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2016年12月11日日曜日

かくばかり恋ひつつあらずは その8 考察

「ずは」の構文は「AせずはB」の形をとります。「AデナイナラバB」は式(6.1)が示すとおり

 (¬A⊃B) ≡ (A∨B)   (6.1)

「AマタハB」という包含的論理和と同値です。数理論理学で式(6.1)の左辺は右辺の略記と定義されます。かくばかり恋ひつつあらずは その6 仮説の検証 マシ型で述べた例文を再掲します。

6-1 かくばかり恋ひつつあらずは高山の磐根しまきて死なましものを   万03-0086
構造6-1 ([かくばかり恋ひつつあり]∨[高山の磐根しまきて死なまし])ものを

かくばかり恋ひつつあらずは その2 命題論理で説明しましたが、記号“V"は包含的論理和ですから、AとBの両方が同時に成立する場合を含みます。しかしこの歌の場合意味的に並存できません。[かくばかり恋ひつつあり]か[高山の磐根しまきて死なまし]のいずれか一方が選択されます。

次の歌は選択肢が制限されます。

6-11 言繁き里に住まずは今朝鳴きし雁にたぐひて行かましものを   万08-1515
構造6-11 ([言繁き里に住む]∨[今朝鳴きし雁にたぐひて行かまし])ものを

人間は雁のように飛び去ることができません。後件の[今朝鳴きし雁にたぐひて行かまし]は実現不能です。この構文の意味はA(前件の否定)が不可避であることの強調です。

6-21 後れ居て恋ひつつあらずは田子の浦の海人ならましを玉藻刈る刈る   万12-3205
構造6-21 ([後れ居て恋ひつつあり]∨[田子の浦の海人ならまし])を

詠者が海人になることは理論的には実現可能です。しかし海人は当時の貴族にとってとてもなりたいとは思わない身分であったでしょう。とすれば、この構文もAが不可避であることの強調です。

次の歌はAが実現不能です。

8-1 三輪山の山下響み行く水の水脈し絶えずは後も我が妻   万12-3014
構造8-1 ([三輪山の山下響み行く水の水脈し絶ゆ]∨[後も我が妻])
解釈8-1 ・・・水脈が絶えない限り(あなたは)将来我が妻

三輪山の麓を流れる泊瀬川の急流を詠んだとされます。その水脈が絶えることなど考えられないと詠者は見ています。Aが実現不能ですから、この構文はBが必然であることの強調です。

なお上代語の「も」は現代語と異なり添加の意味と限りません。この歌は現在妻であり将来も妻であるという意味ではありません。現代語で「船もなし」と言えば他のものがなくその上船もないという意味ですが、上代語では単に船がないという意味になります。「も」の詳細な考察については別稿とします。

8-1と6-11の違いは実現不能なのがAかBだけです。実現不能でない残りの選択肢が不可避つまり必然であることの強調という点で同じです。

では従来説がなぜ8-1を通常の仮定条件文として扱い、6-11などを特殊な「ずは」としたか。ひとつは「まし」を願望と捉えたためですが、もうひとつは式(6.1)の意味に敏感でなかったためと考えます。上代人には当然の論理に現代人が気付かなかったのです。

しかし現代人も同様の表現をします。

8-2 太陽が西から昇らない限り試合に負けない。

8-3 あの人が喜ばなかったらこの夏の盛りに雪が降るよ。

8-2は「絶対に負けない」と同じ意味ですし、8-3は「必ず喜ぶ」と同じ意味です。それぞれ、A(太陽が西から昇る)とB(真夏に雪が降る)が実現不能ですから、選択肢はB(負けない)とA(喜ぶ)に限られます。

上代の「まし」の意味は仮定(反実仮想)と願望です。願望の例を示します。

8-4 吾を待つと君が濡れけむあしひきの山のしづくに成らましものを   万02-0108

願望の意味は条件文の前件または後件が独立したものと考えます。かくばかり恋ひつつあらずは その5 条件文で同様な表現がロシア語にあることを既に示しました。

次の例を考察します。

8-5 太郎が来ていたら。

8-6 太郎が来ていたら花子は喜んだだろうね。

8-7 太郎が来ていたらパーティが台無しになっていた。

8-5は願望ですが、8-6と8-7の条件文の中では単に条件を示すに留まります。条件文から独立して初めて願望の意味が生じます。とすれば、「ずは」の構文の「まし」も条件文の中では仮定と考えるべきでしょう。条件文から離れたからこそ新しい意味が生じたのです。

現代語に後件だけで願望などの意味を表す用法がないのは「たら」のような指標がないためです。しかし上代語には「まし」という指標がありました。だからこそ後件だけで独立して用いて願望の意味を付加できたのです。

この考えを更に進めると願望の助詞とされる「てし」「もが」も仮定の助動詞でなかったかという推測に至ります。モガ型はかくばかり恋ひつつあらずは その7 仮説の検証 ム型、ベシ型、テシ型、モガ型で検討した一例のみですが、テシ型は他に万葉集に次の歌があります。これは父が息子に贈った歌とされています。

8-8 家にして恋ひつつあらずは汝が佩ける大刀になりても斎ひてしかも    万20-4347
構造8-8 ([家にして恋ひつつあり]∨[汝が佩ける大刀になりても斎ひてし])かも
解釈8-8 家で恋しがっていないとすればお前の太刀になって守っているということか(しかし人間が太刀になど成れるはずもないから、こうして家でお前を案じているよりない)

この歌も他に実現不能な選択肢しかないことを示し、前件の「家にして恋ひつつあらず」が不可能、つまりその否定(¬¬A ≡ A)の「家にして恋ひつつあり」が必然であることを示したものです。

もちろん従来説のように、二つの「ずは」を仮定し、一方は条件文とし、他方は条件文でないとする仮説も可能です。しかしそれは天動説が惑星の運動を説明するために仮説を複雑化したのと同じです。仮説は単純であり多数の例に適用可能なものが優れるのです。その上に従来説に従うと「かくばかり恋ひつつあらずは」や「験なきものを思はずは」の歌の意味が単純化されてしまいます。上代人はそんな単純な歌を選んで後世に残そうとしたのでしょうか。本稿の仮説に従った解釈は従来の仮説に従った解釈よりも万葉集の歌の深い意味に迫っていると私は考えます。

最後に重要な注意点があります。ネットは著作権を放棄したと考える人もいるようですが、それは違います。また、著作権が放棄されたものならば無断引用は可能と考える人もいるようですが、それも違います。その点、十分にご注意ください。本ブログのすべての記事および本稿の著作権は著者である江部忠行が保有するものです。殆どの人にこのような注意書きが不要なのですが、ほんの僅かな人がいるために書かなくてはなりません。まあ、そういう裁判を起こせばこの研究が注目されるかもしれないというメリットはあります。

参考文献(刊行順)
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鈴木朖(1824) 『言語四種論』
Hermann Paul (1920), Die Prinzipien der Sprachgeschichte
大岩正仲(1942) 「奈良朝語法ズハの一解」 『国語と国文学』 19(3)
石垣謙二(1942) 「作用性用言反発の法則」 『国語と国文学』 『助詞の史的研究』(1955 岩波書店)
濱田敦(1948) 「肯定と否定―うちとそと―」 『国語学』 1
橋本進吉(1951) 「上代の国語に於ける一種の『ずは』について」 『上代語の研究』(1951 岩波書店)
林大(1955) 「萬葉集の助詞」 『萬葉集大成 第6巻 言語編』 (平凡社)
鈴木一彦(1962) 「打ち消して残るところ - 否定表現の結果」 『国語学』
田中美知太郎(1962) 『ギリシア語入門』 岩波書店
Michael L. Geis and Arnold M. Zwicky (1971), On Invited Inferences, Linguistic Inquiry
吉田金彦(1973) 『上代語助動詞の史的研究』 明治書院
佐藤純一(1985) 『基本ロシア語文法』(昇竜堂出版)
大野晋(1993) 『係り結びの研究』 (岩波書店)
Robert M. W. Dixon 1994, Ergativity, Cambridge University Press
伊藤博(1995)『万葉集釈注』全20巻 集英社 1995-2000
小柳智一(2004) 「『ずは』の語法 仮定条件句」 『萬葉』 189
栗田岳(2010) 「上代特殊語法攷 『ずは』について」 『萬葉』 207

注釈書
体系 日本古典文学大系 『万葉集 1』 岩波書店(1957)
新編全集 新編日本古典文学全集 『万葉集 1』 小学館(1994)
新体系 新日本古典文学大系 『万葉集 1』 岩波書店(1999)

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