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2019年12月12日木曜日

JBJ-08 言わないと伝わらない 上代文学会事件 八

上代文学会(代表 品田悦一氏)に対する会員による損害賠償事件について書いてきた。2019年10月30日に東京地裁の判決が行なわれた。一審は「原告の請求を棄却」である。

本事件は被告(上代文学会)が自ら転んだ。被告は偏見を露わにした。「学会発表者として選ばれるのが、専門教育を受けた者、受けつつある者である」、「学んだ形跡が無い」から「不採用になった」、「専門教育無しにまともな発表ができるほど、上代文学研究は底の浅いものではない」と言う。これでは国文科の学生や卒業生以外は発表を受け付けないように見える。原告の勝機だった。しかし原告はそれを突かなかった。

学術論文の評価は著者の評価と独立である。しかし上代文学会はその意味を理解していないように見える。「権威だから正しい」「多数意見だから正しい」「無名の人だから間違い」というのは、研究者でない一般人が陥りやすい間違った判断である。

イタリアの量子重力理論の重鎮が一般向けの啓蒙書に次のように書いている。司祭のGeorges LemaîtreとAlbert Einsteinの間の論争の顛末である。「アインシユタインの業績も、名声も、科学の世界への影響力も、圧倒的な権威も、ここでは一顧だにされない。観察が、アインシユタインの過ちを証明し、そして対決は終わった。正しいのは、どこの馬の骨とも知れないベルギーの修道士だった。科学的な思考には、科学しかもちえない力がある。」(Carlo Rovelli著、栗原俊秀訳『すごい物理学講義』※)と研究者には当然のことを書くのは、イタリアでも日本でも、一般大衆が権威を妄信するからである。

※ 最近この手の本を読むようになった。国語学者に「科学とは」、「科学の研究とは」をどうすれば上手に説明できるかと思うからである。国語学は言語学という科学の一分野であることは言うまでもない。英訳のタイトルはReality Is Not What It Seems: The Journey to Quantum Gravityである。

以前書いたが、橋本進吉が「たとえ童児の言っていることでも真実であれば信ずべきである」と言い、大野晋が「日本では発言の中身を吟味する前に発言者が何者なのかを問題にしすぎる。学界が閉鎖的になって研究に発展性が乏しいのはそのせいだ。」と話していたという。誰が言ったかではなく何を言ったかが重要なのは科学技術の世界では大学一年生にも常識である。誰もわざわざ言いはしない。橋本進吉や大野晋がなぜ言ったか。国語学の世界にその常識が通用しないからである。

イタリアの一般大衆と日本の国語学者には共通点がある。権威や多数意見を信じやすいのは人類が長い進化の過程で獲得した形質である(※※)。その茸には毒があると村の長老が言う。あの沼には鰐がいると大人たちが言う。それを信じた人が生き残り子孫を残した。これは生活の場では安全な方策である。しかし研究の場では妨げになる。だから研究者は教育の過程でそのような様々な論理の錯覚を捨て去ることを訓練される。この訓練を国語学者たちは受けていないように見える。

※※ これは私の発案ではない。Richard Dawkinsが提案した仮説である。

上代文学会はそれに加え、無名の人物が研究者を名乗ることさえ拒否した。前回書いた「正業」云々である。これは日本の文学部の教員たちに共通する考えのようである。私も以前京都大学文学部のサイト内に「自分では研究者と思っているらしい」と書かれたことがある。企業の研究所では研究者として不十分なのだろうか。理系の分野では大学以上に企業内研究者が多い。実験系は予算が潤沢な企業の研究所が論文数で大学を圧倒していた。研究者の資格は大学に所属することではない。人類がいまだ知らないことを知りたいという知的好奇心があることで十分である。さらに言えば、論理的な錯覚を排除する訓練を受けていることが望ましい。

原告は何を言うべきであったか。被告が受理した論文が被告が主張する審査基準に合致しない事実である。原告はそれを十分知っていると思う。しかし裁判官は知らない。大学の権威を信じてもいるかもしれない。被告の論文が一般大衆と同じ様々な論理の錯覚を含むことを明らかにする。法律家の目には論理の破綻がわかりやすい。文学性の評価は個人の裁量の範囲が大きい。結論が出しにくい。原告の発表だけを俎上に載せて議論するのでなく、被告の論文と並べて比較検討すべきである。被告の基準で被告の論文を評価すれば被告の論文の問題点がはっきりと浮かび上がり、被告の審査基準が内部に異様に甘く、かつ、外部に異様に厳しいことが明白になる。


次回以降の予定を書いておく。
1 被告の雑誌が受理した理事たちの論文の非論理性を問う。
これはTu quoqueかもしれない。学術論文では使えないが裁判では有効のようだ。
2 特に科学研究費の対象になった論文の「完成度」を問う。金銭が絡むので「部分社会の法理」を主張できない。
3 気象学会事件との違いを明らかにする。被告の証拠は証拠とならない。
4 被告の言う「説得力」や「根拠」の意味を問う。「正業」などと同じく被告は独自の定義を使用しているように見える。
5 被告の判断の根拠を問う。「研究者」や「荒唐無稽」の定義は。被告らは研究者の資質を備えているか。被告らの論文は荒唐無稽でないのか。品田悦一氏の「短歌研究」の緊急投稿を題材にして検討する。