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2017年11月3日金曜日

To sue or not to sue その1 知らない町で乗ったタクシーの料金を何故踏み倒さないのか

Why is reciprocity important for the ability to trust strangers? First, it explains why the complex web of trust that underlies modern social life does not unravel as soon as unscrupulous individuals test its strength. Economist Kaushik Basu describes a simple problem. You take a taxi ride in a large, unfamiliar city, and when you have reached your destination you pay the driver the amount you owe. You have benefited from the ride and you will never see the driver again, so why do you bother? (This is the kind of question that sometimes gets economists a bad name.) 

持ちつ持たれつの関係が見知らぬ人を信頼する能力にとって何故大切なのか。まず、この関係が説明するのは、現代社会を生きる基盤である信頼関係の複雑なしがらみがどれほど強いかを、悪意ある個人が試そうとしたとき、それがほどけてしまわないのは何故かである。経済学者のカウシク・バスの述べるわかりやすい例がある。知らない大都市でタクシーに乗るとする。目的地に着けば運転手にしかるべき料金を支払う。既に移動の便益は受けている。運転手に再び会うことはない。それなのに払わずにいられないのは何故か。(この手の質問でしばしば経済学者が汚名を着せられる。)

以上はPaul SeabrightのThe Company of Strangersから引用した。手元にあるのは2004年の初版である。現行の第二版は大幅に改定されているようだ。ページ数が294から376と増えている。

さらに、運転手が料金を受け取りながら受け取っていないと主張することがないのは何故か。揉め事が裁判所に持ち込まれたとき、裁判官が賄賂で動かないのは何故かも検討される。そこに「持ちつ持たれつの関係」(reciprocity)があるからなのだが、それは仲間内に限られる。

百パーセント良い人も百パーセント悪い人もいないのが水戸黄門や昔のアメリカの西部劇と違う現実の人間の社会である。アメリカ大陸で先住民の命や財産を奪って平気だったヨーロッパ人も母国では良い人だったかもしれない。アウシュビッツでユダヤ人を工場さながらに処理していたドイツ人も妻や子の前では良き夫であり良き父だったと言う。日本人も同じである。風土記を読めば、大和政権側は彼らが異民族と考えた「つちぐも」と呼ばれた人々を汚い騙まし討ちにしたことが得々と綴られている。どちらも恐らく我々の先祖だろうが、人間は「うち」に対しては平和で友好的でも、「そと」に対しては一変した対応をする。

萬葉学会の編集委員のP氏はによると雑誌『萬葉』は「同人誌」と言われていると言う。P氏もそれを是認して、良い論文にするため投稿者に何度も書き直しをお願いするような指導をすると言う。しかし、一方で、P氏は普通は不掲載理由を投稿者に知らせないとも言う。私のク語法の論文は私が事前に尋ねたから不掲載の理由を特別に知らせたと言う。

P氏の言葉は矛盾しているが、次のように考えれば矛盾が解消される。つまり、同人誌の同人は萬葉学者である国文科の教員とその卵である学生や院生だけなのだ。彼らの投稿であれば「指導」するが、在野の研究者には不掲載の理由さえ知らせないのだ。雑誌『萬葉』のバックナンバーがネット上に公開されている。私たちが見た限り、掲載された論文の投稿者は萬葉学者とその卵である。大昔の高校の教員の投稿があったが、それは学者と卵の中間の存在であろう。「持ちつ持たれつの関係」(reciprocity)は萬葉学者の間に限られ、在野の研究者は初めから排除されている。

掲載論文が萬葉学者の投稿に限られる理由として、在野の研究者の投稿は学術論文としての水準が低いという萬葉学会の反論があるかもしれない。しかし、Q氏が述べる不掲載の理由は学術論文を査読するには不適切なものである。不掲載の理由のどこに問題があるかを「その2」以降で検討して行く。また、雑誌『萬葉』が「指導」の末「良い論文」とした幾つかについても、その問題点を検討したい。

知人は年金生活の乏しい収入の中から萬葉学会の会費を払っていたが、幾ら投稿しても掲載されなかったと言う。雑誌『萬葉』は図書館でも読めるし、一年経てばネットに公開される。発表の場を求めて入会した在野の研究者は知人一人ではあるまい。私も同じ目的で萬葉学会と契約を締結した。萬葉学会は私に発表の場を提供する。雑誌の掲載には審査が行なわれるが、その審査は公正であると期待された。その代償として私は学会費を払う。そのような契約を結んだのである。

萬葉学会に初めから在野の研究者の論文を掲載する意志がないならば詐欺である。雑誌『萬葉』の投稿規定に「採否決定は、編輯委員会に一任のこと」とある。萬葉学会のP氏はその文言を盾に「部分社会の法理」を主張しとしているようである。しかし気象学会が提訴された裁判がある。東京地裁の判決は「部分社会の法理」を主張していない。気象学会に非がないとする理由の中で論文の審査のあるべき姿を示している。萬葉学会の審査はそのガイドラインを逸脱するものである。

P氏は私を「困った人」と思っているかもしれないし、P氏の回りの人たちもそう言っているのかもしれない。人間は他人の意見に影響されやすいものである。しかしP氏は私の回りにもP氏を悪意ある人物と考える人たちがいるはずと考えるべきであった。事実そういう人たちはいる。私はP氏を「意思疎通に困難を感じる人」と思っている。しかしP氏を悪人とは思っていない。査読をしたQ氏とて悪人ではなかろう。

ただし今回の、それから他の在野の研究者の会員に対して行なったことに非がないとは思わない。妻子には良き夫や良き父であったとしても、ドイツの役人たちがやったことが許されないのと同じである。しかしアウシュビッツと異なり、本件はまだやり直しが効く。出来れば話し合いで解決したい。間に他人が入れば出費が増える。P氏は訴えるなら萬葉学会ではなく自分個人を訴えてくれと言う。では自宅住所を教えてほしいと言ったところ返信がない。

タイトルのTo sue or not to sueに関連して、西アフリカのある地域の人々はシェークスピアのハムレットを信じないと言う。Laura Bohannanという人がNatural Historyという雑誌に1966年に発表したShakespeare in the Bushという論文がある。萬葉学会のP氏やQ氏と中々分かり合えないのも文化の違いが原因かもしれない。

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