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2017年8月31日木曜日

萬葉学者であるとはどのようなことか? その9 P先生とP様とP君

萬葉学会の編集委員のP氏に何度も論文の意味を説明したが、一向に理解する気がないように思えた。今までの人生で様々な人に説明を行なってきた。説明はむしろ上手だと言われてきた。ひょっとして、素人の書いた論文を検討する気が最初からないのだろうか。

メールでP氏を「P先生」と呼んできた。P氏のメールは私を「貴兄」と呼ぶ。貴兄は目上の人には使わない。今までメールで私を「貴兄」と呼んだのは職場や大学の先輩だけである。最近は大学の教員が学生宛のメールに「貴兄」を使う場合もあると言う。

少なくとも片方が相手を「先生」と呼び、 片方が相手を「貴兄」と呼ぶのは対等な関係と言えない。ひょっとすると、そのような言葉の問題がP氏の精神状態をして、自分が相手よりも上の立場であると思わせているのではないかと考えた。

こういう人間関係の研究はErving Goffmanが詳しい。ちょっとした言葉や態度から、相手を敬うか軽視するかなど、ある意味、ネチネチと研究した論文がある。ただし、Goffmanは良い翻訳に恵まれていない。日本語で読める本の翻訳の殆どが誤訳だらけである。したがって、肝心の言葉のやり取りが人間関係の及ぼす意味が汲み取れない。興味があるなら原文で読むべきである。

そういったちょっとした言葉の使い方はGoffmanの研究によれば人が他人に示す敬意に影響する。 そこで、P先生と呼ぶのを止め、P様にしてみた。同時に「貴兄」は目下に使う呼称であるから遠慮してほしいと申し入れた。しかし、P氏はこれに反発してきた。「貴兄」は対等の関係に使う呼称だから自分に非がないと言う。

言葉で言っても通じないので、では、P氏は私の年下であること、「君」は対等の関係に用いることから、今後はP氏を「P君」と呼ぶことにすると伝えた。

「学兄」という言葉がある。これについて大野晋氏が書いている。

ここで一つ、私が間違えた使い方について書いておきましょう。「学兄」という敬称は、読んで字の通り「学問の上の兄」ということです。ところがこれは年下の人を学問の上では先輩であるとして扱う表現なのです。この言葉を年上の学者から本をいただいたお礼に使って人から注意されたことがあります。

「貴兄」については、小学館の『使い方の分かる 類語例解辞典 新装版』に「貴君」「貴兄」「貴下」の三語に共通する意味として、「主に男性が書簡文などで、同輩(以下)の男性をさしていう語」という説明がある。

言葉の意味は語源的なものと、実際に使われる語用論的なものが違うことがしばしばある。「貴兄」や「学兄」は意味論的には年上の意味だが、語用論的には目下に使う。P氏は萬葉学会が発行する書類を「公文書」と言っていた。萬葉学者は辞書を引く習慣がないのだろうか。

査読者のQ氏の「モーダル」や「plain」の解釈も、世間一般で通用する意味とは異なる独自の断定がある。最近使われるのを見ていないが、以前は「スポイル」が仲間外れにする意味で使われていた。 国語学の論文に特有の非論理的な推論 その3 歌意が通ることに書いたが、萬葉学者は萬葉語の意味の推定にもその論法を使う傾向があるように思う。


萬葉学者であるとはどのようなことか? その8 Argument from authority 権威による論証

偉い先生が言うから正しい。それをArgument from authority(権威による論証)と言う。科学の世界ではそのような論法は通用しない。しかし萬葉学の世界は別である。

 「おもてなし」という言葉の解説がネットにあった。「関西大学文学部国語国文学専修」の乾善彦氏の説明がある。乾氏は「 関西大学 文学部 総合人文学科 国語国文学専修 教授。大阪市立大学文学部卒業。大阪市立大学 博士課程 文学研究科卒。」だそうである。ここで括弧で括った部分がその説明の正しさを論証するauthorityなのである。

「もてなす」の「もて」は「接頭辞」で「意識的に物事を行う、特に強調する意味を添える」と言う。もしも、その説が正しく、萬葉学者の多くの意見が一致するのであれば、authorityの理由を書かない。それを書くことは逆にその説がそれほど決定的と言えない証拠ではないだろうか。

乾善彦氏の説の検討は別の機会に譲り、ここではさらなるauthorityの説を検討したい。

大野晋氏の名前は日本語学の分野でauthorityである。経歴や学歴を書く必要がない。その大野氏の「負けず嫌い」の説明がある。私はそれに疑問を感じる。

大野氏の説明は次の通りである。方言に「ず」という助動詞があり、「む」と同じ意味である。助動詞の「む」にサ変の「す」が付き、「むず」となり、さらに「ず」となったと言う。したがって、「負けず」は否定の意味ではなく、「負けよう」の意味だそうである。つまり、負けないことを嫌うのではなく、負けようとすることを嫌うと言う。

以上は大野晋著『大野晋の日本語相談』(朝日新聞社)による。

私は大野晋氏の説に納得しない。この「ず」は否定の意味である。

8-1a 食わず嫌い
8-1b 負けず嫌い

この良く似た形の二つの語の「ず」の、一方は否定で一方は推量ということがあり得るだろうか。同じ時代に同じように頻繁に使われる語である。

「負けず嫌い」はスポーツなどの勝敗に使われない。議論で絶対に譲らない人を言う。つまり、ここで言う「負ける」は客観的に勝敗が決する意味ではなく、主観的に「負けを認める」ことである。「食わず嫌い」は、その食物を食べてみることをせずに無条件に食べることを嫌う。同じように、「負けず嫌い」は、議論で負けを認めて、折れてみることをせず、無条件に負けを認めるのを嫌う。

食わず嫌いの人は、一度食べると嫌うことを止めるかもしれない。負けず嫌いの人も、一度議論で折れると、次からはあっさり負けを認めるようになるかもしれない。

このように考えるならば、食わず嫌いと負けず嫌いは全く同じ構文だということがわかる。

萬葉学者が権威で学説の真偽や良否を判断するのをやめるとき、萬葉集は今まで私たちが気付かなかった新しい意味を私たちに見せてくれるに違いない。





萬葉学者であるとはどのようなことか? その7 この炭酸を、うまい!と思ったあなたは大人です。

You can try a taste of his ice cream, but if it tastes the same as yours, that only means it tastes the same to you: you haven't experienced the way it tastes to him.  There seems to be no way to compare the two flavor experiences directly.

あなたは彼のアイスクリームを味見できるが、あなたのと同じ味だったとしても、あなたに同じ味だったに過ぎず、彼に感じられる味を体験していない。二人の味の体験を直接比べる方法は無さそうである。

Thomas NagelのWhat Dpes It All Mean?のOther Mindsの章からの引用です。翻訳書が出ています。昭和堂の『哲学ってどんなこと?』です。ここに書いた訳は私訳です。翻訳書はもっと上手に訳しているはずです。

タイトルは近くのスーパーで買った清涼飲料に貼ってあったシールの文言です。ウィルキンソンのトニックウォーターに近い苦い味です。「大人」を「二十歳以上」と入れ替えては意味を為しません。

7-1a この炭酸を、うまい!と思ったあなたは大人です。
7-1b この炭酸を、うまい!と思ったあなたは二十歳以上です。 

7-1bは広告の役目をしない。ここでいう大人は年齢ではない。甘くない味をうまい!と思える成熟した味覚を持つことである。

永井均氏は「コウモリであるとはどのようなことか?」のあとがきに
これは大人のための哲学書である。二つの合意を込めて、私は本書をそう規定したい。第一に、この本は子供向きではない。第二に、この本は思想書ではない。
と書いている。原文に傍点がある部分を太字にした。

永井均氏の定義で大人と子どもの別は「大人は「内部」におり、子供は「外部」に立つ」と言う。「著者ネーゲルは、一貫して「内部」の立場を保持し」ているとも言う。哲学と思想の区別は、永井氏によると、結論を重視するのが思想書、結論に至る思索を重視するのが哲学のようである。どちらも永井均氏の定義に基く。「内部」と「外部」が何であるか今の私には分からない。

炭酸飲料のコピーと同じく、大人と言われることで、くすぐられる人に向けたものかもしれない。

トマス・ネイゲルの哲学が大人(内部)の立場を保持しているかというと、私は違うと思う。そもそも、哲学は子供の疑問を持ち続けないと出来ないと思う。

空はなぜ青いのか。なぜ月はずっと付いて来るのか。私が赤と感じるこの色を他人も同じに感じているのか。そういう疑問は子供の頃多くの人が感じたはずである。しかしそれを考え続けていては大人の日常生活の妨げになる。少なくともしなくてはならない仕事をする時間を奪う。だから多くの人は大人になる過程で、このような哲学的疑問を放棄する。

その一部を放棄しなかった人は科学者と呼ばれる。アリストテレースなどの時代の哲学の疑問の一部は科学者に受け継がれた。

アインシュタインは言う。

The important thing is not to stop questioning. Curiosity has its own reason for existence. One cannot help but be in awe when he contemplates the mysteries of eternity, of life, of the marvelous structure of reality. It is enough if one tries merely to comprehend a little of this mystery each day.

以上は雑誌Lifeのアインシュタインの追悼記事に記者が記したものである。息子とその家を訪ねた際にアインシュタインがその息子に語った言葉だそうである。

大切なのは疑問を止めないことだ。好奇心にはそれが存在するだけの理由がある。永遠の謎、生命の謎、現実の世界の素晴らしい仕組みの謎を真剣に考えるとき畏敬の念を感ぜざるを得ない。この謎のほんの一部を日々知ろうとするだけで十分である。

大人が途中で考えるのを止めてしまうような、たとえば友人がアイスクリームを食べて感じる味と自分が感じる味が同じものかどうか、ということを真剣に考え続けるのが哲学である。子供の心を持ち続けなくては出来ないのが哲学である。

万葉集の言葉や語法の解釈も同じである。偉い先生がそうだと言っても、本当にそうなのかと疑い続けるような、子供の感覚がなくては、その本当の意味に辿り着けない。萬葉学者の百人が賛成しているんだからもう良いではないか。いつまでも疑問を持ち続けるのは子供だ。そう言われてめげてはいけない。本居宣長、富士谷成章、鈴木朖などの諸氏が成果を上げたのは、子供の疑問を持ち続けたからである。明治以来、国語学は進歩したかもしれないが、記紀万葉の解釈があまり進展していないように見えるのは、萬葉学者が大人に成り過ぎたからではないだろうか。 

アインシュタインやネイゲルのように、子供の問いを大人の頭で考え続けるとき、分からなかったことがわかるようになるのである。少なくとも科学の研究者は、子供の疑問を、大人の訓練された思考力で考え続けきた。だから科学は進展したのである。同じことが萬葉学で為されないのは少なくとも大人の論理の訓練を怠ったからであり、萬葉学者の多くは子供のように疑問を持ち続けることをも怠っている。もしもそうであるなら、そのような訓練を厭わないはずだから。







2017年8月30日水曜日

萬葉学者であるとはどのようなことか? その6 「コウモリであるとはどのようなことか」とはどのようなことか?

超の付く美人がいた。顔や身体全体から光が発するのである。光源氏の「光る」の意味が彼女と知り合ったお陰で理解できた。彼女は見詰める視線や見とれる視線に絶えず晒されていた。それは一緒の繁華街を歩くだけでわかった。すれ違う老若男女の視線がすべて彼女に収束する。

読売新聞の大手小町に美人の友達といるときの体験談がある。

美男美女でない(私もそうだし、ここを読む人の多くがそうであると思うが) 人でも、美男美女の友人知人と同席したり、当人の話を聞いたりすることで、ある程度までだろうが、その体験を理解することができる。

6-1a What is it like to be a handsome man or a beautiful woman?
6-1b 美男美女であるとはどのようなことか?
6-1c 美男美女はどんな感じ(気分)か?

6-1aは疑似体験が可能であり、言葉によっても伝えられる(※)。しかし、コウモリと一緒にいても6-2aは分からない。

6-2a What is it like to be a bat?
6-2b コウモリであるとはどのようなことか?
6-2c コウモリはどんな感じ(気分)か?

※ これは以下に記すように正しくない。

美男美女でなくても美男美女の感じや気分を体験できると多くの人が考える。美男美女が実際に体験しているものと体験できると思う人が体験するものが同じかどうかは別の問題である。しかし、コウモリの感じや気分を理解できたり言葉で説明できたりすると考える人は稀であろう。ネイゲルがコウモリを選んだ理由はそこにある。

コウモリがコウモリとして感じるものを言語で、つまり客観的に、説明できないとしたら、心というものを脳の中の化学物質の移動や電気現象と客観的に対応させられない。心を唯物論で扱えない。

ネイゲルのコウモリの論文の概要は以上である。

科学者の端くれとして、私は唯物論が正しいと考える。つまり、心は脳の中の化学物質や電荷の挙動で一意的に記述できると考える。コウモリの感じや気分を言語で説明できないのは、言語が脳内の現象に完全に対応していないからである。一方、心の現象は完全に対応している。

そのように私は考えるが、ここで長々とネイゲルに反論しても、反論になっていないと当人からいわれるかもしれない。哲学は子供のような問いをいつまでも続けることである。その答えは誰かから教えられるものではない。自分で考えて、考え抜くのが哲学である。

ネイゲルの哲学に興味がある人には次の本を薦めたい。トマス・ネイゲル著、岡本裕一朗 、若松 良樹訳、「哲学ってどんなこと?」 (昭和堂)。特に「コウモリであるとはどのようなことか?」を読んで挫折した人が理解し直す良い読書となると思う。









萬葉学者であるとはどのようなことか? その5 「コウモリであるとは」とはどのようなことか?

万葉学者たちの書いた論文を読んで不思議だったのは、何故そのような非論理的な推論をするのか、何故そのような論文が査読を通って掲載されたのか、さらには、何故その論文が好意的に引用されているのかだった。非論理的な推論については以下に書いた。


ミ語法の論文とク語法の論文を書き、それぞれA雑誌とB雑誌に投稿した。幸いにも、 A雑誌は審査を通り掲載が決定した。一方、B雑誌と書いた萬葉学会の『萬葉』は不掲載となったらしい。と言うのは、正式な不掲載の通知を貰っていないからである。編集委員のP氏はその文書を「公文書」と呼び、「公文書」を送ることを約束してくれたが、数日後に届いたその「公文書」に学会の法人印も署名もなく、このような文書なら誰でも作れてしまう。これでは正式な文書と言えないとP氏に伝えたが、未だに正式な文書は届いていない。

P氏とのやりとりで痛感させられたのは、今まで付き合ってきた人たち、学校の先生、先輩、友人、職場の上司、先輩、同僚、学会や取引先の人々との間では通用した、今まで私が常識だと思っていたことが通じないことだった。私文書を公文書と呼ぶような間違いは言葉遣いに敏感な人でなければ別に珍しくないし、正式文書に印鑑を押さないことも、ずっと大学にいたような人にはわからないのかもしれない。問題はそれ以前のことだった。高校生でもわかる程度の簡単な論理が通用しない。

また、既に紹介した萬葉学会のQ氏による査読の結論の論理の展開が非常に主観的なことも驚きだった。これでは「私はこの論文を良いとは思わないので、拒絶する」というのと同じである。理系の世界ではそのような論法は通らない。理系に限らず、法学や経済学でも同じだろう。人文学者特有なのかもしれないが、少なくとも萬葉学者たちも我々非萬葉学者も万葉集という同じものを見ているはずなのに、違って感じているのだろうかという疑問が生じた。

そこで思い出したのがトマス・ネイゲルの論文である。その邦訳のタイトルが「コウモリであるとはどのようなことか」である。ブログの記事に「萬葉学者であるとはどのようなことか?」というタイトルを付けた。また、藤子・F・不二雄こと藤本弘氏の作品からも引用した。しかし、萬葉学者たちから「我々を犬やコウモリに例えるとはどういうことか」という苦情が出ないとも限らない。常識的にはそのような誤解はあり得ないが、どうも萬葉学者たちを私は、十字軍の時代のキリスト教徒がサラセン人を、逆にムスリムたちがフランク人を見ていたのと同じように見ていたのかもしれない。つまり、、自分たちの常識では測れない、思いもよらない考え方をする人たちとである。その対策として、人間同士の例として、グリフィンの「私のように黒い夜」やヴァルラフの「最底辺」を、木に竹を接ぐように付け加えたりした。

しかし、よく考えてみれば、前回示したヴィトゲンシュタインのウサギとカモの錯視のように、多義的なものの複数の意味を知らなければ、どちらか一方に、つまりウサギにだけやカモにだけしか見えない。したがって、萬葉学者の誤解は「犬やコウモリに例えるとは」ではなく、それ以前の、「萬葉学者であるとはどのようなことか」という文言に向けられるかもしれない。だから、グリフィンやヴァルラフを紹介するまえに、このタイトルの意味を解説すべきであった。

「コウモリであるとは」の「である」とは何か。断定なのか「として生きる」という意味なのか。次の例を比較されたい。

5-1a 我輩は猫である。
5-1b 我輩は猫だ。

両者に違いが感じられるだろうか。感覚の問題であるから、多数決で決めるしかなかろうが、違いがないと感じる人が多数であると私は思う。

5-2a コウモリであるとはどのようなことか?
5-2b コウモリだとはどのようなことか?

5-2bは私には多少苦情を言うニュアンスが感じられる。もしもそのように感じる人が多ければ、この「である」は単なる断定の意味ではなく、感じる人の数に比例した割合で「コウモリとして生きる」という意味が含まれているのであろう。また、ネイゲルの論文を読んだことがない人には5-2aであっても、何か苦情を申し入れるようなニュアンスが感じられるかもしれない。この記事のタイトルの「萬葉学者であるとは」という文言にもそれと同じことが言える。そのような誤解が萬葉学者の側から寄せられるかもしれないことに私は前もって気付くべきであったと今にして気付いた。

また、「コウモリであるとは」の「とは」は引用である。相手が言ったこと、誰かがいったこと、自分が言ったことのいずれかを引用して、「どのようなことか」と問うのである。日本語では疑問を呈することがしばしば詰問と認識されうる。次の例を見られたい。

5-3a What's this?
5-3b これは何だ。
5-3c 何だろ、これ?

ある英語の本の原文が5-3aであり、5-3bは翻訳である。翻訳者は話し手が怒っていると思ったようである。正しい訳は5-3cである。5-3bを「これは何か」としても、多少詰問のニュアンスが残る。

したがって、「コウモリであるとはどのようなことか」は「とは」と疑問があいまって、相手が何かを「コウモリである」と断定したのに対して、疑問を呈している、あるいは詰問していると判断されうる。「萬葉学者であるとはどのようなことか」も相手が「私は萬葉学者である」と名乗ったのに対して、何か苦情を言おうとしていると判断されかねないことに改めて気付いた。

「コウモリであるとはどのようなことか」は多義的であり、そのために分かりにくい表現である。そこが面白くもあった。ネイゲルの論文集のタイトルに永井均氏がこの文言を選んだのもそれが理由だと思う。しかし、それはウサギとカモの両方に見えることに気付いた段階で言えることであって、多義性に気付かず、ウサギかカモかどちらかだと信じている段階では無用な誤解を受けかねない。

このタイトルは引用の「とは」と詰問の可能性のある「どのようなことか」ではなく、「コウモリであるのはどんな感じか」のように訳すべきだったと思う。少なくとも、ネイゲルが論文で何を言おうとしたのかが読者に分かりやすかった。