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2016年12月6日火曜日

かくばかり恋ひつつあらずは その6 仮説の検証 マシ型

「ずは」の語法の解釈で重要な役割を演ずるのは次の二つの式です。

(¬A⊃B) ≡ (A∨B)   (6.1)
(¬A⊃B) ≡ (¬B⊃A)   (6.2)

式(6.1)は式(2.2)から、式(6.2)は式(2.6)から、それぞれA=¬Aを代入することで得られます。

例文1-1を6-1として再掲します。

6-1 かくばかり恋ひつつあらずは高山の磐根しまきて死なましものを   万02-0086

ここで

¬K = [かくばかり恋ひつつあらず]
S = [高山の磐根しまきて死なまし]

とすれば、6-1は

¬K⊃S    (6.3)

と単純な形になります。対偶(式(6.2))をとれば、

¬S⊃K    (6.4)

です。

式(6.3)に鈴木一彦(1962)の現代語訳「(今、私ハ家ニイテアナタヲ待ッテイマスガ)モシコンナ状態デ恋イ慕ッテイナイトスレバ、(私ハ今ニモアナタヲ迎エニ出カケテ行ッテソノ結果行キタオレテ)高山ノ岩根ヲ枕ニシテ死ンデシマウデショウモノヲ(ジットコラエテ私ハアナタヲ恋イ慕ッテイルノデス)」を適用すると、

¬K = [こんな状態で恋い慕っていない]
S = [高山の岩根を枕にして死んでしゅまうでしょう]

となります。鈴木一彦(1962)は「かくばかり」を「こんな状態で」と見ました。

本稿は「かくばかり」が状態ではなく思いの強さの程度を表すと考えます。

6-2 早く行かないと間に合わない。

6-2の前件の「早く行かない」の意味は出発しないことでなく出発が遅れることを指します。とすれば、¬Aは「恋ひつつある」程度が「かくばかり」未満を意味します。未満ですから、程度がゼロ、すなわち全く「恋いつつあらず」の場合を含むことは言うまでもありません。

このように仮定すると6-1は次のように解釈されます。

解釈6-1a これほど恋していないならば(今頃は)高い山の岩を枕にして死んでいることでしょうに

この歌は「恋が辛いから死にたい」という単純なものではありません。磐姫作とされる前後の歌を見てみましょう。

6-3 君が行き日長くなりぬ山たづね迎へか行かむ待ちにか待たむ   万02-0085
6-4 ありつつも君をば待たむ打ち靡くわが黒髪に霜の置くまでに   万02-0087
6-5 秋の田の穂の上に霧らふ朝霞何処辺の方にわが恋ひ止まむ   万02-0088

つまり恋が辛いのではなく、待つのが辛いのです。辛さで死にそうですが、愛する人を思う気持ちを支えに耐えているのです。耐えられるのは思う気持ちが強いからですが、もしもその気持ちがこれほど強くなかったら、とうの昔に死んでいたことでしょう。そう歌っていると私は考えます。

式(6.3)に式(6.2)を適用して式(6.4)から

解釈6-1b 私が待つ辛さに耐えて何とか生きていられるのもあなたを思う気持ちがこれほど強いからです

この歌を4首の歌群から独立して扱えば、次のようにも解釈できます。

解釈6-1c あなたは私を散々辛い目に逢わせました。普通なら悲観して死んでいるところです。私が高い山の岩場に葬られている姿を想像してください。しかし私はあなたをこれほど強く慕っています。だから堪えていられるのです。酷い目に遭っても死んでいないということはそれだけ愛情が強いからです。あなたに相応しい女は私しかいません。

解釈6-1cが成立するとすれば、相手の行動を非難して反省を促し、同時に自らの強い愛情を示して恋敵を退けるという複雑な内容を三十一文字で巧みに表現したものと言えます。だからこそ巻二の巻頭の四首の中に置かれ、「かくばかり恋ひつつあらずは」で始まる多数の類歌を生んだのかもしれません。解釈6-1cはやや深読みすぎるかもしれませんが、参考のために記しました。

「かくばかり恋ひつつあらず」で始まる他の歌も全く同じ構文であり、「これほど恋していないならば・・・(既に)となっている」かつ「・・・でない事実はこれほど恋している証拠である」と解釈されるべきです。

6-6 我妹子に恋ひつつあらずは秋萩の咲きて散りぬる花にあらましを   万02-0120

これも通釈のような「恋に苦しむぐらいなら花になりたい」ではありません。恋の辛さを嘆くのではなく恋愛賛歌です。

解釈6-6 あの子に恋していないならば秋萩のように咲いて散ってしまう花(のような存在)であったろうに(恋しているからこそ充実した人生を生きている)

6-7 後れ居て恋ひつつあらずは紀の国の妹背の山にあらましものを   万04-0544

通釈は「(夫に付いて行かずに)残って思っているぐらいなら(思っていずに)妹背の山でありたい」ですが、本稿の仮説に従い形式的に現代語訳すると、次のようになります。

解釈6-7a 後に残って(夫のことを)思っていないならば紀の国の妹背の山になっているでしょうに

しかし、これでは現代語として意味が通じません。6-7の論理構造は

¬K⊃I   (6.5)
¬K = [後れ居て恋ひつつあらず]
I = [紀の国の妹背の山にあらまし]

です。式(6.1)を式(6.5)に適用すると

(¬K⊃I) ≡ (K∨I)

となります。「恋ひつつあり」と「妹背の山にあらまし」の二つの選択肢がありますが、後者は不可能です。したがってこの論理構造は、選択肢が一つしかないことを強調するものです。同様の論理構造の歌は後に紹介しますが、他にも幾つかあります。上代人は現代人が論理式に書いてやっと理解できる言語の論理を即座に理解できたとするのが前節の仮定3です。

その点を考慮して現代語訳すると次のようになるでしょう。

解釈6-7b 後に残って(夫のことを)思っていないとすれば紀の国の妹背の山になっているしかない(しかしそれは不可能だから、私はここであなたを思って待っているしかない)

6-8 かくばかり恋ひつつあらずは石木にもならましものを物思はずして   万04-0722

この歌も6-7と同様に解釈できます。

解釈6-8 これほど恋していないとすれば、ものを思わない石や木になっていることでしょうに(しかしそれは不可能だから、これほど恋していることを逃れられない)

6-9は大伴坂上郎女が聖武天皇に贈った歌です。

6-9 外に居て恋ひつつあらずは君が家の池に住むといふ鴨にあらましを   万04-0726

この歌も6-7や6-8と同じ論理構造です。

解釈6-9 外に居て恋していないとすればあなたの家の池に住むという鴨として存在しているでしょうに(しかしそれは不可能だから、私は離れた場所からあなたを思って待っているしかない)

6-10 後れ居て長恋せずは御園生の梅の花にもならましものを   万05-0864

解釈6-10 取り残されて長いこと恋しがっていないとすれば御園生の梅の花になっていることでしょうに(しかしそれは不可能だから、私はこうして恋しがっているしかない)

6-11 言繁き里に住まずは今朝鳴きし雁にたぐひて行かましものを   万08-1515

解釈6-11 噂の絶えない里に住んでいないとすれば今朝鳴いていた鴨と一緒に飛び去っていることでしょうに(しかしそれは不可能だから、私はこの噂の絶えない里に住み続けるしかない)

以上の6-7から6-11の歌は式(6.1)の示す選択肢の限定ですが、いずれも後件は不可能です。したがって、現実的な選択肢は前件の肯定以外にありません。このように二つの選択肢の一方が不可能な場合、その意味は残る選択肢が必然であることを強調して述べるものと考えます。

6-12 秋萩の上に置きたる白露の消かもしなまし恋ひつつあらずは   万08-1608

解釈6-12 秋に咲く萩の花の上に降りた白露のように消えてしまっているのだろうか、恋していないならば

けして消えてしまいたいと願っているのではなく、恋しているからこそ生きていると詠者は考えているのです。

6-13 秋の穂をしのに押しなべ置く露の消かもしなまし恋ひつつあらずは   万10-2256

解釈6-13 秋の稲穂を隙間なく押し傾けて降りた露のように消えてしまっているのだろうか、恋していないならば

6-14 秋萩の枝もとををに置く露の消かもしなまし恋ひつつあらずは   万10-2258

解釈6-14 秋に咲く萩の枝もたわわに降りた露のように消えてしまっているのだろうか、恋していないならば

6-15 長き夜を君に恋ひつつ生けらずは咲きて散りにし花ならましを   万10-2282

解釈6-15 長い夜の間あなたのことを思って生活していないならば咲いて散ってしまった花になっていたでしょうに

詠者は花になりたいのではなく、恋しているからこそ生まれて死ぬだけの人生を送らずにすんだと考えています。

6-16 かくばかり恋ひつつあらずは朝に日に妹が踏むらむ地にあらましを   万11-2693

解釈6-16 これほど恋していないとすれば朝に昼にあの子が踏むだろう土として存在しているだろうに(しかしそれは不可能だから、これほど恋していることを逃れられない)

これも宣長説や橋本説のように土になりたいというのではなく、6-7から6-11の歌と同じく、選択肢を現状の前件と実現不能な後件に限定することで前件が必然であることを強調しています。

6-17 白波の来寄する島の荒礒にもあらましものを恋ひつつあらずは   万11-2733

解釈6-17 白波が寄せ来る島の荒涼とした磯にいることだろうに、恋していないならば

この歌は一種の恋愛賛歌であって、恋しているからこそ自暴自棄にならずにいられると歌ったものと考えます。

6-18 なかなかに君に恋ひずは比良の浦の海人ならましを玉藻刈りつつ   万11-2743

解釈6-18 中途半端な気持ちであなたに恋していないとすれば、比良の浦の漁師になっているでしょう、玉藻を刈り続けて

6-19 いつまでに生かむ命ぞおほかたは恋ひつつあらずは死なましものを   万12-2913

解釈6-19 いつまで生きる命なんだろう、概ね、恋していないとすればもう死んでいるようなものなのに

これも恋こそが人生だという考えが根底にあると考えます。

6-20 なかなかに人とあらずは桑子にもならましものを玉の緒ばかり   万12-3086

解釈6-20 中途半端に人間でないとしたら蚕になっていることだろうに、あの玉の緒ほどの長さしかない蚕に

詠者は次のように考えたのでしょう。

自分は半人前の人間である。できれば他人から尊敬される立派な人間になりたい。しかし半人前の人間であるのは自分の精一杯の努力の結果である。もしもそうでないとすれば、人間以外のものでしかない。小人物の自分よりも更に小さな存在である蚕ぐらいだろう。玉の緒ほどの長さしかないあの蚕である。とすれば、半人前でもまだ幸せというものである。

けして蚕になりたいとは詠者は思っていないと考えます。むしろ半人前の自分を肯定しています。

6-21 後れ居て恋ひつつあらずは田子の浦の海人ならましを玉藻刈る刈る   万12-3205

これも二者択一です。

解釈6-21 取り残されて恋していないとすれば田子の浦の漁師になっているだろう、玉藻を刈り続けて

当時の貴族の感覚では海人になることは考えられないことだったかもしれません。そうであれば、貴族にとって海人になることは実現不能です。とすれば、6-18と6-21はともに現実が必然であると強調している意味になります。つまり6-7から6-11や6-16と同じ論理構造です。

マシ型に共通するのは、事実はそうだが、もしも現在あるいは過去にそうでなかったとしたら、という反事実の仮定条件です。

(追記)

以下の歌にかんして、私は断定を避けていました。

6-9 外に居て恋ひつつあらずは君が家の池に住むといふ鴨にあらましを   万04-0726

当初は次のように解釈しました。


解釈6-9(旧版) 外に居て恋していないとすればあなたの家の池に住むという鴨として存在しているでしょうに

これも式(6.1)の選択肢の限定です。今はあなたの家から離れた場所で恋い慕っている。そうでなくあなたの家の敷地の中にいるとすれば人間ではなく池に住むと言う鴨の一羽として存在しているでしょう。自分を卑下しているのか、鴨になってでも家の中にいたいのか、鴨などになりたくないから今の状況を肯定するのか。そのいずれであるかは分かりません。


これに対して、三重県の鈴木昌司氏から、人間が鴨になることは今も昔も不可能である、同様の解釈を他の歌にも適用すべきである、という趣旨の指摘を受けました。鈴木氏の指摘の通り、現代だろうと上代だろうと、人間が鴨になることは不可能です。従来説を乗り越えるつもりが、従来説に引きづられていたと反省しました。6-10、6-16、6-18も同様に改めました。

(つづく)

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参考文献(刊行順)
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石垣謙二(1942) 「作用性用言反発の法則」 『国語と国文学』 『助詞の史的研究』(1955 岩波書店)
濱田敦(1948) 「肯定と否定―うちとそと―」 『国語学』 1
橋本進吉(1951) 「上代の国語に於ける一種の『ずは』について」 『上代語の研究』(1951 岩波書店)
林大(1955) 「萬葉集の助詞」 『萬葉集大成 第6巻 言語編』 (平凡社)
鈴木一彦(1962) 「打ち消して残るところ - 否定表現の結果」 『国語学』
田中美知太郎(1962) 『ギリシア語入門』 岩波書店
Michael L. Geis and Arnold M. Zwicky (1971), On Invited Inferences, Linguistic Inquiry
吉田金彦(1973) 『上代語助動詞の史的研究』 明治書院
佐藤純一(1985) 『基本ロシア語文法』(昇竜堂出版)
大野晋(1993) 『係り結びの研究』 (岩波書店)
Robert M. W. Dixon 1994, Ergativity, Cambridge University Press
伊藤博(1995)『万葉集釈注』全20巻 集英社 1995-2000
小柳智一(2004) 「『ずは』の語法 仮定条件句」 『萬葉』 189
栗田岳(2010) 「上代特殊語法攷 『ずは』について」 『萬葉』 207

注釈書
体系 日本古典文学大系 『万葉集 1』 岩波書店(1957)
新編全集 新編日本古典文学全集 『万葉集 1』 小学館(1994)
新体系 新日本古典文学大系 『万葉集 1』 岩波書店(1999)

(本ブログのすべての記事および本稿の著作権は記事の著者である江部忠行に属します) 

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