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2018年9月30日日曜日

MC-05 萬葉学会の代表の乾善彦氏の返信

2018年2月3日付けで乾善彦氏より返信が届いた。要点は以下であった。

1 3月29日に編輯委員会があるから、回答の期限を伸ばしてほしい。
2 学会でなく「個人を相手に訴訟」を起こしてほしいと伝えたが、そうならず残念だ。
3 今回のような意見が通るなら「人文学の危機」を感じる。
4 私の「誠意」と「教養人としての良心」を考慮されたい。
5 在野の研究者の投稿が掲載されないのは「論文の内容」(水準)が理由だ。
6 投稿は他の学会でもとても掲載される水準にない。

乾善彦氏は代理人の立場を誤解していたようだ。仲介に入った調停役だと考えたのだろうか。

1 これについて私は待っても良いと思ったが、代理人から見れば一方的理由で受け入れられないそうだ。私は甘いのかもしれない。
2 かつて乾善彦氏がそう書いてきたので「では自宅住所を教えてほしい」とメールに書いたのだが返信はなかった。 
3 この大げさな文言を読んで萬葉学会の審査こそ科学の発展を阻害するものと感じた。
4 これではまるで私たち二人は教養人ではなく良心もないというように聞こえる。過去に何度も質問したが無視されてきた。それが乾善彦氏の言う誠意なのか。たとえば萬葉学会の会費の支払い状況を2018年1月に問い合わせたが、2018年9月になったも返信がない。
5 これは後に代理人の指示により手分けして雑誌『萬葉』に掲載された編輯委員の論文を査読した。私はそれまで興味のないテーマの論文を読まないでいた。結果は呆れるほど完成度の低いものであった。
6 この言葉には驚いた。直接私に言っていたことと正反対だからである。先にも書いたように乾氏は代理人を調停役とでも考えていたようで、私に嘘を付いていたことを裏付ける発言となった。

代理人の指示で始めた編輯委員たちの論文の水準の検討は萬葉学会の審査が代理人の言う通り恣意的であり、内に甘く外に厳しいことを痛感した。正直に言って、ここまで水準が低いとは思っていなかった。私一人の判断に万が一誤解があってはいけないので、他の専門家にも読んでもらったが、更に手厳しい評価が返ってきた。
 

2018年9月29日土曜日

MC-04 共闘

萬葉学会を訴えるというR氏の提案を受け入れるまでに逡巡したことは前回書いた。何もしなければ何も変わらない。しかし何かをすれば良い影響も悪い影響もある。論文の種は三十ほどある。順次投稿して行こうと考えていた。しかし萬葉学会から関連の学会へ回状が回りこの者の論文を掲載するなということがあるかもしれない。R氏はむしろ雑な審査を行なえないと考えるだろうと言う。そうとも考えられるし、そうでないとも考えられる。

弁護士費用も交通費も要らないと言う。大変ありがたい提案である。当然私のためだけに行なう裁判ではない。いわばR氏と私の共闘である。私たち以外にも排他的な審査の被害者はいるだろう。記者会見等を行なうなどして広く世間に知らしめると言う。そうであれば裁判は勝たなければならない。世の中の人の大部分は両者の言い分を十分に検討するなどということをしない。偉い学者たちの判断に個人的な不満から訴えたと思われるだろう。矢面に立つのは賭けであった。

R氏と知り合ったのも何かの縁である。それまでに様々な偶然が重なった。後で振り返ると、恐れ多いが淵田美津雄氏のような気持ちであった。キリスト教徒の知人から言われた「裁判に訴えて罪に気付かせてあげるのも愛である」という言葉も思い出した。しかし何よりも万葉集や上代日本語の研究を発展させるには萬葉学会のギルド的体質を打破しなくてはならないと思った。

萬葉学会の編輯委員たちは学術論文を短歌や俳句のような文芸作品と考えているように見えた。乾善彦氏の言う「良い論文」とは学問としての万葉学を発展させるものではなく、彼らが満足する「様式美」を備え彼らの「常識」(実は非常識なのだが)を満たすものを言うのではないかと感じる。それでは学問は進歩しない。相対性理論は光速に近い速さで運動する物体の長さが縮み質量が増大し時間が遅れることを主張する。これは一見「常識」に反する。しかし多くの人が考える常識は非常に特殊な世界でだけでしか成立しない。長さや質量や時間の進み方が一定であると考えることこそ非常識であった。

2018年1月31日に萬葉学会の代表の乾善彦氏に通知を送付した。もう後戻りできない。 

2018年9月21日金曜日

MC-03 矢面に立つ決意

R氏と知り合ったのは2017年の9月であった。公開している電子メールアドレスにメールを貰った。ブログは努めて公平に書いている。そのため文章の切れ味が悪い。ネットの文章はじっくりと考えながらは読んでもらえない。素人の好事家が萬葉学会という権威にたてついていると思われるのではないかと恐れていた。さすが弁護士である。R氏は私の書くことを丁寧に読んでくれていた。

その後論文や著書を交換し、電子メールのやり取りが幾度かあった。応援してくれる読者の一人と感じていた。年末に訴訟の提案があった。萬葉学会の態度は頑なであった。聞く耳をもたないとはこのことを言うのかと思っていた。幾ら説明しても、通じなかい。「自分たちは専門家である。素人は専門家の言うことに従うべきである。」という印象を受けた。このままでは訴訟になるかもしれないとは薄々予想していた。しかしそうなると、萬葉学会だけでなく国語学の関係者を全員敵に回すかもしれない。背水の陣である。そう考えたのは、萬葉学会の壁の厚さを感じたからである。

私は企業の技術者や研究者として働いてきた。研究の真似事もし、応用物理学会などで何度も発表を行なった。海外の専門誌へ論文を投稿し採用もされた。学会を通じて他の企業や研究機関の研究者の他に、大学の教員とも親しく情報交換をしてきた。その中では萬葉学会のような「壁」は感じなかった。話せば分かる人たちだった。こちらの話を敬意をもって真剣に聞いてくれた。それが萬葉学会にはないのである。論理的に、あるいは例え話で、萬葉学会の担当者を説得しようとしても、暖簾に腕押しだった。今まで常識だと思っていたことが萬葉学会には通じない。ひょっとすると、国語学の学界はこのような自然科学や工学とは別の論理や別の常識が支配する世界なのかとも思った。また、大学の先生方は一言か二言話せば、私が彼らと同じ世界の住人であるという理解が得られた。

万葉集や古今集の論文は一般の人も読む。固体物理や核エネルギーの論文は一般の人は読まない。興味もないだろうし、内容も何年もの専門教育を受けなくては理解できない。萬葉学会は希望すれば誰でも入会できる。物理学会は正会員二名の推薦が必要である。見知らぬ人から電話やメールがあっても、二言三言話せば相手が自分と同じ専門家かどうか簡単に分かってしまう。そもそも一般の人が興味を持つ世界ではない。専門家と一般人の間に専門知識の大きな開きがある。その上研究者は世界中に分布している。だから見知らぬ人に寛容である。国語学の世界は違う。専門家と一般人の知識の差が、少なくとも理系と比べれば、小さい。国語学の専門家は一般人とは別の訓練を受けているわけではない。大学に所属しない人間は彼らから見れば「よそ者」なのかもしれない。そう考えた。よそ者はよそ者であるだけで排除される。よそ者が行動を起こせば正当であっても更に排斥されるかもしれない。それを私は恐れた。

国語国文学の「中」にいた人たちから、ガラパゴス、小さな村のような社会、ギルドなどの言葉を聞いた。ますます恐れた。

R氏の提案に即答は出来なかった。しばらく考えた。しかしこのままで萬葉学会が変わるとも思えなかった。自分たちのギルドを作り、在野の研究者(R氏の言葉)を排除し続けるならば、万葉集をはじめとする日本国民の財産が閉鎖的な団体に独占され、科学的な研究を受け付けないだろう。江戸時代に読めなかった歌は今も読めない。ミ語法、ク語法、ズハの語法など、多くの助詞や助動詞の正しい意味は未だに解明されていない。辞書の説明に従って読めば、あちこちで矛盾に出会う。このままではいけない。万葉学の方法を「と思われる」「である蓋然性が高い」という主観を束ねた非論理的な推論から、仮説と検証に基く科学に変えなくてはいけない。それが神から与えられた使命だと考え、提案に従うことにした。

R氏の描いたシナリオは最高裁まで争うことである。R氏は国政選挙の定数是正の話をされた。R氏を含め実現するとは思わなかった。それが実現した。万葉学を改革するのも困難な道かもしれない。しかし何もしなければ変わらない。R氏の言葉と信仰心の薄い私なりの使命感から矢面に立つ覚悟を決めた。

まずは民事調停を行なう。相手を裁判所に呼び出し、二三回は会って説得を試み、それで相手が応じないなら、本格的な裁判へ進む。そのようなシナリオの下で民事調停が始まった。民事調停は決裂する。それがR氏の予想であり、シナリオだった。