橋本進吉(1951)はこのブログでも取り上げたズハの語法の起源を助詞の「は」がない形に求めます。磐姫の歌とされる
5-1 かくばかり恋ひつつあらずは高山の磐根しまきて死なましものを 万03-0086
の表現の原形は
5-2 かくばかり恋ひつつあらず高山の磐根しまきて死なましものを
であったと述べます。同論文は次の例をあげています。なお、「治る」でなく「直る」は原文のままです。
5-3 手術しないでは直らない。
5-4 手術しないで直らない。
両者の違いは助詞の「は」の有無です。橋本氏は「は」の役割を「手術しないで」が連用中止法でなく修飾語であることを明示するためのものだと述べます。連用中止法とは9-3のように連用形で一旦文が切れる用法です。
5-5 手術しないで、(そして)治らない。
助詞の「は」がないと5-4は5-5の意味とも解釈できます。そのような誤解を防ぐために「手術しないで」が「治らない」を修飾していることを明示するのが「は」の目的だと橋本氏は述べます。
5-4 手術しないで直らない。
両者の違いは助詞の「は」の有無です。橋本氏は「は」の役割を「手術しないで」が連用中止法でなく修飾語であることを明示するためのものだと述べます。連用中止法とは9-3のように連用形で一旦文が切れる用法です。
5-5 手術しないで、(そして)治らない。
助詞の「は」がないと5-4は5-5の意味とも解釈できます。そのような誤解を防ぐために「手術しないで」が「治らない」を修飾していることを明示するのが「は」の目的だと橋本氏は述べます。
5-3と5-4は同じ意味か、5-3の助詞の「は」の役割は単に5-5と混同されることを防ぐだけか、という疑問が生じますが、それは別途検討します。ここでは橋本氏の主張が正しいものとします。しかし、それでも問題が残ります。上代語の「ず」と現代語の「ないで」、上代語の「は」と現代語の「は」、上代語の「ずは」の結合と現代語の「ないでは」の結合がすべて同じ意味だという保証がありません。同論文は以上のことを自明の如く扱いますが、そうであるという保証はありません。
同論文の別の箇所から引用します。
「 苦労をせずに金をまうけたい。
の如き希望を表はす文に於ては
苦労をせずには金をまうけたい。
といって「苦勢をせず」といふ条件を特にきはだたせる事は出来ないのである。しかるに問題の歌の「は」は、後の例に於ける「は」と同等の用法であって、古代に於てはかやうな場合にも打消の場合と同等に「は」が用ゐられたものと見られるのである。」
同論文は現代語で「苦労をせずには金を儲けたい」と「は」を挿入できないが、上代には「かくばかり恋ひつつあらずは」のように「は」を用いて語尾を願望で結ぶことができたとする仮定を新たに提案しています。
の如き希望を表はす文に於ては
苦労をせずには金をまうけたい。
といって「苦勢をせず」といふ条件を特にきはだたせる事は出来ないのである。しかるに問題の歌の「は」は、後の例に於ける「は」と同等の用法であって、古代に於てはかやうな場合にも打消の場合と同等に「は」が用ゐられたものと見られるのである。」
同論文は現代語で「苦労をせずには金を儲けたい」と「は」を挿入できないが、上代には「かくばかり恋ひつつあらずは」のように「は」を用いて語尾を願望で結ぶことができたとする仮定を新たに提案しています。
なお、「見られるのである」とは「判断される」「理解される」の受身の意とも「見ても良い」の可能の意ともとれますが、判断されるという受身は自明でありません。であれば仮定の追加です。
最初の引用箇所では、上代語の「ず」、「は」、「ずは」が現代語訳と完全に同じ意味かどうかの保証がないにも関わらず、あるかの如くに扱い、今度は上代語と現代語は違って当然と扱う。どちらも簡単には答えが出せない問題です。ですが、一言も触れぬまま、同じであることが自明、同じでないことが自明と決めてしまっています。
橋本進吉氏のような「石橋を叩いて渡らない」と評される慎重な研究者でもこのような他の分野の研究者の目には乱暴な推論をしています。これ以上の例を他の論文からあげることはしませんが、国語学ではこのような例は珍しくありません。
引用文献
橋本進吉(1951) 「上代の国語に於ける一種の『ずは』について」 『上代語の研究』 (1951 岩波書店)
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