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2019年9月18日水曜日

JBJ-07 上代文学会事件 七 「裁判はやってみないとわからない」


上代文学会(代表 品田悦一氏)を被告とする民事訴訟事件について書いてきた。念のために書くが、「事件」は法律用語である。刑事事件に限らない。

二十数年前のことだが、当時90歳を越えていた高名な弁護士の方から「裁判はやってみないとわからない」と言われた。大学在学中に司法試験に合格し卒業以来70余年弁護士をされてきた方である。長い経験に裏打ちされた言葉の重みを感じた。

被告から思いがけない言葉が出てきた。まさに裁判はやってみないとわからない。
1 原告が「在野の研究者」名乗るのを「不知である」と否定し「(原告の)正業を弁護士」と言う。
2 「説得力のある新説」は「知識や研究方法を学んでいなければ提出できない」。
3 「学会発表者として選ばれるのが、専門教育を受けた者、受けつつある者である」。
4 「(上代文学研究に関して)学んだ形跡が無い」から「不採用になった」。
(以上、「被告答弁書」から)

5 「(原告には)専門家としての上代文学研究者に対する敬意が欠けている」。
6 「専門教育無しにまともな発表ができるほど、上代文学研究は底の浅いものではない」。
7 「(国文科を卒業していなくても)その傍らで大学や大学院に通い、専門家の指導を受けて、優れた発表をしている晩学の人は何人もいる」。
(以上、「被告準備書面(1)」から)

8 「他者の意見を一顧だにしない姿勢は、原告が研究に関わる専門的な教育を受けて来なかったことの表れ」である。
9 「(裁判の過程で原告は)初歩的な文法事項に関する無知をさらけだしている」。
10 「(説得力は)客観的に判定できるわけではなく・・・研究者の・・・合意」である。
(以上、「被告準備書面(2)」から)

原告の主張の一つは「原告が大学関係者ではないので、差別的に取り扱われた形跡があ(る)」(「原告準備書面(1)」)である。被告の上記の主張は図らずもそれを裏書きすることとなった。

被告の言う1は原告が研究を「正業」(被告は辞書を引かないのか)としていないから研究者と言えないとする。しかし本居宣長の職業は医師であった。2から4は発表の内容でなく原告の受けてきた教育を不採用の理由と考えていると読まれてしまう。

注目すべきは5である。自分たちが専門家だから正しいというのだろうか。「日常の場と研究の場」に書いたが、橋本進吉はたとえ童児の言っていることでも真実であれば信ずべきである」と言い、大野晋は「日本では発言の中身を吟味する前に発言者が何者なのかを問題にしすぎる。学界が閉鎖的になって研究に発展性が乏しいのはそのせいだ。」と言った。当然のことをわざわざ言う理由が5の態度だと思う。これは上代文学会に限らない。国語学者たちに共通だと感じる。科学技術の世界では考えられない不遜な態度である。

67も原告が国文科で学んでいないことが不採用理由だと思わせる。8は萬葉学会の言う「聞く耳を持たない」を思い出させる。自分たちが絶対に正しいと信じて疑わないから相手は自分たちに従うべきであると言うのである。上代文学会や萬葉学会は「他人の意見を一顧だにしな」かったし、「聞く耳を持たない」でいた。9argumentum ad hominem(発言の正否をその内容でなく発言者の人格に帰する論法)の詭弁である。10から被告のいう「説得力」が主観的なものだと分かる。気象学会の事例とは明らかに異なる。

「思いがけない」と書いたのは被告が自身の偏見を外に出してしまったことである。被告の言う「研究史」はそれを記載しない論文があることから理由になり得ない。論文は専門家を対象としたものである。専門家なら当然の知識というべき研究史の記載を要求する理由がない。アインシュタインの特殊相対性理論の論文には引用文献が一つもない。とすれば、残る争点は動詞連体形に下接する「なり」が上代語に存在しうるかであるが、存在するとする論文が『国語学』に発表されている以上、「存在しえない」という被告の主張は認めがたい。加えて自らの偏見を暴露するような言動は原告の勝訴を決定したと言える。

裁判はやってみないとわからない。今回のように相手が勝手に転んでくれることもある。原告が勝訴すれば国語学の論文の審査のあり方に当然影響する。「説得力」などという主観に基づく不確かな基準が根絶されることを願う。その時に国語学は真の科学(客観的事実と論理的推論に基く学問)に生まれ変わるのである。人文科学は科学でないという意見に対する反論は「論理と説得術」を参照されたい。

ちなみに萬葉学会は原告の発表を受理した(「原告準備書面(3)」)。それについて「訴訟を避けようとする学会で、原告は発表の機会を得るかもしれない。しかし・・・その発表に対して、まともに質問に立つ者はいないであろう。」(「被告準備書面(2)」)と被告は予想している。


2019年9月14日土曜日

JBJ-06 上代文学会事件 その六 気象学会事件との違い

途中から読む人のために繰り返すと上代文学会(代表 品田悦一氏)を被告とする損害賠償請求訴訟が東京地裁に提訴された。原告は同学会の会員である。講演申込みが不当に拒絶されたという。なおここで言う事件はこの辞書の3の意味の「訴訟事件の略」である。

本件に関して上代文学会は自信満々のように見える。萬葉学会も同様に見える。気象学会の原告敗訴が理由かと思う。しかし気象学会の事件は本件とは異なる。

気象学会事件の原告の論文の主張は地球温暖化の主要な要因が大気中の二酸化炭素であるとする従来の仮説を間違いだとするものである。もしも原告の論文が従来説に代わる新たな仮説を提示するものであったなら、そしてその仮説に反証がなかったなら論文は拒絶されなかったと考える。この違いは大きい。しかし国語学者の多くには同じに見えるかもしれない。

気象学会事件の原告の論文(以下、Kとする)の主張は下記の1である。本件の原告の発表予稿(以下、Jとする)の主張は2である。
1 従来説は間違いである
2 従来説と違う新たな仮説を提出する

上記の1を言うには反証を一つ挙げれば良い。問題はKの挙げた証拠が反証と言えないことである。Kが証拠として上げるグラフの説明がMantaさんのページにある。つまり従来説を間違いとするKの主張には論理的な妥当性がない。これを気象学会は「説得力がない」と呼んだ。この表現は誤解されやすい。主観的に納得できないのでなく客観的な証拠とならないのだから「科学的に妥当でない」のような表現にしてほしかった。一方Jの主張は2である。これは現時点で反証がないのだからそれをもって拒絶できない。独創性には問題がないだろうから他の理由で拒絶するとしたら影響力(の可能性)だろう。しかし上代文学会や萬葉学会の過去の掲載論文と比較する限り影響力においてJが劣るとは言えない。

萬葉学会は

理系の研究では仮説を検証して、矛盾がなければ、一つの仮説として成り立つのではないかと思いますが、ことばの場合は、他の形式との比較と差異の検証が必要になります。
と言う。

萬葉学会は上記の1と2を混同して2を言うには1が必要だと言う。しかしこれは正しい研究のあり方ではない。量子力学の黎明期にハイゼンベルクとシュレディンガーと二つの仮説が並行して行なわれていた。どちらかが正しくどちらかが間違いあるいは両方が間違いかもしれないが、反証がない以上どちらも棄却できない。その後に両者が同じことを別の角度から述べたものであることがわかった。萬葉学会は「ことばの場合」というが、言語学が経験科学であることは言うまでもない。妥当な反証がない以上、従来説と新説は平等に扱われなくてはならない。

本件に対する上代文学会の拒絶理由は「説得力がない」である。気象学会も上代文学会も同じ用語を使うが、前にも述べたように言葉は記号である。同じ記号を使いながら両学会の意味するところが異なる。気象学会は「論理的に妥当でない」の意味に使い、上代文学会は「多数意見と異なる」「大学の教員たちの考えと異なる」という主観的な理由しかあげていない。上代文学会は、動詞連体形に下接する「なり」が奈良時代に存在しない、と主張するが、その主張に論理的な妥当性はない。奈良時代に話されていた言語の中にそのような「なり」が存在しなかったと言い切るには、用例の絶対数が万葉集と続日本紀宣命などしかない上に、詩歌や宣命が当時の口語と同じという保証もない。言語史の研究の常識では言語変化は数百年の単位で起こる。奈良時代から平安時代への時代区分とともにあらゆる地域、あらゆる社会階層の言語が突然に切り替わるだろうか。論理的な妥当性がないのは上代文学会の拒絶理由である。

二十数年前のことだが、当時90歳を越えていた高名な弁護士の方から「裁判はやってみないとわからない」と言われた。ご自宅まで送る途中に運転しながら雑談の話題として「こういう裁判がもしもあったら」と聞いた。予想外の重い言葉だったので記憶に残っている。大学在学中に司法試験に合格し以来70余年弁護士をされてきた方である。簡単に答えが出るものと思っていた。本件の資料を読んでその言葉を思い出した。どういう判決が出るかは現時点でわからない。しかし上代文学会側から在野の研究者に対する大学教員たちの思いもかけなかった考えの一端が漏れた。そのことについては次回書く。

2019年9月5日木曜日

JBJ-05 上代文学会事件 その五 万葉集28番歌

途中から読む人のために繰り返すと、上代文学会(代表 品田悦一氏)を被告とする損害賠償請求訴訟が東京地裁に提訴された。原告は同学会の会員である。講演申込みが不当に拒絶されたという。

原告の講演予稿は次の歌の解釈に関するものである。

春過而夏来良之白妙能衣乾有天之香来山 万01-0028
春過ぎて夏来るらし白たへの衣干したり天の香具山

原告の新訓は第四句を「衣乾(ふ)るなり」とする。被告は、上代に助動詞「なり」が動詞連体形に下接した例がないから「説得力がない」という。

小生の見たところ、上代語に動詞連体形に下接する「なり」がないとする通説が拒絶理由になるか否かが争点のようである。そのような「なり」の存否を問うているのではない。存在しないと言い切れるかどうかである。

「なり」が動詞連体形に下接しうるという説は国文科を卒業して国語学や国文学を教えている大学教員の書いた論文にある。通説に対する異論があることは被告代表の品田悦一氏も認めている。もしもこのことが争点であれば、原告の勝訴は間違いない。著者が国文科卒の大学教員であれば掲載する、そうでない著者の論文は掲載しない、というのであれば、著者の経歴による差別である。

被告は気象学会の事件と同一と考えているようだが、それとは条件が異なる。そのことについては「知らない町で乗ったタクシーの料金を何故踏み倒さないのか」に少し書いた。その件に関して私は気象学会を支持する。査読が適切だったと考える。しかし本件に関しては原告を支持する。「説得力がない」という主観的な意見は論文や発表の審査の基準になりえない。そのような判断は反科学的である。

ちなみに日本物理学会は次のような発表を許可している。

理由は簡単である。これを否定する客観的な証拠がない。「説得力」は日常の場の判断基準である。研究の場では理由にならない。

もしも「説得力」つまり「読み手の主観的判断」が論文審査の基準ならば、論文の採否を恣意的に行ないうる。お手盛りの審査が可能となる。たとえば、科学研究費の研究成果として査読がある論文誌への掲載は価値を持つから、科学研究費の不正取得を容易にする。万が一、原告が敗訴したなら、上告の際には「説得力」という反科学的な判断基準の是非を問うてもらいたい。科学研究費の不正は新聞や雑誌が大いに注目するところである。


2019年9月4日水曜日

JBJ-04 上代文学会事件 その四 日常の場と研究の場


説得術(rhetoric)は一般に修辞法と訳される。そのため美文を書く方法と誤解する人が多いようである。比喩や押韻は文彩(figure of speech)という。それは説得術の一部であって全体ではない。古代ギリシアでは政治や司法が投票に委ねられていた。政治家として成功するため、裁判に勝つため、不可欠の技法であった。この説得術をソークラテースやプラトーンは嫌ったが、アリストテレースは研究対象として取り上げた。以上のことは以前書いた。

説得術(rhetoric)は人間の論理の錯覚を利用する。権威を信じやすい傾向を利用するものをargumentum ad verecundiam(権威に帰する論法)、その逆をargumentum ad hominem(人に帰する論法)、多数意見に従う傾向を利用するものをargumentum ad populum(多数に帰する論法)と言う。何故ラテン語の名前が付いているのか。それだけ古くから研究されてきたからである。

権威や多数に従うのは日常生活では安全な方策である。村の長老が「そのキノコには毒がある」と言い、大人たちが「あの山には猛獣がいる」と言う。それを信じた者の多くが生き残り遺伝子を残した。皆が「あいつは嘘つきだ」と言ったなら、その人物の言うことを信じない。信じなかった人たちの多くが遺伝子を残した。だからこの傾向は安全に生きるための進化の賜物である。自分で考えることも事実かどうか確認することもせず、権威や多数に従っていれば安全である確率が高い。

しかし、中には疑う人たちもいた。本当に猛獣がいるのか。毒があるのか。皆が嘘つきと言う人の意見が実は正しいのではないか。そう考えた人たちが知識を増大させ、誤りを修正し、社会を発展させてきた。研究は権威や常識を疑うことから始まる。日常生活の場と研究の場は区別しなくてはならない。この事件の「答弁書」「準備書面」を閲覧して感じたのは被告が日常生活の論法をそのまま研究に適用していることである。

「原告には専門家としての上代文学研究者に対する敬意が欠けている」と被告は言う。大学の教員だから無条件に正しいとする被告の主張に論理的妥当性がない。権威に帰する論法(argumentum ad verecundiam)の好例である。原告が証拠として提出した書籍販売サイトの購入者の書評を「ネット上の匿名者による無責任な書評」と一蹴する。これは人に帰する論法(argumentum ad hominem)である。

上代文学会だけではない。萬葉学会も同じである。客観より主観、論理的妥当性より権威や多数意見に従うように感じる。

橋本進吉は「たとえ童児の言っていることでも真実であれば信ずべきである」と言ったと言う。大野晋はそれをしばしば引用して「日本では発言の中身を吟味する前に発言者が何者なのかを問題にしすぎる。学界が閉鎖的になって研究に発展性が乏しいのはそのせいだ。」と話していたという。誰が言ったかではなく何を言ったかが重要なのは科学技術の世界では大学一年生にも常識である。誰もわざわざ言いはしない。橋本進吉や大野晋がなぜ言ったか。国語学の世界にその常識が通用しないからである。日常の場の論法を研究の場に持ち込んでいる。これでは研究者を名乗れないし、敬意も得られない。

科学者は謙虚である。家庭や職場では横暴かもしれない。しかし、いったん研究の場に立てば、権威を疑い、多数意見を疑い、自分自身をも疑う。自分が絶対に正しいなどと思う人はいない。一般人に敬意など強要しない。理解が得られなければ客観的で論理的に妥当な説明をする。

萬葉学会の乾善彦氏は「私は地動説を信じていない」と言うが、万葉学者の多くは地動説を信じているようである。理由はおそらく「学校で習ったから」「学者が正しいと言うから」「皆がそう言うから」だろう。科学者は仮説が観測事実と整合するかを確認する。しかし、地動説を信じる理由を「天文学の観測事実を説明できる仮説が他にないから」という人は万葉学者の中に少ないと思う。地動説を信じないという乾善彦氏も信じると言う他の万葉学者も一般人と変わらない。科学技術に関して万葉学者は素人だから仕方がない。問題は万葉集の研究についても一般人と同じ判断をすることである。

説得力などという日常の場の論法を研究の場に持ち込んではいけない。自分たちが敬意を払われて当然と思うならば、国文科で教育を受けていない一般人は間違って当然と考えてしまう。自分を権威と思えば「ひっかかる」などという主観的判断で他人の説を評価する。自分に理解力がなくても相手に説得力がないと思いこむ。誰が言ったかではなく、仮説が観測事実に整合するか、結果を受け入れられるかの主観的な印象ではなく、論証の過程が論理的に妥当であるかが重要である。

福井直樹氏の『自然科学としての言語学』を読んでいたら、「(科学的方法が理解されなくて)絶望的になる」という言葉が出てきた。こちらが研究の場の共通語である論理で語っても、相手が日常の場の説得術に従うならば、話はなかなかかみ合わない。