Google Analytics

2020年2月29日土曜日

JBJ-09 上代文学会の言う「根拠」と萬葉学会の言う「説得力」 上代文学会事件 九 萬葉学会事件 一

上代文学会(代表 品田悦一氏)に対する会員による損害賠償事件について書いてきた。

被告はしきりに「根拠がない」と言う。被告答弁書(2019年4月22日)から引用する。

「・・研究において重要なのは、新規性とともに、根拠であり、説得力である。根拠の無い恣意的な新説はたちどころにいくらでも立てられる・・」
「 研究者は、いかに根拠をもって説得的に新説を立てるかに日夜腐心しているのである。」
「 研究上の「根拠」とは、なぜそのように考えるべきなのか(なぜそれ以外の考え方より優れているのか)の理由となるものである。原告の要旨は、こう読めると主張しているだけで、上に述べた意味での「根拠」となっていない。」

しかし被告の主張には根拠がない。 原告の発表は仮説の提案である。仮説に根拠は不要である。ベンゼン環の構造の仮説を発表したAugust Kekuléは夢から啓示を受けたという。仮説に必要なのは観測事実と整合することのみである。これは科学技術の研究者には常識であるが、Karl Popperが「仮説をどう導いたかに意味がない」とわざわざ書いているのは当時の人々の中に仮説の導出過程に意味があると考えるものがあったからと思う。

妥当性が保証された推論は演繹法である。しかし演繹法で何かを証明するには公理が必要である。数学は人間が公理を決めた。しかし自然や社会や人間を対象とする学門には公理がない。林檎の実が落ちたという観測事実から引力の法則を演繹できない。そこで仮説を公理と見立ててそこから演繹された結果が観測事実を説明あるいは予想できるかをテストする。その仮説は反証が現れるまでは棄却されない。仮説は思い付くものである。ニュートンは万有引力という仮説を思い付いた。ニュートンの仮説は反証により棄却され相対性理論に取って代わられた。しかし相対性理論が絶対的に正しいという根拠はない。現時点で反証がないだけである。

大阪簡裁で行われた民事調停の席で乾善彦氏は私の論文に「説得力」がないと言ったと調停員から聞かせれた。その意味がわからないでいた。ク語法の論文は科学技術の世界で広く行われている仮説とその検証に基づく。それのどこに「説得力」がないのか。長らく疑問だった。

国語学の論文の推論は次のように行われる。
A ◇→ B, B ◇→ C, C ◇→ D ...
AならばBかもしれない、BならばCかもしれない、CならばDかもしれない・・・。
これを仮説の提案だと思っていた。仮説を思い付くまでの事情を説明して読者の共感を得るのが目的と考えていた。

上代文学会の答弁書を読んでやっと気付いた。彼らは上の「かもしれない」の推論を何かの証明と考えていたのである。もちろん彼らは「かもしれない」とは書かない。たとえば、「と思われる」「と考えられる」「である蓋然性が高い」「と考えるのが自然である」 「のはずだ」「に違いない」「でないとは考えにくい」などである。このような推論が論理的に妥当でないことは言うまでもない。

仮説の提案に根拠は不要である。それに根拠を要求する被告の主張は論理的誤謬である。一方主張には根拠が必要である。しかし被告は根拠を示していない。たとえば次の主張である。

「上代文学に対する説得力のある新説は、それに関わる知識や研究方法を学んでいなければ提出できない」
「専門教育無しにまともな発表ができるほど、上代文学研究は底の浅いものではない」
「学会発表者として選ばれるのが、専門教育を受けた者、受けつつある者であるのは、法学界でも物理学界でも同じであろう。」

私は日本物理学会と応用物理学会で発表経験があり、Elsevierの出版する学術雑誌に投稿経験があるが、そのようなことを言われたことがない。両学会は会員でありさえすれば事実上無審査で発表できる。会員になる要件は正会員の推薦だけである。学術雑誌への投稿に正規教育の有無の規定はない。Albert Einsteinが後にAnnus Mirabilisと言われる1905年に有名な3編の論文を発表したときは在野の研究者であった。

また、次の主張に根拠はあるのだろうか。

「原告は・・文学研究の専門家に対する敬意を持たないために、他者の指導や批評を受けることがなく、独善に陥っている者である。」

敬意は自然に持つものではないのか。国語学者はしばしば「リスペクトせよ」と言うが、その意味はrespectでなくdeferenceのようである。例えば本居宣長は賀茂真淵をrespectしていたが、defer toしなかった。敬意を持つことと盲従することは違う。ソクラテスが処刑される前の晩に弟子たちが牢獄に集まったが、明日処刑される師の言葉に何度も反論している。以前、日常の場と研究の場の違いを書いた。国語国文学の世界には反論されただけで怒り出す人たちがあると聞く。想像してみてほしい。テニスの世界大会や将棋の名人戦で負けた選手が勝った選手に怒ることはあるだろうか。

テニスは元々は相手が打ちやすい所にボールを返しラリーを長く続けることを目的とした優雅な遊びだったと言う。それが、ラインが引かれネットが張られ、相手が打ち返しにくい所にボールを返すスポーツとなった。日常の場なら意地悪とされる行為である。しかしそれがルールであれば怒る人はいない。将棋もそうだ。相手が困る手を指さないと勝てない。研究の場も日常の場とは違うルールがあり、研究者はそれに従っている。相手の主張に論理の破れがあれば指摘するのがルールである。テニスの試合や将棋の対局は日常の場とは違う場である。尊敬する師匠であっても全力で戦う。

もしも上代文学会や萬葉学会が「自分たちは専門家だから敬意(deference)を持て」というなら国語国文学は学問として未熟な段階にあると言わざるを得ない。原告はぜひ被告の主張の数々に対して根拠を要求すべきである。根拠なき主張は却下される。原告の戦略に関してもう一点述べたいことがあるが、それは明日書くことにする。