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2018年2月25日日曜日

TSONTS-26 高山善行(2005)を何故批判するのか(6) なぜ高山善行(2005)なのか

Q6. 高山善行(2005)が何故選ばれたのですか。
A5. 偶然的な理由と必然的な理由があります。

私の投稿(ク語法の論文)を萬葉学会が不掲載と判断した理由を知りたかったのです。査読者(Q氏)が所見に「モーダルな意味があると捉える点は興味深い。」と述べ、「構文上にモーダルな意味が付加されているのか、それともアクそれ自体の語義によっているのかが、本論では明らかではない。」を不掲載の理由の一つとしたためです。私自身は当該の論文でmodalityを論じる意図はなかったので、Q氏の感想や理由は意外でしたし、Q氏が「モーダル」という言葉で何を意図しているかもわかりませんでした。それでP氏(編集委員)にQ氏のモダリティの定義を教えてほしいと頼んだのですが、査読結果に対して質問することすら許さないと考えるP氏から満足な回答は得られませんでした。そこで古典語のモダリティの論文で有名な高山善行氏の一連の論文を読みました。以上が偶然の理由です。

そのようにして読んだ論文の一つが高山(2005) です。萬葉学会を初めとする国語学の学会に共通する問題がそこにあると感じました。国語学の世界では「権威による論証」が幅を利かせているようです。素人が書いたから間違いである。国語学者が言ったから正しい。正しいことの理由が発言者の権威なのです。それが間違いなのは言うまでもありません。しかし国語学者の多くがそう信じているとしたらどうでしょう。一般の人も学者の言うことだから正しいに決まっていると思うかもしれません。

この項目のタイトルのTSONTSはto sue or not to sueです。長いので略しました。裁判のことは詳しくありませんが、一般の人が裁判員となるかもしれません。初歩の論理学の専門教育を受けた人たち(大学の理系学部や法学部などを卒業した人)だけでなく、そういう教育を受けていない人たち(たとえば国語学者の多く)にも理解してほしいのです。

高山善行(2005)は「従来の帰納的方法に対して, 本稿では演繹的方法を用いる。」と述べています。帰納と演繹の違いが同論文の主眼でしょう。しかし、高山善行氏がそこで用いたのでは帰納法であって演繹法ではありません。

高山氏は127例の用例を調べ、時間や場所の表現との共起がないという事実を観察しました。次に高山氏はその事実を帰納して、連体法の「む」は時間や場所の表現と共起できないと一般化しました。ソクラテスが死んだ。プラトンが死んだ。これらの個別の事実を帰納して一般化する。だから人間は死ぬものである。教科書通りの帰納法です。

次に高山氏は「共起できない」という機能的結論の理由として、 連体法の「む」は非現実の事象を表わすという仮説を遡及推論から提案しました。遡及推論はretroductionとも呼ばれます。結果を見て原因を推論します。置き忘れた財布が無い。あいつが盗んだと仮定すれば財布がないことを説明できる。したがってあいつが犯人である。この論法が間違いであることは誰しも認めます。しかし国語学の世界ではしばしば用いられます。

そもそも言葉の意味を推定するのは言語学です。その言語学は経験科学です。経験科学において演繹だけで新しい知見が得られないことは今さら議論の余地がない常識です。演繹で何かがわかるのは、絶対的な真理から出発した場合だけです。数学は人間が絶対的に正しいと定めた公理から出発します。法律も憲法から演繹されたものと言えます。神学も聖なる書物に書いてあることは絶対に正しいとするなら演繹が有効でしょう。中世ヨーロッパの天文学などには演繹による惑星間の距離の証明などがあります。しかし現代人がそれを正しいと認めることはあり得ません。高山善行(2005)はこの点でも問題です。

帰納や遡及推論を演繹と主張する論文が他分野で書かれることはあり得ません。何かの間違いで書かれたとしてもそれが査読を通って雑誌に掲載されることはあり得ません。論理的に物事を考える、論文を書く、論文を審査するという、研究の初歩的な能力において、高山善行(2005)がそれを満たしているとは言えませんし、それを審査してそのまま掲載した日本語学会の査読者もそれを満たしているとは言えません。つまり、どちらも研究の仕方や論文の書き方では素人であって専門家でないのです。先行文献を引用し違いを明確に述べることは論文の著者の義務ですが、前回書いたようにそれも守られてはいません。

高山善行(2005)を選んだのは大学の教員だから正しいだろうという予断(prejudice)を持つことは危険です。それが高山善行(2005)を選んだ第二の必然的理由です。

高山善行氏だけではありません。国語学者を名乗る人たちの多くは研究の仕方と論文の書き方では素人です。誰某は専門家だから正しい。また、誰某は大学の文学部を出ていないから素人であり、したがって言っていることは間違いである。そのようなおかしな論理で他人の論文を評価すべきではありません。専門家は本来自分の目だけで他人の仕事の結果の大凡の価値を判断できるものです。著者が大学の国文科を卒業しているかどうかだけで判断するなら、国語学は何十年、何百年経っても江戸時代から1mmも進歩しません。


いつものおまじないを書いておきます。こういう常識をわざわざ書かなくていけないのも情けなくはあります。

「公表された作品については、みる人ぜんぶが自由に批評する権利をもつ。どんなにこきおろされても、さまたげることはできないんだ。それがいやなら、だれにもみせないことだ。」

藤本弘(藤子・F・不二雄)氏の「エスパー魔美」からの引用である。「法華狼の日記」さんのサイトに詳細な解説とそれに対する読者の反論と議論がある。セリフに漢字が少ないことから窺えるように、この漫画は小中学生を読者と想定したものである。自分の論文が批判されて怒っていたら理系の研究者はやっていられない。相互批判は学問の共同体の当然の権利であり、それが学問を発展させるのである。この当然すぎる常識を萬葉学者たちが受け入れてくれることを祈る。

※ このブログの記事のことは萬葉学会にメールして以下の伝言を高山善行氏に伝えるようお願いしました。宛先には萬葉学会編集委員長の関西大学の乾善彦氏も入れてあります。ですから必ず伝わっていることと思います。伝言の部分を再掲します。

「
高山善行殿

高山善行(2005) 「助動詞「む」の連体用法について」 『日本語の研究』  1(4), 1-15, 2005の問題点を次の記事で論じています。

高山善行(2005)の問題点(1) 演繹でない推論
https://introductiontooj.blogspot.jp/2017/11/to-sue-or-not-to-sue-2.html

高山善行(2005)の問題点(2) データの整理が不適切である
https://introductiontooj.blogspot.jp/2017/11/to-sue-or-not-to-sue-3-20052.html

高山善行(2005)の問題点(1再) 演繹でない推論(つづき)
https://introductiontooj.blogspot.jp/2017/11/to-sue-or-not-to-sue-4-20051.html

高山善行(2005)の問題点(3) モダリティの理解不足
https://introductiontooj.blogspot.jp/2017/11/to-sue-or-not-to-sue-5-20053.html

高山善行(2005)の問題点(4) 主観と客観の混交
https://introductiontooj.blogspot.jp/2017/11/to-sue-or-not-to-sue-6-20054.html

今後も継続する予定です。上記記事並びにその継続記事に対して意見があればコメントまたはメールにて連絡をお願いします。
」


引用文献
山田孝雄(1908)『日本文法論』(宝文館)
山田孝雄(1936)『日本文法概論』(宝文館)
Reichenbach, Hans (1951) The Rise of Scientific Philosophy.
Popper, Karl (1959) The Logic of Scientific Discovery.
Popper, Karl (1972) Objective Knowledge: An Evolutionary Approach.
野崎昭弘(1980)『逆接の論理学』(中公新書)
北原保雄(1984)『文法的に考える』(大修館書店)
和田明美(1994)『古代日本語の助動詞の研究ー「む」の系統を中心とするー』(風間書房)
Palmer, Frank R. (1979) Modality and the English Modals.  飯島周訳『英語の法助動詞』(桐原書店)
Palmer, Frank R. (1990) Modality and the English Modals. 2nd ed.
村上陽一郎(1994)『科学者とは何か』(新潮社)
Palmer, Frank R. (2001) Mood and Modality, 2nd Edition.
高山善行(2002)『日本語モダリティの史的研究』(ひつじ書房)
安田尚道(2003) 「石塚龍麿と橋本進吉--上代特殊仮名遣の研究史を再検討する」 『国語学』 54(2), p1-14, 2003-04-01
山本淳(2003)「仮定・婉曲とされる古典語推量辞「む」の連体形」 山形県立米沢女子短期大学紀要 38, 47-62, 2003-06-30
高山善行(2005)「助動詞「む」の連体用法について」 『日本語の研究』  1(4), p1-15, 2005
Priest, Graham (2008) An Introduction to Non-Classical Logic, Oxford University Press.
Cruse, Alan (2011) Meaning in Language: An Introduction to Semantics and Pragmatics (Oxford Textbooks in Linguistics) Oxford University Press. 
高山善行(2011)「述部の構造」 金水敏ら(2011)『文法史』 (岩波書店)の第2章
高山善行(2014)「古代語のモダリティ」 澤田治美編(2014)『モダリティ 1』 (ひつじ書房)に収録
高山善行(2016)「中古語における疑問文とモダリティ形式の関係」 『国語と国文学』 第93巻5号 p29-41

2017年8月31日木曜日

萬葉学者であるとはどのようなことか? その9 P先生とP様とP君

萬葉学会の編集委員のP氏に何度も論文の意味を説明したが、一向に理解する気がないように思えた。今までの人生で様々な人に説明を行なってきた。説明はむしろ上手だと言われてきた。ひょっとして、素人の書いた論文を検討する気が最初からないのだろうか。

メールでP氏を「P先生」と呼んできた。P氏のメールは私を「貴兄」と呼ぶ。貴兄は目上の人には使わない。今までメールで私を「貴兄」と呼んだのは職場や大学の先輩だけである。最近は大学の教員が学生宛のメールに「貴兄」を使う場合もあると言う。

少なくとも片方が相手を「先生」と呼び、 片方が相手を「貴兄」と呼ぶのは対等な関係と言えない。ひょっとすると、そのような言葉の問題がP氏の精神状態をして、自分が相手よりも上の立場であると思わせているのではないかと考えた。

こういう人間関係の研究はErving Goffmanが詳しい。ちょっとした言葉や態度から、相手を敬うか軽視するかなど、ある意味、ネチネチと研究した論文がある。ただし、Goffmanは良い翻訳に恵まれていない。日本語で読める本の翻訳の殆どが誤訳だらけである。したがって、肝心の言葉のやり取りが人間関係の及ぼす意味が汲み取れない。興味があるなら原文で読むべきである。

そういったちょっとした言葉の使い方はGoffmanの研究によれば人が他人に示す敬意に影響する。 そこで、P先生と呼ぶのを止め、P様にしてみた。同時に「貴兄」は目下に使う呼称であるから遠慮してほしいと申し入れた。しかし、P氏はこれに反発してきた。「貴兄」は対等の関係に使う呼称だから自分に非がないと言う。

言葉で言っても通じないので、では、P氏は私の年下であること、「君」は対等の関係に用いることから、今後はP氏を「P君」と呼ぶことにすると伝えた。

「学兄」という言葉がある。これについて大野晋氏が書いている。

「
ここで一つ、私が間違えた使い方について書いておきましょう。「学兄」という敬称は、読んで字の通り「学問の上の兄」ということです。ところがこれは年下の人を学問の上では先輩であるとして扱う表現なのです。この言葉を年上の学者から本をいただいたお礼に使って人から注意されたことがあります。
」

「貴兄」については、小学館の『使い方の分かる 類語例解辞典 新装版』に「貴君」「貴兄」「貴下」の三語に共通する意味として、「主に男性が書簡文などで、同輩(以下)の男性をさしていう語」という説明がある。

言葉の意味は語源的なものと、実際に使われる語用論的なものが違うことがしばしばある。「貴兄」や「学兄」は意味論的には年上の意味だが、語用論的には目下に使う。P氏は萬葉学会が発行する書類を「公文書」と言っていた。萬葉学者は辞書を引く習慣がないのだろうか。

査読者のQ氏の「モーダル」や「plain」の解釈も、世間一般で通用する意味とは異なる独自の断定がある。最近使われるのを見ていないが、以前は「スポイル」が仲間外れにする意味で使われていた。 国語学の論文に特有の非論理的な推論 その3 歌意が通ることに書いたが、萬葉学者は萬葉語の意味の推定にもその論法を使う傾向があるように思う。


萬葉学者であるとはどのようなことか? その8 Argument from authority 権威による論証

偉い先生が言うから正しい。それをArgument from authority(権威による論証)と言う。科学の世界ではそのような論法は通用しない。しかし萬葉学の世界は別である。

 「おもてなし」という言葉の解説がネットにあった。「関西大学文学部国語国文学専修」の乾善彦氏の説明がある。乾氏は「 関西大学 文学部 総合人文学科 国語国文学専修 教授。大阪市立大学文学部卒業。大阪市立大学 博士課程 文学研究科卒。」だそうである。ここで括弧で括った部分がその説明の正しさを論証するauthorityなのである。

「もてなす」の「もて」は「接頭辞」で「意識的に物事を行う、特に強調する意味を添える」と言う。もしも、その説が正しく、萬葉学者の多くの意見が一致するのであれば、authorityの理由を書かない。それを書くことは逆にその説がそれほど決定的と言えない証拠ではないだろうか。

乾善彦氏の説の検討は別の機会に譲り、ここではさらなるauthorityの説を検討したい。

大野晋氏の名前は日本語学の分野でauthorityである。経歴や学歴を書く必要がない。その大野氏の「負けず嫌い」の説明がある。私はそれに疑問を感じる。

大野氏の説明は次の通りである。方言に「ず」という助動詞があり、「む」と同じ意味である。助動詞の「む」にサ変の「す」が付き、「むず」となり、さらに「ず」となったと言う。したがって、「負けず」は否定の意味ではなく、「負けよう」の意味だそうである。つまり、負けないことを嫌うのではなく、負けようとすることを嫌うと言う。

以上は大野晋著『大野晋の日本語相談』(朝日新聞社)による。

私は大野晋氏の説に納得しない。この「ず」は否定の意味である。

8-1a 食わず嫌い
8-1b 負けず嫌い

この良く似た形の二つの語の「ず」の、一方は否定で一方は推量ということがあり得るだろうか。同じ時代に同じように頻繁に使われる語である。

「負けず嫌い」はスポーツなどの勝敗に使われない。議論で絶対に譲らない人を言う。つまり、ここで言う「負ける」は客観的に勝敗が決する意味ではなく、主観的に「負けを認める」ことである。「食わず嫌い」は、その食物を食べてみることをせずに無条件に食べることを嫌う。同じように、「負けず嫌い」は、議論で負けを認めて、折れてみることをせず、無条件に負けを認めるのを嫌う。

食わず嫌いの人は、一度食べると嫌うことを止めるかもしれない。負けず嫌いの人も、一度議論で折れると、次からはあっさり負けを認めるようになるかもしれない。

このように考えるならば、食わず嫌いと負けず嫌いは全く同じ構文だということがわかる。

萬葉学者が権威で学説の真偽や良否を判断するのをやめるとき、萬葉集は今まで私たちが気付かなかった新しい意味を私たちに見せてくれるに違いない。





萬葉学者であるとはどのようなことか? その7 この炭酸を、うまい!と思ったあなたは大人です。

You can try a taste of his ice cream, but if it tastes the same as yours, that only means it tastes the same to you: you haven't experienced the way it tastes to him.  There seems to be no way to compare the two flavor experiences directly.

あなたは彼のアイスクリームを味見できるが、あなたのと同じ味だったとしても、あなたに同じ味だったに過ぎず、彼に感じられる味を体験していない。二人の味の体験を直接比べる方法は無さそうである。

Thomas NagelのWhat Dpes It All Mean?のOther Mindsの章からの引用です。翻訳書が出ています。昭和堂の『哲学ってどんなこと?』です。ここに書いた訳は私訳です。翻訳書はもっと上手に訳しているはずです。

タイトルは近くのスーパーで買った清涼飲料に貼ってあったシールの文言です。ウィルキンソンのトニックウォーターに近い苦い味です。「大人」を「二十歳以上」と入れ替えては意味を為しません。

7-1a この炭酸を、うまい!と思ったあなたは大人です。
7-1b この炭酸を、うまい!と思ったあなたは二十歳以上です。 

7-1bは広告の役目をしない。ここでいう大人は年齢ではない。甘くない味をうまい!と思える成熟した味覚を持つことである。

永井均氏は「コウモリであるとはどのようなことか?」のあとがきに
「
これは大人のための哲学書である。二つの合意を込めて、私は本書をそう規定したい。第一に、この本は子供向きではない。第二に、この本は思想書ではない。
」
と書いている。原文に傍点がある部分を太字にした。

永井均氏の定義で大人と子どもの別は「大人は「内部」におり、子供は「外部」に立つ」と言う。「著者ネーゲルは、一貫して「内部」の立場を保持し」ているとも言う。哲学と思想の区別は、永井氏によると、結論を重視するのが思想書、結論に至る思索を重視するのが哲学のようである。どちらも永井均氏の定義に基く。「内部」と「外部」が何であるか今の私には分からない。

炭酸飲料のコピーと同じく、大人と言われることで、くすぐられる人に向けたものかもしれない。

トマス・ネイゲルの哲学が大人(内部)の立場を保持しているかというと、私は違うと思う。そもそも、哲学は子供の疑問を持ち続けないと出来ないと思う。

空はなぜ青いのか。なぜ月はずっと付いて来るのか。私が赤と感じるこの色を他人も同じに感じているのか。そういう疑問は子供の頃多くの人が感じたはずである。しかしそれを考え続けていては大人の日常生活の妨げになる。少なくともしなくてはならない仕事をする時間を奪う。だから多くの人は大人になる過程で、このような哲学的疑問を放棄する。

その一部を放棄しなかった人は科学者と呼ばれる。アリストテレースなどの時代の哲学の疑問の一部は科学者に受け継がれた。

アインシュタインは言う。

The important thing is not to stop questioning. Curiosity has its own reason for existence. One cannot help but be in awe when he contemplates the mysteries of eternity, of life, of the marvelous structure of reality. It is enough if one tries merely to comprehend a little of this mystery each day.

以上は雑誌Lifeのアインシュタインの追悼記事に記者が記したものである。息子とその家を訪ねた際にアインシュタインがその息子に語った言葉だそうである。

大切なのは疑問を止めないことだ。好奇心にはそれが存在するだけの理由がある。永遠の謎、生命の謎、現実の世界の素晴らしい仕組みの謎を真剣に考えるとき畏敬の念を感ぜざるを得ない。この謎のほんの一部を日々知ろうとするだけで十分である。

大人が途中で考えるのを止めてしまうような、たとえば友人がアイスクリームを食べて感じる味と自分が感じる味が同じものかどうか、ということを真剣に考え続けるのが哲学である。子供の心を持ち続けなくては出来ないのが哲学である。

万葉集の言葉や語法の解釈も同じである。偉い先生がそうだと言っても、本当にそうなのかと疑い続けるような、子供の感覚がなくては、その本当の意味に辿り着けない。萬葉学者の百人が賛成しているんだからもう良いではないか。いつまでも疑問を持ち続けるのは子供だ。そう言われてめげてはいけない。本居宣長、富士谷成章、鈴木朖などの諸氏が成果を上げたのは、子供の疑問を持ち続けたからである。明治以来、国語学は進歩したかもしれないが、記紀万葉の解釈があまり進展していないように見えるのは、萬葉学者が大人に成り過ぎたからではないだろうか。 

アインシュタインやネイゲルのように、子供の問いを大人の頭で考え続けるとき、分からなかったことがわかるようになるのである。少なくとも科学の研究者は、子供の疑問を、大人の訓練された思考力で考え続けきた。だから科学は進展したのである。同じことが萬葉学で為されないのは少なくとも大人の論理の訓練を怠ったからであり、萬葉学者の多くは子供のように疑問を持ち続けることをも怠っている。もしもそうであるなら、そのような訓練を厭わないはずだから。







2017年8月30日水曜日

萬葉学者であるとはどのようなことか? その6 「コウモリであるとはどのようなことか」とはどのようなことか?

超の付く美人がいた。顔や身体全体から光が発するのである。光源氏の「光る」の意味が彼女と知り合ったお陰で理解できた。彼女は見詰める視線や見とれる視線に絶えず晒されていた。それは一緒の繁華街を歩くだけでわかった。すれ違う老若男女の視線がすべて彼女に収束する。

読売新聞の大手小町に美人の友達といるときの体験談がある。

美男美女でない(私もそうだし、ここを読む人の多くがそうであると思うが) 人でも、美男美女の友人知人と同席したり、当人の話を聞いたりすることで、ある程度までだろうが、その体験を理解することができる。

6-1a What is it like to be a handsome man or a beautiful woman?
6-1b 美男美女であるとはどのようなことか?
6-1c 美男美女はどんな感じ(気分)か?

6-1aは疑似体験が可能であり、言葉によっても伝えられる(※)。しかし、コウモリと一緒にいても6-2aは分からない。

6-2a What is it like to be a bat?
6-2b コウモリであるとはどのようなことか?
6-2c コウモリはどんな感じ(気分)か?

※ これは以下に記すように正しくない。

美男美女でなくても美男美女の感じや気分を体験できると多くの人が考える。美男美女が実際に体験しているものと体験できると思う人が体験するものが同じかどうかは別の問題である。しかし、コウモリの感じや気分を理解できたり言葉で説明できたりすると考える人は稀であろう。ネイゲルがコウモリを選んだ理由はそこにある。

コウモリがコウモリとして感じるものを言語で、つまり客観的に、説明できないとしたら、心というものを脳の中の化学物質の移動や電気現象と客観的に対応させられない。心を唯物論で扱えない。

ネイゲルのコウモリの論文の概要は以上である。

科学者の端くれとして、私は唯物論が正しいと考える。つまり、心は脳の中の化学物質や電荷の挙動で一意的に記述できると考える。コウモリの感じや気分を言語で説明できないのは、言語が脳内の現象に完全に対応していないからである。一方、心の現象は完全に対応している。

そのように私は考えるが、ここで長々とネイゲルに反論しても、反論になっていないと当人からいわれるかもしれない。哲学は子供のような問いをいつまでも続けることである。その答えは誰かから教えられるものではない。自分で考えて、考え抜くのが哲学である。

ネイゲルの哲学に興味がある人には次の本を薦めたい。トマス・ネイゲル著、岡本裕一朗 、若松 良樹訳、「哲学ってどんなこと?」 (昭和堂)。特に「コウモリであるとはどのようなことか?」を読んで挫折した人が理解し直す良い読書となると思う。









萬葉学者であるとはどのようなことか? その5 「コウモリであるとは」とはどのようなことか?

万葉学者たちの書いた論文を読んで不思議だったのは、何故そのような非論理的な推論をするのか、何故そのような論文が査読を通って掲載されたのか、さらには、何故その論文が好意的に引用されているのかだった。非論理的な推論については以下に書いた。


ミ語法の論文とク語法の論文を書き、それぞれA雑誌とB雑誌に投稿した。幸いにも、 A雑誌は審査を通り掲載が決定した。一方、B雑誌と書いた萬葉学会の『萬葉』は不掲載となったらしい。と言うのは、正式な不掲載の通知を貰っていないからである。編集委員のP氏はその文書を「公文書」と呼び、「公文書」を送ることを約束してくれたが、数日後に届いたその「公文書」に学会の法人印も署名もなく、このような文書なら誰でも作れてしまう。これでは正式な文書と言えないとP氏に伝えたが、未だに正式な文書は届いていない。

P氏とのやりとりで痛感させられたのは、今まで付き合ってきた人たち、学校の先生、先輩、友人、職場の上司、先輩、同僚、学会や取引先の人々との間では通用した、今まで私が常識だと思っていたことが通じないことだった。私文書を公文書と呼ぶような間違いは言葉遣いに敏感な人でなければ別に珍しくないし、正式文書に印鑑を押さないことも、ずっと大学にいたような人にはわからないのかもしれない。問題はそれ以前のことだった。高校生でもわかる程度の簡単な論理が通用しない。

また、既に紹介した萬葉学会のQ氏による査読の結論の論理の展開が非常に主観的なことも驚きだった。これでは「私はこの論文を良いとは思わないので、拒絶する」というのと同じである。理系の世界ではそのような論法は通らない。理系に限らず、法学や経済学でも同じだろう。人文学者特有なのかもしれないが、少なくとも萬葉学者たちも我々非萬葉学者も万葉集という同じものを見ているはずなのに、違って感じているのだろうかという疑問が生じた。

そこで思い出したのがトマス・ネイゲルの論文である。その邦訳のタイトルが「コウモリであるとはどのようなことか」である。ブログの記事に「萬葉学者であるとはどのようなことか?」というタイトルを付けた。また、藤子・F・不二雄こと藤本弘氏の作品からも引用した。しかし、萬葉学者たちから「我々を犬やコウモリに例えるとはどういうことか」という苦情が出ないとも限らない。常識的にはそのような誤解はあり得ないが、どうも萬葉学者たちを私は、十字軍の時代のキリスト教徒がサラセン人を、逆にムスリムたちがフランク人を見ていたのと同じように見ていたのかもしれない。つまり、、自分たちの常識では測れない、思いもよらない考え方をする人たちとである。その対策として、人間同士の例として、グリフィンの「私のように黒い夜」やヴァルラフの「最底辺」を、木に竹を接ぐように付け加えたりした。

しかし、よく考えてみれば、前回示したヴィトゲンシュタインのウサギとカモの錯視のように、多義的なものの複数の意味を知らなければ、どちらか一方に、つまりウサギにだけやカモにだけしか見えない。したがって、萬葉学者の誤解は「犬やコウモリに例えるとは」ではなく、それ以前の、「萬葉学者であるとはどのようなことか」という文言に向けられるかもしれない。だから、グリフィンやヴァルラフを紹介するまえに、このタイトルの意味を解説すべきであった。

「コウモリであるとは」の「である」とは何か。断定なのか「として生きる」という意味なのか。次の例を比較されたい。

5-1a 我輩は猫である。
5-1b 我輩は猫だ。

両者に違いが感じられるだろうか。感覚の問題であるから、多数決で決めるしかなかろうが、違いがないと感じる人が多数であると私は思う。

5-2a コウモリであるとはどのようなことか?
5-2b コウモリだとはどのようなことか?

5-2bは私には多少苦情を言うニュアンスが感じられる。もしもそのように感じる人が多ければ、この「である」は単なる断定の意味ではなく、感じる人の数に比例した割合で「コウモリとして生きる」という意味が含まれているのであろう。また、ネイゲルの論文を読んだことがない人には5-2aであっても、何か苦情を申し入れるようなニュアンスが感じられるかもしれない。この記事のタイトルの「萬葉学者であるとは」という文言にもそれと同じことが言える。そのような誤解が萬葉学者の側から寄せられるかもしれないことに私は前もって気付くべきであったと今にして気付いた。

また、「コウモリであるとは」の「とは」は引用である。相手が言ったこと、誰かがいったこと、自分が言ったことのいずれかを引用して、「どのようなことか」と問うのである。日本語では疑問を呈することがしばしば詰問と認識されうる。次の例を見られたい。

5-3a What's this?
5-3b これは何だ。
5-3c 何だろ、これ?

ある英語の本の原文が5-3aであり、5-3bは翻訳である。翻訳者は話し手が怒っていると思ったようである。正しい訳は5-3cである。5-3bを「これは何か」としても、多少詰問のニュアンスが残る。

したがって、「コウモリであるとはどのようなことか」は「とは」と疑問があいまって、相手が何かを「コウモリである」と断定したのに対して、疑問を呈している、あるいは詰問していると判断されうる。「萬葉学者であるとはどのようなことか」も相手が「私は萬葉学者である」と名乗ったのに対して、何か苦情を言おうとしていると判断されかねないことに改めて気付いた。

「コウモリであるとはどのようなことか」は多義的であり、そのために分かりにくい表現である。そこが面白くもあった。ネイゲルの論文集のタイトルに永井均氏がこの文言を選んだのもそれが理由だと思う。しかし、それはウサギとカモの両方に見えることに気付いた段階で言えることであって、多義性に気付かず、ウサギかカモかどちらかだと信じている段階では無用な誤解を受けかねない。

このタイトルは引用の「とは」と詰問の可能性のある「どのようなことか」ではなく、「コウモリであるのはどんな感じか」のように訳すべきだったと思う。少なくとも、ネイゲルが論文で何を言おうとしたのかが読者に分かりやすかった。





2017年7月23日日曜日

萬葉学者であるとはどのようなことか? その4 「どのようなことか」とはどのようなことか?

But fundamentally an organism has conscious mental states if and only if there is something that it is to be that organism—something it is like for the organism.
We may call this the subjective character of experience.

しかし基本的には、ある生命体に意識を持った精神状態があるということは、その生命体として存在することが何なのか、その生命体にとってはどうなのかの答えがあることと同値である。
これを経験の主観的性質と言っても良い。

以上はThomas NagelのWhat is it like to be a bat?からの引用である。この論文のタイトルを永井均氏は「コウモリであるとはどのようなことか」とした。同氏はNagelの論文集のMortal Questionsの翻訳にも同じタイトルを付けた。

このタイトルは少なくとも私には分りにくかった。中身を読むまで、更に正確に言えば、原文を読むまで意味が分からなかった。 分かりにくいからこそ読者を引き付ける効果があると考える。ちょうど広告の宣伝文がしばしば文法を逸脱するように、見慣れない表現が人目を引く。だからこそ論文集のタイトルに永井氏が選んだのではないかと思う。

タイトルの「コウモリであるとはどのようなことか」は前半の「コウモリである」も後半の「どのようなことか」も多義的である。「コウモリである」は「コウモリとして存在する」と「コウモリだと断定する」の二つの意味がある。元の英語の場合はハムレットのTo be or not to beのセリフでも分かるとおり「生きる」の意味が強いが、日本語で「である」と言えば「これはペンである」のような断定の意味になってしまう。存在の意味を表現したければ「コウモリとしてある」のように言うべきだった。

「どのようなことか」は説明を求める表現だが、理想像としてのあるべき姿を求める傾向が強い。しかし、Thomas Nagelの論文のwhat is it likeは主観的な感覚を問うている。

次の4-1aと同じ意味なのはどれだろう。

4-1a What is it like to live in Tokyo?
4-1b 東京に住むとはどのようなことか。
4-1c 東京に住むのはどんな感じか。
4-1d 東京の住み心地はどうか。

例文4-1aは東京に住んでいる人や住んだことがある人に体験談を尋ねている。同じ意味なのは4-1bでなく、4-1cや4-1dかと思う。英語で質問が為されるのだから「英語はどの程度通じるか」「日本語が話せない人にどんな仕事があるか」から始まって「子供の教育はどうか」「家賃や物価はどうか」「どんな娯楽があるか」「治安はどうか」などの回答が期待されるものと思う。

4-2a What is it like to be a bat?
4-2b コウモリであるとはどのようなことか。
4-2c コウモリとして生きるのはどんな感じか。
4-2d コウモリは何を感じ、何を考えて生きているのか。

これも同じである。4-2aはコウモリ(コウモリだったことがある生物は今もコウモリである)にコウモリとしての体験を聞く、しかしコウモリは人語を解さないから、人間があれこれ想像して、コウモリとして存在するのはどういう感じなのかを考える。その場面で発せられる日本語の質問は4-2bでなく、4-2cや 4-2dだろう。

例文4-1a、4-1c、4-1dや4-2a、4-2c、4-2dが主観的な説明を要求していること、あるいは要求せざるを得ないことに注意されたい。一方、4-1bや4-2bは客観的な説明が期待される。次はどうか。

4-3 親であるとはどのようなことか。

家庭内で子供に対してどう接するか、学校や社会で人の親としてどう振舞うか、何をすべきか、何をすべきでないか等々、倫理的、道徳的、かつ、客観的な回答を要求している。つまり、「どのようなことか」は客観的な意見を求める傾向がある。同様の例をあげておく。

4-4a タバコを吸うとはどのようなことか。
4-4b 患者を診察するとはどのようなことか。 
4-4c 企業で働くとはどのようなことか。

倫理や道徳と無関係であっても、客観的な定義が要求される。一方、次はどうだろう。デスマス体でなくとも、主観的説明や個人的印象を求める質問になる。

4-5a タバコを吸うとはどんな感じか。
4-5b 患者を診察するとはどんな感じか。 
4-5c 企業で働くとはどんな感じか。

例文4-4eは「どういうことか」であるが、これも客観的な説明を要求している。

4-4e あなたに責任がないとはどういうことか。

しかし、4-4や4-5に示した例は、考えれば考えるほど分からなくなるかもしれない。と言うのは、一度意味が主観か客観かに確定すると、最初からその意味の質問だったと思えてくるからである。

上の絵はウサギにもカモにも見える。その割合がほぼ同数になるように描かれていると思う。この図はWikipediaにあったPublick Domainのものをお借りした。ウサギだと思っていた人が、あるときカモにも見えることを発見すると、その後はどちらともわからなくなってしまうかもしれない。

先ほどの4-3であるが、子供が生まれた後輩に言うのであれば、次のようになろう。

4-6a 親になった(子供ができた)気分はどうだい?

これであれば、当人の主観的な感想を聞いている。子供がない人が子供がある人に次のように聞くことがあるかもしれない。

4-6b 僕は子供がないが、子供がいる家庭ってどんな感じなんだろう。

4-6a、4-6bはともに主観的な説明を要求する。

また、上記の文章のwhatが日本語訳では「何」でなく「どう」になる点も日本語と英語の相違として興味深い。

4-7 What do you think about Nagel's paper?

これは「何を思うか」でなく「どう思うか」である。冒頭の引用の部分のsomethingは「どう」に対する答えであるが、そのような名詞が日本語にないため、ぎこちない訳になった。なお、英語のif and only ifは日本語の論理学では「同値である」と訳される。

ちなみに上の引用部分を永井均氏は次のように訳している。

「
しかし根本的には、ある生物が意識をともなう心的諸状態をもつのは、その生物であることはそのようにあることであるようなその何かが--しかもその生物にとってそのようにあることであるようなその何かが--存在している場合であり、またその場合だけなのである。
われわれはこれを、経験の主観的性格と呼んでよいだろう。
」

太字にしたのは原文で傍点がある部分である。ここは誰が訳してもぎこちなくなると思う。原文のsomethingが「その答え」や「その何か」になってしまう。

ただし、このような品詞の相違は全体の意味に大きな影響を与えない。

4-8a 彼には娘が三人ある。
4-8b He has three daughters.

4-8aの娘は主格であるが、4-8bのdaughtersは対格である。また、4-8aの三人は副詞(句)であるが、4-8bのthreeは形容詞である。しかし、全体として与える意味に違いはない。

一方、4-1a、4-1c、4-1dや4-2a、4-2c、4-2dが主観的な説明を、4-1bや4-2bが客観的な説明を、それぞれ要求することは大きな違いである。この違いが原因となって、 「コウモリであるとはどのようなことか」というタイトルの意味が分かりにくくなっていると考える。

「コウモリであるとはどのようなことか」の意味が分かりにくかったとしたら、少なくとも私にはそうだったが、その原因は多義性にある。Thomas Nagelの論文の意味を分かりやすくするには、前半が「コウモリとして存在する」ことを意味し、後半が主観的な説明を要求する、例文4-2cや4-2dが良い。Nagelの論文の主要な主張は、そのような主観の存在を、人間の思考が脳内の化学反応や電気化学反応の結果とする還元主義では説明できないとするものだからである。哲学書が分かりにくいと言う感想の理由の何分の一かは翻訳の問題である。Thomas Nagelのコウモリの論文を読んで理解できなかった人はぜひ原文を読んでほしい。少なくとも私は原文を読んでNagelが言いたかったことを何とか理解した。

とは言え、この論文集の翻訳を私が行ない、その後に永井均氏が見たならば、恐らく大量の誤訳を発見したであろう。また、「コウモリであるとはどのようなことか」のほうが売れるタイトルであるとも思う。 だからこそ、本稿のタイトルも「萬葉学者であるとはどのようなことか」としたのである。

2017年7月7日金曜日

萬葉学者であるとはどのようなことか? その3 三段論法と二段論法

二段論法はエンテュメーマ(ἐνθύμημα)の訳語である。私が作った新語と書こうとしたが、念の為にインターネットを検索すると、斎藤秀三郎氏の『斎藤和英大辞典』(日英社 1928)の見出しに既にあると言う。この分かりやすい訳語が何故廃れてしまったのだろう。今は省略三段論法や説得推論が使われているようである。

三段論法と二段論法の違いを例をあげて示す。ともにアリストテレース(Ἀριστοτέλης)の用語で、前者のギリシア語はシュロギスモス(συλλογισμός)である。

三段論法(συλλογισμός)
大前提 人間は食べないと生きて行けない
小前提 太郎は人間である
結論 太郎は食べないと生きて行けない

二段論法(ἐνθύμημα)
前提 太郎は人間である
結論 太郎は食べないと生きて行けない

二段論法は三段論法の前提の一つを省略したものである。一段論法がもしもあるとするなら、あいだみつを氏の「人間だもの」がその例になるかもしれない。なぜ省略するのか。言わなくても通じるからである。説得推論という訳語が示すように、アリストテレースは弁論術に向いた方法だとした。論理的厳密性は犠牲になるが、短く表現するほうが理解されやすく印象も強くなる。

二段論法は、しかし、日常生活では多用される。三段論法を使う場面はむしろ少ない。二段論法が理解されない場合である。これを発展させたのがToulmin modelと呼ばれる日常生活の論証の類型化であろう。

話が前後するが、アリストテレースが説得術について書いた(弟子たちが講義の内容をまとめた)本が『テクネー・レートリケー』(Τέχνη Ῥητορική)である。原題は「演説の技術」とでも訳せようか。岩波文庫から『弁論術』の名で訳書が出ている。古代ギリシアでは
レートリケーの巧拙が裁判や政治の結果を左右した。どちらも大衆を説得しなくてはならない。だからこそ、 ソピステース(Σοφιστής)という詭弁を含めた説得術を教える職業が成立したのである。ソピステースの厳密でなくしばしば詭弁である議論を、師匠のプラトーン(Πλάτων)は嫌ったが、アリストテレースは現実的な方法としてレートリケーを研究した。

ギリシア語のレートリケーは英語のrhetoricの語源である。日本語でレトリックと言うと普通は比喩、倒置、擬人法などの言葉の彩(figure)を指す。元のギリシア語の意味は、演説の構想を練り、言葉の彩の技巧を凝らし、あるいは凝らさず自然さを目指し、それ)を暗記し、舞台俳優の如く発声や身振り手振り表情にも心を配って演説する、その全体を指す。

アリストテレースはレートリケーが役立つ理由の一つに次の理由をあげている(1355a)。原文が難解すぎて稿者の語学力では及ばないので、古い英訳から重訳する。


Further, in dealing with certain persons, even if we possessed the most accurate scientific knowledge, we should not find it easy to persuade them by the employment of such knowledge. For scientific discourse is concerned with instruction, but in the case of such persons instruction is impossible; our proofs and arguments must rest on generally accepted principles, as we said in the Topics, when speaking of converse with the multitude. 

(理由として)次に、ある種の人たちを説得するとき、たとえこれ以上にないほど正確で系統だった知識があったとしても、彼らをそのような知識を用いて説得するのは簡単でないことに気付くはずである。系統だった議論は論理的に厳密な証明を用いるが、そのような人たちの場合は論理的な説明が通用しないからである。トピカで述べたように、大衆と話すとき、証明や論証は誰もが受け入れられる原理に基かなくてはならない。

簡単に言えば、大衆の前で演説するときは、教養ある人同士なら通じる論理的な証明が通用しないので、『トピカ(Τοπικά)』で説明したように、必ずしも厳密と言えない
レートリケーの方法を使わなくてはならない、という意味である。

プラトーン(Πλάτων)とアリストテレース(Ἀριστοτέλης)の考えに従う限り、論理的な証明と説得は別のものであり、教養ある人々には論理で正しいことを証明し、大衆にはレートリケー(弁論術)の技術によって不正確ながらも納得してもらうのである。レートリケーは正しいことよりも正しそうに見えることが価値を持つ。些細なことを重大に見せかけ、重大なことを些細に見せかけられるからであると言う(プラトーンのパイドロス Φαῖδροςの267a)。

論理に基く論証は、相手が教養ある人たちであれば、つまり、ある程度の論理を理解する人たちであれば、それが論理的に正しいことを示せば良い。レートリケーは、そのような方法が通用しない相手を何とかして説得し、こちらの主張を理解してもらう、現実的な方策である。

萬葉学者のP氏の言う「説得力」がそのようなものかは現時点で断定できない。しかし少なくとも客観的でなく主観的なものであることは間違いない。なぜかと言うと、P氏が説得力があるとしたものに私は説得力を感じず、論理的な説明がP氏に説得力がないと映るからである。この点については具体例をあげて後日考察したい。なお、なぜこのような考察を続けているかの理由をここに書くと、人文系の萬葉学者と理系の研究者が相互理解を得る手段を知りたいからである。

これは私の仮説であるが、上代語の研究が江戸時代から大きな進展がないことの理由として、萬葉学者たちの研究が客観的な論理でなく、主観的で非論理的な萬葉学者には説得力があると思われる方法によってきたからではないかと考えるからである。大きな進展がないことは、科学的な手法に基く研究から、従来説を覆す発見が、論文の数にして30本ほど蓄積されているからである。それらが公開され、萬葉学者たちに受け入れられた時点で、進展がなかったことの証明となるだろう。しかし、ク語法の論文み見られるように、科学的な方法が萬葉学者たちに説得力を感じさせないならば、論文の公開は自費出版あるいは海外の言語学系の雑誌への投稿という手段になろう。国語学の事情に詳しい知人によると、海外で評価され、逆輸入されるほうが速いと言う。

それは権威による論証の一種である。


なお、アリストテレースは論理学について詳細な議論をオルガノン(Όργανον)と後に名付けられた一連の著作の中で行なっている。「分析論前書(Αναλυτικών προτέρων)」では、一階の述語論理とやや誤りを含んだ(語句の解釈により誤りが解消するという意見もある)様相論理を文章だけで記号を使わずに記述している。ニュートンの「プリンキピア」も同様であるが、現代人には非常に読みにくい。それを読みこなせた古代人は頭の回転がさぞ速かったことと思う。

つまり、アリストテレースは、一方で、厳密な論理学を哲学学習者に用意し、他方で、大衆にそのような厳密な論理で説明しても理解されないので、彼らが理解しやすい説明をする技術を研究していた。アリストテレースは哲学学習者に厳密な論理に基く証明を示し、彼らが大衆に何かを納得させる技法としてレートリケーを解説した。事実、「形而上学」には、哲学するには論理の訓練が必要との記述がある(第4章第3節)。

ゴルギアス、プラトーン、アリストテレースのいずれにあっても、説得とは論理を理解できない人々を論理によらずに納得させることであった。その考えに従うならば、説得力があるとは論理以外の力により納得させられるという意味である。説得力が主観的な概念であることは言うまでもない。

参考文献
Delphi Complete Works of Plato (Illustrated) (Delphi Ancient Classics Book 5) Kindle Edition
Delphi Complete Works of Aristotle (Illustrated) (Delphi Ancient Classics Book 11) Kindle Edition
Aristotle: Rhetoric in Greek + English (SPQR Study Guides Book 39) Kindle Edition
Quintilian Institutes of Oratory Kindle Edition
An intermediate Greek-English lexicon: founded upon the seventh edition of Liddell and Scott's Greek-English lexicon Kindle Edition

AmazonのKindleの全集は、翻訳は古いのだろうが、いずれも数ドルと安価である。岩波文庫の『弁論術』の和訳も読みやすい。論文を書くというのでなければ、最新の研究成果が反映されてなくとも十分役に立つ。ただしkindleは現時点でギリシア文字の入力が行えない。そのためLiddell and Scott'sは辞書の用を為さない。

2017年7月1日土曜日

萬葉学者であるとはどのようなことか? その2 説得力



Σωκράτης
ἔλεγές τοι νυνδὴ ὅτι καὶ περὶ τοῦ ὑγιεινοῦ τοῦ ἰατροῦ πιθανώτερος ἔσται ὁ ῥήτωρ.

Γοργίας
καὶ γὰρ ἔλεγον, ἔν γε ὄχλῳ.

Σωκράτης
οὐκοῦν τὸ ἐν ὄχλῳ τοῦτό ἐστιν, ἐν τοῖς μὴ εἰδόσιν; οὐ γὰρ δήπου ἔν γε τοῖς εἰδόσι τοῦ ἰατροῦ πιθανώτερος ἔσται.

Γοργίας
ἀληθῆ λέγεις.

上記はプラトーンの「ゴルギアス」(459A)からの引用である。

ソークラテース 「今の話は、たとえ健康の問題であっても医師よりレートールに説得力があるということですね。」
ゴルギアス 「さらに言えば、大衆の前では、という意味です。」
ソークラテース 「大衆が無知だということですか。確かに、知っている人の前では、レートールは医師ほど説得力がないでしょうから。」
ゴルギアス 「おっしゃる通りです。」

※ 大学の教養課程で選択科目の古典ギリシア語を履修したように記憶しているが、講義の記憶がないし、単位も取得していない。従って稿者の訳は心もとないことこの上もない。岩波文庫の『ゴルギアス』などで専門家の訳を参照されたい。ブログで引用しなかったのは著作権の問題がよく分からなかったからである。

レートール(ῥήτωρ)とは大衆の前で演説する人である。弁論家と訳されることが多い。ゴルギアスは有名な弁論術の教師であった。薬を飲むことや手術を受けることを勧めるのに、自分は医師に代わって患者を説得できると言う。医学的に理路整然と説明するよりも、弁論術を使うほうが患者を納得させられるからである。つまり相手に専門的知識や論理的な理解力がない場合に説得力を発揮するのが弁論術である。

萬葉学会のP氏はしばしば説得力がある、ないと言う。それではまるで萬葉学者が無知であり、そのために論理的な説明を受け入れないというのと同じではないだろうか。萬葉学者にとって説得力とは何だろう。また、それはどういう意味を持つのだろう。

説得力については、国語学の論文に特有な非論理的な推論の「その6」に書いた。

次の推論は論理的に誤りである。しかし国語学の論文に多用される。「お前が盗んだならば私の金がない」の条件文は真である。しかし「私の金がない」が真だとしても、そこから「お前が盗んだ」と結論できないことは高校の数学で習った通りである。だが、それと同じ論理構造で、「AならばBである」と「Bである」から「Aだったのである」と結論することは、錚錚たる国語学者たちの論文にしばしば見られる。「古代に於てはかやうな場合にも打消の場合と同等に「は」が用ゐられたのであるならば、私の仮説が間違いとは言えない」と「私の仮説は正しい(と私は考える)」から「古代に於てはかやうな場合にも打消の場合と同等に「は」が用ゐられたものと見られるのである。」と結論する推論である。

また、「非論理的な推論」の「その1」で紹介した例では、「「な」は願望の意味を持つ」とする仮説を、たった二首の歌で検証し、歌意が通ることから、「「な」が願望の意味を持つ」と結論する。仮説を立て、それを用例で検証する方法は科学的に正しいが、仮説の検証が二例では、それこそ説得力がない。さらに、歌意が通るとはその状況で矛盾がないという意味でしかない。推測した単語の意味が正しければ歌意が通るが、歌意が通ったからと言って推測した意味が正しいとは言えない。逆は必ずしも真ならずである。

このような推論が説得力を持つのは、ゴルギアスとソークラテースが認めるように、大衆が無知である場合である。ギリシア時代でも現代でも相手が論理に敏感なら通用しない。大学の理工系や法学系の学部に学んだ人なら一目で論理的な矛盾を見抜くに違いない。

それが何故萬葉学者には通じてしまい、むしろ説得力があるという肯定的な評価に反転するのか。萬葉学者とのやり取りを通じて、私は次の仮説を得た。萬葉学者は学術論文を論理ではなく感性で読む。

この「仮説」という言葉も萬葉学者たちからしばしば誤解されるのであるが、「根拠がない、信頼性の低い思い付き」ではない。コペルニクスの地動説も、マクスウエルの電磁気学の理論も、アインシュタイの相対性理論も、いずれも反証が未だ現われていない仮説である。自然科学も言語学も、数学や法学とは異なり、公理や法律から演繹するような証明が行えない。帰納法しか適用できない。その帰納法も、実は、多くの事実から仮説を立てたに過ぎない。カール・ポパーは白いスワンを何万回観察したからと言って、スワンのすべてが白いと言いきれないと言っている。ヨーロッパ人は長い間スワンは白いものだと信じていた。それがオセアニアに黒いスワン、日本語ではコクチョウと言うが英語ではblack swanが、存在することを知り、スワンは白いという仮説は覆された。

なお、Popper (1934)の日本語訳の「科学的発見の論理」では白いスワンが黒いカラスに置き換えてある。日本語の白鳥は白い鳥の意味であるから、誤解を恐れてカラスに置き換えたのかもしれない。しかし白いカラスは未だ発見されていない。一方黒いスワンはオセアニアに生息する。したがって、個別の観察結果を幾ら積み重ねても帰納という推論が出来ないという例としては、カラスよりもスワンが相応しい。日本語訳を読む方は注意されたい。

本題に戻る。多くの大学で国語学と国文学は同じ学科で教えられる。国文学は感性が判断基準である。友人は某黒ラベルは某スーパードライよりはるかに旨く、その違いは比べるまでもないと言う。私は某クラシックラガーを好む。もちろん某スーパードライや某一番絞りが好きだという人も多数存在する。その主張は客観的な論理で導かれず、各自の味覚という感性に依存する。これが国文学の判断基準だと思う。しかし国語学は違う。言語という自然現象(あるいは社会現象)を対象とする自然科学(あるいは社会科学)である。そこに感情は入り込めない。すべては論理が決める。

以上が本来の姿であるが。国語学者は国文学者と兼務の場合も多い。教育の過程で理工学系や法学系のような論理的思考を訓練されることもない。日本人の英語力は大学入学時点が最も高い水準にあるという笑い話がかつてあったが、萬葉学者の論理的思考能力も大学入学時点が最も高くその後は衰退して行くのかもしれない。誤解して欲しくないが、論理的思考力は頭の良さとは違う。それは訓練で鍛えられるものであり、訓練を怠るとたちまち衰える。筋力と似ているかもしれない。古代人は老若男女が徒歩で日本中を旅した。それは足腰の筋力が鍛えられていたからである。

萬葉集の「ずは」の語法を調べていて、私は古代人が現代人が及ばない論理的思考能力を持っていたことに気付いた。テレビもインターネットも映画も雑誌もない時代。言語と思考で現代よりも脳が鍛えられていたと私は考える。遺伝子は上代人も現代人もほぼ同じであるから、論理的思考力の差は日々の生活の中の訓練の違いと考えたい。

何度も脱線したが、国語学に特有な非論理的推論と説得力という語の多用は、感性が判断の基準の国文学の側からもたらされたものではないだろうか。そのように今は考えている。

萬葉学者から学んだ萬葉学者に説得力のある慣用句で結ぶならば次のようになろう。 萬葉学者にとって学術論文とは文芸作品だったのである。だからこそ、彼らは理性より感性を重んじ、客観的な論理の妥当性を能動的に検証しようとしなかった。カントは論理学をアリストテレス以来進歩がないと断言したが(『純粋理性批判』の第二版への序文)、同じことは国語学にも言える。宣長以来大きな進歩がないことの原因は、論理より説得力を重視してきた姿勢にある(このように断定するのが説得力があるのだろうか)。

参考文献
Popper, Karl (1934) The Logic of Scientific Discovery, (English translation by the author 1959).
濱田敦(1948a) 「上代に於ける願望表現について」 『國語と國文學』 25(2)
橋本進吉(1951) 「上代の国語に於ける一種の『ずは』について」 『上代語の研究』 (1951 岩波書店)
Popper, Karl (1963) Conjectures and Refutations: The Growth of Scientific Knowledge.
Popper, Karl (1972) Objective Knowledge: An Evolutionary Approach,, Rev. ed., 1979.

2017年6月26日月曜日

萬葉学者であるとはどのようなことか? その1 What is it like to be a scholar of the Man'yōshū?

藤本弘(1978)に次のような哲学的な問いがある。

「
犬が二匹いる。
一匹は飼い犬。かわいがられてエサもキチンともらえるが、つながれている。
もう一匹は野良犬、自由だが、いつも腹をすかしている。
どっちが幸せだと思う?
」

藤本弘(藤子・F・不二雄)氏は、働くことを勧められた路上生活者にこの質問をさせている。後者が幸せであるから自分は自由な生き方を選んだ、と人間を犬に例えて語っているようにも聞こえる。しかし、地下道おじさん(実は金持ちの会社社長)は続ける。

「
正解はね、「犬に聞かなきゃわからない」
」

人間の意識を持ったまま当該の犬の状態にあると仮定しても正しい答は得られない。犬の目で見、犬の耳で聞き、犬の舌で味わい、犬の心で考えてはじめて犬の立場が理解できる。

残念ながらこの問いは我らが藤子不二雄が世界初ではない。アメリカの哲学者のThomas Nagelは"What is it like to be a bat?"という論文で同様の議論を展開している。ただし、Nagel (1974)の主張は、コウモリにならなければコウモリの感じていることが分からないというよりも、人間やコウモリの意識が脳内の化学的、電気的作用に還元できないことに重点を置いている。Nagel (1974)は「コウモリであるとはどのようなことか?」のタイトルで邦訳され、同名の論文集に収められている。

その立場にならなければ、その気持ちが分からないというのは、何も犬やコウモリに限らない。同じことは人間同士でも起こる。Griffin (1961)は白人が黒人として、Wallraff (1985)はドイツ人がトルコ人として生活することで、初めて見えてきたものを記している。アメリカ社会の黒人やドイツ社会のトルコ人は多数派である白人やドイツ人と脳や感覚器官が異なるわけではない。社会的立場のために彼らに接する側の態度が異なるのである。多数派の一員であった彼らが少数派の立場に身を置くことで、束の間(人生の年月に比べれば)ではあるが、少数派の成員であるという理由だけで、多数派から少数派へ向けられる視線、言葉、時には暴力を体験する。それは生まれながらの少数派の体験に比べれば取るに足らないことかもしれないが、多数派から少数派への立場の転換による急激な変化という点で、敏感に感じ取れたかもしれない。

上代語の研究の投稿を始めるまで私が属していたのは理系の技術者や研究者のコミュニティである。論文を四本書き、うち二つをA雑誌とB雑誌へ投稿した。幸いA雑誌にはアクセプトされたが、B雑誌の萬葉学会からは掲載を拒否された。編集者のP氏から査読者のQ氏の不採用の理由を送ってもらったが、今までの理系の論文の審査とは全く異質のやり方であった。まず、査読者へ反論が出来ない。P氏は投稿した論文の価値を認めると言いながら、査読者の判断に従うと言う。編集者は両方の意見を聞き、少なくとも名目上は公平な立場で採否を決めるのが通常の学術論文の審査である。しかるに、萬葉学会はそのようば手続きを踏まず、査読者の判断が絶対と言う。

その後P氏とやり取りをすることになった。そこで受けた印象は、世の中にはこのような考え方をする人がいるのかというものだった。高校入学以来の同級生や先輩後輩、各教科の担任、大学の教員、就職してからノ同僚や先輩後輩、上司、部下、仕事で付き合う他社の技術者や大学などの研究者にそのような考え方をする人がいなかった。P氏だけではない。万葉集から現代語までの研究論文を読んでも、他分野であれば通用しない非論理的な推論が堂々と書かれていることも驚きだった。

どうすれば萬葉学者たちを私が理解することが出来、萬葉学者たちに私を理解してもらえるのか。なぜ彼らは理系の技術者や研究者と異質の考え方をするのか。沢山の「なぜ」に圧倒されそうであるが、その一つ一つについて考えて行きたい。

参考文献。
Clore, Gerald L.; Jeffery, Katharine M. (1972) Emotional role playing, attitude change, and attraction toward a disabled person., Journal of Personality and Social Psychology, Vol 23(1), Jul 1972, 105-111.
Griffin, John Howard (1961) Black Like Me. (Houghton Mifflin, Boston) 『私のように黒い夜』(至誠堂、1974)
Halsell, Grace (1969). Soul Sister: The Journal of a White Woman Who Turned Herself Black and Went to Live and Work in Harlem and Mississippi. (World Publishing Company, New York) 『黒い肌は知った』 (サンケイ新聞社、1970)
Mowat, F. Never Cry Wolf (New York: Dell Publishing Company,1963).
Nagel, Thomas (1974). "What Is It Like to Be a Bat?". The Philosophical Review. 83 (4): 435–450
藤本弘(1978) 「地下道おじさん」 『マンガくん』1978年09号 小学館、『藤子・F・不二雄大全集』5-3(2010 小学館)に収録。
Wallraff, Günter (1985) Ganz unten Beschreibung des Schicksals von illegal eingeschleusten Arbeitern. 『最底辺』 (1987、岩波書店)