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2018年1月11日木曜日

TSONTS-16 萬葉学会の何が問題か(1)

田川拓海氏のブログ興味深い記事があった。QA形式でまとめられているのだが、Q1とQ5の質問の文言が参考になった。それを以下のように変えて使わせていただこうと思う。

Q1. なぜ萬葉学会を批判しているのですか。
Q2. なんでそんなに長々と書くのですか。心が狭いのですか。

回答は次の次の回を予定している。

と予告した。

なぜ田川氏のブログに行き着いたか。金谷武洋の著書にAmazonに低評価のレビューがあった。それを検索する過程で見付けた。金谷氏の本を読んでおかげで私は三上章氏を知った。三上氏の著書を読んで感じたのは、非常に頭の回転の速い人ということ。ランダウの教科書を読んでいるようだった。神社の参道に急な男坂と緩い女坂があるが、当時の教科書はランダウに限らず皆男坂だった。今のは女坂を更に緩くした感じだ。

教科書の式はすべてfollowすること。それが常識だった。なぜあの式からこの式が導けるのか。下手をすると数日考えることもあった。理系の学生に読ませるならそれでも良かったろう。昔は国立大学の定員を足し合わせても今の東京大学の定員より少ないと言う。三上氏は頭の回転が速かったからこそ、あのそっけない書き方で理解できると思ったのだろう。三上氏が理解され難かった理由の一つに簡潔すぎる説明があったかもしれない。頭の回転が遅い私はこのようにだらだらと長く書きすぎてしまう。閑話休題。

Q1. なぜ萬葉学会を批判しているのですか。

A1. 論文の審査に疑義があるからです。

私が投稿したク語法の論文の不掲載の理由を前回まで検討してきました。大きな問題点は以下です。

1 査読者のQ氏は「新知見と言いえない」と言って拒絶(reject)した。そのような判定をする場合、当該論文と同様の内容が書かれた文献を証拠として示すのが常識である。しかるにQ氏は証拠を示していない。

2 「あく」という動詞の意味を「はっきりと知覚される」と仮定したが、はっきりでもおぼろげでもない「普通の知覚」に対して特立させる形でなければ「あく」によるク語法の価値がないとQ氏は言う。これは拒絶の理由にならない。そもそも「はっきりと」は「おぼろげでない」という意味である。もちろんその表現がわかりにくいというのであれば訂正する用意はある。しかしQ氏言うことは理不尽である。「明言する」は「はっきりと言う」意味であるが、Q氏の論法を適用するとこの単語に存在理由がなくなってしまう。Q氏は言葉と意味の関係に気付いていない。

言葉 → 意味
あく → はっきりと知覚される
X → ぼんやりと知覚される
Y → (普通に)知覚される
言う → (普通に)言う
明言する → はっきりと言う

逆が必ずしも真でないことに気付いていない。私はク語法の意味は「はっきりと知覚される」だと書いた。なぜク語法が「普通に知覚される」などという意味でなければいけないのか。

3 萬葉学会に投稿した上代語に関する論文なのにその後の意味の変化を記述することを求めている。これは論文の範囲を超える。Q氏は中古語が専門と見受けられるが、上代や中世における意味の考察がないという理由で論文が拒絶されても受け入れるのか。まったく芥川龍之介Q氏の論法は芥川龍之介が『侏儒の言葉』の「批評学」で述べた「木に縁って魚を求むる論法」そのものである。

(つづく)


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