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2020年4月26日日曜日

JBJ-17 原告は研究者でないのか 被告は研究者なのか 文学部教員たちの選民意識 上代文学会事件

Autre syllogisme: tous les chats sont mortels. Socrate est mortel. Donc Socrate est un chat.
Eugène Ionesco, Rhinocéros.

以前書いたように、研究者と有名人は敬称を省略する。研究者は論文の著者、有名人は名前がWikipediaの項目にある人物とする。

昨年3月に上代文学会(代表 品田悦一)を被告とする損害賠償請求訴訟が東京地裁に提訴された。原告が「在野の研究者」と名乗ったのに対し被告が異議を唱えた。しかし学会に所属して論文を投稿する人は研究者である。研究者でない人には学会に所属する利点がない。原告は上代文学会の会員であり、かつ、論文の投稿や口頭発表の申し込みを行なうのであるから、原告は研究する者つまり研究者である。

しかし被告は原告を研究者でないと言う。たとえば、被告は「常任理事は全員、大学の教員で、学期末、学年末には、数百枚の答案、数十通のレポート、卒業論文・修士論文などを短期間に読んで評価を下している。時間内に800字前後の発表要旨8通を精読して下位2名を選ぶことに困難を感じない。自分が出来ないからといって、研究者にも出来ないと臆断するのは不当である」と言う(2019年8月15日付被告準備書面)。

議論がかみ合わないのは原告と被告のそれぞれの定義する「研究者」の意味が違うからである。しかし被告はそれに気付いていない。もしも気付いているなら後から書面を提出する被告は別の定義であることを言わなくてはならない。また、もしも気付いていて敢えて言わないならそれは詭弁である。被告に悪意があるのではなく、単に被告が論理的な議論に慣れていないための見落としであろう。

以下、研究する者をいう研究者を「研究者(G)」、被告が独自に定義するものを「研究者(H)」とする。Gは原告、Hは被告を表わす目安である。「研究者(H)」は「研究者(G)」とどう違うのか。被告は明示的に述べていない。

被告の答弁書や準備書面から推測するに、大学教員と大学院生は「研究者(H)」のようである。被告は言う(2019年4月22日付被告答弁書)。「ただし上代文学に対する説得力のある新説は、それに関わる知識や研究方法を学んでいなければ提出できない。専門教育無しにまともな発表ができるほど、上代文学研究は底の浅いものではない。研究方法は多様でありうるが、基礎知識は共有しなければならない。その学びの場として、全国の大学や大学院上代文学の講座が開かれている。そこで学んだ者が研究者になった場合、文学研究では、研究に専念できる場を得られる職業がほぼ大学教員しか無いので、発表者は大学に職を持つ者、あるいはそれを自指す大学院生に偏るのである」

更に「研究者(H)」は大学教員と大学院生に限られるようでもある。被告は言う(2019年4月22日付被告答弁書)。「当該歌が単に季節の推移に対する感想、を歌ったものではないことは、研究者の間ではほぼ共通した認識となっている」。「当該歌」とは万葉集28番歌であるが、「単に季節の推移に対する感想」でないことが「ほぼ共通した認識」なのは大学の教員や大学院生の間ぐらいである。

また被告は次のようにも言う(2019年6月10日付被告準備書面)。「原告には、専門家としての上代文学研究者に対する敬意が欠けている」。「従来の『万葉集』研究を謂われなく否定しつつ、著者の先入観が検証されることなく展開されるのであれば、研究者から黙殺されるのも致し方ないだろう」。「本件の訴訟も、自己の提出した要旨に、文学・語学研究上の基本的な誤りが存在するにもかかわらず、研究者の度重なる諌止を振り切って、自己の法廷での弁論術を侍みに、文学・語学研究の専門家でもない裁判官に学理上の判断を強いようとする、きわめて不当なものである」。

原告は研究者でなく、かつ、万葉集の訓読に関する論文や書籍の著者は研究者であると暗示する。また「度重なる諌止」を行なったのは上代文学会の理事たちであるから彼らも研究者であろう。

以上から、「研究者(H)」とは、国文科の大学教員と大学院生と彼らが特別に認定した人物に限られる、と推測する。あくまでも推測である。原告は上告審でこのことを被告に確認してほしい。これは重要である。

この裁判に私が注目する理由の一つは国文科の教員たちの選民意識にある。国文科で学んでいない「非研究者(H)」は「研究(H)」が出来ない、「研究者(H)」である自分たちだけが正しい、と彼らは考えているように見える。しかし、そこに上代文学会が答弁書や準備書面でたびたび口にしていた根拠が一切ない。彼らの言う「説得力がない」は「研究者(H)」でない外部の者が言うから信じない、「研究者(H)」である国文科の教員たちから自分が習ったことと違うから信じない、という彼らの主観的判断に過ぎない

大学の教員は当該分野に関して専門家であり、一般人の及ばない知識と判断力を有する。そのように一般人の多くは思っている。裁判官の多くもそうだろう。しかし、国文科の教員については違うと私は考える。被告は「研究方法は多様でありうるが、基礎知識は共有しなければならない」と言う(2019年4月22日付被告答弁書)。しかし、それ以上に重要なことがある。研究者に不可欠なものは論理的な思考および主観と客観の区別である。

今まで三回にわたり品田悦一の短歌研究への緊急投稿を分析してきた。「品田悦一の言う「間テキスト性」」、「品田悦一の言う「テキスト」とロラン・バルトの言う「作者の死」」、「「令和」から浮かび上がらない大伴旅人のメッセージ」である。何のためか。研究者(H)」の書く論文の非論理性を明らかにして彼らに気付いてもらうためである。誤解しないでほしい。彼らの人格の非論理性ではなく、彼らが書く論文の非論理性である。人格と意見(論文)が別であるとする研究の場の常識を思い出してほしい。原告には上代文学会の常任理事たちの書く論文について同様のことを行なってほしい。国語学の研究が学問の本来のあり方、すなわち、論理性と客観性から乖離したものであることを裁判官に示してほしい。いや、裁判官だけでなく、常任理事たちにも自分たちの書く論文が論理性と客観性に乏しいことに気付かせてほしい。

原告にはもう一つ知ってほしいことがある。この裁判は「学問の自由」のためである。それは大学の教員たちだけの専有物でない。「研究者(G)」の一人一人にある。その自由が大学の教員たちによって侵犯されているのである。研究成果を発表する自由を「自分たちの主観と違う」という理由で蹂躙して良いのか。当然の権利を「自分が大学で習ったのと違う」という理由で侵害して良いのか。文学部の危機と乾善彦は言おうとしたようだが、その危機の原因は選民意識に基づくカーストで文学研究を排他的に支配しようとしている教員たちのギルドにある。

冒頭の引用はイヨネスコの「犀」からである。フランス語は初級を学んだだけなので英訳を参考にして訳した。

三段論法をもう一つ:すべての猫は不死でない。ソクラテスは不死でない。ゆえにソクラテスは猫である。

これが間違いであることは誰でもわかる。論理学では「後件肯定」と言われるfallacyである。正しい三段論法は

すべてのギリシア人は不死でない。ソクラテスはギリシア人である。ゆえにソクラテスは不死でない。

となる。この推論は
G → M, G
∴ M
という形をしていて、妥当である。一方、上の猫の推論は
N → M, M
∴ N
であって、この推論は妥当でない。ここで、Gはギリシア人である、Mは不死でない、Nは猫である、いう意味である。

この論理学は形式論理学と呼ばれる。この形式論理学の意味を国語学者の一部は誤解して、「形の上では正しそうだが、現実は正しくない論理」だと思っているようである。証拠はここでは出さない。某大学の名誉教授である。形式論理学はそういうものではない。形式の上で妥当な推論であれば、前提が正しい限り結論が正しいことを保証するのである。しかし国語学者の一部は(多くは?)形式から妥当性を考えない。結論の「ソクラテスは猫である」を見て、引用の推論は間違いだと言うのである。それでは論理学を知らない一般人と変わらない。

実は品田悦一の緊急投稿の論法にも「ソクラテスは猫である」の間違った推論が幾つか用いられている。別に品田悦一に限らない。国文科の教員たちの書く論文の多くに同様の非論理的な推論が用いられている。そのことを原告は裁判で示してほしい。裁判官は上代語の専門家ではないが、「研究者(H)」たちよりは論理に敏感なはずである。

実はイヨネスコの戯曲にはソクラテスという猫が登場する。また引用の前に次のような一節がある。

Voici donc un syllogisme exemplaire. Le chat a quatre pattes. Isidore et Fricot ont chacun quatre pattes. Donc Isidore et Fricot sont chats.

ここに三段論法の例があります。猫は四本足である。ミケとタマは四本足である。ゆえにミケとタマは猫である。

これも後件肯定のfallacyつまり「ソクラテスは猫である」と同じ形式の推論である。国語学者の多くと言ったら言い過ぎかもしれないが、少なくとも何割かはこの推論を正しいと信じてしまうようである。

これも間テクスト性の例であるが、「国語学者には、論理的な訓練を大学で受けてきた国語学者以外の者に対する敬意が欠けている」あるいは「自分が論理的でないからといって、国語学者以外の者も論理的でないと臆断するのは不当である」と言いたい。

論理的に考えられないならば研究者とは言えないのが、理系や法律の世界の常識である。主観と客観の区別が出来ないなら、他人の論文の査読は出来ない。もしもそのような査読をするなら、その査読者は論文の著者の当然の権利として他の者に交代させられるのである。

国語学というのは、少なくとも上代文学会と萬葉学会だけを見るならば、学問と言える段階に達していないと思う。

文学部には独自のカーストがあるようである。それについて書くつもりで下記の引用文献を上げた。文学部以外の卒業生には一読を勧める。他の学部の出身者には理解できない世界と私は感じた。

参考文献
小谷野敦(2010)「文学研究という不幸」(ベストセラーズ)
中島義道(2014)「東大助手物語」(新潮社)
品田悦一(2019) 「「令和」から浮かび上がる大伴旅人のメッセージ(新元号の深意)」 雑誌『短歌研究』2019年05月号

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