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2016年12月27日火曜日

法廷で争われた査読の妥当性

国語学の論文や著作を読み始めて非論理的な推論が多いことに気付きました。そのことに前回の記事「国語学の論文に特有の非論理的な論理」で触れました。独特の論理が用いられる学会で査読を通る論文を書くにはどうすれば良いかと悩みました。

一方で国語国文系の学会事情に詳しい人から次のような話を聞かされました。曰く、学会の大御所の説に異を唱えるような論文は投稿しても掲載されない。曰く、学会は非常に保守的であり、外部の人間の成果を認めようとしない。

そんな前近代的な審査が行なわれているのだろうか。半信半疑でした。幾つかの学会に論文の審査について尋ねました。そこで分かったのは科学の論文とかなり異なる審査方式だということです。

科学の論文の審査は著者(author)と査読者(reviewer)が対等です。査読者が不受理(reject)と判断した場合、編集委員(editor)は査読結果とその理由を著者に知らせます。それに納得できなければ著者は査読者の結論に反論を書き編集委員に送ります。査読者がそれに反論し、著者が再び反論するなどが繰り返されることもあります。両者が納得しなければ編集委員の判断に委ねられます。

ところが国語学の論文の審査はそのように行なわれないようです。著者は原稿が拒絶されても反論の機会は与えられないそうです。査読者が拒絶して編集委員会が認めればそれで決定だそうです。査読の結果に反論可能な学会は、少なくとも私が問い合わせた中には、ありませんでした。

また、そこには問い合わせていませんが、投稿規定に、原稿に論文の著者の名前を書いてはいけないし、著者が誰であるか分かるような書き方をしてもいけない、と記載するところもありました。裏を返せば、著者の名前で査読結果が左右されるともとれます。ライバルの研究者やライバルの研究グループに属する人物の投稿は意図的に拒絶する。そういう人がいるということでしょうか。あるいは、そのような疑いを持たれるのを防ぐための予防策でしょうか。

知人の言葉と著者の名前を査読者に知らせないような注意書きとから不安になりました。掲載されないのは良いとしてアイデアを盗用されたらどうしようか。意識して盗む人はいないでしょうが、他人から聞いたことを、いつしか自分が昔から考えていたと錯覚することは珍しくありません。過去に誰かが書いたことと同じことがその後の論文に、引用文献を書かずに、つまり自分の説として、書かれていることを国語学の論文でときどき見ます。偶然の一致なのかもしれませんが、そうでないこともあるようです。一例として安田尚道氏の「石塚龍麿と橋本進吉」をあげておきます。

査読の妥当性が法廷の場で問われ、最高裁まで行った例があります。原告の弁護士さんのサイトからの引用です。他に判決文を載せているサイトが見付からなかったためです。私は原告を応援する立場ではありません。

判決文へのリンク



原告の著書や論文を過去に幾つか読みました。勤務先のロジェクトのための事前調査の一環としてです。今回争われた点についてどちらが正しいかの判断は私には出来ません。原告の原稿を読んでいないからです。

興味深いのは裁判所が本件の査読の妥当性について次のような具体的事実を指摘をしている点です。


この観点から,本件拒否行為1をみるに,被告の編集委員会が,専門家である査読者2名の意見を聞き,査読者が, 2名とも原告の本件論文には科学的に論拠が不足しているとし,細部にわたって問題点を指摘したことを受け,2度にわたり原告に原稿を書き直す機会を与えた上で,相応の科学的根拠をもって掲載することはできないと判断したものであるから,不法行為の成立を認めることはできない。


引用部分の要点は、査読者2名の意見、細部にわたって問題点を指摘、2度にわたり書き直す機会を与え、相応の科学的根拠をもって、でしょう。著者に反論を認めない国語学の学会の査読の妥当性が法廷で問われたとき裁判所がどのような指摘をするか興味深いと思います。

知人のコメントの真偽について、私は未だに半信半疑です。それが事実だとしても、競争相手を排除しようという悪意に基くものなのか、単に論理的な推論が行なわれていないだけなのか。

このような裁判はもっと起こされるべきだと考えます。古典文学は国民の財産です。それを正しく解釈すべく学問の発展を推進する義務が国語学の学会にあるはずです。もしも学会が排他的で学問の発展を妨げているなら、それが意図的であれ無意志的であれ、国民の利益に反する行為です。そのような裁判は国民の利益を増進するものです。行動しない限り社会は変わりません。

かつて原告の著書や論文を読んだときの印象は推論に妥当性を欠くというものでした。本件の原稿を見ていないので被告の行なった審査の妥当性については何も言えませんが、原告の行動はあちこちで行なわれているかもしれない妥当性を欠く論文の審査を改善する良い機会になると考えます。ご自身の投稿の査読結果に疑義を感じる方があれば参考にしていただきたいと思います。

本件に関連して次に読んでみたいのはガリレオの宗教裁判の記録です。科学の発展を結果的に妨害するようになった判決がどのような推論で行なわれたかに興味があります。 天動説は神学から演繹されたものだそうです。その推論の中に思い込みはなかったか。星や太陽ではなく大地が動いているという考えに到達するには大きな発想の転換を要します。言われてみればなるほどでしょうが、その発想の転換が難しい。ズハの語法もそうですが、問題が解けないのは問題の難しさよりも心の中に無意識のうちに植え付けられた固定観念が妨害する場合が多いのです。

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