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2018年1月8日月曜日

TSONTS-15 萬葉学会の審査の妥当性の検討(5) Q氏の不掲載理由(下)

萬葉学会のQ氏による査読理由の検討を続ける。不掲載の理由の全文は萬葉学会の審査の妥当性の検討(1) 拒絶理由と最初の反論を参照されたい。

Q氏は続ける。

また形式名詞の有無に関わらず、明確ではない知覚(けっして朧気というのではない)すなわちplainな知覚に対して特立される形でなければ、「アク」によるク語法の価値がないから、それとの対比がどうしても必要になる。

この部分の意味がすぐにわからなかった。とりわけ「plainな知覚」がわかりにくい。何を何と対比するのか。最初の反論では従来説との対比だと考えて次のように書いた。

ク語法は用言を体言化するものであるという従来の仮説との対比は大量の用例の検討の中で十分に為されていると考えます。 

後でわかったのだが、Q氏は「plainな知覚」を思いも寄らない意味に使っていた。手元のMerriam Webster's Collegiate Dictionary 11th editionによると、飾りがない、余計なものを含まない、視界を妨げない、心や感覚に明白な、はっきりした、単刀直入な、ありふれた、特徴のない、単純な、複雑でない、美しさも醜さもない等の意味が並んでいる。しかし、plain perceptionならば純粋な知覚、明白な知覚を思い浮かべないか。

テレビの人気番組に「良い子、悪い子、普通の子」というのがあった。それまでは良い子でないのは悪い子であり、悪い子でなければ良い子だった。良い子でも悪い子でもない普通の子という範疇を作ったのが新鮮だった。Q氏はその番組を見て育った世代だろうか。つまり、はっきりした知覚でなく、朧気な知覚でもない、普通の知覚と言いたかったのだ。それを何故覚束ない英語で表現しなくてはならないのか。

想像するに「普通の知覚」では稚拙な表現にQ氏は感じたのだろう。 しかし「plainな知覚」は更に稚拙である。このような本来の意味と違う意味での英単語の使用は高山善行氏の一連の論文にも散見された。Q氏が高山氏であるとすると辻褄が合う。念の為に書くが、このような推論は「逆は必ずしも真ならず」である。更に念の為に書くが、必ずしも真ならずは、必ず偽ではない。

本稿で「はっきりした知覚」と書いたのは良い子と悪い子の二元論しかなかった時代の意味である。「ぼんやりした知覚」を排除するためである。つまり、私の分類の良い子はQ氏の分類で良い子と普通の子になる。大量の用例の現代語訳を読んでもそのことは明白と考える。

そもそも「あく」の意味を「はっきりと知覚される」と書いた。Q氏の言う「plainな知覚」の対応物を何故考えなくてはならないのか。「明言する」の意味を「はっきりと言う」と定義したとき、「普通に言う」の対応物は何かと問う意味があるのだろうか。Q氏は論点をおかしな方向に逸そうとしている。

いずれにしろ、本稿の「あく」はQ氏の考える「普通の知覚」の意味を含む。

最後にQ氏は述べる。


意見としていえば、仮設動詞アクを想定することは、ク語法による動詞名詞句に具体的な意味傾向を付加することになるが、ク語法という文法的環境下ではその具体性は捨象されて準体句のあり方とは異なり、〇〇のような機能を負担するに至ったという形で改めて立論されるべきものと思う。


最初の反論では次のように述べた。


本稿ではアクが終止形の場合と連体形の場合の区別を検討しています。終止形の場合は準体句となりません。そのことが用例の解釈の上で従来説と大きく異なる結果を与えます。「具体性が取捨される」とは考えていません。あくまでも「明確に知覚する」という意味が程度の大小はあれ残存しています。

いずれにしましても、本稿はク語法の成立を明らかにすることを第一目的としております。その目的は十分に果されたと考えます。



本稿は上代の語法について書いたものである。近世にク語法が単なる名詞句と扱われただろうことは、現代語の意味との連続性から理解できる(数学で言う中間値の定理)。それは萬葉学会の雑誌「萬葉」に投稿した上代語の論文である本稿の範囲を超える。Q氏は高山善行氏と同じく中古語が専門のようであるが、だからこそ、上代以降の意味の変化に関心があるのだろうが、ではQ氏の書く中古語の論文に江戸時代や現代の日本語の意味が議論されていないとして拒絶されたら、言語道断と感じないのだろうか。

Q氏の論法は芥川龍之介が『侏儒の言葉』の「批評学」で述べた「木に縁って魚を求むる論法」である。『侏儒の言葉』から引用する。


『全否定論法』或は『木に縁って魚を求むる論法』とは先週申し上げた通りでありますが、念の為めにざっと繰り返すと、或作品の芸術的価値をその芸術的価値そのものにより、全部否定する論法であります。たとえば或悲劇の芸術的価値を否定するのに、悲惨、不快、憂欝等の非難を加える事と思えばよろしい。又この非難を逆に用い、幸福、愉快、軽妙等を欠いていると罵ってもかまいません。一名『木に縁って魚を求むる論法』と申すのは後に挙げた場合を指したのであります。


この論法を使えばどんな論文をも拒絶できる。芥川龍之介は誰でも気付くばからしさを前提に「批評学」を書いたのだろうが、Q氏はそれを現実化した。

追記:2018年1月14日午前0時32分にplainな知覚の部分を一部修正。
 

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