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2017年1月15日日曜日

国語学の論文に特有の非論理的な推論 その4 強意と詠嘆

日本語の古典文法に登場する特有の意味に強意と詠嘆があります。現代語に強意の助詞や詠嘆の助動詞はあるでしょうか。外国語の文法に強意や詠嘆という言葉は登場するでしょうか。

大野晋(1993)の173ページに次の記述があります。


各種の文法書または辞書を見ると、シまたはシモを「強調」の助詞だと説明している。しかし、考えてみると、最近の古典日本語の文法書は「強調」という用語、何でもかでも押しこめる傾きがある。コソも強調、ゾも強調、ナムも強調、テも強調、ヲも強調、ニも強調、ドモも強調・・・・・・、何でも強調の一語でそれを覆う。強調でもよいが、それならば強調の中で、ナムとヲとニとの間にはどんな違いがあるのかが説明されなくてはならない。ところが何もかにも強調の一語で終りとする。それでは対象は何ら明らかにされない。シまたはシモは、もし強調とすればどこにその特質があるのか、そのことを追究することが必要である。


それよりも、そもそも強調や強意と呼ばれる意味の語が本当にあるのでしょうか。現代語でも「こそ」は使われます。

4-1 今こそ実行すべきだ。

この「こそ」は今」を強調しているのでしょうか。今より前でもなく今より後でもない、丁度今という意味です。今以外を排除する意味があります。

4-2 あの人は愛想こそ良いが何を考えているかわからない。

この「こそ」は「だけは」で言い換えられます。

4-3 あなたこそ不満があるんじゃないですか。

この「あたなこそ」は「むしろあなたに」で言い換えられます。これら1-1から1-3の「こそ」に共通する意味は「それ以外の排除」のようです。更に多数の例文を検討すれば「こそ」の本質に迫れるかもしれません。少なくとも「強意」とは言い切れないようです。

4-4 籠もよ み籠持ち 掘串もよ み掘串持ち この丘に 菜摘ます児 家聞かな 名告らさね そらみつ 大和の国は おしなべて われこそ居れ しきなべて われこそ座せ われこそは 告らめ 家をも名をも


ねえ。ああ…よ。▽強い感動・詠嘆を表す。

と説明しています。もちろん、「ああ、籠よ、素晴らしい籠を持ち」と現代語訳しても状況と大きく矛盾しませんが、かと言って、現代人の若者が初対面の娘の持ち物を見て、そう言うでしょうか。「おや、良い籠をお持ちですね」ぐらいではないかと思います。本当に強い感動を表わすのでしょうか。

4-5 男もすなる日記といふものを、女もしてみむとてするなり 土佐日記

「すなり」と「するなり」の二つの「なり」がありますが、前者の終止形に付く「なり」は「音がする」の意味であり、そこから伝聞・推定を表すとされます。ただし、それは今日の理解であって、戦前は「詠嘆」の意味とされていた時期もありました。

古語辞典や古典文法書には多用される「強意」や「詠嘆」は他の言語の辞書に(すべての言語を調べたわけではありませんが)あまり用いられません。自然言語の中に、そもそも強意や詠嘆の意味の語が発生しうるのでしょうか。

強意と仮定すれば歌意が通る。詠嘆と仮定すれば歌意が通る。そのような論理的と言えない推論の結果、強意や詠嘆の意味が割り当てられてしまった語があるのではないでしょうか。

私は今まで「強意」や「詠嘆」とされた表現を幾つか検討しましたが、そのうちのいくつかはそのような意味がないらしいこと(※1)を示しました。

※1 回りくどい言い方ですが、未知の単語の意味の解釈は仮説と検証という方法を取らざるを得ず、絶対にこうであるという証明ガ不可能なのです。


参考文献
大野晋(1993) 『係り結びの研究』 (岩波書店)

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