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2017年1月13日金曜日

国語学の論文に特有の非論理的な推論 その2 感性の国のアリス

アリスは裁判の証人として呼ばれますが、王様がアリスを退廷させるために急遽法律を作ります。王様の非論理性が暴かれる太字の部分に私訳を付けました。

At this moment the King, who had been for some time busily writing in his note-book, cackled out ‘Silence!’ and read out from his book, ‘Rule Forty-two. All persons more than a mile high to leave the court.
「決まりの42番。身長1マイル以上のものは皆退廷すべし。」
Everybody looked at Alice.
‘I’m not a mile high,’ said Alice.
‘You are,’ said the King.
‘Nearly two miles high,’ added the Queen.
‘Well, I shan’t go, at any rate,’ said Alice: ‘besides, that’s not a regular rule: you invented it just now.
「その上、それはちゃんとした決まりじゃない。今作ったんでしょ。」
It’s the oldest rule in the book,’ said the King.
「法律集で一番古い決まりだ。」
Then it ought to be Number One,’ said Alice.
「だったら、決まりの一番のはずよ。」
The King turned pale, and shut his note-book hastily. ‘Consider your verdict,’ he said to the jury, in a low, trembling voice.

Alice's Adventures in Wonderland by Lewis Carroll
CHAPTER XII. Alice’s Evidence

国語学の論文に特有の非論理的な推論に他分野の研究者が国語学の論文を読むときにしばしば遭遇する非論理的な推論について書きました。他分野の研究者はちょうど今引用した箇所のアリスのような気持ちになります。なぜ「決まりの42番」が「一番古い決まり」なんでしょう。

国語学の論文にしばしば現われる非論理的な推論の一つに後件肯定(affirming the consequent)があります。

カラスならば黒い。

から

黒いならばカラスである。

と結論してしまうことです。逆は必ずしも真ならずです。国語学ではこの非論理的な推論がしばしば未知の語の意味の決定に用いられます。つまり、

語の解釈の仮定が正しいならば歌意が通る。

から

歌意が通るならば語の解釈の仮定が正しい。

と断定してしまうのです。これが言えないのは当然ですが、しばしば証明のように扱われます。国語学の研究者の多くはこのような推論が次のような数学の推論と同じだと考えているようです。

X - 3 = 1

ここでX=4と仮定して上の式に代入すると

4 - 3 = 1

X=4であるとした仮定は正しい。したがってX=4である。

上の「歌意が通るならば語の解釈の仮定が正しい」と下の「両辺の値が同じならばXの値の仮定が正しい」は意味が大きく異なります。これは意外と難問かもしれません。次回正解を示します。それまでに考えておいてください・

では、なぜ国語学の論文に非論理的推論が多用されるのでしょうか。それは論文を書く人も査読する人も普段論理を用いないからです。何度も繰り返しますが、論理的であることと頭が良いことは別です。普段論理的な思考をしないでいると論理的にものを考える力が退化して行きます。思考力は筋肉と同じです。使わなければ衰えます。
文学は絵画や音楽の仲間です。理系の学問や法学や経済学と違い、論理より感性が優先されます。ただし、美大の先生は絵画や彫刻を作り、音大の先生は作曲や演奏をしますが、国文科や英文科の先生は普通は自分で詩や小説を書きません。もっぱら鑑賞するだけです。

文学部の先生方は研究対象の詩歌や小説戯曲の中に論理を追うことが稀です。言葉や表現が与える印象に敏感な代わりに、論理に鈍感になっているのではないでしょうか。

そう考えるとAlan Sokalの悪戯の論文がなぜ雑誌の査読を通ってしまったかも理解できます。哲学も文学同様に論理ではなく感性に頼る判断を行なっていたとすればどうでしょう。だから、難解な専門用語や数式や外国語の持つ印象に惑わされ、そこにある論理の誤りを見抜けなかったのではありませんか。

論理が主体の学問分野であれば、読者が追うのは論理の流れだけです。そこに難解な専門用語や外国語が使われていたとしても、それに目を奪われることはありません。推論が論理的かどうかだけを判断します。これに対して、感性が判断を決定する分野では、論理の流れではなく、使われる単語の印象が重要な役割を演ずるのではないでしょうか。だからSokalの悪戯が通ってしまったのではないでしょうか。その論文はインターネット上に公開されていますが、学生が見ても容易に間違いを指摘できるものです。


同じ文章を読んでも、論理で判断する習慣のある研究者は論理の流れを見、感性で判断する習慣のある研究者は文章表現の効果や使われる単語の与える印象に反応してしまう。それがSokalの論文の誤りを見抜けなかった理由ではないでしょうか。

もう一つ付け加えるならば、理系(や恐らく法律などの分野)の研究者は文章の意味は理解できて当たり前と考えます。多義的な表現に出会うことは滅多にありません。そしもあったとすれば書き手の責任ですし、また、その前後を読めば多義性は解消されます。ましてや即座に理解が出来ないような比喩が用いられることはありません。文章が伝える内容は明解であり、難解な部分があるとすれば、その伝える内容がどのような推論でもたらされたかが、途中の省略が多すぎるなどの理由で即座に思い付かない場合です。

一方、文学の場合、多義的に解釈できることがしばしばあり、何らかの比喩表現と推測されても、その比喩が何を表わすかが分からない、あるいは確定しないことがしばしばあります。論語のような哲学書には長い注釈が必要です。その意味が言語が表面的に伝えるものとは大きく違うことも珍しくありません。分からなくて当たり前の世界です。そうであれば、論理を追うことを諦めるのかもしれません。一方、分かって当たり前の世界に住んでいれば、論理が追えれば理解できるのですから、とことん論理を追おうとします。

知人が内田義彦氏の著作を紹介してくれました。氏は経済学史が専門ですが、難解な専門用語の使用が経済学を分かり難くしているとし、外来語や専門語の不必要な使用を戒めています。しかし、理系の学問の場合、難解な用語を使ったために、推論の誤りが隠蔽されることはありません。読者は論理の流れだけを見ていて、用語の難解さに惑わされないからです。そう考えて、ひょっとすると経済学は感性の学問の部分があるのではないかと思い至りました。哲学も、本来は論理を考える学問だったものが、何時の間にか感性の学問になってしまったのではないか。そのように考えていくうちに、Sokalの悪戯が通ってしまったことの理由を理解できました。

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