Google Analytics

2017年9月17日日曜日

おしらせ ミ語法の論文の掲載

ミ語法の論文が次の雑誌に掲載されました。

江部忠行 「「山を高み」は「山が高いので」か」
国語国文研究』 (150), 45-59, 2017-03      北海道大学国語国文学会

あと30本ほどの論文の種があります。Youtubeを利用した講演(日本語と英語)を予定しています。国内でだけ発表していてもダメかなあと思い始めています。

質的記述 その5 モダリティという方言

萬葉学会の不掲載理由を詳細に検討した。それは近々公開するが、その前にモダリティという方言について書く。Merriam-Webstermodalityを次のように説明する。

 2 :the classification of logical propositions (see proposition 1) according to their asserting or denying the possibility, impossibility, contingency, or necessity of their content

つまり英語で言うmodalityは命題の可能、不可能、偶然、必然に関する分類である。これは可能世界というものを考えるとわかりやすい。サイコロを振って、 1が出る世界、2が出る世界と順番に考え、6が出る世界までの六つを到達可能な世界とする。この六つのうちのいずれの世界でも起こりえないこと、たとえば7が出ることは不可能である。一回で必ず1が出るとは言えないが、出ることは可能である。六つの世界のうちの一つで実現する場合を可能と言う。1から6までの自然数のいずれかが出ることは必然である。到達可能な世界のすべてて実現されることを必然と言う。

これらの概念はアリストテレースの著作から研究されてきた。クリプキらが提案した可能世界という考えで一気に分かりやすくなった。いや、考えやすくなったと言うべきか。

ところが、万葉学者が言うモダリティはそれとは違う。これは査読者のQ氏が次のように記していることからも窺える。

さらに、ク語法に対して明確な知覚の表明という、モーダルな意味があると捉える点は興味深い。

また、最近読んだ高山善行(1996)に次の記述があった。

この事実は、モゾ、モコソが係助詞一般とは質が異なることを表す。と同時に、モゾ、モコソ表現のモーダルな性質を表しているのではなかろうか。何らかのモーダルな意味を必要とする仮定表現の帰結表現として用いられていることがモゾ、モコソ表現のモーダルな性質を根拠づけるであろう。かつてたされたような個別論の枠内では、仮定条件句との呼応は、モゾ、モコソ表現における推量的判断の確笑性と結びつけられがちであったが、視野を広げてみると、モーダルな性質を認めるための根拠として、改めて意義づけられることになるのである。

この事実とは仮定条件文の後件に「もぞ」「もこそ」があるときに「む」が現われないことである。これは宣長が詞玉緒で指摘して久しい。

萬葉学会のQ氏も高山氏も「モーダル」という語を「命題の提示の仕方にかんする」という非常に広い意味に用いている。Q氏の場合は「明確に知覚される」という意味がモーダルであるし、高山氏の場合は、ここでは、推量という意味がモーダルである。

このような大胆な定義はFillmore (1968)が最初であろう。

In the basic structure of sentences, then, we find what might be called the‘proposition’, a tenseless set of relationships involving verbs and nouns (and embedded sentences, if there are any), separated from what might be calledthe ‘modality’ constituent. This latter will include such modalities on the sentence-as-a-whole as negation, tense, mood, and aspect.  

このFillmoreの考えを寺村秀夫(1971)が紹介している。それを通じて国内に知られたのであろう。

しかしCook(1989)によると、Fill,moreはその後modalityに触れていない。おそらく関心はpropositionだけにあり、邪魔な部分をmodalityと一括して切り捨てただけだと思う。

この拡張されたモダリティについて哲学者の飯田隆氏が「論理学におけるモダリティ」と題した論文で感想を述べている。

山田小枝(2002) は次のような指摘をしている。

しかし、先に挙げたLyonsなどの必然性と可能性の概念を中心に指えたモダリティ、あるいは、「モダリティというのは、yesとnoの聞に位置する意味の領域、肯定極と否定極の中間領域のことである」と述べているHallidayのモダリティはいずれも肯定・否定間のさまざまな判定に対する人間の関心に焦点を絞っている。その「狭いモダリティ」と、真偽判断、価値判断から始まり対人関係、感嘆表出・慣行儀礼までを含む言語行為の諸相をモダリティとする「拡大モダリティ」とを等しく「モダリティ」の名称で指し示すことには無理があり、別な名称を用いるほうが良いように思われる。

山田氏の意見に同感である。飯田氏は従来のmodalityに「様相」という言葉を使っているが、高山(1996)も拡大された意味で「様相的」や「様相性」を使っている。

なお、飯田氏が論理学は自然言語と一致しないことを指摘しているが、それは自然言語全般という意味ではなく、個々の自然言語、日本語や英語と一致しない場合があるのである。つまり、数理論理学のある表現が対応する日本語の表現と一致しなかったり、別なある表現が英語の表現と一致しなかったりという現象であり、数理論理学のある表現がすべての自然言語と一致しないわけではない。こんなことを何故書くかと言うと、この点を拡大解釈されて、それ見たことか、数理論理学は意味がない、と早急な結論を出す人が現われるかもしれないからである。

数理論理学は完全ではない。それはすべての自然言語がそれぞれ完全でないのと同じである。日本語のある表現は対応する英語の表現と同じ意味ではないし、英語のある文は対応する日本語の文と同じ意味ではない。 数値論理学は自然言語を模して人工的に作られたものである。現時点で自然言語のあるもののある部分と同じでないとしたら、それは人工物である数理論理学がその言語に合わせるべきである。それが出来ていないのは自然言語の論理を我々が完全に把握していないからである。出来の悪い中学生でも日本語の「は」と「が」の使い分けを完全に出来る。秀才の外国人が習得に苦労するというのにである。しかし日本語学者はその使い分けに潜む論理構造をまだ解き明かしていない。自転車に乗れることと自転車に乗っているときの筋肉の動きを把握することは別なのである。

引用文献
Fillmore, Charles J. (1968) "The Case for Case". In Bach and Harms (Ed.): Universals in Linguistic Theory. New York: Holt, Rinehart, and Winston, 1-88.
寺村秀夫(1971)「‘タ’'の意味と機能一一アスベタト・テンス・ムードの構文的位置づけ」 岩倉具実教授退職記念論文集『言語学と日本語問題』 (くろしお出版〉
Cook, Walter Anthony  (1989) Case Grammar Theory, Georgetown Univ Press
高山善行(1996)「複合係助詞モゾ,モコソの叙法性」 『語文』(大阪大学国語国文学会) 65 p14-24
山田小枝(2002)「ヨーロッパ諸語との比較における日本語のアスペクト・モダリティ」 『日本語学』(明治書院) 21(8), 50-58, 2002-07

質的記述 その4 不親切な万葉学者たち

ある万葉学者の著書を読んでいたところ、追記として別の万葉学者の論文を「注目すべき研究」として紹介してあった。掲載は遠方の大学の紀要である。近隣の図書館の蔵書にない雑誌だったので著者にメールを書いた。PDFファイルをお持ちなら送信してほしい、と。

すぐに返信があった。電子ファイルは所持していない、あしからずご了承ください、と。 

全く予想していない反応に驚いた。論文の著者に電話したりメールを書いたりしたことは、それまでに何度もあった。一度もそのような対応はされなかった。特に大学の研究者は親切だった。いつも丁寧に疑問点に答えてくれたし、論文のoff-printsや論文集を電話の後にお礼のメールを書くとその住所に送ってくれたりした。私も同様の問い合わせを受けた。論文の引用文献が手に入らないので送って欲しいというというものから、実はあなたと同姓だが先祖はドイツ人かという問い合わせまであった。私と同じ発音のドイツ語の姓が南ドイツとオーストリアに300世帯ほどあるのだと言う。

そういうことは学会というコミュニティでは当たり前だと思っていた。だから、ひょっとして、かなり変人にメールを書いてしまったのかとも思った。あるいは、それほどの内容の論文ではないので、読まれるのが恥ずかしいので、敢えてそういう返事をしたのかとも考えた。それほど、その反応は、私には、意外だった。後ほど国語学の関係者に聞くと、著者にPDFファイルなどを求めるのは当該の学会ではあまりないことらしかった。

その後、別な万葉学者の論文がやはり近隣の図書館にないということがあった。良い機会だから、その著者にメールを出した。今度は一週間経っても返信がなかった。そこで、当該の大学のシステム担当者に、このアドレスは正しいのかという問い合わせを行なった。次のようなメールを出したが返信がない、と書き、当人をCCに入れておいた。すぐに返信があった。あちこちの大学図書館が所蔵しているから、そちらへ問い合わせられたい、と。

一人だけなら変人で済ませられるが、二人となったので、別な関係者に説明を求めた。その行為は「横入り」と判断されるだろうと言う。

物理学会は入会に2名の推薦者が必要である。だから誰でも入会できるというものではない。国語学や万葉学の学会は違う。誰でも入会できる。理系の学会には独特の方言がある。教科書には説明がないが、学会の口頭発表では誰もが当たり前に使う用語がある。たとえば、エネルギーの単位のkeVをケブ、MeVをメブというのも独特で関係者以外には通じない。いきなり電話を掛けても、そういう訛りが出れば、すぐに身内の人間だと分かる。それにそもそも研究テーマが特殊だから、一般の人が関心を持つことはない。国語学や万葉学は一般の人も論文を読んで理解するし、関心も持つ。

横入りというのは、国語学や万葉学の学者集団にいきなり一般人が加わろうとした行為が非難されるという意味と解釈した。理系の学会は、学生時代から入会していて、講演したり、論文を投稿したり、他人の論文を査読したりということを経験してきた。自分がメンバーであることを疑いもしなかった。しかし国語学の学会では一介の素人であり、学者集団から区別される立場だった。

万葉学者たちから見て万葉学者だけがweであり、私たちはtheyと呼ばれる集団だった。ヨーロッパのキリスト教徒は同じ宗教の仲間とは友愛に満ちた関係を保ちながら、ムスリムに何をしたか。アメリカ先住民に何をしたか。いや、日本も同じである。風土記を読むと、ツチグモと呼ばれる異文化の異民族にはまるで動物にたいするような態度であった。

萬葉学会のP氏やQ氏が理系の論文を書き、私がそれを査読するとしても、彼らの経歴で判断することはない。論文の記述が事実に基くかどうか、推論が正しいかどうか、それだけしか見ない。 それが当たり前だと思っていた。万葉学者たちが閉鎖的と言われるとしたら、それは論文の審査に、誰が著者か、著者はどういう経歴の人か、そのようなことが考慮されるからではないか。

理系の論文は実験事実と推論だけが問われる。著者に特別の感情を持っていたとしても、その感情に基いて採否を決定できるほどに審査の自由度がない。ある論文を百人の人が査読したら、九十九人までの意見が一致するだろうし、一致しない残りの一人の場合も、編集委員の判断で一致させることが出来る。

萬葉学会の査読は今後詳細に検討する予定だが、あのような査読理由が許されるなら、白いものも黒くなり、黒いものも白くなる、どのような結果も査読者の語呂の論理で決まってしまう。

2017年9月8日金曜日

質的記述 その3 論理的に考えようとしない万葉学者たち

内井惣七氏の著書だったか、流行の「ロジカル・シンキング」は本を読んで身に付くようなものではないと書いてあった。そのような当たり前すぎることをわざわざ書かなくてはいけないのは、本を読むだけで論理的思考力が身に付くと考える人が少なくないからであろう。私も内井氏と同じことを書く。論理的な思考力は訓練でしか身に付かないし、訓練さえすれば誰でも身に付けられる。

上代語の研究の先行文献を読む出して驚いたのがあまりにも多い非論理的な推論であった。そのことについて、その1その2その3その4その5に書いた。これらの非論理的な推論は、理系であれば、あるいは法学などの専攻者であれば、簡単に見抜ける程度のものである。そのような非論理的な推論で結論を導く方法は、理系の論文であれば、おそらく法律の分野でも、査読を通らない。万葉学の世界では通る。何故か。論文の著者がその推論が非論理的であることに気付かないように、査読者もまた気付かないのか。あるいは前回書いたArgument from authorityによる審査が行われるのだろうか。万葉学者とそのたまご、つまり大学の国文科の教官と学生が書いたものなら通すが、どこの馬の骨か分からない一般人の書いたものなら通さない。そういうことが行われているのだろうか。

どちらも可能性がある。このような場合、理系の人間は、両者の一次結合を仮定する。また、見過ごしの可能性を必ず考慮する。

式3-1 非論理的な論文が掲載される原因 = 査読者が論文が非論理的であることを見抜けないこと × その確率 + 査読者が著者の権威に基く審査を行なうこと × その確率 + それ以外の原因 × その確率

非論理的な推論は大野晋氏のような超一流の学者の論文にも見られる。高校生のころ私が使っていた現代国語の受験参考書に大野晋氏の文章が取り上げられ、その論理の矛盾を指摘させる設問があった。国語の著名な学者の文章に高校生でも見付けられる論理的矛盾があるという、その受験参考書の著者の指摘に、目から鱗が一枚落ちるのを感じた記憶がある。最近読んだ本では、香西秀信氏の『議論入門』大野晋氏の『日本語について』の文章に現われた「文字」という語の不正確な定義をとり上げている。自分の議論に都合が良いように用語を定義する方法は詭弁の初歩であるが、意識的なのか無意識なのか、万葉学者の書く文章にしばしば観察される。

大野氏の例をあげて理由は以下である。そのような超一流の国語学者であっても論理的に不確かな部分があるのだから、超一流とまでは言えない多くの査読者たちが論理を間違えるも仕方ない。従って、式3-1の第一項は十分考慮されるべきである。

理系の人間は学生時代に論理を徹底して鍛えられる。自分が行なった実験や観察から何が言えて、何が言えないか、毎回時間を掛けて考えさせられ、間違えれば、教官や先輩にすぐに指摘される。そして、その理由を徹底した議論で叩き込まれる。 それを学生時代繰り返す。実験データの整理のためやシミュレーションのためにコンピュータのプログラムを作る。論理を間違うとプログラムが動かない。あるいは間違った答えが出てくる。大学入学した時から毎週数学の講義がある。黙って話を聞くのではない。手を動かして問題を解けなければ、試験に通らない。数学は人間が設定した公理から演繹だけで導かれるものである。それぞれの専門教育の中で、微分方程式を立てたり(もちろん、立てた方程式は解く)、複雑な積分をするようなことは日常の業務の一環である。

論理の訓練は筋肉の鍛錬と同じである。日々の訓練が一箇月後、一年後、十年後に大きな違いとなって現われる。逆に、使わないでいるとどんどん劣化して行く。名前は失念したが、ある大学のある研究者が、武道の達人と一般人の反射神経、筋力、その他の運動能力を比較した。その結果わかったのは、武道の達人が人並み外れた反射神経や筋力を持っているわけではないこと。六十歳の達人はその年齢なりに老化していること。しかし、その武道において、初心者の若者を全く寄せ付けない。何故か。筋肉の動かし方の訓練が出来ているのだと言う。その武道の基本となる筋肉の使い方や身体の動かし方がある。それを素早く確実に行なえるのは訓練の賜物だと言う。

理系や、そして恐らく法学の、人たちと万葉学者とでは、論理的な思考力は大人と幼児ほど違う。片手でねじ伏せられる。場合によっては指一本で倒すこともできるかもしれない。それほどの違いがある。これはQ氏の査読の結果の文章を読み、P氏とのやり取りの中で、実感させられたことである。

国民の財産である万葉集の研究が、本居宣長、富士谷成章、鈴木朖と言った人たちの後、どれだけ進展したのだろうか。新しい文法用語はたくさん登場したが、宣長らの時代に分からなかったことが分かるようになったとか、間違って解釈されていたものが正しく解釈されたという事実が、一体いくつあるのだろう。せいぜい片手か両手かで数えられるほどではないだろうか。江戸時代の現代との科学、工学、医学、農学などの進歩と比べて、お話にならないほどの遅さではないか。

論理の訓練を始めるのに遅いも早いもない。万葉集の研究を進展させたければ、そのような訓練を今日から始めることである。次の問題は、適切な論理の問題集がないこと。野矢茂樹氏の問題集を見てみたが、人文系の人が挫折感を味わわないように調整したのか、問題が易しすぎる。

次の問題はどうだろう。手元の論理学の教科書に
It is easy to check that the following inferences are valid.
と書いてあった。

(A∧B)⊃C ⊢ (A⊃C)∨(B⊃C)
(A⊃B)∧(C⊃D) ⊢ (A⊃D)∨(C⊃B)
¬(A⊃B) ⊢ A

上の式の記号は、∧は「かつ」、⊃は「ならば」、∨は「または」、¬は「でない」と読む。また⊢の記号は推論を表し、左側から右側が論理的に導けると言う意味である。 

大学の理科系学部卒で、仕事で数学や物理を使っていた人なら暗算で出来るはずである。しかし、万葉学者は全員が出来ないと思う。理系から見れば簡単すぎる問題が万葉学者に解けない。

万葉学が殆ど止まっているように見えるのもそれが原因であると思う。

2017年9月6日水曜日

質的記述 その2 詠嘆の「ねえ」

ねえ 「これはだめである」という意味を詠嘆的に言う。
雪枝は成績表を取り上げていたが、「体操と武道がこれではねえ。」と言った。
(井上靖、あすなろ物語)

以上は、とある国語学者の書いた大学短大の国文科の学生向けの教科書からの引用である。


以下の例文の暗に「これはだめである」という意味は終助詞のない2-1bにもある。終助詞が「さ」「な」「よ」やそれらを長音化したものに置き換わっても意味は大同小異である。

2-1a 武道と体操がこの成績ではねえ。
2-1b 武道と体操がこの成績では。
2-1c 武道と体操がこの成績ではさ。
2-1d 武道と体操がこの成績ではな。
2-1e 武道と体操がこの成績ではよ。

2-2は「これはだめである」と詠嘆的に言っているのだろうか。

2-2a 太郎は武道と体操が得意だからねえ。
2-2b 花子は美人だねえ。
2-2c 次郎の体格ではねえ。(次郎が)勝って当たり前だよ。

2-1aに「詠嘆」の意味があるとすれば、それは「ねえ」の中にあるのではなく、「この成績では」の後ろに省略された部分にある。なぜ気付かないのか。なぜ上に示したような簡単な例で確認してみないのか。

このような傾向は「とある国語学者」だけではない。万葉学者に共通する。何かと言えば「詠嘆」や「強意」である。その意味が本当にその助詞や助動詞の中にあるのか。それともその文全体にそもそもその意味があるのではないか。

萬葉学会のQ氏も不掲載の理由に「上代では、「世の中は空しきものと知るときしいよよ益々悲しかりけり」の副助詞「し」は副詞性助詞として「知れば知るほどに」と程度強調を表す例がある。」と書いているが、「知れば知るほどに」の意味は「し」ではなく「いよよ益々」にあると考えるべきではないのか。

少し考えれば気づくことを考えない。まるで少しでも頭を使うと脳が減るとでも思っているのだろうか。「とある国語学者」氏も萬葉学会の査読者のQ氏も本当にそう考えているのではないかと思うほどである。考えれば疲労はするが、脳は逆に鍛えられる。考えないと脳は劣化する。筋肉と同じである。

Idiocracyという映画がある。アメリカ陸軍の図書館で働いていたJoe Bauersは生命活動の一時停止実験(冬眠)の被験者となる。しかし思わぬ事態から実験は忘れられ、そのまま五百年後の世界で目を醒ますことになる。インテリは子供を作らず、その逆は子沢山の状態が続いたため、人類の知能指数は恐ろしく低下していた。平凡なJoeは五百年後の世界で天才だった。


コンピュータ 「あなたはバケツを持っているとします。一つには2ガロン、もう一つには7ガロン入ります。あなたはバケツを幾つ持っていますか?」
Joe 「二つ(ですか?)」 あまりに簡単すぎて何か裏があるのかと思って躊躇する。
正解を示すシングルが鳴り響く。一方、回りでは四角い穴に円柱を無理に入れようとしている他の受験者たちが恥ずかしそうにそれを隠す。


農作物が育たない。理由は水の代わりにブランドウというポカリスエットのようなものを与えているからであるが、ブランドウを止めて水をやろうとするJoeに対して、他の高官たちはブランドウは電解質が入っているからの一点張りである。





2017年9月4日月曜日

質的記述 その1 エスノグラフィー

”・・・しかし、やっぱり、他府県(のグループ)がガパーッと新聞紙上さわがせてくるとやな。それにやっぱりね、情報入ってきてな。「あ、(俺たちも)やらなあかんな」いうてんもんちゃうか?”

A ”(新聞は)ウソばっかり書きよるけどなあ.全然なあ。アタマちゃう子が「アタマなんやかんや」(?)。アタマちゃうのに(て)思うけど。ま、なんしか(なんというか)新聞にな、「暴走族の」、その、たとえば「右京のどったらこったら(なんとかかんとか)」て書かれたら、ウレシイもんなあ”

B ”うれしいやん、有名になるやん”

以上は佐藤郁哉氏の『暴走族のエスノグラフィー』からの引用である。

古代の日本語に興味があった。ここ数年関連する単行本や論文を読んできた。それらの論文には特有の非論理的な推論があることに気付いた。至る所で論理が破綻している。科学的に考え直すことで、未解決の問題の解答が次々に見付かった。手始めに四つ論文を書いた。国文科を出て高校で古文を教えていた知人に見てもらった。論文誌に掲載されるに十分な水準と言われた。

同時に次のような警告を受けた。私の論文は従来説を否定し国語学の世界に革命を起こそうとしている。そのような説を国語学者が受け入れるとは思われない。国内の雑誌に掲載される可能性は極めて低い。英語で論文を書いて海外の言語学の雑誌に投稿してはどうか。

理系の世界は英語が共通語である。日本の学会も論文誌への投稿は英文でしか受け付けない。日本語の記事は他分野の研究者へ向けた解説記事ぐらいである。だから英語で書くことに抵抗はないが、むしろ日本語で論文を書くという経験がなかったが、万葉集の語法の意味の微妙な感覚を英語で表現し分ける自信がなかった。 知人の予想に半信半疑でもあった。

四つのうちの一つはこのブログに発表し、一つはA雑誌へ、一つは雑誌『萬葉』へ投稿した。知人の予想は半分当たった。A雑誌は掲載が決まった。『萬葉』は査読者Q氏の主観的意見に基き「新知見とは言いえない」という理由で不掲載と結論した。理系の世界で「新知見とは言いえないい」と言うためには、そのような記述のある先行文献を示さなくてはならない。またそのような先行文献を示せないのであれば、その論文は新知見であるから、査読者は不掲載と結論することができない。そのことだけでも、今まで常識だと信じてきたことが根本から覆された。またP氏との話し合いでも、同様に常識が覆されることを幾度か経験した。

「ずは」の語法の論文を書いたとき、何故このことが解決できなかったのか不思議に感じた。著名な国語学者が次のように書いている。

木下正俊(1972)「正統的な方法ではこの問題は解決できないのではなかろうか。」
伊藤博(1995)「「ずは」は、集中最も難解な語法で、永遠に説明不可能であろうといわれる。」 

それまで解決できなかったのは、理系の研究者には常識の論理的な推論を、国語学者が行った来なかったからだと考えた。上代や中古の未解決の問題の論文を読むたびに、それぞれの推論の不備に気付いた。そこを修正し、今一度基礎に立ち返って考え直せば多くのことが解決した。上代語の研究はたやすいとさえ思った。

しかしたやすくはなかった。いや、研究は難しくない。問題はP氏やQ氏に如何に納得してもらうかである。「少し疲れました」の記事以来ブログの更新が途絶えていたのは、そのことを考えていたからである。いや、考えるために、アリストテレースのレートリケーを手始めに、様々な哲学の本を読んでいた。そのこと自体は楽しかった。しかし、P氏やQ氏を説得するのは「永遠に不可能であろう」、そして、通常の話し合いでは「この問題は解決できないのではなかろうか」と思われたならない。

エスノグラフィーは民俗誌と訳される。その始まりは欧米の人類学者が「未開」部族の社会を参与観察した記録である。しかし現在では、ある文化を別の文化の側から記述することである。冒頭に引用した佐藤郁哉氏の『暴走族のエスノグラフィー』(新曜社)が良い例である。そこでは質的なアプローチが重視される。質的(qualitative) は理系の世界では定性的と訳される。池田光穂氏の解説記事「質的研究と量的研究のちがい」が参考になると思う。

理系の世界では定性的な記述は定量的な記述に劣るとされてきた。

1-1a 五百円硬貨は銅を含む。
1-1b 五百円硬貨は銅を75重量パーセント含む。

1-2a アルミニウムは熱を良く通す。
1-2b アルミニウムの熱伝導率は237 W/(m·K)である。

1-1aや1-2aが定性的記述、1-1bや1-2bが定量的記述である。この場合は後者の情報量が多い。しかし冒頭の引用部分を「メンバーの70%は新聞に取り上げられることを肯定的に評価している」などと書いたら情報量が増えるだろうか。質的(定性的)記述はデータの客観性に難点があると考えるかもしれないが、このような人間の感情の記述は、たとえそれが定量的であったとしても、そこに記述者の主観が入り込まないと言い切れない。少なくとも、客観性において、質的記述が劣るとは言えない。

引用文献
木下正俊1972 『万葉集語法の研究』(縞書房)
伊藤博1995 『万葉集釈注 1』(集英社)