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2017年1月12日木曜日

万葉集は誰のものか 日本語は誰のものか

万葉集や源氏物語などの日本の古典は日本語話者全員が共同所有する財産です。日本語という言語もそうです。一部の人たちの占有物ではありません。日本の古典には日本の自然や古代の日本人の文化が描かれていることから、国民の財産と言い替えても良いでしょう。

何をそんな当たり前のことをと思う人も多いでしょう。日本の古典や日本語が日本語話者や日本国民の財産であることに異論はないはずです。

万葉集など上代の言語にはよく分からないことがたくさんあります。ク語法やミ語法の意味はわかっていません。このブログでとりあげたズハの語法の意味もわかっていません。国語学の論文に特有の非論理的な推論に少し書きましたが「今は漕ぎ出な」の「な」の意味もはっきりしません。

一方国語国文系の学会事情に詳しい知人は、従来説を覆すような説を部外者が論文に書いても掲載される可能性は非常に低いだろう、と言います。もしもそれが事実であれば、悪意の有無は別にしても、国民の財産である古典文学の意味を国民が知ることを妨害する行為と言えます。

理系のある学会の論文誌の査読を頼まれたことがあります。編集委員は今までにない新しい説なのでぜひ掲載したいと言います。最初に査読した人の結論は棄却だったのですが、その人が通すかもしれないと私の名前をあげたそうです。今までにない説であれば、途中の推論が妥当であればですが、ぜひ自分たちの雑誌に掲載したいと考えるのは当然です。

国語系の学会も同じと思っていたのですが、もしも外部の人間が新説を投稿しても掲載しないとすれば、理系の学会とは別な文化がそこにあることになります。理系の学会は国語系の学会の基準で言えば、論文の著者の大部分が外部の人間です。世界中で同じテーマが研究されています。日本の学会だけが内部の人間のためのギルドになったとしても、ギルドの効果は発揮できません。外部の人間の投稿を拒絶すれば彼らは外部の別な論文誌に投稿します。しかし国語系の学会ではギルドが有効に機能します。研究の殆どが日本でしか行なわれていないからです。

以上はあくまでも仮説です。ギルドがあると仮定しても、それは理系の学会では機能しえませんが、国語系の学会では十分に機能することは確かめられます。このブログをお読みの方々の中にも国語系の学会から見れば「外部の人」となる方があるはずです。もしも国語学の学会が新しい説を推論が妥当であるにも係らず拒絶したとすれば、それは国民の共有財産の私物化になりはしないでしょうか。前回とりあげた法廷で争われた査読の妥当性に新たな判例を追加することになるでしょう。古典文学や日本語は一部の学者たちのものではなく日本語話者や日本国民の共有の財産だからです。

なお前回の記事で重要なのは論文の著者と審査した学会のどちらが勝ったかではなく、裁判所が査読の方法に一定の基準を示したことです。もしも意図的に外部の人間を排除するギルド的な査読が行なわれるとしたら、その学会は論文の著者だけでなく財産の所有者である国民全員の権利を妨害したことになります。

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