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2020年4月27日月曜日

JBJ-18 「万葉学者は頭が悪い」のか 上代文学会事件

国語学の論文を読み始めたときは驚いた。これが学術論文かと思った。推論が驚くほど非論理的なのである。時代劇によくある「赤子の手をひねるようなもの」(easy as twisting a baby's arm)とはこのことかと思った(註1)。

註1 この英訳を本田増次郎の翻訳書で知った。

ある人が「(万葉学者たちは)偏差値が低い」「知能指数が低い」と言った。私は即座に反論した。理由は二つある。一つは黙っていると私が言ったことにされるのではないかと恐れたため、もう一つは、そもそも私はそう思っていないからである。

彼らは頭が悪いのではない論理的に考える訓練を受けていないだけだ。そのように私は答えた。

これは考えに考えてたどり着いた結論である。最初は、この著者は私大の文学部卒で高校から数学を全く学んで来なかったのだろう、などと思った。しかしそういう人が何人もいる。国立大学を卒業した人もいる。入試に数学がある。数学を全く学んでいないとは言えない。私の最初の仮説は棄却された。高校時代の同級生の中に文学部に進んだ人たちがある。一人一人を思い出してみた。彼らはそこまで非論理的な主張をしたか。いや、違う。では、なぜ国語学者がここまで非論理的なのだ。

私は大学入学以来ずっと理系の中で暮らしてきた。職場も周りの殆どが理系の卒業生である。だから論理的な説明が通じるのが当然と思っていた。しかし「理系の人」が論理的なのは生まれつきの性質ではない。訓練された結果なのだと気付いた。

数学や物理の問題を解く。論理が正しくないと答えが合わない。実験をする。予想通りにならないのはどこかに論理の欠陥があったからである。コンピュータのプログラムを作る。計画通りに動かないのはプログラムの論理に間違いがあるからである。これが訓練だったのだ。

中学や高校で運動部に入った経験がある人は分かると思うが、飽きるような単調な練習を繰り返しやらされる。その訓練のおかげで考えるより先に体が動くようになる。放課後だけの練習を一年続ければ一般の生徒と技量に大きな開きが出来る。理系の学生はその訓練を朝から晩まで四年間続けるのだ。文学部の学生と大きな開きが出来るのは当然である。卒業してからの日々の仕事もまさに訓練である。

人間には自分や周りが思っている以上の能力がある。私はそう思う。学校を卒業して就職する。職場には工場や研究所の地元の工業高校を卒業して入った人たちがたくさんいる。その中には大卒の技術者が足元にも及ばないような着想力や判断力を持つ人も多い。技術系の職場は一緒に仕事をしていればその人の実力がすぐに分かる。

ところが文学部はそうでないようである。萬葉学会のある人が「(萬葉学会は)京都大学の人たちが作ったので私学卒の私はとても苦労した」と語った。なぜ私学だと苦労するのか。萬葉学会は学歴で差別するのか。ここで草野球のチームを考えてほしい。試合の前の晩に酒を飲みながら「私は名門高校の野球部だった」と言っても、翌日試合をすれば実力が分かってしまう。どこの学校を出たなどというのは全く意味を持たない。それが理系の世界であり、意味を持つのが文学部の世界なのかもしれない。

なぜ意味を持つのか。相互批判が為されないからだと思う。国語学の世界には自説を批判されただけで怒る人がいると言う。なぜか。それも相互批判がないからだと思う。理系の世界のように日々相互批判が行われているなら、草野球の試合のように何度も打席に立ったり守備機会があったりすれば、一度や二度の失敗は挽回できる。しかし相互批判がない世界では、一度の間違いが致命的な印象を与えるのかもしれない。つまり、あの人は(一度だが)間違った、あの人の言うことは信用できない、という、およそ学問の世界とは思えない非論理的で幼稚な判断基準である。

上代文学会は原告は「研究者(H)」でないと言った。その正確な定義は裁判の中で原告から被告に問うてほしい。私の仮説では、「研究者(H)」とは国文科の教員と大学院生である。例外があるとすれば、山田孝雄のような小卒(中学中退)の小学校の教諭である。

被告席で品田悦一は原告の文法の誤り(品田から見た判断ではあるが)を指摘した後で「原告の学力の限界」と言った。原告を怒らせ裁判官を呆れさせたことと思う。大人に向かって「学力」などという言葉を使うか。そう思ったと思う。しかしこれは文学部または国文科の方言ではないか。というのは、同じ言葉を国文科の卒業生の読者の方からのメールで読んだからである。私の説を乾善彦や上野誠がなかなか受け入れようとしないことについて、学力の高い人の言うことを学力の低い人は理解できないとあった。学力というのは学習能力ではなく学問の能力の意味ではないかとその時悟った。

しかし論文の審査に著者の学歴や実績は効力を持たない。もしもそれに基づいて採否を決めるようなことがあれば、他分野なら不正を糾弾される。たとえ著者の学問の能力が低かったとしても、それを理由に発表を受け付けないとか、論文を掲載しないということはあってはならない。原告はそのことを強く主張すべきである。

上代文学会や萬葉学会の問題は彼らの選民意識非論理性である。自分たちは専門家であるから自分たちの主観的判断が絶対に正しいと信じて疑わない。それがどんなに非論理的であるかを知らない。彼らが学校で習ったのと違う考えは「説得力がない」と一蹴される。学術論文の審査は評価ではない。評価は出版後に為されるものである。そのような研究活動の基本となる考えを彼らは受け付けない。これは学問の自由や発言の自由の蹂躙である。

裁判所は大学や学会の判断を云々することが学問の自由に反すると考えるのかもしれない。事実は違う。学門の自由を侵犯するのは大学の国文科や学会である。そのことを原告は強く主張すべきである。自分たちと違う考えを封じることは学問の健全な発展を妨害することである。

ここまで書いてきても、読者の中には、大学の教員が間違うはずがないと思う人もあるかもしれない。そのために、三回にわたり品田悦一の緊急投稿の専門用語の間違いと非論理性について書いたのである。なぜ品田悦一の論文を選んだか。上代文学会の代表だからである。ぜひ品田悦一の言う「間テキスト性」」、「品田悦一の言う「テキスト」とロラン・バルトの言う「作者の死」」、「「令和」から浮かび上がらない大伴旅人のメッセージ」を読んでいただきたい。私は大学に入学して以来理系の世界で生きてきた。その三回の分析で十分と思っているが、ひょっとして国文科の教員たちには伝わっていないのかもしれない。品田悦一が何を間違えて何が非論理的かについて再度書くべきかもしれない。

研究者同士の自由な相互批判が研究を発展させてきた。研究者が論文を書くのはスポーツの選手が試合の場に立つのと同じである。そこには日常の場とは違うルールがある。全力を尽くして戦っても試合が終われば遺恨はない。しかし文学部の研究者の中には自説を批判されただけで怒る人たちがいると聞く。もしもそうならその人は研究者とは言えない。批判されるのを好まないなら研究をやめるしかない。私は品田悦一の論文を批判したが、論文を書いた品田個人に対して特別な感情があるのではない。研究の場と日常の場は別である。 

理系の研究者同士なら言わなくも良いことを書いた。品田悦一がそういう人物だなどとは思わないが、文学部の研究者の中にはそうでない人もあるかもしれない。このような蛇足を書かなくても良くなったとき日本の人文科学の研究は欧米と対等になるだろうし、そうなることを願っている。

参考文献
小谷野敦(2010)「文学研究という不幸」(ベストセラーズ)
中島義道(2014)「東大助手物語」(新潮社)
品田悦一(2019) 「「令和」から浮かび上がる大伴旅人のメッセージ(新元号の深意)」 雑誌『短歌研究』2019年05月号

2020年4月26日日曜日

JBJ-17 原告は研究者でないのか 被告は研究者なのか 文学部教員たちの選民意識 上代文学会事件

Autre syllogisme: tous les chats sont mortels. Socrate est mortel. Donc Socrate est un chat.
Eugène Ionesco, Rhinocéros.

以前書いたように、研究者と有名人は敬称を省略する。研究者は論文の著者、有名人は名前がWikipediaの項目にある人物とする。

昨年3月に上代文学会(代表 品田悦一)を被告とする損害賠償請求訴訟が東京地裁に提訴された。原告が「在野の研究者」と名乗ったのに対し被告が異議を唱えた。しかし学会に所属して論文を投稿する人は研究者である。研究者でない人には学会に所属する利点がない。原告は上代文学会の会員であり、かつ、論文の投稿や口頭発表の申し込みを行なうのであるから、原告は研究する者つまり研究者である。

しかし被告は原告を研究者でないと言う。たとえば、被告は「常任理事は全員、大学の教員で、学期末、学年末には、数百枚の答案、数十通のレポート、卒業論文・修士論文などを短期間に読んで評価を下している。時間内に800字前後の発表要旨8通を精読して下位2名を選ぶことに困難を感じない。自分が出来ないからといって、研究者にも出来ないと臆断するのは不当である」と言う(2019年8月15日付被告準備書面)。

議論がかみ合わないのは原告と被告のそれぞれの定義する「研究者」の意味が違うからである。しかし被告はそれに気付いていない。もしも気付いているなら後から書面を提出する被告は別の定義であることを言わなくてはならない。また、もしも気付いていて敢えて言わないならそれは詭弁である。被告に悪意があるのではなく、単に被告が論理的な議論に慣れていないための見落としであろう。

以下、研究する者をいう研究者を「研究者(G)」、被告が独自に定義するものを「研究者(H)」とする。Gは原告、Hは被告を表わす目安である。「研究者(H)」は「研究者(G)」とどう違うのか。被告は明示的に述べていない。

被告の答弁書や準備書面から推測するに、大学教員と大学院生は「研究者(H)」のようである。被告は言う(2019年4月22日付被告答弁書)。「ただし上代文学に対する説得力のある新説は、それに関わる知識や研究方法を学んでいなければ提出できない。専門教育無しにまともな発表ができるほど、上代文学研究は底の浅いものではない。研究方法は多様でありうるが、基礎知識は共有しなければならない。その学びの場として、全国の大学や大学院上代文学の講座が開かれている。そこで学んだ者が研究者になった場合、文学研究では、研究に専念できる場を得られる職業がほぼ大学教員しか無いので、発表者は大学に職を持つ者、あるいはそれを自指す大学院生に偏るのである」

更に「研究者(H)」は大学教員と大学院生に限られるようでもある。被告は言う(2019年4月22日付被告答弁書)。「当該歌が単に季節の推移に対する感想、を歌ったものではないことは、研究者の間ではほぼ共通した認識となっている」。「当該歌」とは万葉集28番歌であるが、「単に季節の推移に対する感想」でないことが「ほぼ共通した認識」なのは大学の教員や大学院生の間ぐらいである。

また被告は次のようにも言う(2019年6月10日付被告準備書面)。「原告には、専門家としての上代文学研究者に対する敬意が欠けている」。「従来の『万葉集』研究を謂われなく否定しつつ、著者の先入観が検証されることなく展開されるのであれば、研究者から黙殺されるのも致し方ないだろう」。「本件の訴訟も、自己の提出した要旨に、文学・語学研究上の基本的な誤りが存在するにもかかわらず、研究者の度重なる諌止を振り切って、自己の法廷での弁論術を侍みに、文学・語学研究の専門家でもない裁判官に学理上の判断を強いようとする、きわめて不当なものである」。

原告は研究者でなく、かつ、万葉集の訓読に関する論文や書籍の著者は研究者であると暗示する。また「度重なる諌止」を行なったのは上代文学会の理事たちであるから彼らも研究者であろう。

以上から、「研究者(H)」とは、国文科の大学教員と大学院生と彼らが特別に認定した人物に限られる、と推測する。あくまでも推測である。原告は上告審でこのことを被告に確認してほしい。これは重要である。

この裁判に私が注目する理由の一つは国文科の教員たちの選民意識にある。国文科で学んでいない「非研究者(H)」は「研究(H)」が出来ない、「研究者(H)」である自分たちだけが正しい、と彼らは考えているように見える。しかし、そこに上代文学会が答弁書や準備書面でたびたび口にしていた根拠が一切ない。彼らの言う「説得力がない」は「研究者(H)」でない外部の者が言うから信じない、「研究者(H)」である国文科の教員たちから自分が習ったことと違うから信じない、という彼らの主観的判断に過ぎない

大学の教員は当該分野に関して専門家であり、一般人の及ばない知識と判断力を有する。そのように一般人の多くは思っている。裁判官の多くもそうだろう。しかし、国文科の教員については違うと私は考える。被告は「研究方法は多様でありうるが、基礎知識は共有しなければならない」と言う(2019年4月22日付被告答弁書)。しかし、それ以上に重要なことがある。研究者に不可欠なものは論理的な思考および主観と客観の区別である。

今まで三回にわたり品田悦一の短歌研究への緊急投稿を分析してきた。「品田悦一の言う「間テキスト性」」、「品田悦一の言う「テキスト」とロラン・バルトの言う「作者の死」」、「「令和」から浮かび上がらない大伴旅人のメッセージ」である。何のためか。研究者(H)」の書く論文の非論理性を明らかにして彼らに気付いてもらうためである。誤解しないでほしい。彼らの人格の非論理性ではなく、彼らが書く論文の非論理性である。人格と意見(論文)が別であるとする研究の場の常識を思い出してほしい。原告には上代文学会の常任理事たちの書く論文について同様のことを行なってほしい。国語学の研究が学問の本来のあり方、すなわち、論理性と客観性から乖離したものであることを裁判官に示してほしい。いや、裁判官だけでなく、常任理事たちにも自分たちの書く論文が論理性と客観性に乏しいことに気付かせてほしい。

原告にはもう一つ知ってほしいことがある。この裁判は「学問の自由」のためである。それは大学の教員たちだけの専有物でない。「研究者(G)」の一人一人にある。その自由が大学の教員たちによって侵犯されているのである。研究成果を発表する自由を「自分たちの主観と違う」という理由で蹂躙して良いのか。当然の権利を「自分が大学で習ったのと違う」という理由で侵害して良いのか。文学部の危機と乾善彦は言おうとしたようだが、その危機の原因は選民意識に基づくカーストで文学研究を排他的に支配しようとしている教員たちのギルドにある。

冒頭の引用はイヨネスコの「犀」からである。フランス語は初級を学んだだけなので英訳を参考にして訳した。

三段論法をもう一つ:すべての猫は不死でない。ソクラテスは不死でない。ゆえにソクラテスは猫である。

これが間違いであることは誰でもわかる。論理学では「後件肯定」と言われるfallacyである。正しい三段論法は

すべてのギリシア人は不死でない。ソクラテスはギリシア人である。ゆえにソクラテスは不死でない。

となる。この推論は
G → M, G
∴ M
という形をしていて、妥当である。一方、上の猫の推論は
N → M, M
∴ N
であって、この推論は妥当でない。ここで、Gはギリシア人である、Mは不死でない、Nは猫である、いう意味である。

この論理学は形式論理学と呼ばれる。この形式論理学の意味を国語学者の一部は誤解して、「形の上では正しそうだが、現実は正しくない論理」だと思っているようである。証拠はここでは出さない。某大学の名誉教授である。形式論理学はそういうものではない。形式の上で妥当な推論であれば、前提が正しい限り結論が正しいことを保証するのである。しかし国語学者の一部は(多くは?)形式から妥当性を考えない。結論の「ソクラテスは猫である」を見て、引用の推論は間違いだと言うのである。それでは論理学を知らない一般人と変わらない。

実は品田悦一の緊急投稿の論法にも「ソクラテスは猫である」の間違った推論が幾つか用いられている。別に品田悦一に限らない。国文科の教員たちの書く論文の多くに同様の非論理的な推論が用いられている。そのことを原告は裁判で示してほしい。裁判官は上代語の専門家ではないが、「研究者(H)」たちよりは論理に敏感なはずである。

実はイヨネスコの戯曲にはソクラテスという猫が登場する。また引用の前に次のような一節がある。

Voici donc un syllogisme exemplaire. Le chat a quatre pattes. Isidore et Fricot ont chacun quatre pattes. Donc Isidore et Fricot sont chats.

ここに三段論法の例があります。猫は四本足である。ミケとタマは四本足である。ゆえにミケとタマは猫である。

これも後件肯定のfallacyつまり「ソクラテスは猫である」と同じ形式の推論である。国語学者の多くと言ったら言い過ぎかもしれないが、少なくとも何割かはこの推論を正しいと信じてしまうようである。

これも間テクスト性の例であるが、「国語学者には、論理的な訓練を大学で受けてきた国語学者以外の者に対する敬意が欠けている」あるいは「自分が論理的でないからといって、国語学者以外の者も論理的でないと臆断するのは不当である」と言いたい。

論理的に考えられないならば研究者とは言えないのが、理系や法律の世界の常識である。主観と客観の区別が出来ないなら、他人の論文の査読は出来ない。もしもそのような査読をするなら、その査読者は論文の著者の当然の権利として他の者に交代させられるのである。

国語学というのは、少なくとも上代文学会と萬葉学会だけを見るならば、学問と言える段階に達していないと思う。

文学部には独自のカーストがあるようである。それについて書くつもりで下記の引用文献を上げた。文学部以外の卒業生には一読を勧める。他の学部の出身者には理解できない世界と私は感じた。

参考文献
小谷野敦(2010)「文学研究という不幸」(ベストセラーズ)
中島義道(2014)「東大助手物語」(新潮社)
品田悦一(2019) 「「令和」から浮かび上がる大伴旅人のメッセージ(新元号の深意)」 雑誌『短歌研究』2019年05月号

2018年9月30日日曜日

MC-05 萬葉学会の代表の乾善彦氏の返信

2018年2月3日付けで乾善彦氏より返信が届いた。要点は以下であった。

1 3月29日に編輯委員会があるから、回答の期限を伸ばしてほしい。
2 学会でなく「個人を相手に訴訟」を起こしてほしいと伝えたが、そうならず残念だ。
3 今回のような意見が通るなら「人文学の危機」を感じる。
4 私の「誠意」と「教養人としての良心」を考慮されたい。
5 在野の研究者の投稿が掲載されないのは「論文の内容」(水準)が理由だ。
6 投稿は他の学会でもとても掲載される水準にない。

乾善彦氏は代理人の立場を誤解していたようだ。仲介に入った調停役だと考えたのだろうか。

1 これについて私は待っても良いと思ったが、代理人から見れば一方的理由で受け入れられないそうだ。私は甘いのかもしれない。
2 かつて乾善彦氏がそう書いてきたので「では自宅住所を教えてほしい」とメールに書いたのだが返信はなかった。 
3 この大げさな文言を読んで萬葉学会の審査こそ科学の発展を阻害するものと感じた。
4 これではまるで私たち二人は教養人ではなく良心もないというように聞こえる。過去に何度も質問したが無視されてきた。それが乾善彦氏の言う誠意なのか。たとえば萬葉学会の会費の支払い状況を2018年1月に問い合わせたが、2018年9月になったも返信がない。
5 これは後に代理人の指示により手分けして雑誌『萬葉』に掲載された編輯委員の論文を査読した。私はそれまで興味のないテーマの論文を読まないでいた。結果は呆れるほど完成度の低いものであった。
6 この言葉には驚いた。直接私に言っていたことと正反対だからである。先にも書いたように乾氏は代理人を調停役とでも考えていたようで、私に嘘を付いていたことを裏付ける発言となった。

代理人の指示で始めた編輯委員たちの論文の水準の検討は萬葉学会の審査が代理人の言う通り恣意的であり、内に甘く外に厳しいことを痛感した。正直に言って、ここまで水準が低いとは思っていなかった。私一人の判断に万が一誤解があってはいけないので、他の専門家にも読んでもらったが、更に手厳しい評価が返ってきた。
 

2018年9月29日土曜日

MC-04 共闘

萬葉学会を訴えるというR氏の提案を受け入れるまでに逡巡したことは前回書いた。何もしなければ何も変わらない。しかし何かをすれば良い影響も悪い影響もある。論文の種は三十ほどある。順次投稿して行こうと考えていた。しかし萬葉学会から関連の学会へ回状が回りこの者の論文を掲載するなということがあるかもしれない。R氏はむしろ雑な審査を行なえないと考えるだろうと言う。そうとも考えられるし、そうでないとも考えられる。

弁護士費用も交通費も要らないと言う。大変ありがたい提案である。当然私のためだけに行なう裁判ではない。いわばR氏と私の共闘である。私たち以外にも排他的な審査の被害者はいるだろう。記者会見等を行なうなどして広く世間に知らしめると言う。そうであれば裁判は勝たなければならない。世の中の人の大部分は両者の言い分を十分に検討するなどということをしない。偉い学者たちの判断に個人的な不満から訴えたと思われるだろう。矢面に立つのは賭けであった。

R氏と知り合ったのも何かの縁である。それまでに様々な偶然が重なった。後で振り返ると、恐れ多いが淵田美津雄氏のような気持ちであった。キリスト教徒の知人から言われた「裁判に訴えて罪に気付かせてあげるのも愛である」という言葉も思い出した。しかし何よりも万葉集や上代日本語の研究を発展させるには萬葉学会のギルド的体質を打破しなくてはならないと思った。

萬葉学会の編輯委員たちは学術論文を短歌や俳句のような文芸作品と考えているように見えた。乾善彦氏の言う「良い論文」とは学問としての万葉学を発展させるものではなく、彼らが満足する「様式美」を備え彼らの「常識」(実は非常識なのだが)を満たすものを言うのではないかと感じる。それでは学問は進歩しない。相対性理論は光速に近い速さで運動する物体の長さが縮み質量が増大し時間が遅れることを主張する。これは一見「常識」に反する。しかし多くの人が考える常識は非常に特殊な世界でだけでしか成立しない。長さや質量や時間の進み方が一定であると考えることこそ非常識であった。

2018年1月31日に萬葉学会の代表の乾善彦氏に通知を送付した。もう後戻りできない。 

2018年9月21日金曜日

MC-03 矢面に立つ決意

R氏と知り合ったのは2017年の9月であった。公開している電子メールアドレスにメールを貰った。ブログは努めて公平に書いている。そのため文章の切れ味が悪い。ネットの文章はじっくりと考えながらは読んでもらえない。素人の好事家が萬葉学会という権威にたてついていると思われるのではないかと恐れていた。さすが弁護士である。R氏は私の書くことを丁寧に読んでくれていた。

その後論文や著書を交換し、電子メールのやり取りが幾度かあった。応援してくれる読者の一人と感じていた。年末に訴訟の提案があった。萬葉学会の態度は頑なであった。聞く耳をもたないとはこのことを言うのかと思っていた。幾ら説明しても、通じなかい。「自分たちは専門家である。素人は専門家の言うことに従うべきである。」という印象を受けた。このままでは訴訟になるかもしれないとは薄々予想していた。しかしそうなると、萬葉学会だけでなく国語学の関係者を全員敵に回すかもしれない。背水の陣である。そう考えたのは、萬葉学会の壁の厚さを感じたからである。

私は企業の技術者や研究者として働いてきた。研究の真似事もし、応用物理学会などで何度も発表を行なった。海外の専門誌へ論文を投稿し採用もされた。学会を通じて他の企業や研究機関の研究者の他に、大学の教員とも親しく情報交換をしてきた。その中では萬葉学会のような「壁」は感じなかった。話せば分かる人たちだった。こちらの話を敬意をもって真剣に聞いてくれた。それが萬葉学会にはないのである。論理的に、あるいは例え話で、萬葉学会の担当者を説得しようとしても、暖簾に腕押しだった。今まで常識だと思っていたことが萬葉学会には通じない。ひょっとすると、国語学の学界はこのような自然科学や工学とは別の論理や別の常識が支配する世界なのかとも思った。また、大学の先生方は一言か二言話せば、私が彼らと同じ世界の住人であるという理解が得られた。

万葉集や古今集の論文は一般の人も読む。固体物理や核エネルギーの論文は一般の人は読まない。興味もないだろうし、内容も何年もの専門教育を受けなくては理解できない。萬葉学会は希望すれば誰でも入会できる。物理学会は正会員二名の推薦が必要である。見知らぬ人から電話やメールがあっても、二言三言話せば相手が自分と同じ専門家かどうか簡単に分かってしまう。そもそも一般の人が興味を持つ世界ではない。専門家と一般人の間に専門知識の大きな開きがある。その上研究者は世界中に分布している。だから見知らぬ人に寛容である。国語学の世界は違う。専門家と一般人の知識の差が、少なくとも理系と比べれば、小さい。国語学の専門家は一般人とは別の訓練を受けているわけではない。大学に所属しない人間は彼らから見れば「よそ者」なのかもしれない。そう考えた。よそ者はよそ者であるだけで排除される。よそ者が行動を起こせば正当であっても更に排斥されるかもしれない。それを私は恐れた。

国語国文学の「中」にいた人たちから、ガラパゴス、小さな村のような社会、ギルドなどの言葉を聞いた。ますます恐れた。

R氏の提案に即答は出来なかった。しばらく考えた。しかしこのままで萬葉学会が変わるとも思えなかった。自分たちのギルドを作り、在野の研究者(R氏の言葉)を排除し続けるならば、万葉集をはじめとする日本国民の財産が閉鎖的な団体に独占され、科学的な研究を受け付けないだろう。江戸時代に読めなかった歌は今も読めない。ミ語法、ク語法、ズハの語法など、多くの助詞や助動詞の正しい意味は未だに解明されていない。辞書の説明に従って読めば、あちこちで矛盾に出会う。このままではいけない。万葉学の方法を「と思われる」「である蓋然性が高い」という主観を束ねた非論理的な推論から、仮説と検証に基く科学に変えなくてはいけない。それが神から与えられた使命だと考え、提案に従うことにした。

R氏の描いたシナリオは最高裁まで争うことである。R氏は国政選挙の定数是正の話をされた。R氏を含め実現するとは思わなかった。それが実現した。万葉学を改革するのも困難な道かもしれない。しかし何もしなければ変わらない。R氏の言葉と信仰心の薄い私なりの使命感から矢面に立つ覚悟を決めた。

まずは民事調停を行なう。相手を裁判所に呼び出し、二三回は会って説得を試み、それで相手が応じないなら、本格的な裁判へ進む。そのようなシナリオの下で民事調停が始まった。民事調停は決裂する。それがR氏の予想であり、シナリオだった。

2018年5月23日水曜日

MC-02 民事調停は成功したのか

頭が回らないと感じたのは熱のせいでなく風邪薬のためだったかもしれない。弁護士のR先生が提案した葉学会の査読が恣意的で不平等であることが争点だったはずが、ク語法の論文の採否の是非になってしまった。第一回目の調停で萬葉学会から出された「説得力がない」は第二回目の今回は相手方が触れず、「見らくし惜しも」のような「二重の準体句がひっかかる」が新たにク語法の論文の問題点として乾善彦氏より提出された。万葉集にそのような例がないと言う。

時代は中古になるが、土佐日記に
生まれしもかへらぬものをわが宿に小松のあるを見るがかなしさ
という用例がある。「あるを見る」の「ある」と「見る」が連体形で二重の準体句である。万葉集に例が本当にないのだろうか。なかったとしても確率の問題と思う。

せっかく大阪まで行ったんだから何か大阪ならではのものを食べたかったが、風邪で体調が悪いのはどうしようもない。ちょうど新大阪始発の「のぞみ」があったので何も食べず土産も買わずまっすぐに帰ってきた。

弁護士のR氏の本を乾善彦氏がほめていた。近々書評論文が出るかもしれない。そういう在野の研究者の著書がアカデミックな雑誌で取り上げられるならば、民事調停の試みが半分は成功したことになる。


2018年5月22日火曜日

MC-01 民事調停

夏風邪で熱があるのを押して大阪簡易裁判所へ代理人のR弁護士と出かけました。新幹線の冷房対策にセーター、フリース、ウィンドブレーカーを鞄に詰め込み、下着は冬用のものという出で立ちでした。

前回は4月19日でした。その時は申立人のこちらが裁判官と調停員に説明し、いったん控え室に下がり、その間に裁判官と調停員が相手方にこちらの意見を説明し、相手の意見を聞き、相手方が控え室に戻ると、また申立人の私たちが呼ばれ、相手の意見の説明を受け、こちらの意見を言い、また次に相手方が呼ばれ、という繰り返しです。

今日は対面調停というもので、裁判官と調停員が立会いの下双方が意見を言い答えます。

代理人の指示でいくつか書類を用意して臨んだのですが、今日はそのことが俎上に乗りませんでした。人生何事も経験です。できれば体調が万全であればと思いました。熱で頭が回らない。もともと悪い頭が更に悪くなってしまいました。

人生とは面白いものでブログを始めなければ代理人と出会わなかったでしょうし、民事調停も経験しなかったでしょう。

帰りの新幹線の中では図書館から借りた解析力学の教科書を読んでいました。ランダウもゴールドスタインも持っている(昔読んだ)のですが、なるほどこういう説明の仕方もあるんだなあと感心しました。ゴールは同じですが、初学者はつまらないところで躓くものです。ずっと上代語のことばかり考えていたので、暗算力がだいぶ落ちているのを感じました。いや、これは年のせいか。

こういうことを言うとあれですが、人文系の学者が書いた論理学や相対論の本にところどころおかしなところがあるのは、やはり抽象的にものを考える訓練を理科系の人たちほど受けていないからではないか。そう思います。それは頭の良さではありません。訓練の賜物です。誰でも訓練をすればそこそこ抽象的な思考、それは言語学に必要なことですが、それができるようになります。

ミ語法の論文に言語学の本を二つ引用しました。どちらも最初のページから最後のページまですべて読みましたが、いや疲れた。著者はどちらも数学の学位を持っています。ドイツ語圏、フランス語圏は知りませんが、英語圏の言語学は応用数学です。それを数式を使わずに言葉(英文)の説明だけで抽象化して理解する。数式という便利な道具を使わないだけ余計に読むのが疲れます。

2018年1月11日木曜日

TSONTS-20 萬葉学会の何が問題か(5)

Q5. 査読者の交替を要求しなかったのですか。
A5. それ以前に反論さえ認めないと言っています。

理系の学会は投稿者と査読者は対等です。査読者が理解不十分で査読に相応しくないと判断すれば当然の権利として編集者に査読者の交替を要求します。萬葉学会はそれとは全く別の常識が支配する世界です。以下は私の推測です。国語学者であれば当然の発見の如く書くでしょうが、常に客観的に表現することを訓練された理系人の控えめな書き方は国語学者たちから見れば「説得力がない」かもしれません。国語学者風に書いてみましょう。

萬葉学会は未熟な投稿者を専門家である国語学者が指導育成すると考える。国語学者は不可謬であり、その発言は絶対の真理である。投稿者はけして逆らってはならない。天は人の上に査読者を作り、人の下に投稿者を作る。萬葉学会はそう考えるのである。

投稿者は査読者の言い付けを遵守して論文を改良すること。ゆめ査読者が間違っているなどと思ってはならない。書き直して論文の価値が下がったとしたら、それは投稿者が査読者の真意を誤解したからである。萬葉学会の聖なる書物にはそう書かれている。

そのような方法で審査する限り、従来説を覆すような画期的進歩は起こらない。人間は自分を物差しとしてしか評価できない。自分を超えるものの価値が理解できるだろうか。結局は査読者たちの常識に整合する論文ばかりが掲載される。「萬葉」にここ十年ほど画期的な論文が掲載されただろうか。従来説の焼き直しばかりではないか。地動説を唱えるものを有罪とするようなやり方は科学(知的活動)を停滞させるばかりか逆行させる。

萬葉学者は論文を文学作品と同じと理解している。新しい発見があることは重要でない。結論が従来説と同じであっても、当該の論文が用いたとは別の例えが使われていれば説得力があると感動する。海外の専門家が書いた言語学の定番の教科書が引用されていれば、たとえその引用が誤訳であっても良い。大切なのは正確さでなく説得力なのだから。権威の発した言葉は錦の御旗となる。たとえ上下逆に掲げていたとしても。

慣れないことをするものではありませんね。断定的に書くという点では国語学者風でしたが、決まり文句の「思われる」「だったのである」を使い忘れました。

Thomas KuhnのいうParadigme shiftを実現するには、国際的な学会(理系はすべてそう)が採用しているように、投稿者と査読者は対等である、という原則を貫くべきです。でないと、査読者の思いも寄らなかったような新しい発見は出てきません。国語学に進歩がないとしたら、そのような審査方法が原因なのかもしれません。ちなみに、「ミ語法の」論文のほうは、三名の査読者があり、反論も認められました。また、今回のク語法の論文の査読理由のような、明晰でない日本語や意味が不明な英単語の使用もありませんでした。今まで書いてきた理系の論文もそうでした。萬葉学会だけたまたま不明瞭な文章を書く人に当たり、萬葉学会だけ査読に反論が認められないのかもしれません。 


参考文献
Kuhn, Thomas (1996), The Structure of Scientific Revolutions, 3rd Ed. (Univ. of Chicago Press)



TSONTS-19 萬葉学会の何が問題か(4)

Q4. なぜク語法の論文をブログに公開したのですか。
A4. 査読者による盗用を防ぐためです。萬葉学会は何ら盗用対策を講じていません。

高山善行(2005)の問題点(6) 引用すべき論文が引用されていないに書きましたが、村上陽一郎(1994)の第5章の「窃盗同様の行為」の節から引用します。


もっと極端な事例として知られるのは、次のようなレフェリー絡みの話である。興味深い内容の論文原稿があるレフェリーの手許に回ってきた。そのレフェリーは、その論文にケチを付けて、著者に変更の要求とともに返送すべきである、という審査結果を出した。編集委員会が、この結果に基づいて手続きをしている聞に、このレフェリーは、当の論文の重要な部分を自分の論文に仕上げて、さっさと審査を通過させ、発表してしまった、というのである。これでは、窃盗と言われでも仕方あるまい。


そういうことが起こりうることは誰もが予想することです。国際的な学会では、投稿した原稿のコピーのすべてのページに渡る日付の入った受領の穿孔印を押して返却するなど、何年何月何日にどういう内容の投稿をしたかの証明が為されます。萬葉学会ではそのような初歩的な対策さえ為されていません。

あなたは知らない人に領収書もなく現金を預けますか。学会誌へ投稿するということはそれと同じです。アイデアのような形のないものは盗んでも証拠が残りません。

人間の記憶力は曖昧です。誰かから聞いた話や何かで読んだ話であっても、年月の立つうちに、自分が昔から考えていた、となるのです。また、他人のアイデアを聞いても、そこに自分の考えを付け加えれば、二人の共同のアイデアでなく、自分だけのものと思う人もあります。

安田尚道(2003)のような事例は石塚龍麿が自分のアイデアを書き止めていたからこそ明らかになったのです。国語学の雑誌に論文を投稿し、それが査読者に犯意がなくても結果として登用されることがないとは言えません。


参考文献
村上陽一郎(1994)『科学者とは何か』(新潮社)
安田尚道(2003) 「石塚龍麿と橋本進吉--上代特殊仮名遣の研究史を再検討する」 『国語学』 54(2), p1-14, 2003-04-01

 

TSONTS-18 萬葉学会の何が問題か(3)

萬葉学会の審査の妥当性の検討(3)に予告したことの続きである。

Q3 自分の論文が掲載されないから怒っているのですか。

A3. 違います。妥当な理由なら従います。今回の萬葉学会の不掲載の理由は理不尽を絵に描いたようなものです。証拠も示さずに新知見と言えないと言ったり、ク語法の意味をはっきりと知覚することだと書いたら、はっきりしないが普通に知覚することの言い方がないから意味がないとか、萬葉集に使われる上代語に関する論文なのに平安時代や鎌倉時代の意味を考察しろと言ったり、言語道断を絵に描いたようなものです。

被害を受けたのは私ひとりでありません。

萬葉学会の過去十年の掲載論文の著者は、一名を除いて大学の教員または院生です。その人は高等学校の教諭です。奈良女子大の卒業生らしい。恐らく国文科の卒業生でしょう。

つまり大学の国文科と関係がない在野の研究者の発表の機会が奪われています。

さらに、萬葉学会の会員は新しい知見を知る権利があります。今回の萬葉学会の不当な理由による不掲載の決定はその人たちの権利を侵害するものです。

雑誌「萬葉」はP氏によると「同人誌」と言われているそうです。同人誌なら会員すべての論文を載せるものです。しかし掲載されるのは特定の人たちに集中しています。逆に言えば同人とは大学関係者だけです。

大学関係者以外の会員の多くは自分の研究を発表する場として入会しているはずです。かつてある理系の学会の事務担当者から言われたことがありますが、学会費は会誌の購読朗ではなく発表する権利に対して払っているのだそうです。理系の学会に入る人は職場や学校に学会誌が置いてあります。

そうであれば尚更萬葉学会のしている行為は詐欺に該当すると言えます。ある人は高齢で年金生活だそうです。乏しい収入からやりくりをして萬葉学会に入っていたそうです。しかし一度も投稿が採用されることがなかったそうです。






TSONTS-17 萬葉学会の何が問題か(2)

萬葉学会の審査の妥当性の検討(3)に予告したことの続きである。

Q2. 論文の採否は運で決まるのではありませんか。

A2. それは当落線上の論文の場合です。今まで検討してきた高山善行(2005)を例にとります。

高山善行(2005)の結論は以下です。
「用言(の連体形)+人」の形は


無標の名詞句であり, 現実性一非現実性の意味解釈は基本的には文脈によって決定される。


「用言(の未然形)+「む」+人」の形は


「む」でマークされることによって, 現実性の解釈は排除され, 必ず非現実性解釈となる。


良く似た論文として山本淳(2003)があります。結論は


i 連体形「む」は、未確認の事実について想像する推量辞であり、「む」が持っている本来のはたらきである。
ii 連体形「む」の有無に関して、話者が未確認の事実であることを明示する必要があると判断した時に表れて、その使用については恣意的である。
iii 連体形「む」は、未確認の事実についての想像を示すということと関わって、「む」と意味的に相関する文節に推量辞を伴いやすい。


です。 連体形「む」がある意味を明示する必要があると話し手が判断したときに現われることは全く同じです。違いは「む」の意味だけです。「む」が表わすのは山本淳(2003)が「未確認」、高山善行(2005)が「非現実」です。

その「非現実」の意味は山田孝雄(1908)に「む」は「非現実性の思想をあらはす複語尾」と記されています。

高山説は山田説と山本説を組み合わせたものです。高山善行(2005)が主張する「演繹」が演繹でないことは高山善行(2005)の問題点(1) 演繹でない推論高山善行(2005)の問題点(1再) 演繹でない推論(つづき)に書きました(※)。とすると高山論文に新規性があるかが論文の採否を決定します。これは査読者により当落が分かれます。運が働くのはこのような論文の場合だけです。殆どの論文は当落線上でありません。査読者が何人いても判断が一致します。

※ このブログの記事のことは萬葉学会にメールして以下の伝言を高山善行氏に伝えるようお願いしました。宛先には萬葉学会編集委員長の関西大学の乾善彦氏も入れてあります。ですから必ず伝わっていることと思います。伝言の部分を再掲します。


高山善行殿

高山善行(2005) 「助動詞「む」の連体用法について」 『日本語の研究』  1(4), 1-15, 2005の問題点を次の記事で論じています。

高山善行(2005)の問題点(1) 演繹でない推論
https://introductiontooj.blogspot.jp/2017/11/to-sue-or-not-to-sue-2.html

高山善行(2005)の問題点(2) データの整理が不適切である
https://introductiontooj.blogspot.jp/2017/11/to-sue-or-not-to-sue-3-20052.html

高山善行(2005)の問題点(1再) 演繹でない推論(つづき)
https://introductiontooj.blogspot.jp/2017/11/to-sue-or-not-to-sue-4-20051.html

高山善行(2005)の問題点(3) モダリティの理解不足
https://introductiontooj.blogspot.jp/2017/11/to-sue-or-not-to-sue-5-20053.html

高山善行(2005)の問題点(4) 主観と客観の混交
https://introductiontooj.blogspot.jp/2017/11/to-sue-or-not-to-sue-6-20054.html

今後も継続する予定です。上記記事並びにその継続記事に対して意見があればコメントまたはメールにて連絡をお願いします。


山田孝雄(1908)は国会図書館のデジタルコレクションで自宅のPCから閲覧できます。「演繹」については論理学(と言っても高校レベルですが)が苦手な人でも納得して貰えるような説明を考えているところです。

最後に慣例となった引用を行う。

「公表された作品については、みる人ぜんぶが自由に批評する権利をもつ。どんなにこきおろされても、さまたげることはできないんだ。それがいやなら、だれにもみせないことだ。」

藤本弘(藤子・F・不二雄)氏の「エスパー魔美」からの引用である。「法華狼の日記」さんのサイトに詳細な解説とそれに対する読者の反論と議論がある。セリフに漢字が少ないことから窺えるように、この漫画は小中学生を読者と想定したものである。自分の論文が批判されて怒っていたら理系の研究者はやっていられない。相互批判は学問の共同体の当然の権利であり、それが学問を発展させるのである。この当然すぎる常識を萬葉学者たちが受け入れてくれることを祈る。


引用文献
山田孝雄(1908)『日本文法論』(宝文館)
北原保雄(1984)『文法的に考える』(大修館書店)
和田明美(1994)『古代日本語の助動詞の研究ー「む」の系統を中心とするー』(風間書房)
Palmer, Frank R. (1979) Modality and the English Modals.  飯島周訳『英語の法助動詞』(桐原書店)
Palmer, Frank R. (1990) Modality and the English Modals. 2nd ed.
Palmer, Frank R. (2001) Mood and Modality, 2nd Edition.
高山善行(2002)『日本語モダリティの史的研究』(ひつじ書房)
山本淳(2003)「仮定・婉曲とされる古典語推量辞「む」の連体形」 山形県立米沢女子短期大学紀要 38, 47-62, 2003-06-30

TSONTS-16 萬葉学会の何が問題か(1)

田川拓海氏のブログ興味深い記事があった。QA形式でまとめられているのだが、Q1とQ5の質問の文言が参考になった。それを以下のように変えて使わせていただこうと思う。

Q1. なぜ萬葉学会を批判しているのですか。
Q2. なんでそんなに長々と書くのですか。心が狭いのですか。

回答は次の次の回を予定している。

と予告した。

なぜ田川氏のブログに行き着いたか。金谷武洋の著書にAmazonに低評価のレビューがあった。それを検索する過程で見付けた。金谷氏の本を読んでおかげで私は三上章氏を知った。三上氏の著書を読んで感じたのは、非常に頭の回転の速い人ということ。ランダウの教科書を読んでいるようだった。神社の参道に急な男坂と緩い女坂があるが、当時の教科書はランダウに限らず皆男坂だった。今のは女坂を更に緩くした感じだ。

教科書の式はすべてfollowすること。それが常識だった。なぜあの式からこの式が導けるのか。下手をすると数日考えることもあった。理系の学生に読ませるならそれでも良かったろう。昔は国立大学の定員を足し合わせても今の東京大学の定員より少ないと言う。三上氏は頭の回転が速かったからこそ、あのそっけない書き方で理解できると思ったのだろう。三上氏が理解され難かった理由の一つに簡潔すぎる説明があったかもしれない。頭の回転が遅い私はこのようにだらだらと長く書きすぎてしまう。閑話休題。

Q1. なぜ萬葉学会を批判しているのですか。

A1. 論文の審査に疑義があるからです。

私が投稿したク語法の論文の不掲載の理由を前回まで検討してきました。大きな問題点は以下です。

1 査読者のQ氏は「新知見と言いえない」と言って拒絶(reject)した。そのような判定をする場合、当該論文と同様の内容が書かれた文献を証拠として示すのが常識である。しかるにQ氏は証拠を示していない。

2 「あく」という動詞の意味を「はっきりと知覚される」と仮定したが、はっきりでもおぼろげでもない「普通の知覚」に対して特立させる形でなければ「あく」によるク語法の価値がないとQ氏は言う。これは拒絶の理由にならない。そもそも「はっきりと」は「おぼろげでない」という意味である。もちろんその表現がわかりにくいというのであれば訂正する用意はある。しかしQ氏言うことは理不尽である。「明言する」は「はっきりと言う」意味であるが、Q氏の論法を適用するとこの単語に存在理由がなくなってしまう。Q氏は言葉と意味の関係に気付いていない。

言葉 → 意味
あく → はっきりと知覚される
X → ぼんやりと知覚される
Y → (普通に)知覚される
言う → (普通に)言う
明言する → はっきりと言う

逆が必ずしも真でないことに気付いていない。私はク語法の意味は「はっきりと知覚される」だと書いた。なぜク語法が「普通に知覚される」などという意味でなければいけないのか。

3 萬葉学会に投稿した上代語に関する論文なのにその後の意味の変化を記述することを求めている。これは論文の範囲を超える。Q氏は中古語が専門と見受けられるが、上代や中世における意味の考察がないという理由で論文が拒絶されても受け入れるのか。まったく芥川龍之介Q氏の論法は芥川龍之介が『侏儒の言葉』の「批評学」で述べた「木に縁って魚を求むる論法」そのものである。

(つづく)


2018年1月8日月曜日

TSONTS-15 萬葉学会の審査の妥当性の検討(5) Q氏の不掲載理由(下)

萬葉学会のQ氏による査読理由の検討を続ける。不掲載の理由の全文は萬葉学会の審査の妥当性の検討(1) 拒絶理由と最初の反論を参照されたい。

Q氏は続ける。

また形式名詞の有無に関わらず、明確ではない知覚(けっして朧気というのではない)すなわちplainな知覚に対して特立される形でなければ、「アク」によるク語法の価値がないから、それとの対比がどうしても必要になる。

この部分の意味がすぐにわからなかった。とりわけ「plainな知覚」がわかりにくい。何を何と対比するのか。最初の反論では従来説との対比だと考えて次のように書いた。

ク語法は用言を体言化するものであるという従来の仮説との対比は大量の用例の検討の中で十分に為されていると考えます。 

後でわかったのだが、Q氏は「plainな知覚」を思いも寄らない意味に使っていた。手元のMerriam Webster's Collegiate Dictionary 11th editionによると、飾りがない、余計なものを含まない、視界を妨げない、心や感覚に明白な、はっきりした、単刀直入な、ありふれた、特徴のない、単純な、複雑でない、美しさも醜さもない等の意味が並んでいる。しかし、plain perceptionならば純粋な知覚、明白な知覚を思い浮かべないか。

テレビの人気番組に「良い子、悪い子、普通の子」というのがあった。それまでは良い子でないのは悪い子であり、悪い子でなければ良い子だった。良い子でも悪い子でもない普通の子という範疇を作ったのが新鮮だった。Q氏はその番組を見て育った世代だろうか。つまり、はっきりした知覚でなく、朧気な知覚でもない、普通の知覚と言いたかったのだ。それを何故覚束ない英語で表現しなくてはならないのか。

想像するに「普通の知覚」では稚拙な表現にQ氏は感じたのだろう。 しかし「plainな知覚」は更に稚拙である。このような本来の意味と違う意味での英単語の使用は高山善行氏の一連の論文にも散見された。Q氏が高山氏であるとすると辻褄が合う。念の為に書くが、このような推論は「逆は必ずしも真ならず」である。更に念の為に書くが、必ずしも真ならずは、必ず偽ではない。

本稿で「はっきりした知覚」と書いたのは良い子と悪い子の二元論しかなかった時代の意味である。「ぼんやりした知覚」を排除するためである。つまり、私の分類の良い子はQ氏の分類で良い子と普通の子になる。大量の用例の現代語訳を読んでもそのことは明白と考える。

そもそも「あく」の意味を「はっきりと知覚される」と書いた。Q氏の言う「plainな知覚」の対応物を何故考えなくてはならないのか。「明言する」の意味を「はっきりと言う」と定義したとき、「普通に言う」の対応物は何かと問う意味があるのだろうか。Q氏は論点をおかしな方向に逸そうとしている。

いずれにしろ、本稿の「あく」はQ氏の考える「普通の知覚」の意味を含む。

最後にQ氏は述べる。


意見としていえば、仮設動詞アクを想定することは、ク語法による動詞名詞句に具体的な意味傾向を付加することになるが、ク語法という文法的環境下ではその具体性は捨象されて準体句のあり方とは異なり、〇〇のような機能を負担するに至ったという形で改めて立論されるべきものと思う。


最初の反論では次のように述べた。


本稿ではアクが終止形の場合と連体形の場合の区別を検討しています。終止形の場合は準体句となりません。そのことが用例の解釈の上で従来説と大きく異なる結果を与えます。「具体性が取捨される」とは考えていません。あくまでも「明確に知覚する」という意味が程度の大小はあれ残存しています。

いずれにしましても、本稿はク語法の成立を明らかにすることを第一目的としております。その目的は十分に果されたと考えます。



本稿は上代の語法について書いたものである。近世にク語法が単なる名詞句と扱われただろうことは、現代語の意味との連続性から理解できる(数学で言う中間値の定理)。それは萬葉学会の雑誌「萬葉」に投稿した上代語の論文である本稿の範囲を超える。Q氏は高山善行氏と同じく中古語が専門のようであるが、だからこそ、上代以降の意味の変化に関心があるのだろうが、ではQ氏の書く中古語の論文に江戸時代や現代の日本語の意味が議論されていないとして拒絶されたら、言語道断と感じないのだろうか。

Q氏の論法は芥川龍之介が『侏儒の言葉』の「批評学」で述べた「木に縁って魚を求むる論法」である。『侏儒の言葉』から引用する。


『全否定論法』或は『木に縁って魚を求むる論法』とは先週申し上げた通りでありますが、念の為めにざっと繰り返すと、或作品の芸術的価値をその芸術的価値そのものにより、全部否定する論法であります。たとえば或悲劇の芸術的価値を否定するのに、悲惨、不快、憂欝等の非難を加える事と思えばよろしい。又この非難を逆に用い、幸福、愉快、軽妙等を欠いていると罵ってもかまいません。一名『木に縁って魚を求むる論法』と申すのは後に挙げた場合を指したのであります。


この論法を使えばどんな論文をも拒絶できる。芥川龍之介は誰でも気付くばからしさを前提に「批評学」を書いたのだろうが、Q氏はそれを現実化した。

追記:2018年1月14日午前0時32分にplainな知覚の部分を一部修正。
 

TSONTS-14 萬葉学会の審査の妥当性の検討(4) Q氏の不掲載理由(中の二)

萬葉学会のQ氏による査読理由の検討を続ける。不掲載の理由の全文は萬葉学会の審査の妥当性の検討(1) 拒絶理由と最初の反論を参照されたい。

前回書き忘れたが、今まで読んだmodalityの教科書や研究書に「 文法上の名詞句の働きとして、構文上にモーダルな意味が付加されている」等という記述はなかった。正しい記述が複数の文献で一致するのは珍しくないが、間違った記述が一致することは滅多にない。正しいことは一つしかないが、間違いは多数あるからである。

Q氏と高山善行氏の考えが一致したのは単なる偶然だろうか。印欧語のmoodは動詞の屈折で表わされる。一方、modalityは助動詞や接尾辞、接頭辞で表される。構文上にmodalityが付加されるとはどういうことだろう。

次の意見はQ氏の独自見解であって査読理由に書くことではない。

さらに明確な知覚という場合、上代では、「世の中は空しきものと知るときしいよよ益々悲しかりけり」の副助詞「し」は副詞性助詞として「知れば知るほどに」と程度強調を表す例がある。

これに付いては前回に書いた。その点はP氏も同意している。Q氏は続けて、

つまり明確に知られるという場合には、副助詞などによる「とりたて」が存在する。そうしたとりたて表現に対して、ク語法はどのように異なるのかを明らかにしないと、仮設動詞アクの語性を適用しても解釈可能だというだけでは新知見とは言いえない。

と言う。最初の反論では次のように述べた。

「し」が「とりたて」であるか否かを別にして、「とりたて」とアクが関連するとは考えていません。そのことは大量の用例の検討から明らかだと思います。ク語法が用言の体言化であるという従来説も、そう仮定すれば歌意が通じるという理由から定説と扱われているに過ぎません。しかし本稿の仮説は記紀万葉の歌や続日本紀宣命の散文の解釈に新たな境地を開いたと考えます。公開して研究者ならびに記紀万葉の愛読者の参考に供する意義は十分にあると考えます。

そもそも「 つまり・・・「とりたて」が存在する。」はQ氏の独自見解である。主観を理由に他人の論文を拒絶できないことは言うまでもない。従って、 「そうしたとりたて表現に対して、ク語法はどのように異なるのかを明らかにしないと、」と要求できないし、「新知見とは言いえない」というQ氏の拒絶理由の理由にならない。

学術論文に要求されるのは、学問の発展に寄与する新しい知見であることである。従って、新規性がないことは拒絶の理由になりうる。しかし、新規性がないことを言うには、そのことが過去に知られていたという証拠(公知材料)を示さなくてはならない。特許庁の審査官が審査が請求された特許出願を新規性がないことを理由に拒絶する時は、必ず先行技術を示す特許広報や技術文献を参照する。私が今まで経験した論文の審査でも、新規性がない場合は必ず先行文献を示す。もちろん、発明者や論文の著者が先行技術や先行文献を知っているかどうかに無関係である。先に誰かが類似の特許や論文を書いていれば後のものは無効になる。

しかし、萬葉学会は証拠を示さず、一方的に「新知見とは言いえない」と断定した。このような査読が許されるならば、どんな論文も拒絶できてしまう。掲載の可否は査読者の主観ではなく客観的な理由に基づかなくてはならない。萬葉学会は学術論文を文芸作品のように考えているのだろうか。

P氏によると、「萬葉」は「同人誌」だそうだが、大学の教員や院生や国文科の卒業生だけが同人であって、大学に所属しない、国文科卒でもない会員は外部の人間なのだろうか。

学術雑誌は新しい知見を研究者が共有することを目的としている。萬葉学会の行為は萬葉学会の会員の知識の享有の権利を妨害するものである。会員には知らせる権利と知る権利がある。

追記:この記事は2018年1月9日の午前0時59分に一部文言を追加した。「前回書き忘れた・・・」の部分である。

2018年1月7日日曜日

TSONTS-13 萬葉学会の審査の妥当性の検討(3) Q氏の不掲載理由(中の一)

萬葉学会のQ氏による査読理由の検討を続ける。不掲載の理由の全文は萬葉学会の審査の妥当性の検討(1) 拒絶理由と最初の反論を参照されたい。

しかしながら、本論は仮設動詞アクの語義分析ではなく、ク語法という準体句相当の語法の解析を目指しているはずである。

この「目指しているはずである 」は「国語学の論文に特有の非論理的な推論 その6 説得力」の「6-6 説得力の六」に書いた「理由無き断定」である。理系の論文を読んだり書いたりしていたものが、国語学の論文を読むときに抵抗を感じるのは、当該分野の研究者の一致した見解とも言えないことを、このように理由を示さず、かつ、それまでの論理の流れから独立に断定的に述べることである。

ク語法という準体句相当の語法」は従来説である。それに対して、用言の連体形に「あく」という動詞が付いたもので、その「あく」の形は終止形と連体形の二つの場合があるとする説を提案した。例えば「言はく」ならば「言ふ」に「あく」が下接して「言はく」という形ができた、その「言はく」は終止形と連体形の二つの場合がある、という解釈をした。

そのような立場に立つ以上「準体句相当の語法の解析」は出来ない。地動説の論文を書いて「この論文は天動説を説明していない」と言われるようなものである。例えば誰かが「モダリティ論」を用いた論文を書いたとして、「本論は従来の助動詞論の立場からの説明を目指しているはずである」と言う人はいるだろうか。著者はどう思うだろうか。

「理由」をメールで受信した当日に書いた反論には次のように書いた。


ク語法は用言を体言化する用法である、あるいは、アクという形式名詞が付加されたものであるという従来仮説と本稿が大きく異なるため、なかなか理解されがたいだろうと考え、異例とも言える大量の用例の検討を行ないました。

>本論は仮設動詞アクの語義分析ではなく、ク語法という準体句相当の語法の解析を目指しているはずである。

本稿はク語法の成立を明らかにすることが第一の目的です。仮定した四段動詞アクは終止形の場合と連体形の場合があります。連体形の場合準体句を形成しますが、準体句の場合も他の活用語の準体句に順ずるものであると考えた解釈を示しました。とくにアクの準体句だけに特別な用法があるとは思いません。「はっきりと知覚される」という意味の動詞の準体句と考えて何ら矛盾することころはありません。

なお、この「はっきりと知覚される」という表現は「かすかに知覚される」状況でないという意味で「はっきりと」という副詞句を付けた。Q氏はのいう「plainな知覚」については次回述べる。

本稿の目的は「ク語法という準体句相当の語法の解析」ではなく、「ク語法の解明」であり、ク語法の本質を明らかにすることである。本質とは準体句等という見かけの姿でないという意味である。従来説では解明できなかった「 ナクニ止め」の謎が明らかになったことは本稿の大きな成果である。「ナクニ止め」とは「思はなくに」などで切れる歌のことであり、その意味は従来詠嘆と解釈されたきた。詠嘆説ではなぜ「なくに」の形だけが詠嘆の意味を持つかが説明できない。従来説は「詠嘆の印象を与えるからきっと詠嘆の意味があるのであろう」という遡及推論、つまり、従来説は後件肯定という論理的誤謬に基く推論の結果である。そのような成果を握りつぶした(意図的にか知らずにか)萬葉学会のP氏とQ氏は雑誌「萬葉」の読者の利益を損ねたことに気付いてほしい。

従来の所説では解明できなかった「 ナクニ止め」の謎が明らかになったことは本稿の大きな成果である。

文法上の名詞句の働きとして、構文上にモーダルな意味が付加されているのか、それともアクそれ自体の語義によっているのかが、本論では明らかではない。

これに対して、最初の反論には次のように書いた。


様相性(modality)の研究が盛んですが、言明が命題と様相とにはっきりと区分されはしません。様相性を表わすとする語のどこまでが命題の一部なのかどこからが様相を表わすのか区分できる研究者はいないと思います。事実数理論理学では命題に様相性演算子が付加されたものもまた命題です。命題と様相という区分は多分に便宜上のものと考えます。たとえば「に違いない」は様相を表わすと言う意見が一般的のようですが、これを命題の一部と捉えても何ら問題はありません。対応する英語のmustがあるからその訳語を様相性を表わす表現と看做しているに過ぎません。言語学における様相性(modality)は印欧語の直説法や仮定法などの法(mood)に準ずるものとして考えられたものですが、それと同じものが日本語にあるか否かは難しい問題だと思っています。

様相性について本稿は「アクが証拠性を担う助動詞であると断定してよいかは現時点で判断が付かない」と述べるに留めました。この証拠性はevidentialityの意味で使いました。日本語の様相性の問題は今後の課題としたいと思います。

アクの担う意味については用例の解釈の中で十分に示したと考えます。従来のク語法は用言の体言化という仮説では解釈が難しいものを解釈できたと思います。

Q氏の「文法上の名詞句の働きとして、構文上にモーダルな意味が付加されている」の意味がわからなかった。そこでいう「名詞句」は「言はく」なのか「言ふ」なのか。前者は「言はく」を名詞句と考える従来説、後者は「言はく」を「言ふ」という連体形と「あく」という四段動詞の連語と考える本稿の説だが、Q氏は従来説を絶対的な真実と考えているようだ。Q氏の言う「モーダルな意味」は本稿の「はっきりと知覚される」という説明をQ氏がモダリティと考えたためだが、「構文上に・・・意味が付加される」とはどういうことか。その後高山氏の一連の論文を読んでわかったのだが、高山氏は構文が単独で意味を持つと考えているようだ。Goldbergの提唱する構文文法(construction grammar)は動詞の意味と屈折が示す法や態と名詞の格が一体となって特有の意味を生ずることではないかと思う。高山氏は構文という観念的なものに意味が付加されると考えているのだろうか。Q氏が高山善行かどうかは分からないが、高山氏と良く似た考えをするようである。

唯物論を信じる私は、ヘーゲルのような観念論は理解しがたく、いや、ヘーゲルがしていたのは観念論的な表現なのかもしれないが、文や句の意味単語(接尾語や活用を含む)自体と単語の組み合わせ(語順やイントネーションを含む)だけで決まると考える。Q氏や高山善行氏のように構文自体が単独で意味を持つと考える人はいないのではないだろうか。

話が拡散した。Q氏の指摘に戻る。動詞「あく」の意味は論文で述べた。上接するのは用言の連体形である。その構文が表わす意味も論文の中で十分議論した。文法理論から検討した概論を述べ、数十の用例の各々に現代語訳を付けた。それの何処が明らかでないと言うのだろう。ここまで詳しく意味を議論した論文は過去に無いのではないか。私の論文は「あく」の意味が「はっきりと知覚される」であると仮定した。それで「明らかではない」とは原稿を斜め読みしかしていないのか。読解力ないのか。これではどんな論文も「明らかではない」の一言で拒絶できてしまう。

そもそも、私が仮定した「あく」をなぜモダリティと決め付けるのか。Q氏はモダリティをどう定義するのか。これをP氏に質問したが、Q氏からの回答は無かった。国語学の世界では、このように、査読者の説に従わない論文は拒絶できるのだろうか。P氏やQ氏や萬葉学会は学問の進歩を願っていないのだろうか。

 さらに明確な知覚という場合、上代では、「世の中は空しきものと知るときしいよよ益々悲しかりけり」の副助詞「し」は副詞性助詞として「知れば知るほどに」と程度強調を表す例がある。

これに対して

「し」が「とりたて」であるか否かを別にして、「とりたて」とアクが関連するとは考えていません。そのことは大量の用例の検討から明らかだと思います。ク語法が用言の体言化であるという従来説も、そう仮定すれば歌意が通じるという理由から定説と扱われているに過ぎません。しかし本稿の仮説は記紀万葉の歌や続日本紀宣命の散文の解釈に新たな境地を開いたと考えます。公開して研究者ならびに記紀万葉の愛読者の参考に供する意義は十分にあると考えます。

と述べた。これについては編集委員のP氏も同意している。上代の文学を読みなれていたら、Q氏のような考えはしにくいのではないだろうか。Q氏は高山善行氏のように中古文学が専門なのかもしれない。しかしそういう人物に萬葉学会が査読を依頼するだろうか。萬葉学者から見て素人が書いた論文であればそのような人物で十分と考えたのだろうか。

田川拓海氏のブログ興味深い記事があった。QA形式でまとめられているのだが、Q1とQ5の質問の文言が参考になった。それを以下のように変えて使わせていただこうと思う。

Q1. なぜ萬葉学会を批判しているのですか。
Q2. なんでそんなに長々と書くのですか。心が狭いのですか。

回答は次の次の回を予定している。
 
追記:2018年1月14日午前0時50分に以下を追記。

1. Adele GoldbergのConstructionsの翻訳書を読んだ。構文自体が意味を持ちえないという従来の常識に対して、それ自体が意味を持つような構文があると彼女は考えている。ただし、高山善行氏の考えとは違うようだ。Goldbergの構文文法については後日書く。

2. 田川拓海氏のブログのQAにならった記事は下記のページから始まる。
https://introductiontooj.blogspot.jp/2018/01/tsonts-16.html


2018年1月6日土曜日

TSONTS-12 萬葉学会の審査の妥当性の検討(2) Q氏の不掲載理由(上)

本ブログを通じて、ク語法の論文の投稿に付き、萬葉学会の担当者の編集委員をP氏、査読者をQ氏と呼んでいる。以下、萬葉学会の審査の妥当性を検討するため、Q氏の示した不掲載の理由を詳細に見ていく。


本論はク語法の語構成を「活用語連体形+あく」と捉え、「あく」は四段活用動詞であって、「ものごとの存在が五感を通じてはっきりと知覚される」「その存在がはっきりと知覚される」意味があるとする。


Q氏の理解は少し違う。念の為論文の仮定を引用する。


仮定1 ク語法は従来考えられていた活用語を名詞化するものでなく、活用語の連体形にアクという四段動詞が下接したものである。

仮定2 アクの根源的意味は、モノ(人や事物)やコト(状態や行為、伝達される内容)が視覚、聴覚、嗅覚、触覚、温度感覚などを通じて「その存在がはっきりと知覚される」ことである。

仮定3 アクは金田一春彦1950の継続動詞に相当し、瞬間動詞に相当しない。




そして、ク語法による名詞句を「~することは明確であるのに/明らかである」として情態副詞「明らかだ」節のように解釈している。


私はク語法を名詞句だとは書いていない。また「あるのに」と訳したのは助詞の「に」が「あく」に後接された場合だけである。Q氏の査読は斜め読みなのだろうか。最初から掲載する他の論文が決まっていたのだろうか。

本稿の新規性の一つは、従来詠嘆とされる「思はなくに」などの「なくに」が多用される理由を合理的に説明し、その意味が「思っていないことが明らかなのに」という新知見を示したことにある。Q氏はここを全く理解していない。


仮説としてアク接尾がもと四段動詞だと考え、その仮設された語義・語性からク語法の用例群を検証するという方法は誤りではない。


「もと」とは書いていない。名詞句だと誤解したところと合わせてQ氏は論文を正しく読んでいない。何度も書いたように、経験科学である言語学は「仮説と検証」以外に方法がない。高山善行(2005)を読み、高山氏は少なくとも当該の論文の執筆の時点で、純粋に演繹的な方法で研究が行なえると考えていたことを知った。Q氏も高山氏と同じ考えのようである。


さらに、ク語法に対して明確な知覚の表明という、モーダルな意味があると捉える点は興味深い。


これには驚いた。本稿はモダリティについて論じてはいない。Q氏はモダリティをどう定義しているかをP氏に問い合わせたが、回答を得ていない。P氏は陳述と同じだとか、仁田義雄氏や益岡隆志氏のモダリティと同じだと言うが、彼らは「はっきりと知覚される」「明らかである」 という意味をモダリティと扱うのだろうか。

萬葉学会の審査の妥当性の検討(1)に 「この時点でP氏は反論に納得し、Q氏を説得できると考えているように思えた。」と書いたが、P氏は一転して、新しい拒絶理由を持ち出してきた。勤務先の法学の研修で習った「一事不再理」という言葉を思い出した。査読者が言わなかった新たな理由を追加して何が何でも不掲載ということにしたいのかと思った。P氏の追加した新たな理由については後述する。

2018年1月5日金曜日

TSONTS-11 萬葉学会の審査の妥当性の検討(1) 拒絶理由と最初の反論

ク語法の論文「「言はく」は「言ふこと」か」を萬葉学会の学会誌『萬葉』に2016年9月19日付けの郵便で投稿した。間も無く9月25日付けの葉書で受領の連絡があった。しかしその後連絡がなかったので2016年11月23日にメールで採否を問い合わせた。12月14日に萬葉学会から連絡があり、不掲載とする査読者の結論と理由が添付されていた。


所見
論題:「言はく」は「言ふこと」か
評定:不採用

評言:本論はク語法の語構成を「活用語連体形+あく」と捉え、「あく」は四段活用動詞であって、「ものごとの存在が五感を通じてはっきりと知覚される」「その存在がはっきりと知覚される」意味があるとする。

そして、ク語法による名詞句を「~することは明確であるのに/明らかである」として情態副詞「明らかだ」節のように解釈している。

仮説としてアク接尾がもと四段動詞だと考え、その仮設された語義・語性からク語法の用例群を検証するという方法は誤りではない。

さらに、ク語法に対して明確な知覚の表明という、モーダルな意味があると捉える点は興味深い。

しかしながら、本論は仮設動詞アクの語義分析ではなく、ク語法という準体句相当の語法の解析を目指しているはずである。

文法上の名詞句の働きとして、構文上にモーダルな意味が付加されているのか、それともアクそれ自体の語義によっているのかが、本論では明らかではない。

さらに明確な知覚という場合、上代では、「世の中は空しきものと知るときしいよよ益々悲しかりけり」の副助詞「し」は副詞性助詞として「知れば知るほどに」と程度強調を表す例がある。

つまり明確に知られるという場合には、副助詞などによる「とりたて」が存在する。そうしたとりたて表現に対して、ク語法はどのように異なるのかを明らかにしないと、仮設動詞アクの語性を適用しても解釈可能だというだけでは新知見とは言いえない。

また形式名詞の有無に関わらず、明確ではない知覚(けっして朧気というのではない)すなわちplainな知覚に対して特立される形でなければ、「アク」によるク語法の価値がないから、それとの対比がどうしても必要になる。

意見としていえば、仮設動詞アクを想定することは、ク語法による動詞名詞句に具体的な意味傾向を付加することになるが、ク語法という文法的環境下ではその具体性は捨象されて準体句のあり方とは異なり、〇〇のような機能を負担するに至ったという形で改めて立論されるべきものと思う。


一読して拒絶の理由として不適切と判断した。主張の裏付けが論理性を欠いていた。私は日本物理学会、日本応用物理学会に所属し、口頭講演、論文投稿、投稿された論文の査読などを行なっていた。学術論文とはどのようなものか、その査読はどのような基準で行なわれるかを知っているつもりである。

すぐに反論をしたためた。同日の2016年12月14日に萬葉学会の編集委員(このブログでP氏と呼ぶ)にメールに添付して送付した。その内容を以下に再掲する。
ク語法は用言を体言化する用法である、あるいは、アクという形式名詞が付加されたものであるという従来仮説と本稿が大きく異なるため、なかなか理解されがたいだろうと考え、異例とも言える大量の用例の検討を行ないました。

>本論は仮設動詞アクの語義分析ではなく、ク語法という準体句相当の語法の解析を目指しているはずである。

本稿はク語法の成立を明らかにすることが第一の目的です。仮定した四段動詞アクは終止形の場合と連体形の場合があります。連体形の場合準体句を形成しますが、準体句の場合も他の活用語の準体句に順ずるものであると考えた解釈を示しました。とくにアクの準体句だけに特別な用法があるとは思いません。「はっきりと知覚される」という意味の動詞の準体句と考えて何ら矛盾することころはありません。

>文法上の名詞句の働きとして、構文上にモーダルな意味が付加されているのか、それともアクそれ自体の語義によっているのかが、本論では明らかではない。

様相性(modality)の研究が盛んですが、言明が命題と様相とにはっきりと区分されはしません。様相性を表わすとする語のどこまでが命題の一部なのかどこからが様相を表わすのか区分できる研究者はいないと思います。事実数理論理学では命題に様相性演算子が付加されたものもまた命題です。命題と様相という区分は多分に便宜上のものと考えます。たとえば「に違いない」は様相を表わすと言う意見が一般的のようですが、これを命題の一部と捉えても何ら問題はありません。対応する英語のmustがあるからその訳語を様相性を表わす表現と看做しているに過ぎません。言語学における様相性(modality)は印欧語の直説法や仮定法などの法(mood)に準ずるものとして考えられたものですが、それと同じものが日本語にあるか否かは難しい問題だと思っています。

様相性について本稿は「アクが証拠性を担う助動詞であると断定してよいかは現時点で判断が付かない」と述べるに留めました。この証拠性はevidentialityの意味で使いました。日本語の様相性の問題は今後の課題としたいと思います。

アクの担う意味については用例の解釈の中で十分に示したと考えます。従来のク語法は用言の体言化という仮説では解釈が難しいものを解釈できたと思います。

>上代では、「世の中は空しきものと知るときしいよよ益々悲しかりけり」の副助詞「し」は副詞性助詞として「知れば知るほどに」と程度強調を表す例がある。

上代語の「し」の意味については十分に解明されていません。「知れば知るほど」の意味は「し」ではなく「いよよ益々」にあると考えるべきではないでしょうか。「し」の意味については、それを程度強調と捉える従来説に対して、別稿を用意しています。いずれにせよ、「し」の語義とアクの解釈は別の問題です。

>そうしたとりたて表現に対して、ク語法はどのように異なるのかを明らかにしないと、仮設動詞アクの語性を適用しても解釈可能だというだけでは新知見とは言いえない。

「し」が「とりたて」であるか否かを別にして、「とりたて」とアクが関連するとは考えていません。そのことは大量の用例の検討から明らかだと思います。ク語法が用言の体言化であるという従来説も、そう仮定すれば歌意が通じるという理由から定説と扱われているに過ぎません。しかし本稿の仮説は記紀万葉の歌や続日本紀宣命の散文の解釈に新たな境地を開いたと考えます。公開して研究者ならびに記紀万葉の愛読者の参考に供する意義は十分にあると考えます。

>形式名詞の有無に関わらず、明確ではない知覚(けっして朧気というのではない)すなわちplainな知覚に対して特立される形でなければ、「アク」によるク語法の価値がないから、それとの対比がどうしても必要になる

ク語法は用言を体言化するものであるという従来の仮説との対比は大量の用例の検討の中で十分に為されていると考えます。

>仮設動詞アクを想定することは、ク語法による動詞名詞句に具体的な意味傾向を付加することになるが、ク語法という文法的環境下ではその具体性は捨象されて準体句のあり方とは異なり、〇〇のような機能を負担するに至ったという形で改めて立論されるべきものと思う。

本稿ではアクが終止形の場合と連体形の場合の区別を検討しています。終止形の場合は準体句となりません。そのことが用例の解釈の上で従来説と大きく異なる結果を与えます。「具体性が取捨される」とは考えていません。あくまでも「明確に知覚する」という意味が程度の大小はあれ残存しています。

いずれにしましても、本稿はク語法の成立を明らかにすることを第一目的としております。その目的は十分に果されたと考えます。
 

同日中に返信があった。P氏はその反論を査読者(本ブログでQ氏とする)に送ると書いてきた。その上で「共通理解を得るには、何度かのやり取りが必要でしょう。」と言う。この時点でP氏は反論に納得し、Q氏を説得できると考えているように思えた。

以上が2016年9月19日の萬葉学会へのク語法の論文の投稿から2016年12月14日の萬葉学会の回答までの出来事である。次回以降、Q氏の不掲載の理由について検討する。