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2020年3月26日木曜日

JBJ-15 品田悦一の言う「テキスト」とロラン・バルトの言う「作者の死」 The Tabito Code 上代文学会事件

以前書いたように、研究者と有名人は敬称を省略する。研究者は論文の著者、有名人は名前がWikipediaの項目にある人物とする。 

以下は文芸評論とは無縁の私がバルトの二つの論文を英訳で読んだ理解に基づく。なぜ英訳か。フランス語が読めない。人文科学や社会科学の和訳は誤訳で何度か痛い目を見てきた。フランス語は日本語よりも英語に統語法や単語の対応が近い。それが理由である。実際「エクリチュール」では分からないが、英訳のwritingだと分かる。 

品田悦一が雑誌『短歌研究』201905月号に寄稿した「「令和」から浮かび上がる大伴旅人のメッセージ(新元号の深意)」がネットに公開されている。

そこに「テキスト」の語が13回登場する。うち3回は「間テキスト性」(intertextuality)である。後者に関しては前回述べた。品田の用法はこの語を作ったジュリア・クリステヴァ(Julia Kristeva)のものと異なっていた。テクストはどうだろう。文芸、映画、音楽の評論でテクストを流行らせたのはロラン・バルト(Roland Barthes)の二つの論文「作者の死」(The Death of the Author)と「作品からテクストへ」(From Work to Text)である。

従来の評論は作者に重きを置いていた。作者の意図はかくかくである。だからこの作品はしかじかと理解すべきである。これにバルトは異を唱えた。読者が読むのは作品でなくテクストである。そこに作者の意図はない。テクストを読む読者は共著者となる。作者が行なったエクリチュール(writing)を読者が引き継ぐ。英語やフランス語は「こと」と「もの」を日本語ほど厳密に区別しない。エクリチュールは書くことでもあり書かれたものでもあることに注意されたい。

平安時代の物語は写本として残されている。多くは途中で書き換えや編集や追加が為される。作者が書いたテクストを読む読者がエクリチュールを行なった。これが写本である。作者のエクリチュールは書いた時点で終わるのではなく読者が続ける。作者の手を離れたテクストが独り歩きを始める。これをバルトは著者の死と呼んだ。読者がエクリチュールを続けることを読者の誕生と名付けた。

グレン・グールド(Glenn Gould)がモーツァルトのソナタ全集を録音している。あれを聴き続けられる人を尊敬する。余程体力と精神力に余裕がないと私には無理である。モーツァルトが書いた譜面は作品でなくテクストである。それをグールドが彼の流儀で解釈しエクリチュールを続けた。内田光子も他のピアニストもそれぞれの解釈でエクリチュールを行なった。

作者の死の別な例は記紀歌謡を話の流れから独立して解釈することである。それぞれの歌がテクストとして抜き出され作者が登場人物に与えた意図とは独立に解釈される。記紀の作者は民謡などのテクストを自身のテクストに持ち込んだ。元のテクストは作者の文脈にはない。ならばそのテクストを抜き出して解釈しようという考えと思う。

上代文学会事件の被告の上代文学会(代表品田悦一)の書面に「最後に、一般人として、法律家たる被告にいう。」(被告2019年7月26日付準備書面)という文言がある。原告の「最後に、原告は法律家として、被告にいう。」(原告2019年7月26日付準備書面)というテクストを参照して初めて原告の真意を理解できる。句読点の打ち方まで真似ている。揶揄を目的としてものと思えるが、これも間テクスト性の例である。

バルトの考え方は評論界で一時期流行したようである。評論を書く新しい枠組みを与えた。しかしそう考えるべき根拠を、少なくとも二つの論文を読んだ印象としては、与えていないように見える。バルトの考え方が絶対に正しいとは言えないことに注意されたい。

品田は言う。「およそテキストというものは、全体の理解と部分の理解とが相互に依存しあう性質を持ちます。一句だけ切り出してもまともな解釈はできないということです。この場合のテキストは、最低限、序文の全体と上記三二首の短歌(八一五~八四六)を含むでしょう。」

これはバルトやクリステヴァの考えと違う。テクストは部分だけが抜き出されることもある。品田はまた「旅人自身は歌群の読者が先行テキストの内容をも想起するよう期待していたはずです。」と言う。

バルトやクリステヴァの言うテクストの概念からは「はずです」と言えない。たとえば盗用も間テクスト性の一つであるが、その場合の作者はむしろ想起されないように期待する。

「巻六では膳王の歌の直後から旅人ら大宰府関係者の歌ばかりが続きますから、テキストとしての『万葉集』は、旅人が長屋王事件のとき遠い大宰府にいたことをも読者に印象づけようとしていることになります。」

バルトの考えに従うならば、ここに「テクストとしての」は不要である。むしろ作者の意図とは無関係に読まれてしまうのがテクストである。

テキスト全体の底に権力者への憎悪と敵愾心が潜められている。断わっておきますが、一部の字句を切り出しても全体が付いて回ります。つまり「令和」の文字面は、テキスト全体を背負うことで安倍総理たちを痛烈に皮肉っている格好です。」

全体が付いて回らないのがテクストである。

テキストというものはその性質上、作成者の意図しなかった情報を発生させることがままあるからです。」

これだけはバルトの考えと同じである。しかし他の用法は異なっていた。以前の「向井克年の言う「可能世界」」にも書いたが、国語学や国文学の論文を読みにくくしているのは他分野の専門用語に本来の意味や一般の理解とは異なるシニフィエを指示させて用いることである。しかしそのような誤解も間テクスト性の一つではある。

品田が「「令和」から浮かび上がる大伴旅人のメッセージ」で用いた「テキスト」と「間テキスト性」の用法を用いるならば、次のような「論証」も可能になる。

品田悦一の「鬼酣房先生かく語りき」の書名はニーチェの「ツァラトゥストラかく語りき」が出典である。ニーチェが自身をツァラトゥストラに擬えたように品田も自身を鬼酣房先生に擬えた。ちなみに「吾輩は鬼酣房である」では野良猫をシニフィエとする間テキスト性から読者の尊敬を得られない。

ツァラトゥストラは愚昧な一般人と対比される超人(Übermensch)である。これはヒトラーの思想に合致するものであった。ナチスはニーチェを大いに利用した。彼らはアーリア人を超人と考えユダヤ人などの他民族を劣人(Untermensch)と見做した。品田は「旅人が大宰府の役人たちの教養の程度に配慮して」と言う。これは自身と旅人を超人の側に太宰府の役人たちを劣人の側に置いた観点からの記述である。

品田は「鬼酣房先生かく語りき」で「あなたはそれでも帝都大学の教授なんですか」と一般人に語らせている。大学教授を優越視していることが明白である。「帝都大学」は東京大学であり帝都は大日本帝国の首都を意味する。品田悦一の「鬼酣房先生かく語りき」を精読すると「劣人の民主主義の横暴を許せないし、ナチスドイツと大日本帝国の栄光を忘れることもできない」という、おそらく一般読者には思いも寄らなかったメッセージが読み解けてくるのである。

以上の赤字の部分は「緊急寄稿」の論法を用いるならばこんなことが言えてしまうという例えである。そのように私が考えているのではない。ただし上代文学会の以下の文言は被告が一般会員である原告を劣人と見做しているように思えてならない。論文の内容でなく著者の属性で採否が決まるならば、アーリア科学を唱えてユダヤ人科学者を追放したナチスと変わらない。

「ただし上代文学に対する説得力のある新説は、それに関わる知識や研究方法を学んでいなければ提出できない専門教育無しにまともな発表ができるほど、上代文学研究は底の浅いものではない。」(被告2019年4月22日付準備書面) 
「しかし今回の原告の発表要旨には、基本的な語法に関する 誤りが見られることが暴露しているように、上代文学研究に関する知識も方法も学んだ形跡が無いそのために不採用になったのであ(る)」(被告2019年4月22日付準備書面

なお私はグールドのファンである。バッハの録音はどれも好んで聴いている。モーツァルトだけがダメなのである。さらに付け加えるならば私は品田悦一個人に対して何ら特別な感情を持っていない。本稿は品田の「大伴旅人の暗号」という論説に用いられた用語の語法と論理的な妥当性に異議を唱えただけである。また上代文学会の理事たち個々人に対しても同様である。一般会員に対するエリート意識に基づき著者の属性で論文の審査を行なうことに反対しているだけである。

参考文献
Roland Barthes (1968) The Death of the Author, translated by Stephen Heath.
ジュリア・クリステヴァ(1970)『テクストとしての小説』(国文社 1985)谷口勇訳
Roland Barthes (1971) From Work to Text, translated by Stephen Heath.
Roland Barthes (1977) Image Music Text, Fontana Press (London). Essays selected and translated by Stephen Heath.
品田悦一(2019) 「「令和」から浮かび上がる大伴旅人のメッセージ(新元号の深意)」 雑誌『短歌研究』201905月号


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