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2017年1月31日火曜日

ク語法の真実 その5 萬葉学会の査読の妥当性

 2016年9月19日付けの郵便で送付し、同年9月25日付けの葉書で受領の連絡があったク語法の論文「「言はく」は「言ふこと」か」は、萬葉学会の査読者に不掲載と判断され、萬葉学会がその査読を承認しました。不掲載の理由はク語法の真実 その0 萬葉学会の不掲載理由に示しました。萬葉学会の査読の妥当性について考えてみたいと思います。

 理由を再掲します。


所見
論題:「言はく」は「言ふこと」か
評定:不採用

評言:本論はク語法の語構成を「活用語連体形+あく」と捉え、「あく」は四段活用動詞であって、「ものごとの存在が五感を通じてはっきりと知覚される」「その存在がはっきりと知覚される」意味があるとする。

そして、ク語法による名詞句を「~することは明確であるのに/明らかである」として情態副詞「明らかだ」節のように解釈している。

仮説としてアク接尾がもと四段動詞だと考え、その仮設された語義・語性からク語法の用例群を検証するという方法は誤りではない。

さらに、ク語法に対して明確な知覚の表明という、モーダルな意味があると捉える点は興味深い。

しかしながら、本論は仮設動詞アクの語義分析ではなく、ク語法という準体句相当の語法の解析を目指しているはずである。

文法上の名詞句の働きとして、構文上にモーダルな意味が付加されているのか、それともアクそれ自体の語義によっているのかが、本論では明らかではない。

さらに明確な知覚という場合、上代では、「世の中は空しきものと知るときしいよよ益々悲しかりけり」の副助詞「し」は副詞性助詞として「知れば知るほどに」と程度強調を表す例がある。

つまり明確に知られるという場合には、副助詞などによる「とりたて」が存在する。そうしたとりたて表現に対して、ク語法はどのように異なるのかを明らかにしないと、仮設動詞アクの語性を適用しても解釈可能だというだけでは新知見とは言いえない。

また形式名詞の有無に関わらず、明確ではない知覚(けっして朧気というのではない)すなわちplainな知覚に対して特立される形でなければ、「アク」によるク語法の価値がないから、それとの対比がどうしても必要になる。

意見としていえば、仮設動詞アクを想定することは、ク語法による動詞名詞句に具体的な意味傾向を付加することになるが、ク語法という文法的環境下ではその具体性は捨象されて準体句のあり方とは異なり、〇〇のような機能を負担するに至ったという形で改めて立論されるべきものと思う。


 査読者の誤解は次の点です。

5-1 仮説としてアク接尾がもと四段動詞だと考え、その仮設された語義・語性からク語法の用例群を検証するという方法は誤りではない。

 査読者は「逆は真なり」という国語学の論文でしか通用しない論法が証明であると考えているのでしょうか。未知の語の意味を知るには仮説と検証の方法しかありません。未知の言語には辞書も文法書もありません。ある意味を仮定し、それが妥当であるか多数の用例について検証を重ねる。それ以外の方法はありません。

5-2 ク語法に対して明確な知覚の表明という、モーダルな意味があると捉える点は興味深い。

 少なくとも私はこのアクがmodalityを表すと断言していません。ク語法の真実 「言はく」は「言ふこと」か その3 仮説の検証


このことから、アクが証拠性を担う助動詞であると断定してよいかは現時点で判断が付かない。口語訳はアクの意味を強調したが、上代人の語感と同じかどうか。証拠性云々は別にして、助動詞に近いものだったのかもしれない。


と記すに止めました。

 この証拠性はevidentialityの訳語として用いたものです。Palmer (1986)はevidentialityをそれがirrealisであればmodalityに含めていますが、Portner (2009)の著書ではevidentialityをmodalityに分類する立場としない立場を紹介しています。私が書いた論文ではク語法は活用語の連体形にアクという四段動詞が付いたものですが、それが現に知覚されている状態ではrealksですから、Palmerに従うにしてもmodalityとは言えなさそうです。なさそうと書くのは、正直に言って、現時点でこれをeventialityと言って良いのかどうか判断が付きませんし、ましてや、それがmodalityかどうかも私には分かりません。それを明らかにするには様々な角度からの検討が必要です。この論文の扱う範囲を大幅に超えるものです。

5-3 本論は仮設動詞アクの語義分析ではなく、ク語法という準体句相当の語法の解析を目指しているはずである。

 査読者はそう思ったのかもしれませんが、この論文が目指すのはク語法の起源と意味の解明です。なぜそのように誤読したのか分かりません。萬葉学会の編集委員は普通は教えない不掲載の理由を特別に教えたと言いますが、このような誤解に基く不掲載の判定があるのであれば、今後もすべての論文の査読に理由を明らかにすべきです。でなければ、万葉集の解釈に貢献するかもしれない良質の論文が査読者の誤解のために水泡に帰してしまいます。萬葉学会が万葉集の解釈の発展を目指すのであれば、不掲載の場合の理由を開示し、誤解があれば誤解を解くよう努力すべきです。

5-4 文法上の名詞句の働きとして、構文上にモーダルな意味が付加されているのか、それともアクそれ自体の語義によっているのかが、本論では明らかではない。

 論文ではアクがそのような意味であるから構文がそのような意味となると説明しています。査読者はそもそもmodalityをどう捉えているのか。名詞句がmodalな意味を与えるようなmodalityのシステムが世界のどの言語にあるというのか。査読者はmodalityを誤解しているように私には思えます。もしも誤解してないというなら、査読者のmodalityの定義を明らかにしていただきたい。

 言語学におけるmodalityは様相論理(modal logic)と表裏一体のものです。国語学の分野は様相論理と独立にモダリティを考えているようです。それで言語の解釈に問題がなければ様相論理は不要と言う考えもあるようですが、それができないからこそ英語圏では可能世界に基く様相性の定式化が試みられたのです。様相論理の簡潔で正確な説明は小野寛晰(1994)が良いと思います。可能世界についてはLewis (1986)が綿密な議論を展開しています。最近名古屋大学出版会から和訳の『世界の複数性について』が出ました。

 このモダリティについて、編集委員からそれがmodalityと異なるなら査読者の言うモダリティを構文と読み替え、構文を明らかにせよという要求が出ました。しかし構文についてはク語法の真実 「言はく」は「言ふこと」か その3 仮説の検証で50以上の例文の構文を検討しました。これ以上何を書けというのでしょうか。査読者や編集委員は自分の論文でも私が今回検討した以上の多数の用例の構文を検討しているのでしょうか。自分ができないことを他人に要求しているように思えます。

5-5 さらに明確な知覚という場合、上代では、「世の中は空しきものと知るときしいよよ益々悲しかりけり」の副助詞「し」は副詞性助詞として「知れば知るほどに」と程度強調を表す例がある。

 これについては前回触れました。査読者はそう考えるかもしれませんが、それが正しいという根拠はありません。

5-6 つまり明確に知られるという場合には、副助詞などによる「とりたて」が存在する。

 査読者独自の考えを前提にしてしまっています。

5-7 そうしたとりたて表現に対して、ク語法はどのように異なるのかを明らかにしないと、仮設動詞アクの語性を適用しても解釈可能だというだけでは新知見とは言いえない。

 前提が査読者独自の考えである以上、この査読者の主張が正しいという根拠はありません。従来説ではク語法は用言の名詞化であって特別な意味がないとされてきました。しかし「なくに」は詠嘆を表すとされ、その説と矛盾します。

 その長らく説明不能だった「なくに」に対して新しい説明を与えました。それだけでも十分な知見とは言えないのでしょうか。

5-8 また形式名詞の有無に関わらず、明確ではない知覚(けっして朧気というのではない)すなわちplainな知覚に対して特立される形でなければ、「アク」によるク語法の価値がないから、それとの対比がどうしても必要になる。

 私は「はっきりとした知覚」と書きました。そのような知覚の集合の補集合は「はっきりとしない知覚」です。つまり、ぼんやりとした知覚でないことを強調するために「はっきりと」という副詞を用いました。査読者は英語のplainの意味を「限定修飾語が付かない」の意味に解釈しているようです。そうであれば、査読者の言う「plainな知覚」は「はっきりした」でも「ぼんやりした」でもない知覚という意味になりますが、「はっきりした」でない知覚は補集合の意味の説明のとおり「ぼんやりした知覚」です。とすれば査読者の言う「plainな知覚」は空集合です。したがって対比は不要です。

5-9 意見としていえば、仮設動詞アクを想定することは、ク語法による動詞名詞句に具体的な意味傾向を付加することになるが、ク語法という文法的環境下ではその具体性は捨象されて準体句のあり方とは異なり、〇〇のような機能を負担するに至ったという形で改めて立論されるべきものと思う。

 これは地動説の論文に対して地球が静止していることの証明を要求するようなものです。

 査読者はク語法を「ク語法という文法的環境下ではその具体性は捨象され」たものと捉えているようです。従来説はそのとおりです。しかし本稿はク語法に「はっきり知覚される」という意味があるとするものです。地球は静止しているという従来の仮説に対して地球は動いているという新しい仮説を提案するものです。そこでsemantic bleachingについて述べよというのでは、論文のどこをどう読んだのでしょう。

 これに対して、査読者が誤解するような書き方に問題があると言う人もあるかもしれません。そのような議論が成り立つなら、Allan Sokalの論文を掲載したSocial Textの査読に何ら落ち度がなく、価値があるかのように誤解させる書き方をしたSokalに問題があると言うのでしょうか。デタラメの論文を掲載してしまったSocial Textの編集者の判断が誤りです。

 ただし論文が掲載に値するか迷った場合、それを掲載するのは正しいやり方です。疑わしきは罰せずは論文の査読にも言えます。明らかに間違いと言えない場合は掲載して判断を後の研究に委ねるべきです。

 今回の萬葉学会の査読とそれを承認した萬葉学会の行為は、国民の財産である万葉集の正しい解釈の研究の健全な発展を妨害する行為と言えます。


参考文献
David Lewis (1986), On the Plurality of Worlds, Blackwell.
Robert Frank Palmer (1986), Mood and Modality, Cambridge University Press, Cambridge.
小野寛晰(1994)『情報科学における論理』(日本評論社)
Paul Portner (2009), Modality, Oxford University Press.






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