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2017年7月23日日曜日

萬葉学者であるとはどのようなことか? その4 「どのようなことか」とはどのようなことか?

But fundamentally an organism has conscious mental states if and only if there is something that it is to be that organism—something it is like for the organism.
We may call this the subjective character of experience.

しかし基本的には、ある生命体に意識を持った精神状態があるということは、その生命体として存在することが何なのか、その生命体にとってはどうなのかの答えがあることと同値である。
これを経験の主観的性質と言っても良い。

以上はThomas NagelのWhat is it like to be a bat?からの引用である。この論文のタイトルを永井均氏は「コウモリであるとはどのようなことか」とした。同氏はNagelの論文集のMortal Questionsの翻訳にも同じタイトルを付けた。

このタイトルは少なくとも私には分りにくかった。中身を読むまで、更に正確に言えば、原文を読むまで意味が分からなかった。 分かりにくいからこそ読者を引き付ける効果があると考える。ちょうど広告の宣伝文がしばしば文法を逸脱するように、見慣れない表現が人目を引く。だからこそ論文集のタイトルに永井氏が選んだのではないかと思う。

タイトルの「コウモリであるとはどのようなことか」は前半の「コウモリである」も後半の「どのようなことか」も多義的である。「コウモリである」は「コウモリとして存在する」と「コウモリだと断定する」の二つの意味がある。元の英語の場合はハムレットのTo be or not to beのセリフでも分かるとおり「生きる」の意味が強いが、日本語で「である」と言えば「これはペンである」のような断定の意味になってしまう。存在の意味を表現したければ「コウモリとしてある」のように言うべきだった。

「どのようなことか」は説明を求める表現だが、理想像としてのあるべき姿を求める傾向が強い。しかし、Thomas Nagelの論文のwhat is it likeは主観的な感覚を問うている。

次の4-1aと同じ意味なのはどれだろう。

4-1a What is it like to live in Tokyo?
4-1b 東京に住むとはどのようなことか。
4-1c 東京に住むのはどんな感じか。
4-1d 東京の住み心地はどうか。

例文4-1aは東京に住んでいる人や住んだことがある人に体験談を尋ねている。同じ意味なのは4-1bでなく、4-1cや4-1dかと思う。英語で質問が為されるのだから「英語はどの程度通じるか」「日本語が話せない人にどんな仕事があるか」から始まって「子供の教育はどうか」「家賃や物価はどうか」「どんな娯楽があるか」「治安はどうか」などの回答が期待されるものと思う。

4-2a What is it like to be a bat?
4-2b コウモリであるとはどのようなことか。
4-2c コウモリとして生きるのはどんな感じか。
4-2d コウモリは何を感じ、何を考えて生きているのか。

これも同じである。4-2aはコウモリ(コウモリだったことがある生物は今もコウモリである)にコウモリとしての体験を聞く、しかしコウモリは人語を解さないから、人間があれこれ想像して、コウモリとして存在するのはどういう感じなのかを考える。その場面で発せられる日本語の質問は4-2bでなく、4-2cや 4-2dだろう。

例文4-1a、4-1c、4-1dや4-2a、4-2c、4-2dが主観的な説明を要求していること、あるいは要求せざるを得ないことに注意されたい。一方、4-1bや4-2bは客観的な説明が期待される。次はどうか。

4-3 親であるとはどのようなことか。

家庭内で子供に対してどう接するか、学校や社会で人の親としてどう振舞うか、何をすべきか、何をすべきでないか等々、倫理的、道徳的、かつ、客観的な回答を要求している。つまり、「どのようなことか」は客観的な意見を求める傾向がある。同様の例をあげておく。

4-4a タバコを吸うとはどのようなことか。
4-4b 患者を診察するとはどのようなことか。 
4-4c 企業で働くとはどのようなことか。

倫理や道徳と無関係であっても、客観的な定義が要求される。一方、次はどうだろう。デスマス体でなくとも、主観的説明や個人的印象を求める質問になる。

4-5a タバコを吸うとはどんな感じか。
4-5b 患者を診察するとはどんな感じか。 
4-5c 企業で働くとはどんな感じか。

例文4-4eは「どういうことか」であるが、これも客観的な説明を要求している。

4-4e あなたに責任がないとはどういうことか。

しかし、4-4や4-5に示した例は、考えれば考えるほど分からなくなるかもしれない。と言うのは、一度意味が主観か客観かに確定すると、最初からその意味の質問だったと思えてくるからである。

上の絵はウサギにもカモにも見える。その割合がほぼ同数になるように描かれていると思う。この図はWikipediaにあったPublick Domainのものをお借りした。ウサギだと思っていた人が、あるときカモにも見えることを発見すると、その後はどちらともわからなくなってしまうかもしれない。

先ほどの4-3であるが、子供が生まれた後輩に言うのであれば、次のようになろう。

4-6a 親になった(子供ができた)気分はどうだい?

これであれば、当人の主観的な感想を聞いている。子供がない人が子供がある人に次のように聞くことがあるかもしれない。

4-6b 僕は子供がないが、子供がいる家庭ってどんな感じなんだろう。

4-6a、4-6bはともに主観的な説明を要求する。

また、上記の文章のwhatが日本語訳では「何」でなく「どう」になる点も日本語と英語の相違として興味深い。

4-7 What do you think about Nagel's paper?

これは「何を思うか」でなく「どう思うか」である。冒頭の引用の部分のsomethingは「どう」に対する答えであるが、そのような名詞が日本語にないため、ぎこちない訳になった。なお、英語のif and only ifは日本語の論理学では「同値である」と訳される。

ちなみに上の引用部分を永井均氏は次のように訳している。


しかし根本的には、ある生物が意識をともなう心的諸状態をもつのは、その生物であることはそのようにあることであるようなその何かが--しかもその生物にとってそのようにあることであるようなその何かが--存在している場合であり、またその場合だけなのである。
われわれはこれを、経験の主観的性格と呼んでよいだろう。


太字にしたのは原文で傍点がある部分である。ここは誰が訳してもぎこちなくなると思う。原文のsomethingが「その答え」や「その何か」になってしまう。

ただし、このような品詞の相違は全体の意味に大きな影響を与えない。

4-8a 彼には娘が三人ある。
4-8b He has three daughters.

4-8aの娘は主格であるが、4-8bのdaughtersは対格である。また、4-8aの三人は副詞(句)であるが、4-8bのthreeは形容詞である。しかし、全体として与える意味に違いはない。

一方、4-1a、4-1c、4-1dや4-2a、4-2c、4-2dが主観的な説明を、4-1bや4-2bが客観的な説明を、それぞれ要求することは大きな違いである。この違いが原因となって、 「コウモリであるとはどのようなことか」というタイトルの意味が分かりにくくなっていると考える。

「コウモリであるとはどのようなことか」の意味が分かりにくかったとしたら、少なくとも私にはそうだったが、その原因は多義性にある。Thomas Nagelの論文の意味を分かりやすくするには、前半が「コウモリとして存在する」ことを意味し、後半が主観的な説明を要求する、例文4-2cや4-2dが良い。Nagelの論文の主要な主張は、そのような主観の存在を、人間の思考が脳内の化学反応や電気化学反応の結果とする還元主義では説明できないとするものだからである。哲学書が分かりにくいと言う感想の理由の何分の一かは翻訳の問題である。Thomas Nagelのコウモリの論文を読んで理解できなかった人はぜひ原文を読んでほしい。少なくとも私は原文を読んでNagelが言いたかったことを何とか理解した。

とは言え、この論文集の翻訳を私が行ない、その後に永井均氏が見たならば、恐らく大量の誤訳を発見したであろう。また、「コウモリであるとはどのようなことか」のほうが売れるタイトルであるとも思う。 だからこそ、本稿のタイトルも「萬葉学者であるとはどのようなことか」としたのである。

2017年7月7日金曜日

萬葉学者であるとはどのようなことか? その3 三段論法と二段論法

二段論法はエンテュメーマ(ἐνθύμημα)の訳語である。私が作った新語と書こうとしたが、念の為にインターネットを検索すると、斎藤秀三郎氏の『斎藤和英大辞典』(日英社 1928)の見出しに既にあると言う。この分かりやすい訳語が何故廃れてしまったのだろう。今は省略三段論法や説得推論が使われているようである。

三段論法と二段論法の違いを例をあげて示す。ともにアリストテレース(Ἀριστοτέλης)の用語で、前者のギリシア語はシュロギスモス(συλλογισμός)である。

三段論法(συλλογισμός)
大前提 人間は食べないと生きて行けない
小前提 太郎は人間である
結論 太郎は食べないと生きて行けない

二段論法(ἐνθύμημα)
前提 太郎は人間である
結論 太郎は食べないと生きて行けない

二段論法は三段論法の前提の一つを省略したものである。一段論法がもしもあるとするなら、あいだみつを氏の「人間だもの」がその例になるかもしれない。なぜ省略するのか。言わなくても通じるからである。説得推論という訳語が示すように、アリストテレースは弁論術に向いた方法だとした。論理的厳密性は犠牲になるが、短く表現するほうが理解されやすく印象も強くなる。

二段論法は、しかし、日常生活では多用される。三段論法を使う場面はむしろ少ない。二段論法が理解されない場合である。これを発展させたのがToulmin modelと呼ばれる日常生活の論証の類型化であろう。

話が前後するが、アリストテレースが説得術について書いた(弟子たちが講義の内容をまとめた)本が『テクネー・レートリケー』(Τέχνη Ῥητορική)である。原題は「演説の技術」とでも訳せようか。岩波文庫から『弁論術』の名で訳書が出ている。古代ギリシアでは
レートリケーの巧拙が裁判や政治の結果を左右した。どちらも大衆を説得しなくてはならない。だからこそ、 ソピステース(Σοφιστής)という詭弁を含めた説得術を教える職業が成立したのである。ソピステースの厳密でなくしばしば詭弁である議論を、師匠のプラトーン(Πλάτων)は嫌ったが、アリストテレースは現実的な方法としてレートリケーを研究した。

ギリシア語のレートリケーは英語のrhetoricの語源である。日本語でレトリックと言うと普通は比喩、倒置、擬人法などの言葉の彩(figure)を指す。元のギリシア語の意味は、演説の構想を練り、言葉の彩の技巧を凝らし、あるいは凝らさず自然さを目指し、それ)を暗記し、舞台俳優の如く発声や身振り手振り表情にも心を配って演説する、その全体を指す。

アリストテレースはレートリケーが役立つ理由の一つに次の理由をあげている(1355a)。原文が難解すぎて稿者の語学力では及ばないので、古い英訳から重訳する。


Further, in dealing with certain persons, even if we possessed the most accurate scientific knowledge, we should not find it easy to persuade them by the employment of such knowledge. For scientific discourse is concerned with instruction, but in the case of such persons instruction is impossible; our proofs and arguments must rest on generally accepted principles, as we said in the Topics, when speaking of converse with the multitude. 

(理由として)次に、ある種の人たちを説得するとき、たとえこれ以上にないほど正確で系統だった知識があったとしても、彼らをそのような知識を用いて説得するのは簡単でないことに気付くはずである。系統だった議論は論理的に厳密な証明を用いるが、そのような人たちの場合は論理的な説明が通用しないからである。トピカで述べたように、大衆と話すとき、証明や論証は誰もが受け入れられる原理に基かなくてはならない。

簡単に言えば、大衆の前で演説するときは、教養ある人同士なら通じる論理的な証明が通用しないので、『トピカ(Τοπικά)』で説明したように、必ずしも厳密と言えない
レートリケーの方法を使わなくてはならない、という意味である。

プラトーン(Πλάτων)とアリストテレース(Ἀριστοτέλης)の考えに従う限り、論理的な証明と説得は別のものであり、教養ある人々には論理で正しいことを証明し、大衆にはレートリケー(弁論術)の技術によって不正確ながらも納得してもらうのである。レートリケーは正しいことよりも正しそうに見えることが価値を持つ。些細なことを重大に見せかけ、重大なことを些細に見せかけられるからであると言う(プラトーンのパイドロス Φαῖδροςの267a)。

論理に基く論証は、相手が教養ある人たちであれば、つまり、ある程度の論理を理解する人たちであれば、それが論理的に正しいことを示せば良い。レートリケーは、そのような方法が通用しない相手を何とかして説得し、こちらの主張を理解してもらう、現実的な方策である。

萬葉学者のP氏の言う「説得力」がそのようなものかは現時点で断定できない。しかし少なくとも客観的でなく主観的なものであることは間違いない。なぜかと言うと、P氏が説得力があるとしたものに私は説得力を感じず、論理的な説明がP氏に説得力がないと映るからである。この点については具体例をあげて後日考察したい。なお、なぜこのような考察を続けているかの理由をここに書くと、人文系の萬葉学者と理系の研究者が相互理解を得る手段を知りたいからである。

これは私の仮説であるが、上代語の研究が江戸時代から大きな進展がないことの理由として、萬葉学者たちの研究が客観的な論理でなく、主観的で非論理的な萬葉学者には説得力があると思われる方法によってきたからではないかと考えるからである。大きな進展がないことは、科学的な手法に基く研究から、従来説を覆す発見が、論文の数にして30本ほど蓄積されているからである。それらが公開され、萬葉学者たちに受け入れられた時点で、進展がなかったことの証明となるだろう。しかし、ク語法の論文み見られるように、科学的な方法が萬葉学者たちに説得力を感じさせないならば、論文の公開は自費出版あるいは海外の言語学系の雑誌への投稿という手段になろう。国語学の事情に詳しい知人によると、海外で評価され、逆輸入されるほうが速いと言う。

それは権威による論証の一種である。


なお、アリストテレースは論理学について詳細な議論をオルガノン(Όργανον)と後に名付けられた一連の著作の中で行なっている。「分析論前書(Αναλυτικών προτέρων)」では、一階の述語論理とやや誤りを含んだ(語句の解釈により誤りが解消するという意見もある)様相論理を文章だけで記号を使わずに記述している。ニュートンの「プリンキピア」も同様であるが、現代人には非常に読みにくい。それを読みこなせた古代人は頭の回転がさぞ速かったことと思う。

つまり、アリストテレースは、一方で、厳密な論理学を哲学学習者に用意し、他方で、大衆にそのような厳密な論理で説明しても理解されないので、彼らが理解しやすい説明をする技術を研究していた。アリストテレースは哲学学習者に厳密な論理に基く証明を示し、彼らが大衆に何かを納得させる技法としてレートリケーを解説した。事実、「形而上学」には、哲学するには論理の訓練が必要との記述がある(第4章第3節)。

ゴルギアス、プラトーン、アリストテレースのいずれにあっても、説得とは論理を理解できない人々を論理によらずに納得させることであった。その考えに従うならば、説得力があるとは論理以外の力により納得させられるという意味である。説得力が主観的な概念であることは言うまでもない。

参考文献
Delphi Complete Works of Plato (Illustrated) (Delphi Ancient Classics Book 5) Kindle Edition
Delphi Complete Works of Aristotle (Illustrated) (Delphi Ancient Classics Book 11) Kindle Edition
Aristotle: Rhetoric in Greek + English (SPQR Study Guides Book 39) Kindle Edition
Quintilian Institutes of Oratory Kindle Edition
An intermediate Greek-English lexicon: founded upon the seventh edition of Liddell and Scott's Greek-English lexicon Kindle Edition

AmazonのKindleの全集は、翻訳は古いのだろうが、いずれも数ドルと安価である。岩波文庫の『弁論術』の和訳も読みやすい。論文を書くというのでなければ、最新の研究成果が反映されてなくとも十分役に立つ。ただしkindleは現時点でギリシア文字の入力が行えない。そのためLiddell and Scott'sは辞書の用を為さない。

2017年7月1日土曜日

萬葉学者であるとはどのようなことか? その2 説得力



Σωκράτης
ἔλεγές τοι νυνδὴ ὅτι καὶ περὶ τοῦ ὑγιεινοῦ τοῦ ἰατροῦ πιθανώτερος ἔσται ὁ ῥήτωρ.

Γοργίας
καὶ γὰρ ἔλεγον, ἔν γε ὄχλῳ.

Σωκράτης
οὐκοῦν τὸ ἐν ὄχλῳ τοῦτό ἐστιν, ἐν τοῖς μὴ εἰδόσιν; οὐ γὰρ δήπου ἔν γε τοῖς εἰδόσι τοῦ ἰατροῦ πιθανώτερος ἔσται.

Γοργίας
ἀληθῆ λέγεις.

上記はプラトーンの「ゴルギアス」(459A)からの引用である。

ソークラテース 「今の話は、たとえ健康の問題であっても医師よりレートールに説得力があるということですね。」
ゴルギアス 「さらに言えば、大衆の前では、という意味です。」
ソークラテース 「大衆が無知だということですか。確かに、知っている人の前では、レートールは医師ほど説得力がないでしょうから。」
ゴルギアス 「おっしゃる通りです。」

※ 大学の教養課程で選択科目の古典ギリシア語を履修したように記憶しているが、講義の記憶がないし、単位も取得していない。従って稿者の訳は心もとないことこの上もない。岩波文庫の『ゴルギアス』などで専門家の訳を参照されたい。ブログで引用しなかったのは著作権の問題がよく分からなかったからである。

レートール(ῥήτωρ)とは大衆の前で演説する人である。弁論家と訳されることが多い。ゴルギアスは有名な弁論術の教師であった。薬を飲むことや手術を受けることを勧めるのに、自分は医師に代わって患者を説得できると言う。医学的に理路整然と説明するよりも、弁論術を使うほうが患者を納得させられるからである。つまり相手に専門的知識や論理的な理解力がない場合に説得力を発揮するのが弁論術である。

萬葉学会のP氏はしばしば説得力がある、ないと言う。それではまるで萬葉学者が無知であり、そのために論理的な説明を受け入れないというのと同じではないだろうか。萬葉学者にとって説得力とは何だろう。また、それはどういう意味を持つのだろう。

説得力については、国語学の論文に特有な非論理的な推論の「その6」に書いた。

次の推論は論理的に誤りである。しかし国語学の論文に多用される。「お前が盗んだならば私の金がない」の条件文は真である。しかし「私の金がない」が真だとしても、そこから「お前が盗んだ」と結論できないことは高校の数学で習った通りである。だが、それと同じ論理構造で、「AならばBである」と「Bである」から「Aだったのである」と結論することは、錚錚たる国語学者たちの論文にしばしば見られる。「古代に於てはかやうな場合にも打消の場合と同等に「は」が用ゐられたのであるならば、私の仮説が間違いとは言えない」と「私の仮説は正しい(と私は考える)」から「古代に於てはかやうな場合にも打消の場合と同等に「は」が用ゐられたものと見られるのである。」と結論する推論である。

また、「非論理的な推論」の「その1」で紹介した例では、「「な」は願望の意味を持つ」とする仮説を、たった二首の歌で検証し、歌意が通ることから、「「な」が願望の意味を持つ」と結論する。仮説を立て、それを用例で検証する方法は科学的に正しいが、仮説の検証が二例では、それこそ説得力がない。さらに、歌意が通るとはその状況で矛盾がないという意味でしかない。推測した単語の意味が正しければ歌意が通るが、歌意が通ったからと言って推測した意味が正しいとは言えない。逆は必ずしも真ならずである。

このような推論が説得力を持つのは、ゴルギアスとソークラテースが認めるように、大衆が無知である場合である。ギリシア時代でも現代でも相手が論理に敏感なら通用しない。大学の理工系や法学系の学部に学んだ人なら一目で論理的な矛盾を見抜くに違いない。

それが何故萬葉学者には通じてしまい、むしろ説得力があるという肯定的な評価に反転するのか。萬葉学者とのやり取りを通じて、私は次の仮説を得た。萬葉学者は学術論文を論理ではなく感性で読む。

この「仮説」という言葉も萬葉学者たちからしばしば誤解されるのであるが、「根拠がない、信頼性の低い思い付き」ではない。コペルニクスの地動説も、マクスウエルの電磁気学の理論も、アインシュタイの相対性理論も、いずれも反証が未だ現われていない仮説である。自然科学も言語学も、数学や法学とは異なり、公理や法律から演繹するような証明が行えない。帰納法しか適用できない。その帰納法も、実は、多くの事実から仮説を立てたに過ぎない。カール・ポパーは白いスワンを何万回観察したからと言って、スワンのすべてが白いと言いきれないと言っている。ヨーロッパ人は長い間スワンは白いものだと信じていた。それがオセアニアに黒いスワン、日本語ではコクチョウと言うが英語ではblack swanが、存在することを知り、スワンは白いという仮説は覆された。

なお、Popper (1934)の日本語訳の「科学的発見の論理」では白いスワンが黒いカラスに置き換えてある。日本語の白鳥は白い鳥の意味であるから、誤解を恐れてカラスに置き換えたのかもしれない。しかし白いカラスは未だ発見されていない。一方黒いスワンはオセアニアに生息する。したがって、個別の観察結果を幾ら積み重ねても帰納という推論が出来ないという例としては、カラスよりもスワンが相応しい。日本語訳を読む方は注意されたい。

本題に戻る。多くの大学で国語学と国文学は同じ学科で教えられる。国文学は感性が判断基準である。友人は某黒ラベルは某スーパードライよりはるかに旨く、その違いは比べるまでもないと言う。私は某クラシックラガーを好む。もちろん某スーパードライや某一番絞りが好きだという人も多数存在する。その主張は客観的な論理で導かれず、各自の味覚という感性に依存する。これが国文学の判断基準だと思う。しかし国語学は違う。言語という自然現象(あるいは社会現象)を対象とする自然科学(あるいは社会科学)である。そこに感情は入り込めない。すべては論理が決める。

以上が本来の姿であるが。国語学者は国文学者と兼務の場合も多い。教育の過程で理工学系や法学系のような論理的思考を訓練されることもない。日本人の英語力は大学入学時点が最も高い水準にあるという笑い話がかつてあったが、萬葉学者の論理的思考能力も大学入学時点が最も高くその後は衰退して行くのかもしれない。誤解して欲しくないが、論理的思考力は頭の良さとは違う。それは訓練で鍛えられるものであり、訓練を怠るとたちまち衰える。筋力と似ているかもしれない。古代人は老若男女が徒歩で日本中を旅した。それは足腰の筋力が鍛えられていたからである。

萬葉集の「ずは」の語法を調べていて、私は古代人が現代人が及ばない論理的思考能力を持っていたことに気付いた。テレビもインターネットも映画も雑誌もない時代。言語と思考で現代よりも脳が鍛えられていたと私は考える。遺伝子は上代人も現代人もほぼ同じであるから、論理的思考力の差は日々の生活の中の訓練の違いと考えたい。

何度も脱線したが、国語学に特有な非論理的推論と説得力という語の多用は、感性が判断の基準の国文学の側からもたらされたものではないだろうか。そのように今は考えている。

萬葉学者から学んだ萬葉学者に説得力のある慣用句で結ぶならば次のようになろう。 萬葉学者にとって学術論文とは文芸作品だったのである。だからこそ、彼らは理性より感性を重んじ、客観的な論理の妥当性を能動的に検証しようとしなかった。カントは論理学をアリストテレス以来進歩がないと断言したが(『純粋理性批判』の第二版への序文)、同じことは国語学にも言える。宣長以来大きな進歩がないことの原因は、論理より説得力を重視してきた姿勢にある(このように断定するのが説得力があるのだろうか)。

参考文献
Popper, Karl (1934) The Logic of Scientific Discovery, (English translation by the author 1959).
濱田敦(1948a) 「上代に於ける願望表現について」 『國語と國文學』 25(2)
橋本進吉(1951) 「上代の国語に於ける一種の『ずは』について」 『上代語の研究』 (1951 岩波書店)
Popper, Karl (1963) Conjectures and Refutations: The Growth of Scientific Knowledge.
Popper, Karl (1972) Objective Knowledge: An Evolutionary Approach,, Rev. ed., 1979.