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2020年6月7日日曜日

JBJ-23 品田悦一の「万葉ポピュリズムを斬る」を斬る その二 「ぼーっと生きている場合ではありません」 上代文学会事件

ポピュリズムの「良い我ら」と「悪い彼ら」の対立の構図は容易に人種差別と結びつく。国立アメリカ歴史博物館の「間違いを正す(Righting a Wrong)」の項目の中の人種差別のページに紹介されている写真を見てほしい。「ジャップは留まるな、ここは白人の地域だ」という看板を誇らしげに指し示す主婦は自分が差別主義者だとは少しも思っていない。善良なアメリカの白人対悪の日本人移民という水戸黄門的世界を現実のものだと思い込んでいる。その下の写真の選挙ポスターで日系人を連想させる衣服を着た人物の黒い腕を掴むのは「良い我ら」の代表を自認する上院議員の白い手である。現代のアメリカ人は知らないが、イギリス人の伝統的な分類では日本人は黒人の一員である。

静かな侵略」という虚構を信じる大衆や上の写真の主婦に欠けているのは理性(reason)である。理性とはものごとを論理的に考える能力を言う。ポピュリズムや人種差別を助長するのは論理的思考の欠如である。品田悦一の言う「ぼーっと生きている場合ではありません」のためには個々人が理性つまり論理的な思考力を身に付けなくてはいけない。

ポピュリズムの反対語はエリーティズムだと言われる。エリーティズムの反対語はポピュリズムでもあるが平等主義でもある。上代文学会は原告の「在野の研究者」という言葉に噛みついた。人文科学の世界では大学や公的機関に所属していないと「研究者」を名乗れないらしい。NHK選書だったかインドのカースト制度を解説した本にこんな話が書かれていた。バラモンでない者がバラモンにしか許されない修業をしているのをあるバラモンが見付けた。怒ったそのバラモンはその者を殺し更に内臓を引き出したと言う。何故そこまで怒ったのか。上代文学会が「研究者」という言葉に噛みついたのと同じではないか。被告の答弁書を見た時にその話を思い出した。

被告は「原告には、専門家としての上代文学研究者に対する敬意が欠けている」と言った。国語国文学の世界で「研究者」とは大学教員であり、大学教員はバラモンである。大学教員でない者が「研究者」を名乗るのはバラモンでない者がバラモンにしか許されない修業をすることと同じである。そのように理解した。 

しかしそこに根拠はあるのか。大学教員を同じ人間としてrespectするのは当然である。しかし権威へのreferenceまで要求する根拠があるのか。理系の研究者のコミュニティは平等主義である。日常の場の上下関係を研究の場に持ち込んではならない。しかしそこに参加するには条件がある。論理的な議論が行なえるだけの理性(reason)を備えていることである。論理を間違えても良い。しかし他人から論理の間違いを指摘されたときに間違っていることを理解できる能力は必要である。「私は国文科の博士課程を修了して大学で教えているのだから私の主観的判断は正しい」というのは理性的でない。なぜ正しいかを論理的に説明しなくてはならない。

上代文学会事件の原告を私が応援してきたのは被告の主張が非論理的だからである。原告の仮説が荒唐無稽だと言うなら、それ以上に被告代表の品田悦一の言う「大伴旅人の暗号」という仮説は荒唐無稽である。どちらも根拠がない。しかし原告の仮説には反証がない。品田の仮説には反証がある。ならば何故原告の仮説だけが荒唐無稽なのか。それは被告らの主観的意見にすぎない。 

品田の主張は万葉集の東歌や防人の歌の作者に庶民はいないとものである。その根拠は
1 馬を詠んだ歌があるが、馬は高価であり庶民が所有できるものでなかった
2 「葛飾の真間」のような広域地名と狭域地名を重ねる表現は民謡にありえない
というものである。

この根拠が例え正しかったとしても品田の主張は東歌や防人の歌の中に庶民の作でないものがあると言っているだけである。そのことをもって万葉集に庶民の歌がないとは断定できない。このことは前回書いた。品田の主張は早まった一般化(hasty generalization)である。

この論理的誤謬は人文系の論文に頻出する。被告代表の品田は法廷で動詞の連体形に下接する「なり」について説明した後に「原告の学力の限界」と言った。学力の意味は不明だが、仮にそれが研究者の能力を表わすとしよう。しかし原告がたまたまある定説を知らなかったからと言ってそれだけで原告の能力を判断するのは「早まった一般化」である。

馬については既に葦の葉ブログさんの記事がある。しかし品田は反論していない。「研究者」でない一般人を相手にするのはバラモンの恥なのだろうか。品田は「家族が竪穴住居に寝起きしながら、脇には馬小屋があって馬を飼育しているという状況は、ちょっと考えにくいんじゃないでしょうか」と言う。問題が二つある。一つは貧乏だから竪穴式住居に住んでいたのかという疑問である。保温や防風などの積極的理由はないだろうか。オランダでは1960年代まで使われていたと言う。もう一つは「考えにくい」という主観的意見を理由にしていることである。論文に主観的意見を書くのは構わない。しかしそれを理由に結論を導いてはいけない。これは世界的な研究の場の常識である。しかし国語国文学の世界では何故か守られない。文学の感想なら良いが、歴史や言語に関しては主観的意見を何らかの結論を導く理由にできない。

品田は馬の価格の記録を二例あげる。一例は公用の伝馬である。農耕用の駄馬と同じか。それでも数十万円である。他に平安時代の記録もあるが、盗品の時価換算である。わざわざ危険を犯して駄馬を盗むだろうか。たった二例の、それも特殊な事例の、つまりバイアスが掛りやすい史料しかない。これも早まった一般化である。結局の所、馬を庶民が乗り回していたかどうかは分からないというのが客観的な事実である。

「葛飾の真間」などの広狭の地名の重複について品田は日常の会話の例をあげて「文京区の本郷」などと言わないと言う。グライス(Paul Grice)やスペルベル(Dan Sperber)を読んだことがないのだろうか。日常会話は最小の努力で最大の情報を伝えることを目的とする。言わなくても通じるなら言わないのは当然である。しかし歌謡は違う。同じ文言を何度も繰り返す。長大な修飾語を使用する。これらは記紀歌謡に多数の例がある。

万葉集の枕詞は日常会話からの類推では説明できない。「葛飾の真間」の「葛飾の」は枕詞と見做すことも出来る。それが正しいと言うのではない。日常会話で言わないから庶民の作った歌でないという論法が非論理的だと言うのである。「木曽の御岳山」や「土佐の高知のはりまや橋」の例がある。品田はそのような例が近代の民謡に少ないと言う。では現代の短歌に万葉集に比べて枕詞が異常に少ないことをどう説明するのだろう。

広狭の地名の重複の問題も結局はそれが東歌や防人の歌が庶民の歌ではないと言い切るには客観的な証拠とならない。それを無理に「考えにくい」や「はずだ」のような主観的な理由で補強するのは国際的な基準でいう研究のあり方ではない。正しいことは正しい。正しくないことは正しくない。正しいか正しくないかわからないことは正しいか正しくないか分からない。そのように考えるのが理性的(論理的)な態度である。

万葉集は品田のいう「ポピュリズム」(正しくはナショナリズム)に利用されただろうか。「撃ちてしやまむ」のような記紀歌謡が戦意高揚のスローガンに用いられた。万葉集の「醜の御楯」もそうだ。しかしそれは万葉集が天皇から庶民までの歌を載せているかどうかと別問題である。品田の論法に従うならば、庶民の歌を載せているならナショナリズムを鼓舞する文化装置として使っても良いことになる。

問題は万葉集が庶民の歌を載せているかどうかではない。たとえ載せていたとしてもそれをナショナリズムの道具にしてはいけない。「研究者」が一般人を啓蒙するのではなく、一般人が正しい目でものごとを判断できるようにしなければならない。魚を与えるのではなく魚を獲る方法を教えるのである。

万葉集が新政権を正当化するための文化装置として作られたという主張は古田武彦が既にしている。明治政府に利用されたとの記述も『壬申大乱』にある。同様の主張をする先行研究を引用して違いを明らかにすることは理系の論文なら査読の際に必ず指摘される事項である。

品田の言う「ぼーっと生きている場合ではありません」に同感である。ポピュリズムやナショナリズムや人種差別に対抗するには一人一人が理性的であることが肝心である。権威や多数意見を妄信しないのが理性的態度である。皆が言っているが本当に正しいのか。大学教授の説だから正しいのか。大野晋は橋本進吉の言葉を引いてしばしば誰が言ったかで判断してはいけないと言っていた。なぜ大野や橋本がそう言うのか。国語国文学の世界で必要以上に権威の言葉が重みを持ってきたからである。あらゆるものを疑うことから科学(哲学の分身としての自然科学、社会科学、人文科学)は始まる。「ぼーっと生きて」ては学問は進歩しないし社会の不正や差別を正すことができない。

ここに蛇足を書かなくてはならないのが残念だが、人文系の人たちは何かの主張を目にすると必要以上に発言者の感情を読み取ろうとする傾向にあるように思う。理性的(論理的)に考えるよりも、そのような説明が楽だと思うのだろうか。私は別に品田悦一が憎くてこの一文を書いたのではない。木村花さんの事件やジョージ・フロイド(George Floyd)さんの事件に接してその背景に非理性的な考えの蔓延を見たのである。その傾向は上代文学会や萬葉学会の中にもある。それらを一掃しなければ差別のない社会を実現できないし、国語国文学の発展もないと思う。

参考文献
Georgia Green (1995) Pragmatics and Natural Language Understanding, Routledge.
古田武彦(2001.10)『壬申大乱』(東洋書林) 2012年にミネルヴァ書房より再刊。
Deirdre Wilson and Dan Sperber (2012) Meaning and Relevance, Cambridge Univ. Press.
Jan-Werner Müller (2016.9) What is Populism? University of Pennsylvania Press.  板橋拓己訳(2017.4)『ポピュリズムとは何か』(岩波書店) この本は翻訳を読んだ。
品田悦一(2020.3) 「万葉ポピュリズムを斬る(前篇)」 雑誌『短歌研究』 2020年3月号
品田悦一(2020.4) 「万葉ポピュリズムを斬る(後編)」 雑誌『短歌研究』 2020年4月号

2020年6月6日土曜日

JBJ-22 品田悦一の「万葉ポピュリズムを斬る」を斬る その一 早まった一般化 上代文学会事件

新型コロナの影響で図書館が休館していた。「短歌研究」の2020年4月号がようやく借り出せた。「万葉ポピュリズムを斬る」の後編がやっと読めた。

品田悦一のいうポピュリズムはナショナリズムである。品田は「本来多角的・多層的であるはずのアイデンティティーのうち、どの国に帰属しているかというレベルばかりがむやみにせり出して、他を圧するようになったのが近代という時代」と書く。それはナショナリズムであってポピュリズムではない。

前回書いたようにポピュリズムは水戸黄門的世界を前提とする。道徳的で善良な「我ら」と不道徳で悪辣な「彼ら」という単純な対立の構図である。それはポピュリズムの必要条件であって十分条件ではない。しかしそれがないならポピュリズムではない。何のためにそのような二元化を行なうのか。民主主義の選挙に勝つためである。

ポピュリズムの根底にはhasty generalizationという論理的誤謬がある。少ない事実を無理やり一般化・単純化して間違った結論を導く誤謬である。「早まった一般化」と訳される。テレビの水戸黄門を見る視聴者は知っている。「代官も商人も全員が悪人ではない、百姓や町人だって同じだ、現実の世界は複雑だ」。それが理性的な考えである。

ナチスは「我々ドイツの労働者や農民は真面目に働いている、狡猾なユダヤ人と彼らと組んだ一部の悪辣な政治家が我々を搾取している」という対立の構図を作った。これは単純で分かりやすい。しかし正しくない。理性的に考えれば、それが早まった一般化の結果だとわかる。

人間は常に理性的か。そうであれば悪政も人種差別も生じない。前回は木村花さんの事件を取り上げた。ドラマの中の世界と現実の世界の区別が付かない非理性的な人たちが彼女をSNSで攻撃した。しかし攻撃した人の全員がいつも非理性的か。そうではない。ある時は理性的であり別のある時に非理性的になるのだ。ネットに向かうと思考が単純化する。水戸黄門を見ている人も同じである。しかしテレビから離れると普段の理性的な状態に戻る。ネットに向かう人は思考が単純化した状態のまま情報を発信する。インターネットの無い時代になかったようなことが起こり始めた原因の一つがそこにあると考える。

ナチスは民主的な選挙で政権を得た。彼らは様々な文化装置を利用して大衆の思考を単純化した。盛大な式典や軍隊の行進は演劇的効果を生み出し思考を単純化する。映画や音楽やヒトラーユーゲントの活動などのすべてが思考の単純化、非理性化に動員された。

それに対抗するにはどうすれば良いか。国民の一人一人が理性的であることである。どんな状況に置かれても常に理性的であり続ける。品田の言う「踊らされてはいけない、ぼーっと生きていちゃいけない」は正にその通りである。しかし多くの人は生まれながらに理性的ではない。様々な論理の錯覚を持って我々は生まれてきた。その錯覚を克服し正しくものごとを考える方法を教えるのが論理学である。論理学の教科書や論理的思考を解く本が多数出版されている。しかし本を読んだだけでは畳の上の水練である。論理的思考は訓練を経て初めて身に付く。

理系の学生は実験を計画し結果を考察することや数学や物理の演習問題を解くうちに論理的に考える訓練を行なう。人文系の学生や教授は他人と議論することで訓練をするはずであるが、日本の文学部の風土(culture)はそれを避ける。権威の意見に反論してはいけないのである。これでは論理的思考が身に付かない。上代文学会は答弁書で「原告には、専門家としての上代文学研究者に対する敬意が欠けている」と言った。これでは「専門家である我々は絶対に正しい」と言っているのと同じである。上代文学会はたびたび「根拠」という言葉を使ったが、そのテーゼに根拠はあるのか。自分の主観的な意見を客観的な事実のように主張するのは論理的でない。

品田悦一の主張は万葉集の東歌や防人の歌の作者に庶民はいないとものである。その根拠は
1 馬を詠んだ歌があるが、馬は高価であり庶民が所有できるものでなかった
2 「葛飾の真間」のような広域地名と狭域地名を重ねる表現は民謡にありえない
というものである。

品田の根拠が正しいと仮定しよう。しかしそれでも品田の説には論理的な誤謬(fallacy)がある。品田は馬が読み込まれた歌と広狭の地名が登場する歌だけを庶民のものでないと言っているにすぎない。これは早まった一般化(hasty generalization)である。一部がそうだから全体がそうだという論法である。白い猫を何匹か見て「猫はすべて白い」というのと同じである。ユダヤ人の悪徳商人が何人かいたという事実からユダヤ人がすべて悪徳商人だ結論するのとも同じである。品田の言うように「ぼーっと生きている場合ではありません」である。その早まった一般化が人々を非理性的にし差別を助長することに気付いてほしい。

長くなったので後編は次回とする。

参考文献
Gideon Kunda (2006), Engineering Culture. Temple Univ. Press.  儀式の演劇的効果をこの本で知った。
Jan-Werner Müller (2016.9) What is Populism? University of Pennsylvania Press.  板橋拓己訳(2017.4)『ポピュリズムとは何か』(岩波書店) この本は翻訳を読んだ。
品田悦一(2020.3) 「万葉ポピュリズムを斬る(前篇)」 雑誌『短歌研究』 2020年3月号
品田悦一(2020.4) 「万葉ポピュリズムを斬る(後編)」 雑誌『短歌研究』 2020年4月号