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2018年1月8日月曜日

TSONTS-14 萬葉学会の審査の妥当性の検討(4) Q氏の不掲載理由(中の二)

萬葉学会のQ氏による査読理由の検討を続ける。不掲載の理由の全文は萬葉学会の審査の妥当性の検討(1) 拒絶理由と最初の反論を参照されたい。

前回書き忘れたが、今まで読んだmodalityの教科書や研究書に「 文法上の名詞句の働きとして、構文上にモーダルな意味が付加されている」等という記述はなかった。正しい記述が複数の文献で一致するのは珍しくないが、間違った記述が一致することは滅多にない。正しいことは一つしかないが、間違いは多数あるからである。

Q氏と高山善行氏の考えが一致したのは単なる偶然だろうか。印欧語のmoodは動詞の屈折で表わされる。一方、modalityは助動詞や接尾辞、接頭辞で表される。構文上にmodalityが付加されるとはどういうことだろう。

次の意見はQ氏の独自見解であって査読理由に書くことではない。

さらに明確な知覚という場合、上代では、「世の中は空しきものと知るときしいよよ益々悲しかりけり」の副助詞「し」は副詞性助詞として「知れば知るほどに」と程度強調を表す例がある。

これに付いては前回に書いた。その点はP氏も同意している。Q氏は続けて、

つまり明確に知られるという場合には、副助詞などによる「とりたて」が存在する。そうしたとりたて表現に対して、ク語法はどのように異なるのかを明らかにしないと、仮設動詞アクの語性を適用しても解釈可能だというだけでは新知見とは言いえない。

と言う。最初の反論では次のように述べた。

「し」が「とりたて」であるか否かを別にして、「とりたて」とアクが関連するとは考えていません。そのことは大量の用例の検討から明らかだと思います。ク語法が用言の体言化であるという従来説も、そう仮定すれば歌意が通じるという理由から定説と扱われているに過ぎません。しかし本稿の仮説は記紀万葉の歌や続日本紀宣命の散文の解釈に新たな境地を開いたと考えます。公開して研究者ならびに記紀万葉の愛読者の参考に供する意義は十分にあると考えます。

そもそも「 つまり・・・「とりたて」が存在する。」はQ氏の独自見解である。主観を理由に他人の論文を拒絶できないことは言うまでもない。従って、 「そうしたとりたて表現に対して、ク語法はどのように異なるのかを明らかにしないと、」と要求できないし、「新知見とは言いえない」というQ氏の拒絶理由の理由にならない。

学術論文に要求されるのは、学問の発展に寄与する新しい知見であることである。従って、新規性がないことは拒絶の理由になりうる。しかし、新規性がないことを言うには、そのことが過去に知られていたという証拠(公知材料)を示さなくてはならない。特許庁の審査官が審査が請求された特許出願を新規性がないことを理由に拒絶する時は、必ず先行技術を示す特許広報や技術文献を参照する。私が今まで経験した論文の審査でも、新規性がない場合は必ず先行文献を示す。もちろん、発明者や論文の著者が先行技術や先行文献を知っているかどうかに無関係である。先に誰かが類似の特許や論文を書いていれば後のものは無効になる。

しかし、萬葉学会は証拠を示さず、一方的に「新知見とは言いえない」と断定した。このような査読が許されるならば、どんな論文も拒絶できてしまう。掲載の可否は査読者の主観ではなく客観的な理由に基づかなくてはならない。萬葉学会は学術論文を文芸作品のように考えているのだろうか。

P氏によると、「萬葉」は「同人誌」だそうだが、大学の教員や院生や国文科の卒業生だけが同人であって、大学に所属しない、国文科卒でもない会員は外部の人間なのだろうか。

学術雑誌は新しい知見を研究者が共有することを目的としている。萬葉学会の行為は萬葉学会の会員の知識の享有の権利を妨害するものである。会員には知らせる権利と知る権利がある。

追記:この記事は2018年1月9日の午前0時59分に一部文言を追加した。「前回書き忘れた・・・」の部分である。

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