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2017年1月27日金曜日

ク語法の真実 その2 「言はく」は「言ふこと」か 本稿の仮説

 「めく」という動詞を作る接尾語が中古から使われている。意味は「らしくなる」である。例えば「秋めく」ならば季節が秋であることが前提である。潜在していた秋が顕在したことを風の強さや音、気温や植生の変化を知覚して確認したときに初めて「秋めく」と発話する。

 「めく」は*mi-*aku > mekuという音韻変化から「み」と「あく」に分解できる。「白む」「赤む」などの動詞が存在することから、「秋む」という動詞があれば「秋になる」という意味だと推測できる。そうだとすれば、「あく」の意味はものごとの存在が5感を通じてはっきりと知覚されることであろう。

 そのような考えから、かつて「あく」(以降、アクと書く)という動詞が存在し、その意味が「はっきりと知覚される」「明らかである」であったと仮定する。

 「あく」という動詞は上代から現代まで使われている。『日本国語大辞典(第2版)』は「あく(明、開、空)」の語義の最初に「隔てや覆いなどが、とり除かれる。閉じていたものが開く」を挙げ、語法の欄に「『明く』は明るくなる、『開(空)く』は閉じているものが開いてすきまができる、が原義である」と記す。四段の「開く」は上代に用例を見ないが、次の「あく」の意味は「はっきりと知覚される」ではないだろうか。

2-1 沖つ風いたく吹きせば我妹子が嘆きの霧にあかまし(安可麻之)ものを   万15-3616
2-2 渋谿をさして我が行くこの浜に月夜あき(安伎)てむ馬しまし止め   万19-4206

 夜が明ければ、今まで見えなかったものが見えるようになる。また、鳥のさえずりも聞こえ始める。遮蔽物が移動すれば、その向こうにあるものが顕在化して知覚される。あるいは何もない空間が出現する。活用の仕方や使われる漢字に関わらず、「あく」には共通する意味があり、それは知覚による存在の確認であると言える。

 このように仮定すると、「泣く」「鳴く」は「な(音)」を出現させることあるいは聴覚により知覚させることと解釈できる。同様に、「剥く」は「む(実)」を顕在化させることあるいは視覚により知覚させること、「嗅ぐ」は「か(香)」を嗅覚により知覚すること、「湧く」は「ゐ(井)」が顕在化してその存在を知覚させることと言える。このうち、「な」「む」は「ね」「み」のそれぞれの、有坂秀世1944の言う被覆形である。「ゐ」の被覆形として「わ」や「う」が想定可能と稿者は考える。また、アクと「赤」や「明らか」を同語源と仮定しても矛盾はなさそうである。

 アクを動詞と見たとき、その自他が問題となるかもしれない。現代日本語で自他両用のものは「ひらく」「とじる」「ます(増)」など少数に限られる。しかし、漢語を語幹とするサ変動詞の場合は別である。小林英樹2004は「現行の一般国語辞典においてサ変動調として用いられているものを集録した」とある北條正子1973から346語の自他両用の二字漢語動詞を採取している。和語に自他両用動詞が少ない理由は、四段活用対下二段活用、ラ行四段活用対サ行四段活用という明示的な自他の区別が発達したためであろう。そのような区別がなかった時代の日本語の動詞は、現代語の漢語動詞がそうであるように、自他の区別に寛容であったと考える(註1)。

 たとえば、「鳴く」を「音をアク」と考えると、他動詞のアクが対格の「音を」を自身に取り込んで全体として自動詞化されたものである。「湧く」が「(井が)井をアク」であれば、このアクは自分自身を顕在化させるという再帰的な他動詞である。ただし、仮説の検証の過程で、アクに他動詞と看做せるものはなかった。

 次に動詞の終止形の意味を確認する。現代語の場合、動詞終止形は非過去を表わす。動作動詞(「ある」「いる」などの状態動詞や「見える」などの可能動詞以外のもの)の終止形は基本的に未来を表し、現在進行中の動作には「している」の形をほぼ義務的に用いる。一方、古典語の場合は進行中の動作に動詞終止形を用いることが知られている。このことは金水敏2011、小田勝2015が詳述しているので、ここでは議論しない。また、ある条件の下で未来を表わすことも、これらの著書が例を挙げて説明している。

 一方、「あく(開)」の意味が閉じた状態から開いた状態への遷移を表わすことであるとすると、進行相(progressive)はその遷移の過程の継続を表わし、遷移の結果を表わさない。結果を表わすなら既然相(perfect)である。これを相(aspect)と言って良いかという問題があるが、本稿では便宜上既然相と呼ぶことにする(註2)。「あく(開)」と同語源と思われる動詞に「咲く」がある。この動詞の終止形は花弁が開いた状態が継続する意味を表わす。例をあげる。

2-3 春の野に鳴くや鴬なつけむと我が家の園に梅が花咲く(佐久)   万05-0837
2-4 天皇の御代栄えむと東なる陸奥山に黄金花咲く(佐久)   万18-4097
2-5 なにはづにさくやこの花ふゆごもりいまははるべとさくやこのはな   古今集仮名序

 2-4は金鉱を花に例えたものだが、金鉱が存在し続けている以上「咲く」は進行相である。他は言うまでもない。

 従って、「咲く」は状態間の遷移でなく、状態の維持を表わすと言える。とすれば、「咲く」と同様、本稿が仮定する動詞アクも状態の維持を表わすと見たい。そうであれば、アクの終止形は顕在化や知覚の過程でなく、顕在している状態や知覚された状態の維持を表わし、進行相となるときは「知覚されている」あるいは「明らかである」状態を表わすと言える。

 本稿は次の仮定を行い、万葉集、記紀歌謡、続日本紀宣命の用例を検討する。

仮定1 ク語法は従来考えられていた活用語を名詞化するものでなく、活用語の連体形にアクという四段動詞が下接したものである。

仮定2 アクの根源的意味は、モノ(人や事物)やコト(状態や行為、伝達される内容)が視覚、聴覚、嗅覚、触覚、温度感覚などを通じて「その存在がはっきりと知覚される」ことである。

仮定3 アクは金田一春彦1950の継続動詞に相当し、瞬間動詞に相当しない。

 アクを四段動詞と仮定したのは、アクの形が用言的にも体言的にも用いられることが観察されたからである。動詞終止形のように振舞う場合と準体句と考えられる場合があることを次節に示す。

 コトの意味に伝達される内容を追加したのは「言う」や「思う」などの動詞の場合、連体形の意味が伝達という行為の他に伝達される内容の場合が見られるからである。現代語の例を示す。

2-6 言わないことまで言ったことにされた。
2-7 言わないことが相手のためになるとは限らない。

 2-6の二つの「こと」は言う内容であり、2-7の「こと」は言う行為である。

(つづく)

 最後に重要な注意点があります。ネットは著作権を放棄したと考える人もいるようですが、それは違います。また、著作権が放棄されたものならば無断引用は可能と考える人もいるようですが、それも違います。その点、十分にご注意ください。本ブログのすべての記事および本稿の著作権は著者である江部忠行が保有するものです。殆どの人にこのような注意書きが不要なのですが、ほんの僅かな人がいるために書かなくてはなりません。まあ、そういう裁判を起こせばこの研究が注目されるかもしれないというメリットはあります。

参考文献
Aston 1877 A grammar of the Japanese written language, 2nd ed. (古田東朔1981による)
Aston 1904 A grammar of the Japanese written language, 3rd ed. (カリフォルニア大学のサイトで閲覧)
有坂秀世1940 「シル(知)とミル(轉)の考」 『国語と国文学』 『国語音韻史の研究 増補新版』(1957 三省堂)に収録
有坂秀世1944 「国語にあらはれる1種の母音交替について」 『国語音韻史の研究』 (明世堂) 『国語音韻史の研究 増補新版』(1957年 三省堂)に収録
金田一春彦1950 「国語動詞の一分類」 『言語研究』(名古屋大学) 15     『日本語動詞のアスペクト』(1976 むぎ書房)に収録
金田一春彦1955 「日本語動詞のテンスとアスペクト」 『名大文学部研究論集』(名古屋大学) 10 文学 4 『日本語動詞のアスペクト』(1976 むぎ書房)に収録
大野晋1955 「万葉時代の音韻」『万葉集大成 6言語編』(1955 平凡社)
大野晋1957 「校注の覚え書」 『日本古典文学大系 万葉集1』(1957 岩波書店)
北條正子1973 『品詞別日本文法講座 10 品詞論の周辺』 (1973 明治書院)
井手至1964 「ク語法(加行延言)アクの説は悪説か」 『国文学 解釈と鑑賞』 29年11号
井手至1965 「万葉集のク語法」 『人文研究』 16(3)大阪市立大学
木下正俊1972 「なくに覚書」 『万葉集研究 第1集』(1972 縞書房)
Bernard Comrie 1976, Aspect, Cambridge University Press
古田東朔1981 「外の人々から見たク語法」 『香椎潟』 26 福岡女子大学山田小枝1984 『アスペクト論』(三修社)
日本国語大辞典 第2版(2001 小学館)
山口佳紀2009 「家持歌『悲しけくここに思ひ出』考」 『美夫君志』 79号 『古代日本語史論研究』(2011 風間書房)に収録
金水敏2011 『文法史』(2011 岩波書店)
小田勝2015 『古典文法総覧』(2015 和泉書院)

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