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2017年11月28日火曜日

To sue or not to sue その7 萬葉学会事務局並びに編集委員宛のメール

萬葉学会の事務局と編集委員に対して、2017年11月28日22時01分に以下のメールを送信しました。高山善行氏のメールアドレスがわからないので、彼らに連絡を依頼しました。

萬葉学会 事務局御中並びに編集委員殿

拙稿に対する査読理由にモーダルという言葉がありました。編集委員からも「一番の問題は、構文的理解が示されていない点と、「成立を問題とする」ことの意味です。成立の組成による意味が、そのまま発話者の意味解釈につながるのか、そうでなく、すでに用法としての意味解釈になっているのかによって、モーダルな解釈が変わってきます。その点では、ク語法の場合、構文的にはやはりモーダルな面を無視できません。「あく」が終止形と連用形との二種類があるならなおさらです。」という指摘を受けました。

構文的理解は拙稿の現代語訳の部分に詳しく論じてあります。なぜわざわざ指摘するのか理解できませんでした。また「モーダル」という語の意味も私の理解と異なります。

査読者と編集委員のいう「モーダル」の意味を知りたく、古典語のモダリティの論文を多数書いている高山善行氏の論文を集中的に読みました。その結果、編集委員の言う「構文的理解」はおそらく査読者の言葉かと思いますが、それが高山氏がしばしば用いる意味と同一であること、また、査読者の言う「仮説としてアク接尾がもと四段動詞だと考え、その仮設された語義・語性からク語法の用例群を検証するという方法は誤りではない。」という考えの根拠を知りたく思っていましたが、査読者のその考えが高山善行氏の考えと類似していることに気付きました。

査読者や高山善行氏の考えに一部誤りがあります。それを摘しておくことは今後のためにもなります。そのような観点から、 高山善行(2005) 「助動詞「む」の連体用法について」 『日本語の研究』  1(4), 1-15, 2005の問題点を拙ブログで指摘しております。

つきましては、高山善行氏に以下を知らせていただきたくお願いします。

高山善行殿

高山善行(2005) 「助動詞「む」の連体用法について」 『日本語の研究』  1(4), 1-15, 2005の問題点を次の記事で論じています。

高山善行(2005)の問題点(1) 演繹でない推論
https://introductiontooj.blogspot.jp/2017/11/to-sue-or-not-to-sue-2.html 

高山善行(2005)の問題点(2) データの整理が不適切である
https://introductiontooj.blogspot.jp/2017/11/to-sue-or-not-to-sue-3-20052.html 

高山善行(2005)の問題点(1再) 演繹でない推論(つづき)
https://introductiontooj.blogspot.jp/2017/11/to-sue-or-not-to-sue-4-20051.html 

高山善行(2005)の問題点(3) モダリティの理解不足
https://introductiontooj.blogspot.jp/2017/11/to-sue-or-not-to-sue-5-20053.html 

高山善行(2005)の問題点(4) 主観と客観の混交
https://introductiontooj.blogspot.jp/2017/11/to-sue-or-not-to-sue-6-20054.html 

今後も継続する予定です。上記記事並びにその継続記事に対して意見があればコメントまたはメールにて連絡をお願いします。

以上

To sue or not to sue その6 高山善行(2005)の問題点(4) 主観と客観の混交

高山善行(2005)の問題点(1) 演繹でない推論に「4 主観的意見と客観的事実が区別されていない。」と書いた。

学術論文に主観的意見を書くことに問題はない。していけないのは主観を客観の如く書くことと主観的意見を根拠に推論を行なうことである。

同論文の第1節に連体形「む」の用法に「不明な点が多い」として

まず, 《仮定》については, 《推量》との違いが明らかでない。接続法による仮定表現との関係もはっきりしない。《婉曲》については, 本当に「やわらげ」ているかどうか疑わしいし, 「やわらげ」なければならない必然性も明らかでない。
と主観的意見を述べ(主観であることが明らかならば問題ない)、その理由として、

このような疑問が生じてくるのは, 《仮定》《婉曲》が直感的理解にとどまり, 具体的な言語事実に即した記述分析がなされていないことに起因する。

と「理由なき断定」を行なう。根拠を示さないなら高山氏の主観的な感想でしかない。事実、下の引用文献のリンクを辿ればわかるように、山本淳(2003)は従来の方法で高山善行(2005)と同じ結論を導いている。

続いて、第1.2節で、助動詞「む」の連体用法を「モダリティ論,モダリティ表現史の問題として捉え直してみたい」と述べ、現代語で推量の助動詞が連体修飾語となりにくい例をあげて、

このような問題は, 現代語だけ, 古代語だけを扱う立場では気づきにくいが, 史的対照の観点に立つと顕在化してくるものである。
」と断定する。

これも根拠が示されていない。主観をあたかも客観的事実のように表現している。しかし、同様の指摘は既にある。山本淳(2003)から引用する。

このように説明されている推量辞「む」の連体形は、古典にしばしば使われているのに対し、現代語では、
  彼にそんな酷いことは言えようはずもない(作例)
のように、ごく稀にしか使われず、一般的な言い方とは見なされない。つまりは、「む」を出自とする口語の「う」あるいは「よう」が、連体形の用法を「む」から十分には引き継いでこなかったと考えられるのである。
山本氏が古典語の「む」と現代語の「よう」の対比しか記述していないのに対して、高山氏は「む」と「だろう」以外に、終止形「なり」、「けむ」などを追加しているが、例が増えただけであって、古代語で連体用法が盛んに使われたのに現代語では衰退したという点で同じ論旨である。

さらに、高山善行(2005)の上記引用箇所に続く次の記述。

それは, モダリティ表現史を明らかにする上での重要な課題の一つと言える。

これも主観的な感想である。古代語と直接対応がない「そうだ」や「に違いない」を追加したため「表現史」とは言えなくなってしまった。助動詞の用法の変化を辿るということであれば、「む」と「う」「よう」の変化だけに絞るべきである。語源や構成が違う単語をモダリティの名前で一括りにしても得られるものは少ない。Palmer (2001)が細かな検討を行なっているように、印欧語の直説法と接続法(subjunctive)とアメリカ先住民やパプア・ニューギニアの言語のrealisとirrealisは良く似た使われ方をする。一方、主節で使われるか、疑問文や否定文ではどうかという点で異なる。言語類型学の扱う問題は殆どがそうだろうが、ムードとモダリティも、荒っぽく見ればどれも同じ、細かく見れば一つ一つ違うという、当たり前の現象、つまり高山氏の言う課題があちこちにある。

第1.3節に

これまで, 連体用法「む」を正面から取り上げた研究はほとんど見られず, 助動詞研究の中で最も扱いにくいテーマの一つと言える。その背景には, 伝統的な助動詞研究が抱える方法論上の問題があると思われる。
」とある。

高山善行(2002)が引用して高山善行(2005)が引用しなかった和田明美(1994)や高山氏が見ていないかもしれない山本淳(2002)がある以上、「ほとんど見られず」とは言えない。また、「扱いにくいテーマ」かどうかも客観的にはわからない。一番の問題は「伝統的な助動詞研究が抱える方法論上の問題があると思われる」である。「思われる」ならば、誰が見てもそう思う状況だろうが、これは高山氏だけの感想である。「と思う」と書くべきである。

続いて、

しかしながら, 本稿のテーマに関しては,一般的な方法は通用しにくいと思われる。連体用法「む」は現代語に置き換えにくいため, われわれ現代人にとっては「む」の意味解釈がきわめて困難である。大量の用例を帰納したとしても, その問題が解消するわけではない。「む」の使用条件,使用文脈といった周辺的な情報は蓄積されるだろうが,「む亅の性質を直接的に捉えることはできない。
」とある。

 「通用しにくいと思われる」は「通用しにくいと思う」とすべきである。「思われる」は万人がそう思う場合の表現である。「われわれ現代人にとっては「む」の意味解釈がきわめて困難である」も主観表現である。では、ロゼッタ石の碑文はなぜ現代人が解読できたのだろう。仮説と検証という科学的手段を用いたからである。今までの国語学が行なってきた現代語からの類推で解読しようとするから解決できないのである。古代語の母語話者でない我々が感覚的に意味を理解するのは言うまでもなく無理である。高山善行(2005)が主張する演繹的方法が行なえないことも既に見てきた通りである。仮説を立て、検証し、棄却されたらまた別の仮説を立てる。その繰り返し以外の方法はない。

第1.3節は更に、

 だが, 野村(1995),尾上(2001) が指摘するように, 「む」の基本的意味を《推量》と見ることには問題がある。また, 多義的なモダリティ形式の文末用法での意味を安易に文中用法へとスライドさせるべきではない。「む」については, 文中用法と文末用法を別個に精査した上で, 両者を総合するという手順をふむ必要がある。
」と続く。

「 多義的なモダリティ形式の文末用法での意味」は多義的な表現である。モダリティ形式が多義的なのか、その文末用法が多義的なのか。また、モダリティ形式は「む」と同義なのか、他の助動詞の「らむ」「けむ」を含むのか。モダリティ論という曖昧な表現を用いたために意味がわかりにくくなっている。

「スライド」の使い方は萬葉学会のQ氏のplainの使い方を彷彿とさせる。用言の意味が終止形と連体形で変わらないとは言い切れないが、あるとすれば非常に例外的である。終止形「む」と連体形「む」の意味が異なるならば語源が異なる別の単語と見るべきである。両者が同じ単語であるならば、疑うべきは推量とされる終止形「む」の意味である。問題なのは「安易にスライドさせる」ことではなく、「む」の意味を推量と決め付けたことであろう。

「文中用法と文末用法を別個に精査した上で, 両者を総合するという手順をふむ必要がある」は高山氏の主観的意見であるから「必要があると私は考える」とすべきである。

この後の推論の部分にも主観と客観の混交があり、それが間違った結論を導くのだが、それについては既に述べた。

最後に前回までと同様の引用を行う。

「公表された作品については、みる人ぜんぶが自由に批評する権利をもつ。どんなにこきおろされても、さまたげることはできないんだ。それがいやなら、だれにもみせないことだ。」

藤本弘(藤子・F・不二雄)氏の「エスパー魔美」からの引用である。「法華狼の日記」さんのサイトに詳細な解説とそれに対する読者の反論と議論がある。セリフに漢字が少ないことから窺えるように、この漫画は小中学生を読者と想定したものである。自分の論文が批判されて怒っていたら理系の研究者はやっていられない。相互批判は学問の共同体の当然の権利であり、それが学問を発展させるのである。この当然すぎる常識を萬葉学者たちが受け入れてくれることを祈る。


引用文献
Reichenbach, Hans (1951) The Rise of Scientific Philosophy.
Popper, Karl (1959) The Logic of Scientific Discovery.
Popper, Karl (1972) Objective Knowledge: An Evolutionary Approach.
北原保雄(1984)『文法的に考える』(大修館書店)
和田明美(1994)『古代日本語の助動詞の研究ー「む」の系統を中心とするー』(風間書房)
Palmer, Frank R. (1979) Modality and the English Modals.  飯島周訳『英語の法助動詞』(桐原書店)
Palmer, Frank R. (1990) Modality and the English Modals. 2nd ed.
Palmer, Frank R. (2001) Mood and Modality, 2nd Edition.
高山善行(2002)『日本語モダリティの史的研究』(ひつじ書房)
山本淳(2003)「仮定・婉曲とされる古典語推量辞「む」の連体形」 山形県立米沢女子短期大学紀要 38, 47-62, 2003-06-30
高山善行(2011)「述部の構造」 金水敏ら(2011)『文法史』 (岩波書店)の第2章
高山善行(2014)「古代語のモダリティ」 澤田治美編(2014)『モダリティ 1』 (ひつじ書房)に収録


2017年11月26日日曜日

To sue or not to sue その5 高山善行(2005)の問題点(3) モダリティの理解不足

その2 高山善行(2005)の問題点(1) 演繹でない推論に三番目の問題点として「3 モダリティ(modality)の意味が正しく理解されていない。 また、高山氏の言う「モダリティ形式」は「推量の助動詞」を言い替えただけにしか見えない。」と書いた。

高山善行(2005)の「要旨」には
 助動詞「む」は連体用法で《仮定》《婉曲》を表すと言われているが, 実際にはよくわかっていない点が多い。本稿では,このテーマをモダリティ論の視点から捉え直し, 新しい分析方法を提案する。
とある。「はじめに」には
助動詞「む」は連体用法で《仮定》《婉曲》を表すと言われ, 古典文法では, 「仮定婉曲用法」の名で知られている。しかし実際には, この用法での「む」の性質はよくわかっていない点が多い。本稿では, この問題をモダリティ論の視点から捉え直す。そして, 連体用法での「む」の機能を明らかにすることを目標とする。 
とあり、「研究の目的」には
 本稿で取り上げるテーマは助動詞「む」の用法のひとつであり, 助動詞論で扱われるのが通常である。以下では, それをモダリティ論,モダリティ表現史の問題として捉え直してみたい。
」 (1.2節)
とある。 

以上を総合すると、高山善行(2005)が扱う題目(テーマ)は「助動詞「む」の連体用法が《仮定》《婉曲》を表すとされること」であり、それを従来の助動詞論ではなくモダリティ論から検討することが窺える。

なお、英文アブストラクトには
A number of previous studies have made an analysis of the adnominal usage of the Old Japanese auxiliary mu based on inductive methods; however, the essential problems have been left unsolved. This paper investigate sand describes the adnominal usage of mu based on a deductive method.
とあり、《仮定》《婉曲》と「モダリティ論」の文言はない。代わりに、従来は帰納的方法、本論文は演繹的方法という点が強調されている。なぜ英文アブストラクトから削られたかは分からない。高山氏からのコメントを待ちたい(※)。

※ この連載記事については萬葉学会を通じて高山氏へ伝えることとする。その内容について次回掲載する。

高山善行(2005)とよく似た論文がある。山本淳(2003)である。しかし、高山氏は
これまで,連体用法「む」を正面から取り上げた研究はほとんど見られず,助動詞研究の中で最も扱いにくいテーマの一つと言える。その背景には,伝統的な助動詞研究が抱える方法論上の問題があると思われる。
」(1.3節)
と書き、注6で
連体用法「む」を正面から取り上げた,数少ない研究としては,小林(1992)がある。
と述べるに留める。大学の国文科の紀要類は大学間で送付しあうのが通例であるから、山本淳(2003)を掲載した「山形県立米沢女子短大紀要」を高山氏が勤務していた福井大学の国語学教室が所有していなかったとは考えにくい。タイトルを見れば必ず読むはずである。山本氏の論文も正面から取り上げた数少ない研究である。

さらに高山善行(2002)が引用して高山善行(2005)が引用しない和田明美(1994)は「む」に関する網羅的な研究であり、連体「む」についても、高山善行(2005)にいうミニマルペア、要するに、「む」の有無の比較を行なってもいる。高山市はなぜ和田氏の論文を引用しなかったのだろう。

高山氏が他の著作で引用していた和田氏の論文も、恐らく高山氏が目にしたであろう山本氏の論文も、高山善行(2005)が用いたと同様、連体「む」の有無の比較を行っている。伝統的な助動詞研究が抱える方法論上の問題はないのではないだろうか。また、高山氏が用いた共起の有無についても、山本淳(2003)に(連体「む」が)
ある一定の条件下に必然的に行われるのか(他の語と共起する関係にあるのか)
」(3章)
という文言があることから、伝統的な助動詞研究が行えない研究方法と言えない。 

高山氏が強調する「モダリティ論」は「推量の助動詞」を「モダリティ形式」とした用語の置き換えにしか見えない。他は従来の助動詞論と変わらない。ただ一点だけ、「結論」の章に
 なお、見通しとして述べれば,連体用法「む」にはモーダルな意味(判断的意味)は認めにくく,脱モーダル化した用法と見ることができる。それは商品に貼られたラベルのような存在である。
とある。

「ラベルのような存在」は学術文献で用いられる比喩にしては文学的過ぎて私には意味がわからなかった。「脱モーダル化」は「脱推量」と言い替えられる。先行の山本淳(2003)も連体「む」が仮定や婉曲を表わすとする通説への疑問から出発して、前回の高山善行(2005)の問題点(1再) 演繹でない推論で述べたように高山善行(2005)と同様の結論を導いている。とすれば、高山善行(2005)はモダリティ論を用いることを必須としているとは言えない。

したがって、高山善行(2005)でモダリティ論は何の役割をも果していない。モダリティ論を用いたと言うのであれば、今まで多数の言語のmoodやmodalityの比較の研究で得られたtypology(言語類型論)の成果を応用しなくてはいけなかったが、高山氏はそれを行っていない。

それに加えて、高山氏は少なくともこの論文を書いて時点でmodalityを十分に理解していなかったのではないかという疑問が生じる。それは「脱モーダル化」の文言である。ムード(直説法以外)やモダリティを一言で言えば、irrealis(非現実様相)を用いた表現形式である。このことはPalmer (2001)に何度も述べられている。

Palmer (2001)の例を引用する。

5-1 Mary is at home.
5-2 Mary must be at home.
5-3 Mary may be at home.
5-4 Mary will be at home.

直説法を用いた5-1だけがrealis(現実様相)、つまり、既に起こった、あるいは、今起こっているevent(事象)であり、かつ、話し手が直接見聞きしたことである。5-2から5-4は話し手が直接見聞きしたことでなく、その思考の中に存在する。古代ギリシア語の直説法、命令法、接続法、希求法の四つのmoods(法)の、命令、接続、希求の三法は話し手の思考の中にある事象である。

以上の点に注意を払えば、連体「む」がirrealisを表わすと言いながらmodalityでないとは言えない。また、そもそもmodalityはirrealisを用いた表現であるから、「む」をmodalityと考えることは「む」がirrealisを表わすことと同義である。逆に高山氏がそのように捕らえていないということは、高山氏が用いたのはモダリティ論でなく、伝統的な助動詞論の言い換えに過ぎないと言える。

高山善行(2011)に次の説明がある。
メリ,終止ナリはそれぞれ,《視覚,聴覚で得た情報をもとにした判断》という意味的特徴をもち,エビデンシャリティ(evidentiality)を表す形式といえる.エビデンシャリティとは,証拠に基づいた判断を表し,他言語(ホピ語など)においても見られる.
」(p58)

ここがわからなかった。ホピ語とは何だろう。Palmer (2001)によれば、evidentialityはアメリカ大陸先住民の言語に見られると言う。ホピ語はアメリカ大陸の言語である。しかしPalmer (2001)にホピ語の例はなかった。

Palmer (1979)の飯島周氏の翻訳を高山善行(2002)が引用している。高山氏は次の部分を誤解したのではないかと思う。Palmerの二つの著作を見たが、Hopi語に言及しているのはその本の次の箇所だけである。
 「
言語によっては,文法的な時制の体系(temporal systems)を持たず,‘文法化された'法的な区別(‘grammaticalized' modal distinctions)を持つ(Lyons 1977: 816)ものがあることも重要である.たとえばアメリカインディアンのホピ語(Hopi)には(Whorf1956 :5 7-64,2 07-19), 3種の‘時制'があるが,これはLyons(1968: 311)によれば‘法(moods)'として記述するほうが適切である.第1は一般的な真実の陳述,第2は知られている,または知られていると思われる出来事についての報告,第3はまだ不確定の範囲にある事件に関するものである.第2と第3は,非法(non-modal)および法(modal)として対照的に見えるが,第2は過去時の事件, 第3は未来の事件を一般に示す.この言語での時の指示は本質的に法性の指示に由来する.
」(p8)

Palmer (1990) の当該部分。

It is also important to note that there are some languages that do not have temporal systems at all in their grammar but rather have 'grammaticalized' modal distinctions (Lyons 1977: 816).  Thus, in the American Indian language Hopi (Whorf 1956: 57-64, 207-19), there are three 'tenses' which Lyons (1968: 311) suggests might be more appropriately described as 'moods’.  The first is used for statements of general truths, the second for reports of known or presumably known happenings, and the third for events still in the reach of uncertainty.  The second and third would seem to be clearly contrasted as non-modal and modal, but it is also the case that past time events will normally be referred to by the second, and futures events by the third.  Indications of time in this language are essentially derived from indications of modality.

現実様相(realis)と非現実様相(irrealis)の対立があるからこそ、LyonsやPalmerはそれを法(mood)や様相性(modality)と記述している。そのことを高山氏は理解せず、それを証拠性(evidentiality)と誤解したようである。

つい最近、高山善行(2014)を読んだ。この推測はいっそう確かさを増した。
メリ、終止ナリはそれぞれ、〈視覚、聴覚で得た情報をもとにした判断〉という意味特徴をもち、「証拠性」(evidentiality)の形式とされる。「証拠性」とは、その事態に関する情報の出所視覚・聴覚、伝聞などに基づいた判断を表し、他言語ホピ語などにおいても見られるPalmer(2001: 8ではモダリテイの一種とされている)。
」(p141)

Palmer (2001)はアメリカ大陸の言語を例にあげevidentialityを説明する。一度でも読めば、繰り返し登場する言語の名前は覚えてしまう。例えば、Central PomoやTuyucaである。覚えなかったとしても、Palmer (2001)を読めば、Hopi語を例にあげることはしない。対偶をとれば、Hopi語を例にあげるのはPalmer (2001)を読んでいないからである。

更に言えば、モダリティが非現実様相(irrealis)を用いた表現という基本的な点さえ理解していないならば、高山善行(2005)の言うモダリティ論は従来の陳述論の単なる言い替えに過ぎない。

最後に前回までと同様の引用を行う。

「公表された作品については、みる人ぜんぶが自由に批評する権利をもつ。どんなにこきおろされても、さまたげることはできないんだ。それがいやなら、だれにもみせないことだ。」

藤本弘(藤子・F・不二雄)氏の「エスパー魔美」からの引用である。「法華狼の日記」さんのサイトに詳細な解説とそれに対する読者の反論と議論がある。セリフに漢字が少ないことから窺えるように、この漫画は小中学生を読者と想定したものである。自分の論文が批判されて怒っていたら理系の研究者はやっていられない。相互批判は学問の共同体の当然の権利であり、それが学問を発展させるのである。この当然すぎる常識を萬葉学者たちが受け入れてくれることを祈る。


引用文献
Reichenbach, Hans (1951) The Rise of Scientific Philosophy.
Popper, Karl (1959) The Logic of Scientific Discovery.
Popper, Karl (1972) Objective Knowledge: An Evolutionary Approach.
北原保雄(1984)『文法的に考える』(大修館書店)
和田明美(1994)『古代日本語の助動詞の研究ー「む」の系統を中心とするー』(風間書房)
Palmer, Frank R. (1979) Modality and the English Modals.  飯島周訳『英語の法助動詞』(桐原書店)
Palmer, Frank R. (1990) Modality and the English Modals. 2nd ed.
Palmer, Frank R. (2001) Mood and Modality, 2nd Edition.
高山善行(2002)『日本語モダリティの史的研究』(ひつじ書房)
山本淳(2003)「仮定・婉曲とされる古典語推量辞「む」の連体形」 山形県立米沢女子短期大学紀要 38, 47-62, 2003-06-30
高山善行(2005)「助動詞「む」の連体用法について」 『日本語の研究』  1(4), 1-15, 2005
高山善行(2011)「述部の構造」 金水敏ら(2011)『文法史』 (岩波書店)の第2章
高山善行(2014)「古代語のモダリティ」 澤田治美編(2014)『モダリティ 1』 (ひつじ書房)に収録

公開後細部の訂正を行なった。最終版は2017年11月28日午後7時48分の更新である。

2017年11月21日火曜日

To sue or not to sue その4 高山善行(2005)の問題点(1再) 演繹でない推論(つづき)

高山善行(2005)が演繹でない推論を演繹と述べ、その推論が論理的誤謬(fallacy)でもあることをTo sue or not to sue その2 高山善行(2005)の問題点(1)に書いた。言語学(国語学)は物理学や化学、生物学などと同じく経験科学の一分野である。経験科学が新しい知見を獲得するのは帰納的な方法によるしかない。これは科学の常識である。国語学系の読者のために和文の参考文献として以下をあげる。

ハンス・ライヘンバッハ著、市川三郎訳、『科学哲学の形成』(みすず書房 1954)
カール・ポパー 著、大内義一、森博訳、『科学的発見の論理』(恒星社厚生閣 1971)
内井惣七著、『科学哲学入門』(世界思想社 1995)

英語が嫌いでなければ、本稿が参照したReichenbach (1951)とPopper (1959)が良いと思う。日本の哲学者たちからReichenbachは終わった人と看做されているようだが、理系の学生は教えられるところが多いはず。

経験科学において新しい知見を得るのに「演繹的方法を用いた」と書くのは 「占星術を用いた」「火星人に教えられた」などと書くのと同じである。なぜ高山氏はそのような主張に到ったのだろう。

高山善行(2002)は「4・3 帰納主義と演繹主義」で
伝統的な解釈文法では、徹底的な用例の帰納、類型化という方法が取られていた。そこで得られたデータが現在の文法史研究の基礎的な部分を担い、大きく貢献していることは事実である。なるほど、帰納主義の方法によって、用例分布の量的傾向、偏りは明らかになるだろう。しかしながら、用例分布の量的傾向の報告にとどまるなら、表面的な現象の観察だけで終わってしまう。用例が「なぜ無いのか」という問題に踏み込まなければ、文法現象の整理はできても説明ができない。
と述べ、北原保雄(1984)を参照して、
北原保雄(一九八四)は、文法研究で帰納法重視の方法から演緯法重視の方法への転換を提唱しているが、・・(中略)・・本書もこうした考え方を基本的に支持するものである。もちろん、ここでの演緯重視は、用例の帰納を軽視するものではけっしてない。徹底した用例の帰納は必要である。要は、現象の整理にとどまらず、用例非存在の論理を考えなければならないということである。「用例が存在しない」ことも、(その必然性が問えるとすれば)価値ある言語現象の一つである。
 」
と結んでいる。

しかし、北原保雄(1984)が述べる「経験科学における演繹的研究」は
要するに、観察記録(protocol statement)を「説明」しうるもの(ここでいう「説明」とは、そこで説明される発言・命題を導き出すような理論体系を作りあげることである)として仮説(hypothesis)が立てられるというだけでは言語理論の大きな体系は構築されないのであって、その仮説が他の経験的事実にも広く適用されうるものであることの「検証(verification)」が重要なのである。
と北原氏が書くように、仮説と検証という帰納的方法である。ちなみに私が「ズハの語法」「ク語法」「ミ語法」の論文で用いた方法でもある。数理科学においては特に「仮説演繹法(hypothetico deductive method)」と言い、「説明的帰納法(explanatory induction)」とも呼ばれる。

例をあげて説明する。ニュートンの重力の式という仮説がある。二つの物体の間にはそれぞれの質量の積に比例し、物体の重心の間の距離の二乗に反比例する力が働く。

式4-1 F = G M m / r^2

Gは重力定数、Mとmは物体の質量、rは物体の重心の間の距離である。なお、上に書いた「仮説」という言葉を奇異に感じる読者はKarl Popper (1972)の

All theories are hypotheses; all may be overthrown.
理論はすべて仮説である。すべてが覆されうる。

を参照されたい。

式4-1から惑星の運動が演繹される。仮説である式をあたかも公理の如く扱って、そこに数値を代入したり、式を変形したりして、何らかの結果を導く。その結果が現実の観測と一致するかどうかを調べる。仮説から演繹されたものが観測事実と異なれば仮説は棄却される。一致するならば、当面はその仮説を正しいものとして扱う。これが仮説演繹法である。名前に演繹の文字があるが、帰納法の仲間である。

北原氏は仮説演繹法を演繹的研究として説明した。しかし高山氏は仮説演繹法を演繹的方法と誤解したのではない。もしもそうであれば、高山善行(2005)は仮説と検証という経験科学の正当な方法を用いていたはずである。高山氏の誤解は二つある。第一に、経験科学で演繹的方法が有効であると誤解したこと、第二に、後件肯定という論理的誤謬を演繹と誤解したことである。そのため、高山善行(2005)の推論は北原保雄(1986)が説くのとは全く異なるものになってしまったのである。

査読者を惑わし、おそらく自分自身をも惑わせたのは、高山善行(2005)の4.1節の
「む」は名詞句の非現実性を明示する標識(marker)として働いている。
という文言であろう。

言語学でいう標識(marker)は抽象的なものでなく具象的な存在である。具体的には、日本語であれば、接頭辞、接尾辞、助詞、助動詞を言う。「標識(marker)として働いている」ではなく「標識(marker)である」と言うべきである。

つまり、

式4-2 標識 = 接頭辞+接尾辞+助詞+助動詞

であり、これは次の式と同様である。

式4-3 助詞 = 格助詞+係助詞+副助詞+接続助詞+間投助詞+終助詞

格助詞の「を」は対格を表わす標識である。次の表現は等価である。

式4-4 「を」は対格を表わす標識である。
式4-5 「を」は対格を表わす助詞である。
式4-6 「を」は対格を表わす格助詞である。

同様に次の表現も等価である。

式4-7 「む」は非現実性を示す標識である。
式4-8 「む」は非現実性を示す助動詞である。

時代別国語辞典の上代編の「む」の項には次の説明がある。
動詞・形容詞・助動詞の未然形(形容詞は~ケの形)に接して、非現実の事柄について予想をあらわすのを原義とする

高山善行(2005)の4.1節の推論と5節の結論は、演繹ではなく、「む」の連体形が現実の事象と共起しにくいという観察結果の理由の推測である。ロッカーに入れておいた財布の金がなくなっている、という観測結果を説明しうる原因として、特定の人物が盗んだという仮説が成り立つが、その仮説が演繹されたわけではない。財布の金がないという結果を導きうる原因は他にも存在する。

上記の推論は、正しくは、連体「む」が現実世界の事象を記述する例を「蜻蛉日記」「枕草子」「源氏物語」の中に見出せなかった理由として、「む」は非現実の事柄を予想するという従来の仮説が有効であることを確認した、というものであろう。

なお、同様の記述は山本淳(2003)にもある。結論の一部を引用する。リンクから原論文を参照されたい。

i 連体形「む」は、未確認の事実について想像する推量辞であり、「む」が持っている本来のはたらきである。
ii 連体形「む」の有無に関して、話者が未確認の事実であることを明示する必要があると判断した時に表れて、その使用については恣意的である。
iii 連体形「む」は、未確認の事実についての想像を示すということと関わって、「む」と意味的に相関する文節に推量辞を伴いやすい。

なお山本氏はiとiiiとここに引用しなかったviについて「先行研究にもすでに明らかにされている」ことを附言している。逆に言えば、iiは山本氏が得た新知見であろう。高山善行(2005)の次の記述(第5節)は山本淳(2003)のiiと同じ趣旨であろう。

Aタイプは無標の名詞句であり, 現実性一非現実性の意味解釈は基本的には文脈によって決定される。一方, Bタイプは「む」でマークされることによって, 現実性の解釈は排除され, 必ず非現実性解釈となる。


既にある山本氏の説を「演繹」により導いたのならば高山善行(2005)に価値があるが、高山氏の推論は演繹でないし、そもそも言語学(国語学)のような経験科学において演繹により新知見が得られることはない。

最後に前々回と前回の引用を繰り返す。

「公表された作品については、みる人ぜんぶが自由に批評する権利をもつ。どんなにこきおろされても、さまたげることはできないんだ。それがいやなら、だれにもみせないことだ。」

藤本弘(藤子・F・不二雄)氏の「エスパー魔美」からの引用である。「法華狼の日記」さんのサイトに詳細な解説とそれに対する読者の反論と議論がある。セリフに漢字が少ないことから窺えるように、この漫画は小中学生を読者と想定したものである。自分の論文が批判されて怒っていたら理系の研究者はやっていられない。相互批判は学問の共同体の当然の権利であり、それが学問を発展させるのである。この当然すぎる常識を萬葉学者たちが受け入れてくれることを祈る。


引用文献
Reichenbach, Hans (1951) The Rise of Scientific Philosophy.
Popper, Karl (1959) The Logic of Scientific Discovery.
Popper, Karl (1972) Objective Knowledge: An Evolutionary Approach.
北原保雄(1984) 『文法的に考える』(大修館書店)
和田明美(1994) 『古代日本語の助動詞の研究ー「む」の系統を中心とするー』(風間書房)
高山善行(2002) 『日本語モダリティの史的研究』(ひつじ書房)

To sue or not to sue その3 高山善行(2005)の問題点(2) データの整理が不適切である

高山善行(2005)は「人」を修飾する名詞句を次のAとBのタイプに分け、様々な語との共起を調査した。

Aタイプ 「活用語+人」
Bタイプ 「活用語+む+人」

ここで言う活用語は動詞、形容詞、助動詞である。「む」のあるBタイプは「む」のないBタイプに比べ種々の共起制限(co-occurrence restriction)があるというのが高山氏の結論であるが、AとBのタイプで共起例の数に大きな差がある倍は数値を記しているが、ない場合は記していない。また、調査した用例数がAタイプとBタイプで大きく違うが、その母数も考察の箇所に示していない。方法の箇所に以下の数字があった。

Aタイプ 748例
Bタイプ 127例

母数が6倍近く違うことに注意されたい。高山氏が数字を示しているのは以下である。

共起対象 Aタイプ Bタイプ
時間表現  55例   1例
場所表現  74例   1例
人の複数  94例   1例
数の多寡  20例   1例

理系の論文であれば、いや、人文系でも多くは、母数を入れて20/748と1/127のような書き方をする。高山氏の書き方は読者に不親切であり、母数をその場に書かないことで、AタイプとBタイプの差が強調されることを意図したと疑われ、理系の論文では注意される。母数の6倍弱の違いを考慮しても有意でありそうであるが、計学的検定が望まれる。

萬葉学会の査読者や編集者の論法であれば、検定がないことを理由に不掲載にしたであろう。芥川龍之介の「侏儒の言葉」の「批評学」の項の「木に縁って魚を求むる論法」である。査読者Q氏の意見はク語法の真実 その0 萬葉学会の不掲載理由に示した。それに反論したところ、その後に編集委員P氏から「構文的理解が示されていない」ので「モーダルな解釈が変わって」くる云々、「成立組成の意味が、そのまま文の意味や用法の意味になることもあれば、そうでなくその語法の意味として使われることもあり」、「実際に歌われたことばの解釈が、「はっきり知覚される」にこだわることもない。意味的には現行の解釈でも十分理解できる」云々と、萬葉学会の論文審査には一事不再理という考えがなく、新たに理由を探し出して何が何でも不掲載にしたいのかと思わさせられた。しかしP氏は私の原稿を読んでいないか読んだが理解できなかったかのいずれかである。P氏の指摘は多数の用例の現代語訳を読めば回答済みとわかるはずである。閑話休題。

高山氏が数字を示していないのは、モダリティ形式、存在詞述語、テンス・アスペクト形式との共起である。高山氏は「Bタイプでは,存在詞述語,テンス・アスペクト形式が生起しないという事実が確認できた」と述べているが、Aタイプとの共起のわずか3例ずつを示しただけで、母数が6倍近く違う両集団の間に有意差が確認できるのだろうか。このような結論を言うためには統計的検定が必須であろう。統計学は客観的帰納と言えるが、高山氏の推論は主観的な帰納である。演繹的手法と言いながら、高山氏がここで用いたのは帰納法である。黒いカラスを何羽見たとしても、カラスがすべて黒いと結論するには帰納法を用いなければならない。Bタイプの共起が1例ずつあるということは白いカラスが1羽ずついたと言うことである。それでは帰納も難しい。

白いカラスが1羽ずついることについて、時間表現、場所表現のBタイプの例はどちらも特定の時間や場所を表わすものでないとして、人の複数、数の多寡のBタイプを未来の事態の想像として、それぞれ事後に除外している。結果を見て事後に判定基準を変えるのは望ましくない。このような「えこひいき」を行なったデータを掲載するのは論文の数値の信頼性を著しく損なう。この論文を掲載するためには、Aタイプのデータにも同じ判断基準を適用した上で数値を計数し直さなくてはならない。

最後に前回の引用を繰り返す。

「公表された作品については、みる人ぜんぶが自由に批評する権利をもつ。どんなにこきおろされても、さまたげることはできないんだ。それがいやなら、だれにもみせないことだ。」

藤本弘(藤子・F・不二雄)氏の「エスパー魔美」からの引用である。「法華狼の日記」さんのサイトに詳細な解説とそれに対する読者の反論と議論がある。セリフに漢字が少ないことから窺えるように、この漫画は小中学生を読者と想定したものである。自分の論文が批判されて怒っていたら理系の研究者はやっていられない。相互批判は学問の共同体の当然の権利であり、それが学問を発展させるのである。この当然すぎる常識を萬葉学者たちが受け入れてくれることを祈る。


引用文献
Reichenbach, Hans (1951) The Rise of Scientific Philosophy.
Popper, Karl (1959) The Logic of Scientific Discovery.
Popper, Karl (1972) Objective Knowledge: An Evolutionary Approach.
北原保雄(1984) 『文法的に考える』(大修館書店)
和田明美(1994) 『古代日本語の助動詞の研究ー「む」の系統を中心とするー』(風間書房)
高山善行(2002) 『日本語モダリティの史的研究』(ひつじ書房)

2017年11月3日金曜日

To sue or not to sue その2 高山善行(2005)の問題点(1) 演繹でない推論

「公表された作品については、みる人ぜんぶが自由に批評する権利をもつ。どんなにこきおろされても、さまたげることはできないんだ。それがいやなら、だれにもみせないことだ。」

藤本弘(藤子・F・不二雄)氏の「エスパー魔美」からの引用である。「法華狼の日記」さんのサイトに詳細な解説とそれに対する読者の反論と議論がある。セリフに漢字が少ないことから窺えるように、この漫画は小中学生を読者と想定したものである。自分の論文が批判されて怒っていたら理系の研究者はやっていられない。相互批判は学問の共同体の当然の権利であり、それが学問を発展させるのである。この当然すぎる常識を萬葉学者たちが受け入れてくれることを祈る。

学術論文は事実と推論から成る。地動説の論文であれば、天体観測から得られた事実とそれに基く推論が記される。過去の言語は現代語と違い調査が行なえない。既にある限られた量の文献だけが資料である。新たな事実の発見は稀である。したがって、上代語や中古語の論文は推論を束ねたものとなる。推論が重要なのは言うまでもない。しかし、国語学の論文に特有の非論理的な推論のその1その2その3その4その5その6に述べたように、国語学の論文の推論には学術論文にそぐわない非論理的で感覚的なものが少なくない。

この回は誤って用いられた演繹という語について記す。


仮説としてアク接尾がもと四段動詞だと考え、その仮設された語義・語性からク語法の用例群を検証するという方法は誤りではない。

未知の語の意味を推定する方法は他にない。Q氏は何を考えているのだろう。そう思っていた。

編集委員のP氏とのやりとりでモダリティが話題になった。古典語のモダリティで有名なのは高山善行氏である。そこで同氏の論文を集中的に読んだ。高山善行(2005)を読んで萬葉学者が上述のQ氏のような考えを述べる背景が理解できた。結論を先に言えば「演繹」の意味の誤解である。

高山善行(2005)には他にも問題点がある。それらを併せて検討したい。問題点を列挙する。

1 演繹でない推論を演繹と述べている。しかもそれは論理的誤謬(fallacy)である。
2 データの整理が不適切である。
3 モダリティ(modality)の意味が正しく理解されていない。 また、高山氏の言う「モダリティ形式」は「推量の助動詞」を言い替えただけにしか見えない。
4 主観的意見と客観的事実が区別されていない。
5 論文の冒頭で疑問が呈された「婉曲」「仮定」という従来説の検討が行方不明。同じく「モダリティ表現史」の検討も行方不明。
6 先行文献の引用が不適切。

以下、1から6を順に検討する。

1 演繹でない推論を演繹と述べている。しかもそれは論理的誤謬(fallacy)である。

高山善行(2005)から引用する。

 一般に助動詞研究では, 大量の用例を収集して用例の意味解釈を積み重ね, それらを分類するという方法がとられる。それは帰納重視, 意味重視の立場と言える。この方法が研究の基礎的段階で一定の成果を挙げた点は認めておかねばならない。
 しかしながら, 本稿のテーマに関しては,一般的な方法は通用しにくいと思われる。
」(1.3節)


従来の帰納的方法に対して,本稿では演繹的方法を用いる。
」(2.1節)

      A number of previous studies have made an analysis of the adnominal usage of the Old Japanese auxiliary mu based on inductive methods; however, the essential problems have been left unsolved. This paper investigates and describes the adnominal usage of mu based on a deductive method.
」(Abstract)

しかし、演繹が用いられるのは数学や神学のような公理から出発する学問だけである。自然科学、社会科学、言語学は経験科学である。帰納(仮説とその検証)以外に知識を得る手段がない。これは経験科学では常識である。査読者がこのような非常識な記述を何故見逃したか理解に苦しむ。

帰納は次のような推論である。

私は一羽のカラスを見た。そのカラスは黒かった。別なカラスを見た。そのカラスも黒かった。何羽ものカラスを見たが皆黒かった。ここで仮説を立てるのである。すなわち

仮説 カラスは黒いものである(すべてのカラスは黒い)、

と。その後は仮説の検証を続ける。新しくカラスを見たが黒かった。仮説は反証されなかった。

仮説は一つの反例があれば棄却される。例えば青いカラスが観察された場合、もはや「すべてのカラスは黒い」と言えない。しかし 「すべてのカラスが黒い」という命題は永遠に証明されない。過去に生きていたカラスのすべて、今後生まれるカラスのすべてを数え尽くすことは出来ない。

自然科学の法則はすべて未だ反証されていない仮説である。Karl Popper (1972)から引用する。


All theories are hypotheses; all may be overthrown.


なお、WikipediaにKarl Popperへの批判が紹介されているが、それは確率をどう扱うか、帰納をどう考えるかという点であって、上で述べたことに関して異論を述べる科学研究者はいない(世の中には様々な人がいるのでゼロと言い切れないが、そのような考えは科学というより宗教であろう。)。

演繹は次のような推論である。

A→B, A ⊢ B
(ここで記号 ⊢は推論を表わす。左側のものから右側が導かれるという意味である。)
あれが雪であるならばあれは白い(雪は白い) A→B
あれは雪である A
したがって あれは白い ∴ B
これを「前件肯定」(modus ponens)と言う。A→BのAを前件、Bを後件と言う。その前件が肯定されれば、後件も肯定される。

もう一つある。

A→B, ¬B ⊢¬A
あれが雪であるならばあれは白い(雪は白い) A→B
あれは白くない ¬B
したがって あれは雪でない ∴ ¬A
これを「後件否定」(modus tollens)と言う。

どちらも前提のA→Bの中にある情報が引き出されただけである。したがって知識は増えない。

なお、上に「逆は真なり」と書いた(国語学の論文に特有の)誤った推論は
A→B, B ⊢ A
あれが雪であるならばあれは白い(雪は白い) A→B
あれは白い B
したがって あれは雪である ∴ A
というものであり、「後件肯定」と呼ばれる論理的誤謬(fallacy)である。

この「後件肯定」は結果から原因を予測する方法でもあるため仮説を作るときに使われる。我々の日常生活は仮説に満ちている。身体がだるいなどの症状から風邪という原因の仮説を立て、その後の他の症状の発生を観察することで、その仮説を検証しようとする。配偶者のちょっとした言動の変化から浮気という原因を仮定する人もあるかもしれない。

高山氏は一体どこに演繹を使っているのか。まず次(2.2節)が候補であろう。

 たとえぼ,「む」は《一般論》を表すと言われることがある。しかし実際には,「む」非使用のA タイプも《一般論》で用いられている。

 (8) 「十にあまりぬる人は,雛遊びは忌みはべるものを,… …」(源1−393)

(8)は,乳母(=少納言) が幼い紫の上に説教する場面である。ここでは, 「十歳を越えた人は,人形遊びを卒業するものだ」という《一般論》が述べられている。《一般論》は「む」の意味ではなく,むしろ「む」使用の文脈条件と見るべきであろう。

 また,「む」は《未来》を表すとも言われている。(9)を御覧いただきたい。

 (9) けふこの山つくる人には日三日たぶべし。(枕104)

 「雪山を作る」行為は,この文の発話時点以降の未来の事態である。そこで,「この山つくらむ人」が期待されるところだが,実際にはφになっている。

 結局, 《一般論》《未来》は,「む」の一面を捉えてはいるが,本質的な性質とは言い難い。「む」使用例だけを見ていると,(8)(9)のような例は最初から研究対象になりにくいのである。「む」とφの対立・相対化は,「む」固有の意味, 機能を捉える上で重要な視点である。
」(2.2節、読みやすくするために改行を追加した)

しかしこれは演繹ではない。高山氏のこの推論を記号で書くと次のようになる。

A→B, B ⊢ A
あれが雪であるならばあれは白い(雪は白い) A→B
砂糖は白い C→B
したがって 「雪は白い」は間違いである ∴ ¬(A→B)

A→B, B ⊢ A
「む」があるならばその文は《一般論》を表わす A→B
「む」がない文も《一般論》を表わす C→B
したがって 「「む」は《一般論》を表わす」は間違いである ∴ ¬(A→B)

高山氏は誤解しているが、論理式A→BはC→Bを排除するものではない。こう書くとP氏は「我々がやっているのは萬葉学であって論理学でない」と言いそうである。しかし、萬葉学であろうが何であろうが、推論が間違った論文は掲載すべきでない。なお、更なる誤解を受けそうであるが、高山氏のこの論文を掲載すべきでないと言っているのではない。間違いを訂正しないならば掲載すべきでないと言っているだけである。理系の論文であれば必ず査読者が指摘する初歩的な推論の誤りが訂正されていない。

たとえば、次の例文で「た」が過去を表すことを否定できるだろうか。

2-1 太郎は花子を強く抱きしめた。花子の心臓の鼓動が高まり太朗に伝わる。

この「伝わる」は過去の事象(event)を表わす。歴史的現在の用法である。高山氏の推論はこの「伝わる」をもって「た」に過去の意味がないと言うのと同じである。間違った推論であり、演繹でないのは言うまでもない。

高山善行(2005)のその後は中古の用例の紹介が続き、次(4.1節)に再び推論が用いられる。データの扱いは別途検討することにし、ここでは高山氏の観察結果をすべて正しいとして検討を進める。


 先述のように,B タイプにはいくつかの点で制約が見られる。それらの制約をもとに,B タイプの「人」が意味論上,どのような性質を持つか考えてみよう。

 まず,B タイプには,時間・場所表現との共起,テンス形式の生起に制約がある。そのため,時空の座標軸上に「人」を位置づけることができない。また,存在詞,アスペクト形式の生起,人の数量にも制約が見られた。そのため,現実世界に実在する「人」のく存在〉〈動きの様態〉〈数量〉について描写することができない。なお,ここでの「現実世界」とは,「作者が作品中において現実のものとして表現する世界」のことであり,いわゆる「史実」とは異なる。

 さて,現実世界の1人」は,時空の座標軸上に位置づけることができ,〈存在〉〈動きの様態〉〈数量〉について自由に描写することができるはずである。だとすると,B タイプの「人」は,現実世界に実在し, 描写可能な「人」ではありえない。つまり,それは,作者もしくは登場人物の頭の中にある「人」なのであり,非現実世界(想像の世界)の「人」ということになる。
」(4.1節、読みやすくするために改行を追加した)

高山氏の4.1節の推論は原因と結果が逆である。次の2-2と同じ論法である。

2-2 物干し竿で落とせなかったから、星は高いところにある。
2-3 星は高いところにあるから、物干し竿で落とせなかった。

理系や法学の教育を受けた人なら、この二つの文の論理の違いを立ち所に理解する。「物干し竿で落とせなかった」は実験から得られた結果である。その結果に基いて「星は高いところにある」という原因を推測する。次の2-3の「星は高いところにある」は仮説である。その仮説から「物干し竿で落とせなかった」という結果を演繹する。この方法は仮説の検証に使われる。仮説演繹法と呼ばれるが、そこから何か新しい事実が見付かるわけでないことに注意されたい。仮説を公理のように正しいものと仮定して、そこから演繹された結果が事実と整合するかどうかを見て、整合しないなら仮説を棄却するという方法である。高山善行(2002)は北原保雄(1984)を引用して演繹的な方法を奨励しているが、それは仮説の検証に用いられる仮説演繹法である。

高山氏の4.1節の表現は端折って言うと2-4である。これは2-2と同じく、結果から原因を推測する推論である。上で述べた「後件肯定」と呼ばれる論理的誤謬(fallacy)である。

2-4 時間、場所などとの共起に制約があった(観察結果)から、連体形の「む」は現実を記述できない(原因を推測)。
2-5 連体形の「む」は現実を記述できない(仮説)から、時間、場所などとの共起に制約があった(観察結果を説明)。

高山善行(2005)の結論は


「む」でマークされることによって,現実性の解釈は排除され,必ず非現実性解釈となる。「む」が名詞句の非現実性を標示する機能を非現実標示と呼ぶことにしよう。「む」は名詞句の非現実性を明示する標識(marker) として働いている。
」(5節)

であるが、これは同論文が主張するような演繹で導かれたものではない。上述のように、観察結果を説明する仮説として提案されたものである。

なお、「む」 が非現実を表わすことは、萬葉学会のQ氏のセリフを借りれば、「新知見とは言いえない」。時代別国語辞典上代編の「む」の項から引用する。


動詞・形容詞・助動詞の未然形(形容詞は~ケの形〉に接して、非現実の事柄について予想をあらわすのを原義とする

以上、高山善行(2005)で用いられた「演繹」は,正しい演繹法でないばかりか論理的誤謬(fallacy)であったことを示した。他の問題点は次回以降としたい。萬葉学会のQ氏が「仮説としてアク接尾がもと四段動詞だと考え、その仮設された語義・語性からク語法の用例群を検証するという方法は誤りではない。」と述べた背景には高山善行(2005)と同様の演繹法の誤解があるためと考える。

読者の中には萬葉学会のQ氏は高山善行氏ではないかと考える向きがあるかもしれない。その可能性は否定できない。事実、高山氏は萬葉学会の会員である。しかし、国語学の論文に特有の非論理的な推論のその1その2その3その4その5その6に示したように、このような初歩的な推論を間違えることは国語学の世界では珍しくない(理系や法学の世界から見れば信じられないかもしれない)。従って、現時点でそのように断定することはできない。

それよりも、このような非論理的推論がまかり通っていることは、間違った論文が多数刊行されるという小さな問題とともに、正しい論文が不当に棄却されるという大きな問題を生む。本居宣長らの国学の時代から上代や中古の言語の解釈に大きな進展がない理由がそこにあると考える。


引用文献
Reichenbach, Hans (1951) The Rise of Scientific Philosophy.
Popper, Karl (1959) The Logic of Scientific Discovery.
Popper, Karl (1972) Objective Knowledge: An Evolutionary Approach.
北原保雄(1984) 『文法的に考える』(大修館書店)
和田明美(1994) 『古代日本語の助動詞の研究ー「む」の系統を中心とするー』(風間書房)
高山善行(2002) 『日本語モダリティの史的研究』(ひつじ書房)

To sue or not to sue その1 知らない町で乗ったタクシーの料金を何故踏み倒さないのか

Why is reciprocity important for the ability to trust strangers? First, it explains why the complex web of trust that underlies modern social life does not unravel as soon as unscrupulous individuals test its strength. Economist Kaushik Basu describes a simple problem. You take a taxi ride in a large, unfamiliar city, and when you have reached your destination you pay the driver the amount you owe. You have benefited from the ride and you will never see the driver again, so why do you bother? (This is the kind of question that sometimes gets economists a bad name.) 

持ちつ持たれつの関係が見知らぬ人を信頼する能力にとって何故大切なのか。まず、この関係が説明するのは、現代社会を生きる基盤である信頼関係の複雑なしがらみがどれほど強いかを、悪意ある個人が試そうとしたとき、それがほどけてしまわないのは何故かである。経済学者のカウシク・バスの述べるわかりやすい例がある。知らない大都市でタクシーに乗るとする。目的地に着けば運転手にしかるべき料金を支払う。既に移動の便益は受けている。運転手に再び会うことはない。それなのに払わずにいられないのは何故か。(この手の質問でしばしば経済学者が汚名を着せられる。)

以上はPaul SeabrightのThe Company of Strangersから引用した。手元にあるのは2004年の初版である。現行の第二版は大幅に改定されているようだ。ページ数が294から376と増えている。

さらに、運転手が料金を受け取りながら受け取っていないと主張することがないのは何故か。揉め事が裁判所に持ち込まれたとき、裁判官が賄賂で動かないのは何故かも検討される。そこに「持ちつ持たれつの関係」(reciprocity)があるからなのだが、それは仲間内に限られる。

百パーセント良い人も百パーセント悪い人もいないのが水戸黄門や昔のアメリカの西部劇と違う現実の人間の社会である。アメリカ大陸で先住民の命や財産を奪って平気だったヨーロッパ人も母国では良い人だったかもしれない。アウシュビッツでユダヤ人を工場さながらに処理していたドイツ人も妻や子の前では良き夫であり良き父だったと言う。日本人も同じである。風土記を読めば、大和政権側は彼らが異民族と考えた「つちぐも」と呼ばれた人々を汚い騙まし討ちにしたことが得々と綴られている。どちらも恐らく我々の先祖だろうが、人間は「うち」に対しては平和で友好的でも、「そと」に対しては一変した対応をする。

萬葉学会の編集委員のP氏はによると雑誌『萬葉』は「同人誌」と言われていると言う。P氏もそれを是認して、良い論文にするため投稿者に何度も書き直しをお願いするような指導をすると言う。しかし、一方で、P氏は普通は不掲載理由を投稿者に知らせないとも言う。私のク語法の論文は私が事前に尋ねたから不掲載の理由を特別に知らせたと言う。

P氏の言葉は矛盾しているが、次のように考えれば矛盾が解消される。つまり、同人誌の同人は萬葉学者である国文科の教員とその卵である学生や院生だけなのだ。彼らの投稿であれば「指導」するが、在野の研究者には不掲載の理由さえ知らせないのだ。雑誌『萬葉』のバックナンバーがネット上に公開されている。私たちが見た限り、掲載された論文の投稿者は萬葉学者とその卵である。大昔の高校の教員の投稿があったが、それは学者と卵の中間の存在であろう。「持ちつ持たれつの関係」(reciprocity)は萬葉学者の間に限られ、在野の研究者は初めから排除されている。

掲載論文が萬葉学者の投稿に限られる理由として、在野の研究者の投稿は学術論文としての水準が低いという萬葉学会の反論があるかもしれない。しかし、Q氏が述べる不掲載の理由は学術論文を査読するには不適切なものである。不掲載の理由のどこに問題があるかを「その2」以降で検討して行く。また、雑誌『萬葉』が「指導」の末「良い論文」とした幾つかについても、その問題点を検討したい。

知人は年金生活の乏しい収入の中から萬葉学会の会費を払っていたが、幾ら投稿しても掲載されなかったと言う。雑誌『萬葉』は図書館でも読めるし、一年経てばネットに公開される。発表の場を求めて入会した在野の研究者は知人一人ではあるまい。私も同じ目的で萬葉学会と契約を締結した。萬葉学会は私に発表の場を提供する。雑誌の掲載には審査が行なわれるが、その審査は公正であると期待された。その代償として私は学会費を払う。そのような契約を結んだのである。

萬葉学会に初めから在野の研究者の論文を掲載する意志がないならば詐欺である。雑誌『萬葉』の投稿規定に「採否決定は、編輯委員会に一任のこと」とある。萬葉学会のP氏はその文言を盾に「部分社会の法理」を主張しとしているようである。しかし気象学会が提訴された裁判がある。東京地裁の判決は「部分社会の法理」を主張していない。気象学会に非がないとする理由の中で論文の審査のあるべき姿を示している。萬葉学会の審査はそのガイドラインを逸脱するものである。

P氏は私を「困った人」と思っているかもしれないし、P氏の回りの人たちもそう言っているのかもしれない。人間は他人の意見に影響されやすいものである。しかしP氏は私の回りにもP氏を悪意ある人物と考える人たちがいるはずと考えるべきであった。事実そういう人たちはいる。私はP氏を「意思疎通に困難を感じる人」と思っている。しかしP氏を悪人とは思っていない。査読をしたQ氏とて悪人ではなかろう。

ただし今回の、それから他の在野の研究者の会員に対して行なったことに非がないとは思わない。妻子には良き夫や良き父であったとしても、ドイツの役人たちがやったことが許されないのと同じである。しかしアウシュビッツと異なり、本件はまだやり直しが効く。出来れば話し合いで解決したい。間に他人が入れば出費が増える。P氏は訴えるなら萬葉学会ではなく自分個人を訴えてくれと言う。では自宅住所を教えてほしいと言ったところ返信がない。

タイトルのTo sue or not to sueに関連して、西アフリカのある地域の人々はシェークスピアのハムレットを信じないと言う。Laura Bohannanという人がNatural Historyという雑誌に1966年に発表したShakespeare in the Bushという論文がある。萬葉学会のP氏やQ氏と中々分かり合えないのも文化の違いが原因かもしれない。

2017年9月17日日曜日

おしらせ ミ語法の論文の掲載

ミ語法の論文が次の雑誌に掲載されました。

江部忠行 「「山を高み」は「山が高いので」か」
国語国文研究』 (150), 45-59, 2017-03      北海道大学国語国文学会

あと30本ほどの論文の種があります。Youtubeを利用した講演(日本語と英語)を予定しています。国内でだけ発表していてもダメかなあと思い始めています。

質的記述 その5 モダリティという方言

萬葉学会の不掲載理由を詳細に検討した。それは近々公開するが、その前にモダリティという方言について書く。Merriam-Webstermodalityを次のように説明する。

 2 :the classification of logical propositions (see proposition 1) according to their asserting or denying the possibility, impossibility, contingency, or necessity of their content

つまり英語で言うmodalityは命題の可能、不可能、偶然、必然に関する分類である。これは可能世界というものを考えるとわかりやすい。サイコロを振って、 1が出る世界、2が出る世界と順番に考え、6が出る世界までの六つを到達可能な世界とする。この六つのうちのいずれの世界でも起こりえないこと、たとえば7が出ることは不可能である。一回で必ず1が出るとは言えないが、出ることは可能である。六つの世界のうちの一つで実現する場合を可能と言う。1から6までの自然数のいずれかが出ることは必然である。到達可能な世界のすべてて実現されることを必然と言う。

これらの概念はアリストテレースの著作から研究されてきた。クリプキらが提案した可能世界という考えで一気に分かりやすくなった。いや、考えやすくなったと言うべきか。

ところが、万葉学者が言うモダリティはそれとは違う。これは査読者のQ氏が次のように記していることからも窺える。

さらに、ク語法に対して明確な知覚の表明という、モーダルな意味があると捉える点は興味深い。

また、最近読んだ高山善行(1996)に次の記述があった。

この事実は、モゾ、モコソが係助詞一般とは質が異なることを表す。と同時に、モゾ、モコソ表現のモーダルな性質を表しているのではなかろうか。何らかのモーダルな意味を必要とする仮定表現の帰結表現として用いられていることがモゾ、モコソ表現のモーダルな性質を根拠づけるであろう。かつてたされたような個別論の枠内では、仮定条件句との呼応は、モゾ、モコソ表現における推量的判断の確笑性と結びつけられがちであったが、視野を広げてみると、モーダルな性質を認めるための根拠として、改めて意義づけられることになるのである。

この事実とは仮定条件文の後件に「もぞ」「もこそ」があるときに「む」が現われないことである。これは宣長が詞玉緒で指摘して久しい。

萬葉学会のQ氏も高山氏も「モーダル」という語を「命題の提示の仕方にかんする」という非常に広い意味に用いている。Q氏の場合は「明確に知覚される」という意味がモーダルであるし、高山氏の場合は、ここでは、推量という意味がモーダルである。

このような大胆な定義はFillmore (1968)が最初であろう。

In the basic structure of sentences, then, we find what might be called the‘proposition’, a tenseless set of relationships involving verbs and nouns (and embedded sentences, if there are any), separated from what might be calledthe ‘modality’ constituent. This latter will include such modalities on the sentence-as-a-whole as negation, tense, mood, and aspect.  

このFillmoreの考えを寺村秀夫(1971)が紹介している。それを通じて国内に知られたのであろう。

しかしCook(1989)によると、Fill,moreはその後modalityに触れていない。おそらく関心はpropositionだけにあり、邪魔な部分をmodalityと一括して切り捨てただけだと思う。

この拡張されたモダリティについて哲学者の飯田隆氏が「論理学におけるモダリティ」と題した論文で感想を述べている。

山田小枝(2002) は次のような指摘をしている。

しかし、先に挙げたLyonsなどの必然性と可能性の概念を中心に指えたモダリティ、あるいは、「モダリティというのは、yesとnoの聞に位置する意味の領域、肯定極と否定極の中間領域のことである」と述べているHallidayのモダリティはいずれも肯定・否定間のさまざまな判定に対する人間の関心に焦点を絞っている。その「狭いモダリティ」と、真偽判断、価値判断から始まり対人関係、感嘆表出・慣行儀礼までを含む言語行為の諸相をモダリティとする「拡大モダリティ」とを等しく「モダリティ」の名称で指し示すことには無理があり、別な名称を用いるほうが良いように思われる。

山田氏の意見に同感である。飯田氏は従来のmodalityに「様相」という言葉を使っているが、高山(1996)も拡大された意味で「様相的」や「様相性」を使っている。

なお、飯田氏が論理学は自然言語と一致しないことを指摘しているが、それは自然言語全般という意味ではなく、個々の自然言語、日本語や英語と一致しない場合があるのである。つまり、数理論理学のある表現が対応する日本語の表現と一致しなかったり、別なある表現が英語の表現と一致しなかったりという現象であり、数理論理学のある表現がすべての自然言語と一致しないわけではない。こんなことを何故書くかと言うと、この点を拡大解釈されて、それ見たことか、数理論理学は意味がない、と早急な結論を出す人が現われるかもしれないからである。

数理論理学は完全ではない。それはすべての自然言語がそれぞれ完全でないのと同じである。日本語のある表現は対応する英語の表現と同じ意味ではないし、英語のある文は対応する日本語の文と同じ意味ではない。 数値論理学は自然言語を模して人工的に作られたものである。現時点で自然言語のあるもののある部分と同じでないとしたら、それは人工物である数理論理学がその言語に合わせるべきである。それが出来ていないのは自然言語の論理を我々が完全に把握していないからである。出来の悪い中学生でも日本語の「は」と「が」の使い分けを完全に出来る。秀才の外国人が習得に苦労するというのにである。しかし日本語学者はその使い分けに潜む論理構造をまだ解き明かしていない。自転車に乗れることと自転車に乗っているときの筋肉の動きを把握することは別なのである。

引用文献
Fillmore, Charles J. (1968) "The Case for Case". In Bach and Harms (Ed.): Universals in Linguistic Theory. New York: Holt, Rinehart, and Winston, 1-88.
寺村秀夫(1971)「‘タ’'の意味と機能一一アスベタト・テンス・ムードの構文的位置づけ」 岩倉具実教授退職記念論文集『言語学と日本語問題』 (くろしお出版〉
Cook, Walter Anthony  (1989) Case Grammar Theory, Georgetown Univ Press
高山善行(1996)「複合係助詞モゾ,モコソの叙法性」 『語文』(大阪大学国語国文学会) 65 p14-24
山田小枝(2002)「ヨーロッパ諸語との比較における日本語のアスペクト・モダリティ」 『日本語学』(明治書院) 21(8), 50-58, 2002-07

質的記述 その4 不親切な万葉学者たち

ある万葉学者の著書を読んでいたところ、追記として別の万葉学者の論文を「注目すべき研究」として紹介してあった。掲載は遠方の大学の紀要である。近隣の図書館の蔵書にない雑誌だったので著者にメールを書いた。PDFファイルをお持ちなら送信してほしい、と。

すぐに返信があった。電子ファイルは所持していない、あしからずご了承ください、と。 

全く予想していない反応に驚いた。論文の著者に電話したりメールを書いたりしたことは、それまでに何度もあった。一度もそのような対応はされなかった。特に大学の研究者は親切だった。いつも丁寧に疑問点に答えてくれたし、論文のoff-printsや論文集を電話の後にお礼のメールを書くとその住所に送ってくれたりした。私も同様の問い合わせを受けた。論文の引用文献が手に入らないので送って欲しいというというものから、実はあなたと同姓だが先祖はドイツ人かという問い合わせまであった。私と同じ発音のドイツ語の姓が南ドイツとオーストリアに300世帯ほどあるのだと言う。

そういうことは学会というコミュニティでは当たり前だと思っていた。だから、ひょっとして、かなり変人にメールを書いてしまったのかとも思った。あるいは、それほどの内容の論文ではないので、読まれるのが恥ずかしいので、敢えてそういう返事をしたのかとも考えた。それほど、その反応は、私には、意外だった。後ほど国語学の関係者に聞くと、著者にPDFファイルなどを求めるのは当該の学会ではあまりないことらしかった。

その後、別な万葉学者の論文がやはり近隣の図書館にないということがあった。良い機会だから、その著者にメールを出した。今度は一週間経っても返信がなかった。そこで、当該の大学のシステム担当者に、このアドレスは正しいのかという問い合わせを行なった。次のようなメールを出したが返信がない、と書き、当人をCCに入れておいた。すぐに返信があった。あちこちの大学図書館が所蔵しているから、そちらへ問い合わせられたい、と。

一人だけなら変人で済ませられるが、二人となったので、別な関係者に説明を求めた。その行為は「横入り」と判断されるだろうと言う。

物理学会は入会に2名の推薦者が必要である。だから誰でも入会できるというものではない。国語学や万葉学の学会は違う。誰でも入会できる。理系の学会には独特の方言がある。教科書には説明がないが、学会の口頭発表では誰もが当たり前に使う用語がある。たとえば、エネルギーの単位のkeVをケブ、MeVをメブというのも独特で関係者以外には通じない。いきなり電話を掛けても、そういう訛りが出れば、すぐに身内の人間だと分かる。それにそもそも研究テーマが特殊だから、一般の人が関心を持つことはない。国語学や万葉学は一般の人も論文を読んで理解するし、関心も持つ。

横入りというのは、国語学や万葉学の学者集団にいきなり一般人が加わろうとした行為が非難されるという意味と解釈した。理系の学会は、学生時代から入会していて、講演したり、論文を投稿したり、他人の論文を査読したりということを経験してきた。自分がメンバーであることを疑いもしなかった。しかし国語学の学会では一介の素人であり、学者集団から区別される立場だった。

万葉学者たちから見て万葉学者だけがweであり、私たちはtheyと呼ばれる集団だった。ヨーロッパのキリスト教徒は同じ宗教の仲間とは友愛に満ちた関係を保ちながら、ムスリムに何をしたか。アメリカ先住民に何をしたか。いや、日本も同じである。風土記を読むと、ツチグモと呼ばれる異文化の異民族にはまるで動物にたいするような態度であった。

萬葉学会のP氏やQ氏が理系の論文を書き、私がそれを査読するとしても、彼らの経歴で判断することはない。論文の記述が事実に基くかどうか、推論が正しいかどうか、それだけしか見ない。 それが当たり前だと思っていた。万葉学者たちが閉鎖的と言われるとしたら、それは論文の審査に、誰が著者か、著者はどういう経歴の人か、そのようなことが考慮されるからではないか。

理系の論文は実験事実と推論だけが問われる。著者に特別の感情を持っていたとしても、その感情に基いて採否を決定できるほどに審査の自由度がない。ある論文を百人の人が査読したら、九十九人までの意見が一致するだろうし、一致しない残りの一人の場合も、編集委員の判断で一致させることが出来る。

萬葉学会の査読は今後詳細に検討する予定だが、あのような査読理由が許されるなら、白いものも黒くなり、黒いものも白くなる、どのような結果も査読者の語呂の論理で決まってしまう。

2017年9月8日金曜日

質的記述 その3 論理的に考えようとしない万葉学者たち

内井惣七氏の著書だったか、流行の「ロジカル・シンキング」は本を読んで身に付くようなものではないと書いてあった。そのような当たり前すぎることをわざわざ書かなくてはいけないのは、本を読むだけで論理的思考力が身に付くと考える人が少なくないからであろう。私も内井氏と同じことを書く。論理的な思考力は訓練でしか身に付かないし、訓練さえすれば誰でも身に付けられる。

上代語の研究の先行文献を読む出して驚いたのがあまりにも多い非論理的な推論であった。そのことについて、その1その2その3その4その5に書いた。これらの非論理的な推論は、理系であれば、あるいは法学などの専攻者であれば、簡単に見抜ける程度のものである。そのような非論理的な推論で結論を導く方法は、理系の論文であれば、おそらく法律の分野でも、査読を通らない。万葉学の世界では通る。何故か。論文の著者がその推論が非論理的であることに気付かないように、査読者もまた気付かないのか。あるいは前回書いたArgument from authorityによる審査が行われるのだろうか。万葉学者とそのたまご、つまり大学の国文科の教官と学生が書いたものなら通すが、どこの馬の骨か分からない一般人の書いたものなら通さない。そういうことが行われているのだろうか。

どちらも可能性がある。このような場合、理系の人間は、両者の一次結合を仮定する。また、見過ごしの可能性を必ず考慮する。

式3-1 非論理的な論文が掲載される原因 = 査読者が論文が非論理的であることを見抜けないこと × その確率 + 査読者が著者の権威に基く審査を行なうこと × その確率 + それ以外の原因 × その確率

非論理的な推論は大野晋氏のような超一流の学者の論文にも見られる。高校生のころ私が使っていた現代国語の受験参考書に大野晋氏の文章が取り上げられ、その論理の矛盾を指摘させる設問があった。国語の著名な学者の文章に高校生でも見付けられる論理的矛盾があるという、その受験参考書の著者の指摘に、目から鱗が一枚落ちるのを感じた記憶がある。最近読んだ本では、香西秀信氏の『議論入門』大野晋氏の『日本語について』の文章に現われた「文字」という語の不正確な定義をとり上げている。自分の議論に都合が良いように用語を定義する方法は詭弁の初歩であるが、意識的なのか無意識なのか、万葉学者の書く文章にしばしば観察される。

大野氏の例をあげて理由は以下である。そのような超一流の国語学者であっても論理的に不確かな部分があるのだから、超一流とまでは言えない多くの査読者たちが論理を間違えるも仕方ない。従って、式3-1の第一項は十分考慮されるべきである。

理系の人間は学生時代に論理を徹底して鍛えられる。自分が行なった実験や観察から何が言えて、何が言えないか、毎回時間を掛けて考えさせられ、間違えれば、教官や先輩にすぐに指摘される。そして、その理由を徹底した議論で叩き込まれる。 それを学生時代繰り返す。実験データの整理のためやシミュレーションのためにコンピュータのプログラムを作る。論理を間違うとプログラムが動かない。あるいは間違った答えが出てくる。大学入学した時から毎週数学の講義がある。黙って話を聞くのではない。手を動かして問題を解けなければ、試験に通らない。数学は人間が設定した公理から演繹だけで導かれるものである。それぞれの専門教育の中で、微分方程式を立てたり(もちろん、立てた方程式は解く)、複雑な積分をするようなことは日常の業務の一環である。

論理の訓練は筋肉の鍛錬と同じである。日々の訓練が一箇月後、一年後、十年後に大きな違いとなって現われる。逆に、使わないでいるとどんどん劣化して行く。名前は失念したが、ある大学のある研究者が、武道の達人と一般人の反射神経、筋力、その他の運動能力を比較した。その結果わかったのは、武道の達人が人並み外れた反射神経や筋力を持っているわけではないこと。六十歳の達人はその年齢なりに老化していること。しかし、その武道において、初心者の若者を全く寄せ付けない。何故か。筋肉の動かし方の訓練が出来ているのだと言う。その武道の基本となる筋肉の使い方や身体の動かし方がある。それを素早く確実に行なえるのは訓練の賜物だと言う。

理系や、そして恐らく法学の、人たちと万葉学者とでは、論理的な思考力は大人と幼児ほど違う。片手でねじ伏せられる。場合によっては指一本で倒すこともできるかもしれない。それほどの違いがある。これはQ氏の査読の結果の文章を読み、P氏とのやり取りの中で、実感させられたことである。

国民の財産である万葉集の研究が、本居宣長、富士谷成章、鈴木朖と言った人たちの後、どれだけ進展したのだろうか。新しい文法用語はたくさん登場したが、宣長らの時代に分からなかったことが分かるようになったとか、間違って解釈されていたものが正しく解釈されたという事実が、一体いくつあるのだろう。せいぜい片手か両手かで数えられるほどではないだろうか。江戸時代の現代との科学、工学、医学、農学などの進歩と比べて、お話にならないほどの遅さではないか。

論理の訓練を始めるのに遅いも早いもない。万葉集の研究を進展させたければ、そのような訓練を今日から始めることである。次の問題は、適切な論理の問題集がないこと。野矢茂樹氏の問題集を見てみたが、人文系の人が挫折感を味わわないように調整したのか、問題が易しすぎる。

次の問題はどうだろう。手元の論理学の教科書に
It is easy to check that the following inferences are valid.
と書いてあった。

(A∧B)⊃C ⊢ (A⊃C)∨(B⊃C)
(A⊃B)∧(C⊃D) ⊢ (A⊃D)∨(C⊃B)
¬(A⊃B) ⊢ A

上の式の記号は、∧は「かつ」、⊃は「ならば」、∨は「または」、¬は「でない」と読む。また⊢の記号は推論を表し、左側から右側が論理的に導けると言う意味である。 

大学の理科系学部卒で、仕事で数学や物理を使っていた人なら暗算で出来るはずである。しかし、万葉学者は全員が出来ないと思う。理系から見れば簡単すぎる問題が万葉学者に解けない。

万葉学が殆ど止まっているように見えるのもそれが原因であると思う。