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2020年5月27日水曜日

JBJ-21 水戸黄門的世界 非理性主義 反多元主義 万葉ポピュリズム The Tabito Code 上代文学会事件

テレビドラマの水戸黄門が人気なのはその単純明快な筋立てである。善良な百姓や町人と悪代官や悪徳商人という対立の構図。代官と商人は徹底して悪人であり、百姓と町人はどこまでも善人である。だから分かりやすい。それが大衆に好まれるのは大衆に知性がないからではない。一日の労働に疲れた頭は不条理劇など受け付けない。却って疲れが増してしまう。しかし大衆はそれが虚構の世界だと知っている。現実の世界がそれほど単純でないことも知っている。虚構の世界の出来事と理解して楽しんでいるのだ。

ポピュリズムは現実を虚構の世界のように単純化する。善良な我々と悪辣な一部の特権階級という分かりやすい対立の構図を大衆に信じ込ませる。善良なドイツ人と悪辣なユダヤ人。道徳的な農民と退廃的な貴族。善なる多数と悪なる少数という対立の構図を多数派に信じ込ませる。ポピュリズムに左右はない。ナチスもナロードニキもともにポピュリズムである。ナロードニキが悪だと言っているのではない。一般的にポピュリズムは善と悪の両側面を持つ。特徴は善良な多数と悪辣な少数という対立の構図を作るところにある。

しかし水戸黄門的な世界観はJan-Werner Müllerによるとポピュリズムの必要条件でしかないと言う。ポピュリズムの十分条件は反多元主義(anti-pluralism)だと言う。ポピュリストは価値観の多様性を認めない。自分たちだけが正義であると主張する。それは確かに悪だ。

万葉ポピュリズムとは何だろう。万葉集は貴族から大衆までというならそれはポピュリズムではない。大衆も貴族も一つに団結しようと言っているに過ぎない。むしろ反ポピュリズムである。逆に万葉集は貴族のものだからと言って否定するならポピュリズムである。

しかし万葉集の作者は本当に貴族だけだろうか。民謡なら土地の人には自明の地名を盛り込まないという仮説がある。例えば「葛飾の真間」「鎌倉の見越」「信濃なる千曲」などの地名の重複である。馬の貴重さとともに万葉集の作者に庶民はいないという仮説の根拠となっている。しかし「土佐の高知のはりまや橋」や「木曽の御岳さん」が反証になりその仮説は否定される。日常会話と民謡は違う。広い場所を表わす地名を入れて誇ることもあるのだ。十分な検証を行わない仮説を自明のごとく扱うのは非理性的である。

悪の安倍政権とそれに反対する善良な我々という構図を理由もなく一般化するのはポピュリズムである。私は安倍政権を支持しているわけではない。安倍政権に反対するなら政策を批判すべきである。個人の人格や知性は政策とは別の問題である。しかしポピュリズムが既存権力を批判するときにしばしば政策とは別の個人の資質を攻撃してきた。ポピュリズムは非理性主義に陥りやすい。

品田悦一の雑誌「短歌研究」への「緊急投稿」はネットで多数の支持を得たようである。支持者は品田の分析を理解した上で支持しているのではない。正しく読めばそこにある論理の矛盾に気付いただろう。相手の人格を攻撃する「「迂闊」が読めないと困るのでルビを振りました」や「高校生なみの学力さえあればたぶん理解できるだろうと思います」のような記述が反対派に受けたのである。しかし人間を人間としてrespectしていない。

人間を生身の人間として同じ血が通った存在として認めるのがrespectである。安倍晋三の政策を批判するのは大いに結構だ。私もその政策に賛成ではない。しかし現実の人間を虚構世界の生き物のように扱うのは大人のすることではない。

最近日本で起こった痛ましい事件についてThe Washington Postが記事を載せている。プロレスラーがネットの誹謗中傷により自殺に追い込まれた事件である。私は今この記事を書いていて涙が止まらない。彼女は生身の人間であって虚構の世界の生き物ではない。なぜその区別が出来ないのか。

そのような非理性主義の台頭を防ぐのが人文科学の役割であった。それが行なわれないのはなぜか。日本の文学部が考える方法を教えないし訓練しないからである。理系の学部は数学や日々の実験や演習で論理を教えられ訓練される。しかし人文系は論理学を学び討論で訓練されなければ考える方法を身に付けられない。野生のままの思考である。

原告の仮説が荒唐無稽だと言うなら品田の「緊急投稿」の大伴旅人の暗号という仮説は更に荒唐無稽である(註1)。老子や荘子を読んだことがあるなら旅人の歌に老荘思想を見ることはできない。これは前に書いた。長屋王事件で「権力者の横暴を許せないし、忘れることもできない」と感じたかどうかは分からない。肯定する証拠も否定する証拠もない。

註1 品田悦一の「緊急投稿」の分析は以下のブログ記事で行なった。
品田悦一の言う「間テキスト性」 The Tabito Code
品田悦一の言う「テキスト」とロラン・バルトの言う「作者の死」 The Tabito Code
「令和」から浮かび上がらない大伴旅人のメッセージ The Tabito Code 

しかし梅花歌の序文に暗号を織り込んだろうか。当時の日本人が四六駢儷文を書こうとするなら母語話者の書いた漢文から表現を借用するしかない。現代の日本人が和英辞典を使って英文を書くのと同じである。和英辞典の用例は誰かの書いた英文の引用である。しかも序文は様々な漢籍との間に間テクスト性がある。仮に暗号にしようとしても解読のしようがないから暗号になり得ない。それを暗号と考えるほど大伴旅人が知性的でなかったとはとても思えない。

原告は動詞連体形に下接する「なり」があるとした。それは定説に反する。しかしその定説は万葉集や続日本紀宣命などの多いとは言えないテキストの中にその用例がないと言っているだけである。存在したかどうかは旅人が「権力者の横暴を許せないし、忘れることもできない」と感じたかどうかと同じくらい不確かである。事実万葉集の用例にそれがあるとする大学教員の論文がある。それは以前に書いた。

連体形に下接する「なり」が上代の文献に見出せないという知識は研究者間で共有されるべきと言うが、「間テキスト性」や「テクスト論」や「ポピュリズム」という用語が何を意味するか、老荘思想がどういうものかという知識と論理的に考える方法も研究者間で共有されるべきである。

結局上代文学会の判断は原告が国文科の教育を受けていないからその仮説も間違いだとする非論理的なargumentum ad hominemという論理的誤謬(fallacy)である(註2)。そのような判断は理性に反する。更に自分たち以外の価値観を認めないという態度は反多元主義である。Müllerによるポピュリズムの十分条件を満たしている。

註2 Wikipediaの日本語版に「人心攻撃」とある。この訳語は誤解を与えそうである。「人に向かう論法」とすべきと思う。上代文学会事件で言えば、原告の投稿を内容ではなく、原告の受けてきた教育を理由に拒否することである。

文学部はポピュリズムや非理性主義に対する防波堤であってほしい。現実と虚構の区別が付かないような考えを排除してほしい。そのためには文学部の個々人が論理的な思考を身に付けること、主観と客観を区別すること、非理性的な思考やポピュリズムを自説の流布に利用しないこと、文学部のギルドを解体し在野の研究者の論文を受け入れること、在野の研究者の知性をrespectすることである。

私は品田悦一の人格を攻撃しているわけではない。品田の主張の中にある論理の誤謬を指摘しているだけである。私は誰かを嫌っているわけではない。非論理的な主張が嫌いなのである。非論理的な主張をした品田が嫌いなのではない。品田が生身の人間であるように私も生身の人間である。

私は時代劇を見るのが好きだ。しかしそれが虚構の世界であることを知っている。私は理系の研究者や技術者として働いてきたが、数えきれない日本の文学作品を読んできた。欧米の文学や漢籍やギリシアやローマの古典も読んできた。けして「猛きもののふの心」ではないつもりである。しかし研究の場では論理的でありたいと考えている。

参考文献
Jan-Werner Müller (2016.9) What is Populism? University of Pennsylvania Press.  板橋拓己訳(2017.4)『ポピュリズムとは何か』(岩波書店) この本は翻訳を読んだ。
品田悦一(2019.5) 「「令和」から浮かび上がる大伴旅人のメッセージ(新元号の深意)」 雑誌『短歌研究』 20195月号
品田悦一(2020.3) 「「沸騰」講演録 二カ月連続、掲載! 踊らされてはいけない、ぼーっと生きていちゃいけない。 万葉ポピュリズムを斬る(前篇)」 雑誌『短歌研究』 2020年3月号

2020年5月22日金曜日

JBJ-20 原告が勝訴するために 上代文学会事件

原告は現職の弁護士である。素人が訴訟の戦略を提案するのは差し出がましいかもしれない。しかし違った観点からの意見も多少の参考になるとは思う。

書籍販売サイトの読者レビューに興味深い意見があった。「私は人文系なのですが、在野研究者が発表し難い空気や、在野研究そのものを一段低く見る傾向は残念ながら存在します」である。萬葉学会とメールのやり取りをしていて同じことを感じた。企業研究者として理系の大学教授たちと直接会ったりメールのやり取りをしているときには全く感じなかった「教えてやる」「素人は専門家の言うことに異を唱えるな」という態度である。

以前にも書いたが被告は「原告には専門家としての上代文学研究者に対する敬意が欠けている」と言う。ここでいう敬意はrespectでなくdeferenceである。この語の意味の違いに注意して欲しい。本居宣長は賀茂真淵をrespectしていたがdefer toしなかった。理系の大学教授の中にも変な人がいないとは言わないが、このようなことを言う人には会ったことがない。相手が誰であろうと必ず論理的な証明に基づいて説明する。自分の主観が正しいなどと信じる研究者はいない。だから被告の準備書面を見て大いに驚いた。理系の人間はこういうculture(註1)の違いに遭遇すると理由が何故なのかを考えてしまう。そして様々な仮説を立ててみる。

註1 この語は日本語の文化よりも風土が近い。社風や校風などの意味である。

理系の研究は大学よりも企業に研究者が多い。ノーベル賞の歴史を見てもBell研究所などの企業から多数の受賞者を出している。一方国文学は殆ど大学でしか研究が行われていない。理系の大学教授は企業の研究者とも学会で交流がある。理系の世界は相互批判が盛んだから自分の考えの間違いに気付く機会が多く自然と謙虚になる。国文科の教授は学生に教えるだけである。出版社や新聞雑誌などと接しても「先生」「先生」と煽ててくれる。しかも他からの批判は無いに等しい。ついついドグマに陥るのではないだろうか。

世の中の人の多くは大学教授はその道の専門家であると思っている。これは裁判官とて同じと思う。私も国語学の論文を読み始めるまではそうだった。しかし論文を読んで感じたのは論説が非論理的な推論に基づくことである。理系の研究者の端くれであるから、他人の論文を読むとき、あるいは自分の論文の原稿を推敲するとき、注目するのは推論の妥当性である。

大学に入学した18歳のときからずっと理系の学問の中で過ごしてきた。科学技術と長年付き合ってきた職業病のようなものかもしれない。論文を読むと論理の流れに注目してしまう。妥当でない推論を目にすると気になる。まるで査読するように論文を読む。

国語学の論文の大半は妥当でない推論から結論を導いている。そして「論証した」と言う。しかし国語学者は自分が論理を間違えているとは気付いていない。弁護士である原告はそれに気付いていると思う。ただしそれは原告が上代語に通じているからでもある。しかし裁判官は違う。論理の専門家であっても上代語については殆ど知識がない。原告に見える論文の非論理性が見えない。

そこで原告に提案するのだが、上代語に通じていなくても非論理性が理解しやすい例を被告たちの論文や著書から選び出し、それを甲号証として提出はどうだろうか。その例として私は品田悦一の「短歌研究」への緊急投稿を取り上げた。品田悦一の言う「間テキスト性」品田悦一の言う「テキスト」とロラン・バルトの言う「作者の死」「令和」から浮かび上がらない大伴旅人のメッセージの3編である。蛇足であるが、そこに書いたThe Tabito Codeというのは旅人の暗号という意味である。論理や専門用語の間違いがある。理系の研究者が相手ならその3編の説明で十分と思うが、国語学者に果たして通じるかどうか。裁判官に説明するにも複雑すぎるかもしれない。

もう少し分かりやすい例がある。井村哲夫(2000)が山上憶良の思子等歌の序文の「釋迦如来、金口正説、等思衆生、如羅睺羅。又説、愛無過子。至極大聖、尚有愛子之心。況乎世間蒼生、誰不愛子乎。」(註2)を「仏陀の永遠と法愛とを易しく説くために愛子の念を警えとしたその言葉から、釈尊もまた愛子の念をお持ちだ、と言いくるめる憶良の序文の論法は、一種詭弁に属するものだ」と断じている。井村はその後に理由を詳しく書いているが、憶良の論法は論理的に妥当である。理系の人間の目には井村の論法が詭弁である。

註2 原文と訓読は河童老さんのサイトを参照されたい。

上代文学会代表の品田悦一がこの井村の論文を好意的に紹介している。井村の論文の論理の間違いは非常にわかりやすい。しかし品田がそれに賛成している。今図書館が休館しているので品田の論文名を参照できない。分かり次第掲載する予定でいる。

理系の世界の基準では非論理的な論文を例え100報書いたとしても次の論文が非論理的であるとは言えない。しかし法律の世界ではこれは有効ではないかと思う。国文科の大学教授の書いた論文の非論理性を示すことで、上代文学会が原告の投稿を非常に短時間で不採用と判断したことが著しく信頼性を欠くこと、判断の基準が原告の学歴(法学部卒であって国文科卒でない)ことに立脚している可能性が高いことを示せると思う。

同様のことを上代文学会の理事たちの論文について行えば、世間の人が根拠なく信じるほど国文科の教授の判断の信頼性が高くないことを示せると思う。大学教授は専門家であるから正しいというのは多くの人が信じていることではあるが、少なくとも国文科の教授の論理性については成り立たない。

上代文学会事件について縷々書いてきた。読者の中には自分の論文が採用されないから憤っているだけだと思う人もある(註3)かもしれない。原告についても同様のことを感じる人があるかもしれない。しかしそうではない。大学の教員やその卵である大学院生の論文だから受理(accept)する、国文科の教育を受けていないから棄却(reject)するという理不尽な判断が問題である。

註3 言うまでもないことだが、ここに「ある」を使うのが伝統的な用法である。
a 彼には子供が3人ある。
b 公園に子供が3人いる。
「ある」と「いる」はこのように使い分ける。NHKのアナウンサーがインタビューで「お子さんはおありですか」と質問して、人間に「ある」を使うとはけしからんという投書があったという話を大野晋が著書で紹介していた。国語学や国文科の関係者でこの「ある」と「いる」の使い分けを知らない人はあるまいと思うが、念のために注記しておく。

さらに言えば科学研究費の申請に関係する論文は内容に不備があっても採用するという不正に近いことも行なわれているらしい。博士号の授与についても乱発という指摘がある。少なくとも反証がすぐにあげられる仮説や途中の推論に誤りがある論文に博士号は相応しくない。国文科の閉鎖性やギルド的体質にかんして内部からも批判がある。それについては今は述べない。科学研究費にかんしては政治家の中にも追及する人がある。そういう人たちに働きかけることも有効と考える。

なお、理系の世界では論文の著者と査読者は対等である。それが世界基準である。査読者の意見に著者は反論するし、場合によっては査読者の専門性の低さを指摘して交代を要求することもある。日本の文学部では何故か査読者が一段上の立場のようである。その根拠は何だろう。学術論文は短歌や俳句ではない。主観で優劣を判断されない。拒絶するならその理由を論理的に述べなくてはならない。日本の国語学や国文学の世界で行われている査読者の主観に基づく判断は「学問の自由」を侵犯するものである。そのような主観的判断が認められるなら、憲法で保障された言論の自由が侵される。原告には裁判でこのことを強く指摘していただきたい。

乾善彦は「(文学部の)危機」と言ったが、それは国文科のギルドの危機である。本来の意味の危機に瀕しているのはギルドに蹂躙される学問の自由と発言の自由である。

参考文献
井村哲夫(2000)「山上憶良論」 神野志隆光、坂本信幸編『万葉の歌人と作品〈第5巻〉大伴旅人・山上憶良(2)』に収録


2020年5月21日木曜日

JBJ-19 研究者の条件 上代文学会事件

上代文学会事件の原告(講演発表の募集に応募し拒絶された会員)が自身を「在野の研究者」と紹介したのに対して被告(上代文学会 代表品田悦一)は原告が研究者であるとは「不知」だとし「正業」(本業の意味らしい)が弁護士であると応じた。

原告の言う研究者は「研究をする人」の意味である。これを「研究者(G)」とする。被告の言う研究者は「 何らかの研究機関に所属し職業として研究をする人」の意味のようである。これを「研究者(H)」とする。「ようである」というのは被告が定義を述べていないからである。被告の答弁書や準備書面からの推測である。

研究者(G)と研究者(H)の違いは定義が広義か狭義かの違いに見える。しかし被告にはそれが重要なのであろう。 原告にはぜひ被告の定義を問うていただきたい。勿論論文の評価は著者が誰であるかとは独立である。

理系の世界では学会誌に論文を投稿したり学会で口頭講演をする人は研究者である。ただし学会へ入会するには正会員の推薦を必要とすることが多い。口頭講演は会員が申し込めば原則としてすべて認められる。推薦は当該の学会が認める研究者の条件を満たしているかどうかの判定のためと思う。

その条件は何か。物理学会の会員は全員が大学の物理関連の学科の博士課程を修了しているか。そんなことはない。理学部や工学部の博士や修士が多いが学部卒の人もいる。日本物理学会の会員名簿を今ざっと見た限り所属は大学より企業が多い。

理系文系に限らず世界が認める研究者の条件とは何か。それは誠実であることと論理的であることである。実験や観察のデータは事実として他の研究者が拠り所とする。それを捏造されては困る。また他人の研究成果やアイデアを盗む人がいても困る。もちろん誠実さは「研究の場」に限ってのことである。職場や家庭などの「日常の場」でのことは問わない。それを認めるというのではない。学会が口出しできる範囲の外だからである。

たとえば死刑囚が投稿した論文が受理され学会誌に掲載されることがある。近年では2018年1月に死刑が確定した人の論文が2018年7月と8月の雑誌にそれぞれ掲載されている。日常の場で犯した罪は日常の場が裁く。研究の場が裁くことではない。しかし研究の場でデータを捏造したりアイデアを盗用したりなどをすればその人は研究者生命を奪われる。

国語学では自説を批判されただけで怒る人がいると聞く。理系に限らず国際的な研究の場で相互批判は当然である。そのためには論理的な思考が要求される。論理的な議論が通じない人と議論しても益がない。

多くの人は自分は論理的であると信じている。しかし論理は訓練しないと身に付かない。生まれながらの人間の多くは非論理的である。認知や思考の歪みがあるからである。そのような歪みを心理学や社会心理学の実験が明らかにしてきた。それは訓練で矯正するしかない。論理的な思考は訓練の賜物である。

アリストテレースは三段論法(syllogism)類型化した。そこにBarbaraやDariiという名前が付けてあるのはその体系を暗記するためのラテン語の詩があるからである。日本の歌学が係り結びを覚える和歌を作ったのと同様にヨーロッパは倫理学を覚える詩を作った。アリストテレースのような天才には自明のことだと思うが弟子たちにはそうでなかった。だからこそアリストテレースはそれを類型化した。そしてイスラム圏に伝えられ後にヨーロッパに逆輸入され学ばれた。

リベラルアーツの基礎は三学(trivium)四科(quadrivium)とされるが、その三学の一つが論理学である。生まれながらの人間は論理的でないから学んで訓練されないと論理的な思考が身に付かない。

論理学は「私がそう思うから」「皆が言っているから」 「偉い先生が言っているから」のような主観的な理由を排除する。研究者が有益な議論を行なうためには客観的な事実や演繹的な証明と主観的な意見は区別されなくてはならない。今まで何百報(註1)もの国語学の論文を読んできたが、事実と意見の区別がなされていないものが大半であった。演繹と帰納の区別もおぼつかないと感じた。しかし「万葉学者は頭が悪い」のかに書いたように国語学の論文に非論理的な記述が多いのは単に論理的に考える訓練を受けていないからだと思う。

註1 理系の世界では論文を数えるのに「報」や「編」を用いる。会話では「本」を用いるが正式の文書には書かない。

専門用語を正しく使うことも研究者間の意思疎通のために重要である。専門用語は多義性を排除するために明確に定義されている。定義が明確であるために誤って使うと逆に誤解を導きやすい。

以上が国際的な学問の世界での研究者の条件である。これを「研究者(I)」としよう。勿論被告が述べるように当該分野の知識が共有されていることも重要ではあるが、必須ではない。それよりも誠実さと論理性が重視される。

以上をまとめると研究者(I)の条件は以下である。

1 誠実であること。研究データを捏造しない。他人の成果やアイデアを盗まない。先行研究があるなら必ず引用する。引用せずに他人の成果やアイデアを論文に書くと剽窃を疑われる。日本の人文科学では対立する研究者や研究グループの論文を引用しないと聞くがそれは研究者(I)の世界ではunfairとされる。

2 論理的であること。そのためには訓練が必要である。理系の学問は学ぶ過程で自然に生まれながらの人間が持っている論理の錯覚を矯正される。人文系の学問は正しいと正しくないの境界が曖昧だからなかなか矯正されない。論理的に考えるためには論理学を学び演習問題などで訓練を積まなければならない。

3 専門用語を正しく理解していること。研究者(I)間の意思疎通が正しく行われるために必須である。研究論文は詩ではない。専門用語を比喩的に用いてはならない。比喩が論理でないことは言うまでもない。

必須ではないが成功する研究者の条件は何だろう。それは発想力だと考える。今までにない新しい考えや見方を生み出す力である。国語学の世界ではしばしば他人の論文を非難するときに「思い付き」という言葉が使われる。しかし新しい考えは思い付くしかない。理系の世界では他人の発想力に感嘆したときに「とても私には思い付けない」などの表現が使われる。思い付きは称賛されるのである。

思い付きを良い意味で表現するときに「ひらめき」と言われる。しかしそう簡単にはひらめかない。十分な知識や経験に加えて考え続けることが重要である。研究者(I)は考え続ける。ある観測事実を説明するための理由を考えるとしよう。十や二十の候補はすぐに浮かぶ。思い付くたびに他の事実に適用できるかを検討する。多くはそのような簡単なテストで棄却される。仮説は正しいことを証明できない。しかし間違いであることは反証を一つあげることで証明できる。思い付く、テストする、棄却する、また思い付く。これを何百回も何千回も繰り返す。そのうちに手持ちのデータに矛盾しないものが見付かる。それを実験などでテストする。あるいは他人のデータと照らし合わせる。そこでまた多くが棄却される。

自然科学の世界で、いや、ありとあらゆる学問の世界で、考えるとはそのような空しい過程を諦めずに続けることである。数えきれない思い付きとテストと棄却の繰り返しの過程ですべてのデータを矛盾なく説明できるものが得られる。後から振り返ってあの「思い付き」が転換点だったと思う。それを研究者(I)は「あの時ひらめいた」と表現する。

観測事実によるテストが行われない発想は「単なる思い付き」で終わる。国語学者が言う「思い付き」はテストされていない発想のことかもしれない。しかしどうもそうではないようである。国語学者はしばしば「論証」という言葉を使う。しかしそれは単に正しいかもしれないという可能性を「考えられる」「自然である」「はずだ」「違いない」という言葉で飾り立てただけである。すべて著者の主観に過ぎない。読者が著者の主観に共感したとき「論証された」と主観的な感想を述べているのである。論証でないものを論証と考えるから共感が得られない仮説を「思い付き」と言うのではないだろうか。しかし経験科学において論証は行えない。それが出来るのは数学のような人間が作った公理から出発する学問だけである。

論証できる仮説などあり得ない。それが可能ならそれはもはや経験科学でなくオカルトである。仮説は反証をあげて間違いを証明できるが正しいことは証明できない。これは仮説の性質である。経験科学に公理は存在しない。新しい理論は思い付く以外の方法で作られない。

ニュートンの法則やマクスウェルの方程式は仮説に過ぎない。あらゆる科学法則は観測事実と照らし合わせて矛盾しないから棄却されていないだけである。ニュートンは力学の法則を思い付いたのであって論証したのではない。実験事実に矛盾しなかったので長い間正しいものと仮定されてきた。

国語学は言語学の一分野である。言語学は経験科学である。間違いだという反証が現れない間は棄却されない。しかし反証が現れていないことは正しいことの証明ではない。このことが国語学者になかなか理解されないようである。正しいものと正しくないものの間に正しいか正しくないか決められていないものが存在する。正否を決定することが不可能な仮説は科学の対象ではない。勿論ここで言う不可能とは個人の主観による判断ではない。客観的に証明されなくてはならない。

ニュートンの仮説はアインシュタインの相対性理論に取って代われた。アインシュタインは相対性理論を論証したのではない。ニュートンの時代には出来なかった方法に基づく新しい観測事実がニュートンの仮説の反証となった。アインシュタインの仮説はその観測事実と整合した。ニュートンの仮説が棄却されアインシュタインの仮説が残った。現時点でアインシュタインの仮説の反証は現れていない。しかし正しいとは証明されていない。経験科学は理論の正しさを証明できないのである。

特許庁で働いていた在野の研究者のアインシュタインが尊敬されるのは誰も思い付かなかったことを思い付いたからである。何かを論証したのではない。その思い付きが評価されるのは今までの観測事実に矛盾しないからである。上代文学会代表の品田悦一は被告席で「原告の学力の限界」と述べたが、アインシュタインは学力が評価されているのではない。発想力が称賛されているのである。