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2017年1月29日日曜日

国語学の論文に特有の非論理的な推論 その6 説得力

C'est un langage estrange que le Basque ...
On dit qu'ils s'entendent, je n'en croy rien.

Basque is really a strange language ...
It is said that they understand one another,
but I don't believe any of it.

Joseph Justus Scaliger (1540-1609)

以上はDeutscher (2005)より引用。

バスク語は実に変わった言語だ・・・
バスク人同士は理解し合うと言うが、私は全く信じない。

 国語学の論文に特有の非論理的な推論という題名でその5まで書き綴ってきました。他分野の研究者から見れば非論理的なことは明らかですが、国語学の研究者同士はその推論で理解し合えています。ということは、そこに何らかの規則性があるはずです。でなければ、国語学の研究者同士の議論が噛み合わなくなってしまいます。つまり、国語学の論文は闇雲に非論理的な推論を積み重ねているのではなく、非論理的ではあるが国語学の学会内では他の研究者を説得するに十分な推論が使われているはずです。そのような非論理的ではあるが国語学の学会内では妥当な推論とされるものを説得力のある推論と呼ぶことにします。国語学の学会の中で非論理的な推論のすべてが妥当とされるのではなく、一部のものだけが説得力を認められているのです。

 ここで「説得力」という言葉を使ったのは論理でなく感情に訴えて信じ込ませる意味にしばしば用いられるからです。理系では使われない言葉ですが、哲学ではどうでしょう。八木沢敬(2014)から引用します。


こういうぐあいに大まかに流れをなぞってみると、この議論はかなり説得力があるようにみえる。多くの論客は、このレベルで説得されて(結論)を受け入れるか、もしくは説得されないままでいながらも議論の欠点を指摘することもできず当惑するか、どちらかである。



これはある程度説得力のある論法のように見えるかもしれないが、非の打ちどころは大いにある。


 ここでも説得力は論理的でなく感情に訴える論法のような印象を与えています。国語学の論文の例を金水敏(1989)から引用します。


これは説得力のある説明であり,多くの研究者に影響を与えた学説となった。しかしながら,ここに疑問を呈したい。


 やはりここでも論理的に正しいという意味ではなく一見正しく見えるという意味に使っているようです。国語学会特有の推論を表すに妥当な言葉と思います。

6.1 説得力の一 逆は真なり
 説得力のある推論の第一は「逆は真なり」です。論理的な推論は「逆は必ずしも真ならず」ですが、国語学では単語の意味の推定にこの「逆は真なり」がしばしば用いられます。かくばかり恋ひつつあらずは その0 仮説と検証に書いた「かめや」の方法です。国語学の論文に用いられたものは国語学の論文に特有の非論理的な推論に濱田敦(1948a)の例を示しました。濱田氏に個人的な恨みがあるわけでは勿論ありません。同様の例は国語学の論文に多数あります。存命著者の場合は気分を悪くされるのではないかと考えたからです。

 この論法を論理式で書くと次のようになります。

A⊃B, B ⊢ A

AならばBである。Bである。従ってAである。

お前が私の財布から金を盗めば私の財布に金がない。私の財布に金がない。従ってお前が盗んだのである。

「な」が願望の意味であるという仮定が正しければ歌意が通る。歌意が通る。従って「な」が願望の意味であるという仮定が正しい。

 どれも同じです。単なる検証の不十分な仮説なのですが、国語学ではこの方法がしばしば証明の如く扱われます。

6.2 説得力の二 現代語を基準にしたりしなかったり
 国語学でしばしば用いられる非論理的な推論は国語学の論文に特有の非論理的な推論 その5 現代語を基準とする時としない時に書いたものです。国語学の巨人である橋本進吉氏の論文、橋本進吉(1951)から例を引用しました。「かくばかり恋ひつつあらずは」の「あらずは」を現代語の「いないでは」に対応させる説明です。しかしこれは簡単でありません。橋本氏の推論が正しいためには「あらず」と「いない」、「あらずは」と「いないでは」、上代語の「は」と現代語の「は」のすべてが一対一に対応することが証明されなくてはなりません。しかしそのような証明を橋本氏は行なっていませんし、橋本氏以前に行なわれてもいません。とすると、現代語を基準にする方法は非論理的な推論ですが、国語学では説得力を持ちます。

 この方法で問題なのは、上代語と同じ用法が現代語にないときです。その場合に橋本進吉(1951)は「古代に於てはかやうな場合にも打消の場合と同等に「は」が用ゐられたものと見られるのである。」で片付けています。対応する表現が現代語にあれば、現代語でそういう言い方をするのだから上代語でもそういう言い方をしたのだと言い、対応する表現が現代語になければ、現代語がそういう言い方をしないからと言って上代語もそういう言い方をしなかったとは言えないと言う。実に自分勝手な論法です。理系の世界ならば「ちょっと待ってください」ですが、国語学の世界ではそれでも説得力を持つのが不思議です。

6-3 説得力の三 加重多数決
 他の研究者の記述も強い説得力を持ちます。たとえその記述が何ら論理的な推論の結果でなくともです。これは文学や芸術分野の感性による判断の影響だと考えます。ある絵や彫刻を見て、ある音楽を聴いて、それを美しいと感じるかどうかは個人的な感覚です。その場合は多数決が意味を持ちます。しかし論理の世界は別です。天動説と地動説で多数決をとる意味はありません。科学は文学や芸術のような感性で決定されるものでないからです。

 他の研究者が歴史に残る大御所であれば多数決に一人数票の効果があることは言うまでもありません。それが加重の意味です。しかし理系の世界ではノーベル賞学者の意見でも間違いは間違いです。昔の学会誌には論文について書簡で討論が行なわれることがありましたが、ノーベル賞受賞者のある研究者が熱力学の第二法則について学生並みの間違った解釈をしているのを見たことがあります。他の研究者から誤りを指摘されていました。このように論理が支配する世界では大御所であろうと駆け出しであろうと誰が言ったかではなく何を言ったかが基準で判断されます。その点で国語学は科学の世界と異なっています。

6-4 説得力の四 仮定の追加
 国語学の論文に特有の非論理的な推論 その3 歌意が通ることに書きましたが、願望の「な」は願望と解せない場合があります。そのために新たな仮説を追加して、主語の人称に応じて意味が変わると仮説を修正しています。理系の世界ではこのような仮定の追加は仮説の信憑性を失わせます。例えば天動説は惑星の運動を説明するため、惑星を内惑星と外惑星に分け、それぞれについて仮定を付け加えています。しかし国語学ではこのような仮定の追加は大目に見られるようです。一見して他に説明する仮説がなければ、その仮説が絶対的に正しい、現実と合わないのは仮定が足りないのだ、だから仮説を修正するしかない、という論法かもしれません。理系の世界ではその場合、その仮説の正しさを疑い、他の仮説を考えます。

6-5 説得力の五 早い者勝ち
 萬葉学会へ投稿したク語法の論文はク語法の真実 その0 萬葉学会の不掲載理由に示したように、大変残念な結果になりました。正直言って悔しく思います。論文を書くためにどれだけの時間と労力を費やしたか。それを査読者の信じる仮説と違うという理由だけで拒絶されました。しかもその査読者の判断を萬葉学会が承認しました。全く不当な判断だと思います。

 その後の萬葉学会とのやり取りで「従来説でもク語法を説明できている」という意味(文言は違います)の指摘を受けました。天文学にたとえれば次のような論法です。惑星の運動は天動説で説明が出来ている。地動説は後から出てきた説だから、天動説に対して優位性を示さなくてはならない。ここまで理不尽なことを言われるとは思いませんでした。理系の世界では天動説に対して地動説を提出することはそれだけで価値があります。同じ現象を違う仮説で説明できるからです。何らかの有意性はその後の比較検討の中で示されるものです。それが国語学の学会の論法だから従えと言うのなら、私は反論します。その論法は科学でないからです。国文学は芸術かもしれませんが、国語学は言語に関する科学です。そこに必要なのは論理的な推論であって、感覚的なあるいは感情的な説得力ではありません。

6-6 説得力の六 理由無き断定
 論理に窮した場面で特に用いられるのが理由を示さず断定することです。論理がないのだから理由を示しようがありません。断定することで一見絶対的真理であるかのような印象を与えます。論理に窮した劣勢から起死回生の妙手に見えますが、通じるのは論理に疎い相手だけです。

 ク語法の真実 その0 萬葉学会の不掲載理由に示された次の文言です。


そうしたとりたて表現に対して、ク語法はどのように異なるのかを明らかにしないと、仮設動詞アクの語性を適用しても解釈可能だというだけでは新知見とは言いえない。


 「新知見とは言いえない」と断言していますが、理由は示されていません。とりたて表現云々は査読者独自の意見ですが、仮にそれが正しかったとしても、それとの違いを明らかにしないと何故新知見と言いえないのでしょう。恐らく査読者自身が理由を「言いえない」のではないでしょうか。同様の方法は「説得力の二」に示した橋本進吉氏の「と見られるのである」にも言えます。論理に疎い読者に対してだけ有効ですが、論理に窮した場面を救う起死回生の修辞法です。

 芥川龍之介の『侏儒の言葉』の「批評学」に興味深い記述があります。Mephistophelesが言う「半肯定論法」も同類でしょう。「畢竟それだけだ」の理由が示されていません。「木に縁って魚を求むる論法」はまさに萬葉学会の査読のモダリティ云々や文法化云々がそれでした。

 最初に戻りますが、バスク語は非論理的でありません。バスク語は近隣のフランス語やスペイン語から見て異質な言語です。日本語や英語、フランス語、スペイン語は対格性言語ですが、バスク語は能格性言語です。Dixon (1994)の用語を用いて、他動詞の動作主をA、他動詞の動作対象をO、自動詞や述語形容詞の唯一の項をSとします。現代日本語はAにガ格を、Oにヲ格を、Sにガ格を用います。ガ格が主格であり、ヲ格が対格です。このような言語の性質を対格性と言います。これに対して、Aに能格(ergative)を用い、OとSに絶対格(absolutive)を用いる言語の性質を能格性と言います。この程度のことはWikipediaにも書いてありますが、対格性や能格性という現象はさらに奥が深いのです。それだけで専門書が一冊書ける程です。

 さわりだけを説明しても何が何だか分からない能格性ですが、そのために欧州でバスク語が難解とされてきたのです。しかしバスク語は対格性言語と同じ程度に論理的です。そこがバスク語と国語学の論文に用いられる推論の違いです。

(つづく)

 最後に重要な注意点があります。ネットは著作権を放棄したと考える人もいるようですが、それは違います。また、著作権が放棄されたものならば無断引用は可能と考える人もいるようですが、それも違います。その点、十分にご注意ください。本ブログのすべての記事および本稿の著作権は著者である江部忠行が保有するものです。殆どの人にこのような注意書きが不要なのですが、ほんの僅かな人がいるために書かなくてはなりません。まあ、そういう裁判を起こせばこの研究が注目されるかもしれないというメリットはあります。

参考文献

濱田敦(1948a) 「上代に於ける願望表現について」 『國語と國文學』 25(2)
橋本進吉(1951) 「上代の国語に於ける一種の『ずは』について」 『上代語の研究』 (1951 岩波書店)
金水敏(1989)「「報告」についての覚書」『日本語のモダリティ』(くろしお出版)
Robert M. W. Dixon (1994), Ergativity, Cambridge University Press
Guy Deutscher (2005), The Unfolding of Language, William Heinemann, London.
八木沢敬(2014)『神から可能世界へ』(講談社)

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