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2020年4月27日月曜日

JBJ-18 「万葉学者は頭が悪い」のか 上代文学会事件

国語学の論文を読み始めたときは驚いた。これが学術論文かと思った。推論が驚くほど非論理的なのである。時代劇によくある「赤子の手をひねるようなもの」(easy as twisting a baby's arm)とはこのことかと思った(註1)。

註1 この英訳を本田増次郎の翻訳書で知った。

ある人が「(万葉学者たちは)偏差値が低い」「知能指数が低い」と言った。私は即座に反論した。理由は二つある。一つは黙っていると私が言ったことにされるのではないかと恐れたため、もう一つは、そもそも私はそう思っていないからである。

彼らは頭が悪いのではない論理的に考える訓練を受けていないだけだ。そのように私は答えた。

これは考えに考えてたどり着いた結論である。最初は、この著者は私大の文学部卒で高校から数学を全く学んで来なかったのだろう、などと思った。しかしそういう人が何人もいる。国立大学を卒業した人もいる。入試に数学がある。数学を全く学んでいないとは言えない。私の最初の仮説は棄却された。高校時代の同級生の中に文学部に進んだ人たちがある。一人一人を思い出してみた。彼らはそこまで非論理的な主張をしたか。いや、違う。では、なぜ国語学者がここまで非論理的なのだ。

私は大学入学以来ずっと理系の中で暮らしてきた。職場も周りの殆どが理系の卒業生である。だから論理的な説明が通じるのが当然と思っていた。しかし「理系の人」が論理的なのは生まれつきの性質ではない。訓練された結果なのだと気付いた。

数学や物理の問題を解く。論理が正しくないと答えが合わない。実験をする。予想通りにならないのはどこかに論理の欠陥があったからである。コンピュータのプログラムを作る。計画通りに動かないのはプログラムの論理に間違いがあるからである。これが訓練だったのだ。

中学や高校で運動部に入った経験がある人は分かると思うが、飽きるような単調な練習を繰り返しやらされる。その訓練のおかげで考えるより先に体が動くようになる。放課後だけの練習を一年続ければ一般の生徒と技量に大きな開きが出来る。理系の学生はその訓練を朝から晩まで四年間続けるのだ。文学部の学生と大きな開きが出来るのは当然である。卒業してからの日々の仕事もまさに訓練である。

人間には自分や周りが思っている以上の能力がある。私はそう思う。学校を卒業して就職する。職場には工場や研究所の地元の工業高校を卒業して入った人たちがたくさんいる。その中には大卒の技術者が足元にも及ばないような着想力や判断力を持つ人も多い。技術系の職場は一緒に仕事をしていればその人の実力がすぐに分かる。

ところが文学部はそうでないようである。萬葉学会のある人が「(萬葉学会は)京都大学の人たちが作ったので私学卒の私はとても苦労した」と語った。なぜ私学だと苦労するのか。萬葉学会は学歴で差別するのか。ここで草野球のチームを考えてほしい。試合の前の晩に酒を飲みながら「私は名門高校の野球部だった」と言っても、翌日試合をすれば実力が分かってしまう。どこの学校を出たなどというのは全く意味を持たない。それが理系の世界であり、意味を持つのが文学部の世界なのかもしれない。

なぜ意味を持つのか。相互批判が為されないからだと思う。国語学の世界には自説を批判されただけで怒る人がいると言う。なぜか。それも相互批判がないからだと思う。理系の世界のように日々相互批判が行われているなら、草野球の試合のように何度も打席に立ったり守備機会があったりすれば、一度や二度の失敗は挽回できる。しかし相互批判がない世界では、一度の間違いが致命的な印象を与えるのかもしれない。つまり、あの人は(一度だが)間違った、あの人の言うことは信用できない、という、およそ学問の世界とは思えない非論理的で幼稚な判断基準である。

上代文学会は原告は「研究者(H)」でないと言った。その正確な定義は裁判の中で原告から被告に問うてほしい。私の仮説では、「研究者(H)」とは国文科の教員と大学院生である。例外があるとすれば、山田孝雄のような小卒(中学中退)の小学校の教諭である。

被告席で品田悦一は原告の文法の誤り(品田から見た判断ではあるが)を指摘した後で「原告の学力の限界」と言った。原告を怒らせ裁判官を呆れさせたことと思う。大人に向かって「学力」などという言葉を使うか。そう思ったと思う。しかしこれは文学部または国文科の方言ではないか。というのは、同じ言葉を国文科の卒業生の読者の方からのメールで読んだからである。私の説を乾善彦や上野誠がなかなか受け入れようとしないことについて、学力の高い人の言うことを学力の低い人は理解できないとあった。学力というのは学習能力ではなく学問の能力の意味ではないかとその時悟った。

しかし論文の審査に著者の学歴や実績は効力を持たない。もしもそれに基づいて採否を決めるようなことがあれば、他分野なら不正を糾弾される。たとえ著者の学問の能力が低かったとしても、それを理由に発表を受け付けないとか、論文を掲載しないということはあってはならない。原告はそのことを強く主張すべきである。

上代文学会や萬葉学会の問題は彼らの選民意識非論理性である。自分たちは専門家であるから自分たちの主観的判断が絶対に正しいと信じて疑わない。それがどんなに非論理的であるかを知らない。彼らが学校で習ったのと違う考えは「説得力がない」と一蹴される。学術論文の審査は評価ではない。評価は出版後に為されるものである。そのような研究活動の基本となる考えを彼らは受け付けない。これは学問の自由や発言の自由の蹂躙である。

裁判所は大学や学会の判断を云々することが学問の自由に反すると考えるのかもしれない。事実は違う。学門の自由を侵犯するのは大学の国文科や学会である。そのことを原告は強く主張すべきである。自分たちと違う考えを封じることは学問の健全な発展を妨害することである。

ここまで書いてきても、読者の中には、大学の教員が間違うはずがないと思う人もあるかもしれない。そのために、三回にわたり品田悦一の緊急投稿の専門用語の間違いと非論理性について書いたのである。なぜ品田悦一の論文を選んだか。上代文学会の代表だからである。ぜひ品田悦一の言う「間テキスト性」」、「品田悦一の言う「テキスト」とロラン・バルトの言う「作者の死」」、「「令和」から浮かび上がらない大伴旅人のメッセージ」を読んでいただきたい。私は大学に入学して以来理系の世界で生きてきた。その三回の分析で十分と思っているが、ひょっとして国文科の教員たちには伝わっていないのかもしれない。品田悦一が何を間違えて何が非論理的かについて再度書くべきかもしれない。

研究者同士の自由な相互批判が研究を発展させてきた。研究者が論文を書くのはスポーツの選手が試合の場に立つのと同じである。そこには日常の場とは違うルールがある。全力を尽くして戦っても試合が終われば遺恨はない。しかし文学部の研究者の中には自説を批判されただけで怒る人たちがいると聞く。もしもそうならその人は研究者とは言えない。批判されるのを好まないなら研究をやめるしかない。私は品田悦一の論文を批判したが、論文を書いた品田個人に対して特別な感情があるのではない。研究の場と日常の場は別である。 

理系の研究者同士なら言わなくも良いことを書いた。品田悦一がそういう人物だなどとは思わないが、文学部の研究者の中にはそうでない人もあるかもしれない。このような蛇足を書かなくても良くなったとき日本の人文科学の研究は欧米と対等になるだろうし、そうなることを願っている。

参考文献
小谷野敦(2010)「文学研究という不幸」(ベストセラーズ)
中島義道(2014)「東大助手物語」(新潮社)
品田悦一(2019) 「「令和」から浮かび上がる大伴旅人のメッセージ(新元号の深意)」 雑誌『短歌研究』2019年05月号

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