山本氏が他誌へ投稿した原稿を編集委員や査読者として高山氏が読んだ可能性もありうる。

データの整理の部分で高山氏は母数を勘案した比較を行なっていない。これについては問題点(2)に書いた。「む」のないAタイプと「む」のあるBタイプは母数が6倍近く違う。すると、Aタイプで11例共起し、Bタイプが2例共起したとすれば、共起の割合は2例しかないBタイプが11例あるAタイプより多くなる。そのようなことをすれば、たとえ悪意はなくとも、Bタイプで共起が少ないとする高山氏の主張に不利なデータを見えにくくしたと疑われる。その疑いは山本淳(2003)を引用していないことにも及ぶ。

百歩譲って高山氏が後述する安田尚道(2003)とは違い、山本淳(2003)を手に取っていなかったとしても、これは高山氏の落ち度であり、査読者は高山善行(2005)の改定を要求するのが当然である。国語学系の学会は引用文献を調べていないように思える。著者が大学の教員であれば読まずに掲載と決めているのだろうか。

査読者の盗用は、国際的な学会であれば、あり得るとして対策をとっている。しかし、それでも万全と言えないので、プレプリントサーバーへのポスティングが流行する。村上陽一郎(1994)に興味深い記述がある。第5章の「その倫理問題」の「窃盗同様の行為」の節から引用する。

もっと極端な事例として知られるのは、次のようなレフェリー絡みの話である。興味深い内容の論文原稿があるレフェリーの手許に回ってきた。そのレフェリーは、その論文にケチを付けて、著者に変更の要求とともに返送すべきである、という審査結果を出した。編集委員会が、この結果に基づいて手続きをしている聞に、このレフェリーは、当の論文の重要な部分を自分の論文に仕上げて、さっさと審査を通過させ、発表してしまった、というのである。これでは、窃盗と言われでも仕方あるまい。

そのような行為への対策であろうが、理系の世界では(90年代では)投稿した原稿のコピー一部に受付印が押されて投稿者に返送されるが、その全ページに渡って雑誌名と受け付けた日付が穿孔される。従って、何年何月に投稿した原稿が学会に受け付けられた(received)ことの証拠が投稿者の手元に残る。村上氏が書いているような行為が行なわれるのは十分想定されるだろうから、同様の対策を国語学系の学会もとっていると思っていたが、そのようなことをする学会は(関係者によると)聞かないそうである。世の中に悪人がいるとは思いたくないが、現実に起こりうることである以上、何らかの対策は必要であるし、そのような対策はまた、無用な疑いを生じさせないという効果もある。

橋本進吉氏が先行研究を引用していれば次のような論文は出現しなかった。安田尚道(2003)は橋本進吉氏の上代特殊仮名遣いの再発見が石塚龍麿氏の著作の盗用の可能性を議論したものであるが、同論文が指摘するように、「そもそもどんな学問分野でも,先行研究の存在を知らずにであろうと後から同内容の研究を行なってもプライオリティーを主張できない,というのは常識」である。しかし石塚氏の場合はアイデア(この語は国語学の世界では評判が悪いようであるが、創造的な分野では重視され、良いアイデアを生み出す能力は尊敬される)を書き留めて後世に残されたから幸いであった。そうでなければ盗んだ者勝ちになってしまう。人間には出来心というものがある。国語系の学会も原稿が盗用されにくいシステムを作るべきと思う。

最後に前回までと同様の引用を行う。

「公表された作品については、みる人ぜんぶが自由に批評する権利をもつ。どんなにこきおろされても、さまたげることはできないんだ。それがいやなら、だれにもみせないことだ。」

藤本弘(藤子・F・不二雄)氏の「エスパー魔美」からの引用である。「法華狼の日記」さんのサイトに詳細な解説とそれに対する読者の反論と議論がある。セリフに漢字が少ないことから窺えるように、この漫画は小中学生を読者と想定したものである。自分の論文が批判されて怒っていたら理系の研究者はやっていられない。相互批判は学問の共同体の当然の権利であり、それが学問を発展させるのである。この当然すぎる常識を萬葉学者たちが受け入れてくれることを祈る。


引用文献
Reichenbach, Hans (1951) The Rise of Scientific Philosophy.
Popper, Karl (1959) The Logic of Scientific Discovery.
Popper, Karl (1972) Objective Knowledge: An Evolutionary Approach.
北原保雄(1984)『文法的に考える』(大修館書店)
和田明美(1994)『古代日本語の助動詞の研究ー「む」の系統を中心とするー』(風間書房)
Palmer, Frank R. (1979) Modality and the English Modals.  飯島周訳『英語の法助動詞』(桐原書店)
Palmer, Frank R. (1990) Modality and the English Modals. 2nd ed.
村上陽一郎(1994)『科学者とは何か』(新潮社)
Palmer, Frank R. (2001) Mood and Modality, 2nd Edition.
高山善行(2002)『日本語モダリティの史的研究』(ひつじ書房)
安田尚道(2003) 「石塚龍麿と橋本進吉--上代特殊仮名遣の研究史を再検討する」 『国語学』 54(2), p1-14, 2003-04-01
山本淳(2003)「仮定・婉曲とされる古典語推量辞「む」の連体形」 山形県立米沢女子短期大学紀要 38, 47-62, 2003-06-30
高山善行(2011)「述部の構造」 金水敏ら(2011)『文法史』 (岩波書店)の第2章
高山善行(2014)「古代語のモダリティ」 澤田治美編(2014)『モダリティ 1』 (ひつじ書房)に収録
高山善行(2016)「中古語における疑問文とモダリティ形式の関係」 『国語と国文学』 第93巻5号 p29-41

2018年1月2日火曜日

To sue or not to sue その8 高山善行(2005)の問題点(5) 竜頭蛇尾

高山善行(2005)の問題点(1) 演繹でない推論に「5 論文の冒頭で疑問が呈された「婉曲」「仮定」という従来説の検討が行方不明。同じく「モダリティ表現史」の検討も行方不明。」と書いた。竜頭蛇尾あるいは羊頭狗肉である。

高山善行(2005)はタイトルと要旨を含めて約3ページを費やして、従来説の連体法「む」の「仮定」「婉曲」の解釈、さらには「む」の 基本的意味とされる「推量」に疑問を呈し、「モダリティ論,モダリティ表現史の問題として捉え直してみたい」、「伝統的な助動詞研究が抱える方法論上の問題があると思われる」と述べる(以上、第1.3節まで)。

その上で第2節の「方法」で、「従来の方法は有効でなく、新しい分析方法を工夫する必要がある」として、以下の二種類の名詞句を比較し、

A 「活用語+人」
B 「活用語+む+人」

後者が共起しない表現を調べる。なお、同じ活用語の組で「む」の有無による意味の違いを調べた研究には和田明美(1994)と山本淳(2003)がある。

この論文はAとBの他の語との共起の有無を調べた結果から遡及推論により、「む」は「非現実」を明示的に表わすという仮説を得ている。この仮説は山本淳(2003)の「未確認」であることを明示的に表わすとする説と良く似ている。これについては、問題点(6)で検討する。本稿は遡及推論と書いたが、高山氏は「演繹」と考えているようである。演繹と遡及推論のどちらが相応しいかは、問題点(7)以降で検討する。

「竜頭」の従来説への疑問のうち、検討されたのは「仮定」の解釈のみで、「上記の非現実性を直感的に捉えたものと言える」と述べる。「思はむ子」が仮定であるなら、その子が非現実の存在であるから仮定なのだろうか。直感とは何だろう。山本説であれば、その子を思っているかどうかを確認していないから、やはり仮定となろう。問題点(6)で検討するが、和田論文や山本論文を引用した上で違いを詳述して欲しかった。

「婉曲」は「一方、《婉曲》という理解では、Bタイプの諸制約を説明することができない。《婉曲》については、定義の問題を含めて再検討する必要があろう」と蛇尾に終わる。「推量」についてはその後触れられてもいない。

他の「竜頭」の「モダリティ論」は単に「推量の助動詞」を「モダリティ形式」と言い替えたにしか見えない。事実、高山善行(2016)の注3に「本稿での「モダリティ」は「モダリティ形式」を指す。「推量の助動詞」と読み替えても構わない。」とある。高山善行(2011)と高山善行(2014)にある証拠性の例としてのホピ語という恐らく間違った記述(ホピ語に証拠性がないという記述も無いが、あるという記述を私は知らない)の原因をPalmer, Frank R.(1979)のmodal pastの説明に求めるなら高山善行(2014)の時点で高山氏はまだモダリティ論を理解していないと言えよう。

萬葉学会のP氏は、Frank Palmerら英米の文法学者の言うmodalityとP氏らのモダリティは違うと言うが、高山氏の著書に英米の学者の著書が引用され、参照されている。また、「連体用法「む」にはモーダルな意味(判断的意味)は認めにくく,脱モーダル化した用法と見ることができる」という。それに続く「商品に貼られたラベルのような存在」 の意味が不明であるが、「脱モーダル化」を「推量」の意味が失われたと考えるならば意味が通る。

モダリティ表現史に至っては「 「む」の記述分析が進めば,モダリティ形式の連体用法を解明する糸口がつかめるはずである。」(第1.2節)の一言で終わりである。

結局、高山善行(2005)は「非現実性」を明示的に示すという山本淳(2003)の「未確認」であることを明示的に示すと類似した仮説を提出して終わる。

高山氏の言うモダリティ論とはいったい何だったのかが正直な読後感である。 この問題については問題点(6)以降に論じる。

最後に前回までと同様の引用を行う。

「公表された作品については、みる人ぜんぶが自由に批評する権利をもつ。どんなにこきおろされても、さまたげることはできないんだ。それがいやなら、だれにもみせないことだ。」

藤本弘(藤子・F・不二雄)氏の「エスパー魔美」からの引用である。「法華狼の日記」さんのサイトに詳細な解説とそれに対する読者の反論と議論がある。セリフに漢字が少ないことから窺えるように、この漫画は小中学生を読者と想定したものである。自分の論文が批判されて怒っていたら理系の研究者はやっていられない。相互批判は学問の共同体の当然の権利であり、それが学問を発展させるのである。この当然すぎる常識を萬葉学者たちが受け入れてくれることを祈る。


引用文献
Reichenbach, Hans (1951) The Rise of Scientific Philosophy.
Popper, Karl (1959) The Logic of Scientific Discovery.
Popper, Karl (1972) Objective Knowledge: An Evolutionary Approach.
北原保雄(1984)『文法的に考える』(大修館書店)
和田明美(1994)『古代日本語の助動詞の研究ー「む」の系統を中心とするー』(風間書房)
Palmer, Frank R. (1979) Modality and the English Modals.  飯島周訳『英語の法助動詞』(桐原書店)
Palmer, Frank R. (1990) Modality and the English Modals. 2nd ed.
Palmer, Frank R. (2001) Mood and Modality, 2nd Edition.
高山善行(2002)『日本語モダリティの史的研究』(ひつじ書房)
山本淳(2003)「仮定・婉曲とされる古典語推量辞「む」の連体形」 山形県立米沢女子短期大学紀要 38, 47-62, 2003-06-30
高山善行(2011)「述部の構造」 金水敏ら(2011)『文法史』 (岩波書店)の第2章
高山善行(2014)「古代語のモダリティ」 澤田治美編(2014)『モダリティ 1』 (ひつじ書房)に収録
高山善行(2016)「中古語における疑問文とモダリティ形式の関係」 『国語と国文学』 第93巻5号 p29-41