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2018年1月4日木曜日

TSONTS-10 今後の予定

萬葉学会のしていることは詐欺と同じだと思う。学会を名乗り、会員を募る。萬葉集の研究の発展を願う人の集まりだと在野の研究者は思う。在野というのは大学などの研究機関に所属せず、個人として萬葉集を研究している立場である。趣味ではない。それぞれがライフワークとして取り組んでいる。発表の場を求めている。雑誌『萬葉』ならば月遅れ(年遅れ)がネットに公開されている。在野の会員は自分の研究成果の発表が目的のはずだ。ある会員は幾ら投稿しても掲載されなかったと言う。その方は年金で暮らしている。萬葉学会はそういう人たちから金を徴収しながら、それに見合う審査を行なっていないようだ。ようだと言うのは、私の投稿の拒絶理由しか見ていないからだ。

私は自分の論文が掲載されないことに文句を言っているのではない。学術論文として適切な審査を行なわない萬葉学会に改善を求めているのである。在野の研究者を誘うのであれば適切な論文の審査を行なってほしい。 彼らが求めているのは雑誌の講読ではなく発表の場なのだから。

今までの経緯を振り返る。

2016年09月19日。萬葉学会と他の学会へ論文の原稿を送付する。

2016年09月25日付けの葉書で受領確認の連絡が届く。

2016年11月23日。萬葉学会にメールで原稿の採否を問い合わせる。

2016年12月14日。萬葉学会からメールで不掲載の決定とその理由が届く。
萬葉学会のP氏によると、原則として理由は知らせていないという。私のときだけは事前にしつこく問い合わせたためか、メールに添付する形で理由を送ってきた。

一読して非論理的な主張だとわかった。理由にならない理由で拒絶していた。すぐに反論をしたため、P氏にメールした。

P氏はそれを「私的にですが査読者に送ります。共通理解を得るには、何度かのやり取りが必要でしょう。」と返信してきた。

また、P氏は原稿を読んでいないというので、原稿をメールに添付したPDFで送付した。
以上は12月14日のやり取りであった。

2017年01月07日。萬葉学会にメールでその後の状況を尋ねる。査読者(本ブログで一貫してQ氏と呼ぶ)の言語学的知識が当該の論文の査読に相応しくない旨を伝える。理系の学会ならば適任でない査読者の交替の要求は当然の権利。

2017年01月13日。萬葉学会より返信がないのえ再度同趣旨のメールを送る。

2017年01月14日。萬葉学会のP氏よりメールが来る。査読理由への反論のうち、「し」の解釈については同意すると言う。しかし、「一番の問題は、構文的理解が示されていない点と、「成立を問題とする」ことの意味」だと言う。P氏は続けて「成立の組成による意味が、そのまま発話者の意味解釈につながるのか、そうでなく、すでに用法としての意味解釈になっているのかによって、モーダルな解釈が変わってきます。その点では、ク語法の場合、構文的にはやはりモーダルな面を無視できません。「あく」が終止形と連用形との二種類があるならなおさらです。」と言う。

論文では数十の用例について現代語訳を示した。それでも分からないというのだろうか。これほど大量の用例を検討するのは異例だと思う。少なくとも今までに読んだ国語学の論文にそういうものはなかった。「仮説と検証」という方法を用いたからこそ、仮説を多数の用例で検討したのである。

だいたいにして「モーダルな解釈」とは何だろう。「構文的理解」の「構文」はsyntaxなのかstructureなのか。それもわからない。それまであまり気に留めていなかった高山善行氏のモダリティにかんする一連の論文を読むことにした。それが前日までの掲載に至った理由である。

高山善行(2005)を詳細に検討したのは、国語学のような経験科学において演繹的な方法は有効でなく、仮説と検証の方法しかないことを明らかにし、裁判官に知って貰う準備であった。高山氏の言うような、純粋に演繹だけによる研究が可能なのは、人間が作った公理だけに基く数学、神の啓示の解釈だけに基く中世ヨーロッパの神学、他には憲法に基く法学があるぐらいだろう。これは科学研究の常識であり、議論するまでもないのだが、疑問に思う読者は、高山善行氏もここを読んでくれているはずであるが、下記の参考文献から和文のものでは内井惣七(1995)を参照されたい。物理の研究者と科学哲学者の討論の須藤靖、伊勢田哲治(2013)は理(法律、経済)と人文系に何故共通理解が生まれ難いかという点で興味深い。理系対文系でなく、論理に基く理系、法律系、経済系と修辞(文彩)に基く人文科学系の議論の方法の違いが大きい。言語学や国文学は本来は理系の側である。

今後は高山善行氏が何故演繹でないものを演繹と考えるに至ったか、同氏が考えるモダリティとは何か、さらに(可能ならば)それは言語類型学の中にどう位置付けられるか、萬葉学会の査読はどこが非論理的なのか、高山氏とQ氏の類似点などを書いて行く。

萬葉学会が過去に在野の研究者(国文科の学生は在野ではない)の論文を掲載したことは、国文科卒の高校教諭などを除いて例がないようである。国文科を出ていない者に萬葉集が理解できるかと考えているのだろうか。国文科を出ている大学教員でも、国語学や言語学を、その方法論においても、正しく理解してないようである。高山氏の論文の検討によりそれも明らかになってきた。今後はさらにはっきりと理解できるようにする。

いずれにしても、仲間内の大学の教員であれば適切に審査し(あるいは無条件に掲載し)、在野の研究者であれば適切な審査を行なわない(あるいは門前払いとする)ということを萬葉学会や他の古代語の学会が行なっているとしたら、上代語や中古語の研究の進展はないだろう。もしも外部の研究者をもん罪払いにするようなことをするなら、学問の健全な発展に有害である。

なお、To Sue Or Not To Sueを以下TSONTSと略すことにした。

最後に前回までと同様の引用を行う。

「公表された作品については、みる人ぜんぶが自由に批評する権利をもつ。どんなにこきおろされても、さまたげることはできないんだ。それがいやなら、だれにもみせないことだ。」

藤本弘(藤子・F・不二雄)氏の「エスパー魔美」からの引用である。「法華狼の日記」さんのサイトに詳細な解説とそれに対する読者の反論と議論がある。セリフに漢字が少ないことから窺えるように、この漫画は小中学生を読者と想定したものである。自分の論文が批判されて怒っていたら理系の研究者はやっていられない。相互批判は学問の共同体の当然の権利であり、それが学問を発展させるのである。この当然すぎる常識を萬葉学者たちが受け入れてくれることを祈る。


引用文献
Reichenbach, Hans (1951) The Rise of Scientific Philosophy.
Popper, Karl (1959) The Logic of Scientific Discovery.
Popper, Karl (1972) Objective Knowledge: An Evolutionary Approach.
北原保雄(1984)『文法的に考える』(大修館書店)和田明美(1994)『古代日本語の助動詞の研究ー「む」の系統を中心とするー』(風間書房)
Palmer, Frank R. (1979) Modality and the English Modals.  飯島周訳『英語の法助動詞』(桐原書店)
Palmer, Frank R. (1990) Modality and the English Modals. 2nd ed.
村上陽一郎(1994)『科学者とは何か』(新潮社)
内井惣七(1995)『科学哲学入門―科学の方法・科学の目的』(世界思想社)
Palmer, Frank R. (2001) Mood and Modality, 2nd Edition.
高山善行(2002)『日本語モダリティの史的研究』(ひつじ書房)
安田尚道(2003) 「石塚龍麿と橋本進吉--上代特殊仮名遣の研究史を再検討する」 『国語学』 54(2), p1-14, 2003-04-01
山本淳(2003)「仮定・婉曲とされる古典語推量辞「む」の連体形」 山形県立米沢女子短期大学紀要 38, 47-62, 2003-06-30
高山善行(2011)「述部の構造」 金水敏ら(2011)『文法史』 (岩波書店)の第2章
須藤靖、伊勢田哲治(2013)『科学を語るとはどういうことか』(河出書房新社) 高山善行(2014)「古代語のモダリティ」 澤田治美編(2014)『モダリティ 1』 (ひつじ書房)に収録
高山善行(2016)「中古語における疑問文とモダリティ形式の関係」 『国語と国文学』 第93巻5号 p29-41

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