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2017年1月14日土曜日

国語学の論文に特有の非論理的な推論 その3 歌意が通ること

国語学の論文ではしばしば歌意が通ることで未知の語の意味を証明したかのような記述があります。国語学の論文に特有の非論理的な推論に述べましたが、願望の助詞とされる「な」について濱田敦(1948a)に次の記述があります。


この「な」は例へば、
いざあぎ振熊が痛手負はずは鳰鳥の淡海の海に潜き潜き勢那和   古事記歌謡38
此の丘に菜摘ます児家吉閑名告らさね   万01-0001
の如く、上に述べた「ずは」と云ふ形に伴はれて現れ、又「ね」と相対照して用ゐられてゐる事などから、この「な」が願望表現である事が容易に理解せられるであらう。


最初の古事記歌謡は振熊の軍勢に追われ、勝ち目がないと悟った忍熊皇子が入水する直前に詠んだものです。敗戦は避けようがない。ならば、敵の手にかかるよりは、と考えた結果の入水でしょう。その次は万葉集の冒頭を飾る有名な雄略天皇の御製です。この丘で菜を摘んでいる娘は素敵な籠と素敵な掘り串を持っていると述べ、続けて「家聞かな。名のらさね。」と歌います。

願望というのですから濱田氏はおそらく「鳰鳥の淡海の海に潜き潜きせなわ(勢那和)」を「カイツブリのように琵琶湖に入水したい」、「家聞かな」を「家を聞きたい」と解釈したのでしょう。

歌意が通るというのは、その場の状況に整合する、矛盾しないという意味です。飛び込もうと思えば飛び込める状況で「入水したい」、聞こうと思えば聞ける状況で「聞きたい」と言うでしょうか。不自然です。もっと相応しい意味がありそうです。

前回も書きましたが、水の入ったコップを手にする人が「水が飲みたい」と願望するでしょうか。そのような感情を意識する前に水を飲んでいます。もしも願望であれば、水を飲むのに誰かの介助や許可が必要など、自分の意志だけで飲めない場合です。上記の二例も願望する状況であり得ません。状況に整合しないのですから、歌意が通るとは言えません。

もしも歌意が通ったとしても、それはその状況で発話される多数の可能性の一つというだけであって、「家聞かな」と「家を聞きたい」が同じ意味である保証はありません。

前回の国語学の論文に特有の非論理的な推論 その2 感性の国のアリスに国語学の論文の「歌意が通るならば語の解釈の仮定が正しい」とする推論と数式の「両辺の値が同じならばXの値の仮定が正しい」とする推論は意味が大きく異なると書きました。数式の場合は

X - 3 = 1


X = 4

を代入すれば両辺は同じ値になります。左辺も右辺も数値を表します。だから等号で結べるのです。しかし

「家聞かな」=「家を聞きたい」

という等号が成立する保証はありません。左辺と右辺の意味が同じかどうか確定しません。右辺の意味を仮定しても状況に整合する、矛盾しないというだけです。それが国語学の論文の推論と方程式の解法との違いです。両者を混同してはいけません。

未知の語の意味は演繹で求められません。それが可能なのは絶対的に正しい辞書がある場合に限られます。 しかし語が未知であればそのような辞書が存在し得ません。演繹で求められないならば仮定と検証に基く推論以外に語の意味を知る方法はありません。

もしもこの「な」が願望を表わすならば、すべての「な」について願望の意味が状況と整合しなくてはなりません。しかし願望で統一して解釈できないことが分かっています。そのために小学館の『日本国語大辞典 第二版』 や三省堂の『時代別国語大辞典 上代編』をはじめとする国語辞典、古語辞典はこの「な」を主語の人称で場合分けして、願望、意志、決意などを表わすとしています。

あたかも天動説が惑星の運動を説明するために新たな仮説を付け加えたのと同じです。「な」の意味に関する仮説は複雑化しています。

これに対して本居宣長(1785)は現代の国語学者より科学的な方法を用いています。宣長は「な」を一律に「む」と同じ意味だとする仮説を提出しています。ただしその方法は例外が生じます。宣長はその例外について誤字を疑っています。一つの仮説で一律に説明できれば良いのですが、できない場合に新たな仮説を追加するよりは、データの再検討を考えるほうが科学的とは言えます。


参考文献
本居宣長(1785) 『詞の玉緒』 『本居宣長全集 第5巻』(1970 筑摩書房)
濱田敦(1948a) 「上代に於ける願望表現について」 『國語と國文學』 25(2)
『時代別国語大辞典 上代編』 (1967 三省堂)
『日本国語大辞典 第二版』 (2001 小学館)

 

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