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2016年12月5日月曜日

かくばかり恋ひつつあらずは その4 従来説の検討

本節の目的は従来説の論理構造を明らかにすることです。

特殊でない「ずは」の例をあげます。

4-1 見わたせば近きものから岩隠りかがよふ玉を取らずはやまじ    万06-0951

4-1を論理式で書けば、

T = [玉を取る]
Y = [止まむ]

として、

¬T⊃¬Y    (4.1)

です。これは仮定条件文です。

「ずは」の構文の中には条件文として解釈できない特殊なものがあるというのが宣長説や橋本説です。宣長は万葉集から24首の例をあげました。その中で結果節に「まし」があるものが17首あります。これをマシ型とします。マシ型は稿者が数えると万葉集中に22首ありました。そのうち宣長の24首から漏れたものは5首しかありません。

マシ型のうち特に問題となるのが次の例です。

4-2 なかなかに人とあらずは桑子にもならましものを玉の緒ばかり    万12-3086

これを4-1と同じ条件文と解釈し、「まし」を願望の意味とすると、次のようになります。

¬H⊃K    (4.2)

ここで、

¬H = [なかなかに人とあらず]
K = [桑子にもならまし]

です。すると既に人間でない状態で蚕になることを願うという奇妙な意味になります。これが「ずは」の語法が難解とされてきた理由です。それを解決するために様々な仮説が提出されてきました。

宣長説の「んよりは」はその解決手段の一つです。つまり、

H = [なかなかに人とあらむ]

として、¬Hの「ず」を未来の状態と見るのです。

否定条件文が選択肢を限定することは既に述べました。式(4.2)は式(2.2)を用いて次のように変形できます。

¬H⊃K ≡ H∨K     (4.3)

式(4.4)は[なかなかに人とあらむ]マタハ[桑子にもならまし]と選択肢を限定するのみで、どちらか一方が選ばれることまでは表現しません。

式(4.3)の選択肢からKを選ぶというのが宣長説です。そうであれば4-2は次のように表現できます。

(¬H⊃K)⊃E(K)   (4.4)

ここで

E(X) = [Xを選んで実行する」

です。

とすると宣長説は仮定条件文の痕跡を残しています。これが多くの解説書に好まれる理由かもしれません。

橋本説は特殊な「ずは」を初めから条件文とは見ません。特殊な「ずは」の「は」は軽く添えたものと言います。たとえば4-2を

¬H∧K    (4.5)

と解釈します。橋本説が問題とするのは次の例です。

4-3 立ちしなふ君が姿を忘れずは世の限りにや恋ひわたりなむ    万20-4441

宣長説を4-3に適用すると、

(¬W⊃K)⊃E(K)   (4.6)

と書けます。

橋本説は

¬W∧K     (4.7)

となります。積極的に忘れないことを意図します。

¬A⊃Bの構文で宣長説の現代語訳が好ましいとされる条件は、第一にAとBのどちらも好ましくない場合、第二にAとBが意味の上で対立し、Bを選べば自動的Aが棄却される場合です。第一の場合、辛うじてBを選ぶという点で宣長説の「よりは」が活きます。第二の場合、宣長説と橋本説は意味の上で殆ど同じです。橋本説が好ましいのはAが好ましくなくBが好ましい例文4-3のような場合です。しかし4-3は宣長の24首に含まれていません。書き忘れでなければ、たぶんそのようなことはないと思いますが、宣長は4-3を特殊な「ずは」と看做していなかったことになります。

宣長説と橋本説はすべての「ずは」に一律に適用できません。例えば、4-1に適用すると、それぞれ、「玉を取らむよりはやまじ」、「玉を取らずしてやまじ」となり意味をなしません。だからこそ、特殊な「ずは」の存在を仮定したのでしょうが、上代人の言語の論理はそれを許容するほど曖昧であったでしょうか。

濱田説は

¬A⊃B     (4.8)

の構文のうち特殊な「ずは」とされるものの意味を

A⊃B     (4.9)

と解釈するものです。

本来Aとすべき前件を¬Aと発話した理由を濱田敦(1948)は「「こんなにいつまでも徒に恋に悩んでいたくない」という気持が話者に存する為に、それが打消の「ず」となって、現るべからざる「かくばかり恋ひつつあらば」という条件句の中に置かれるに至ったもの」と述べ、その例としてPaul (1920)の例文を引用しています。

しかし、このような非論理的否定をPaulは混成(Kontamination)と説明しています。感情ではありません。Paulの説明を要約すると以下のようになるかと思います。複文は独立した単文から作られるが、dassで導かれる副文に元の単文の否定辞が残された。その痕跡が18世紀のドイツ語の中にも残っている。ドイツ語の原文は以下にあります。

Paul (1920)の説明を日本語で行なえば次のようになるでしょう。

4-4 火事にならないか。
4-5 心配である。
4-6 火事にならないかと心配である。

4-4と4-5の単文から4-6の複文が作られる時、単純に二つの文を並べたために4-6のように元の文の否定辞が持ち込まれたのです。それがKontaminationです。このような現象はギリシア語にもあります。恐怖や危惧を表す動洞が主文にある時、内容を表す従属節は否定辞μήで導かれます。たとえば田中美知太郎(1962)に説明があります。なお、この本を引用したのは私が大学の教養課程で古典語を履修したときの参考書だったからです。現在はもっと良い本があると思います。

上のリンク先を読めばPaul (1920)を濱田(1948)が誤読したことは明らかですが、もちろん、そのことだけから誤用説が間違いであるとは断定できません。

問題はこのような誤用を当時の知識階級である詠者や万葉記者が容認したかです。現代ほど娯楽のない時代です。和歌が教養を示す重要な手段でもありました。当時の人々は現代人以上に言語の論理に敏感だったと私は考えます。現代の新聞記事でさえ「ら抜き言葉」は訂正されて掲載されます。詠者が間違うだろうか。さらに万葉記者が誤用をそのまま載せるだろうか。誤用だと仮定すれば歌意は通りますが、歌意が通るからと言って誤用と言えないのは言うまでもありません

前件目的説はどうでしょうか。現代語の例を示します。

4-7 収入が増えるならば転職したい。

これを前件が結果、後件が原因と見て、因果が逆行する構文と見る考えもあります。しかし4-4の論理構造は

(T⊃H)⊃N(T)     (4.10)

です。4-7は前件が条件文であり、その条件文の前件が省略されたものにすぎません。ここで、

H = [収入が増える]
T = [転職する]
N(X) = [Xを望む]

です。前件がHでなく(T⊃H)であることに注意してください。4-4は([転職する]ナラバ[収入が増える])ナラバ[転職したい]という二重含意関係の表現です。問題はこのような省略を上代語が行なったかです。

不可能説を検討する前に不可能の意味を確認します。ここで様相論理を使います。と言っても、記号が二つ導入されるだけです。命題Aが不可能とは¬Aが必然であることと同値です。必然と可能を次の記号で表すことにします。不可能説を成立させるために、必然と可能は、それぞれ、近未来に必然、近未来に可能の意味とします。その条件がないと、不可能なことは現在成立しないことになってしまいます。

□A = [近未来にAが必然]    (4.11)
◇A = [近未来にAが可能]    (4.12)

Aが必然とは、可能なあらゆる場面(これを様相論理で「到達可能な世界」という)のいずれでもAが成立することであり、Aが可能とは、可能なあらゆる場面のいずれかでAが成立することです。たとえば、サイコロを振って、1から6までのいずれかの目が出ることは必然であり、一回で1の目が出ることは可能です。しかし7の目が出ることは不可能です。これは7の目が出ないことが必然であるとも言えます。したがって、

□¬A = ¬◇A    (4.13)

です。

不可能説に従うと、4-2は次のように書けます。

□¬H⊃K    (4.14)

ここで、

¬H = [なかなかに人とあらず]
K = [桑子にもならまし]

です。つまり近未来に[なかなかに人とあらず]が必然になるナラバ、あるいは、近未来に[なかなかに人とあり]が不可能となるナラバ[桑子にもならまし]と願望する、という意味です。

次の例はどうでしょう。

4-8 験なきものを思はずは一杯の濁れる酒を飲むべくあるらし    万03-0338

これは

□¬O⊃N    (4.15)

と書けます。ここで、

¬O = [験なきものを思はず]
N = [一杯の濁れる酒を飲むべし]

です。

近未来に[験なきものを思はず]が必然、つまり、近未来に[験なきものを思ふ]が不可能とはどう言う意味でしょう。常識的にあり得ません。したがって、不可能説は宣長の言葉を借りれば、「ずは」のすべてを「一つに貫きて」扱えません。

以上、従来の各説を縦覧しました。完全に誤りと言えるものはないが、すべての「ずは」を全く同一に扱って矛盾がないものもありません。そのために万葉集の解説書の多くが宣長説に拠っているのでしょう。

(つづく)

最後に重要な注意点があります。ネットは著作権を放棄したと考える人もいるようですが、それは違います。また、著作権が放棄されたものならば無断引用は可能と考える人もいるようですが、それも違います。その点、十分にご注意ください。本ブログのすべての記事および本稿の著作権は著者である江部忠行が保有するものです。殆どの人にこのような注意書きが不要なのですが、ほんの僅かな人がいるために書かなくてはなりません。まあ、そういう裁判を起こせばこの研究が注目されるかもしれないというメリットはあります。

参考文献(刊行順)
本居宣長(1785) 『詞の玉緒』 『本居宣長全集 第5巻』(1970 筑摩書房)
Hermann Paul (1920), Die Prinzipien der Sprachgeschichte
大岩正仲(1942) 「奈良朝語法ズハの一解」 『国語と国文学』 19(3)
濱田敦(1948) 「肯定と否定―うちとそと―」 『国語学』 1
橋本進吉(1951) 「上代の国語に於ける一種の『ずは』について」 『上代語の研究』(1951 岩波書店)
林大(1955) 「萬葉集の助詞」 『萬葉集大成 第6巻 言語編』 (平凡社)
鈴木一彦(1962) 「打ち消して残るところ - 否定表現の結果」 『国語学』
田中美知太郎(1962) 『ギリシア語入門』 岩波書店
Michael L. Geis and Arnold M. Zwicky (1971), On Invited Inferences, Linguistic Inquiry
吉田金彦(1973) 『上代語助動詞の史的研究』 明治書院
大野晋(1993) 『係り結びの研究』 (岩波書店)
伊藤博(1995)『万葉集釈注』全20巻 集英社 1995-2000
小柳智一(2004) 「『ずは』の語法 仮定条件句」 『萬葉』 189
栗田岳(2010) 「上代特殊語法攷 『ずは』について」 『萬葉』 207

注釈書
体系 日本古典文学大系 『万葉集 1』 岩波書店(1957)
新編全集 新編日本古典文学全集 『万葉集 1』 小学館(1994)
新体系 新日本古典文学大系 『万葉集 1』 岩波書店(1999)

(本ブログのすべての記事および本稿の著作権は記事の著者である江部忠行に属します)

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