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2016年12月22日木曜日

国語学の論文に特有の非論理的な推論 その1

国語学の論文を読み始めて戸惑ったのは「と思われる」「である蓋然性が高い」「と考えるのが自然である」という独特の推論です。もしも理科系の学生が実験の考察でそのような文章を書けば指導教官から叱責を受けるのは間違いありません。科学とは無縁の主観的な感想でしかないからです。

そのような学生はいないと思われる。そのような学生がいない蓋然性が高い。そのような学生がいないと考えるのが自然である。いずれも違います。日本の高校生が「は」と「が」の使い方を間違えないように、そのような非論理的な推論をする理科系の学生はいるはずがないのです。彼らはそのような非論理的推論をしないように訓練されています。教科書の中に「思われる」などの文言を見ることがありません。自転車に乗るときハンドル操作を意識しないように、無意識のうちに身体に覚えこまされています。

しかし国語学の論文に多用されます。極端に書けば次のようになります。

1-1 AであればBだと思われる。BであればCである蓋然性が高い。CであればDと考えるのが自然である。

そして高らかに宣言します。

1-2 AはDだったのである。

国語学の研究者はこのような非論理的な推論に慣れているかもしれませんが、他分野から来た人は戸惑います。一体この非論理的推論がなぜ学術論文に用いられるのか、と。

1-1は三つの仮定を含みます。しかし多くの場合その検証は一例か二例で行なわれます。

実例を示します。

1-3 熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな   万01-0008

1-3の「今は漕ぎ出でな」の「な」は国語学の定説では「願望の助詞」とされます。なぜ願望なのか。上代の願望表現を述べるときに必ず引用される濱田敦(1948a)から引用します。同論文の考察が「願望」という名前の発祥と考えます。


この「な」は例へば、
いざあぎ振熊が痛手負はずは鳰鳥の淡海の海に潜き潜き勢那和   古事記歌謡38
此の丘に菜摘ます児家吉閑名告らさね   万01-0001
の如く、上に述べた「ずは」と云ふ形に伴はれて現れ、又「ね」と相対照して用ゐられてゐる事などから、この「な」が願望表現である事が容易に理解せられるであらう。


最初の古事記歌謡は振熊の軍勢に追われ、勝ち目がないと悟った忍熊皇子が入水する直前に詠んだものです。敗戦は避けようがない。ならば、敵の手にかかるよりは、と考えた結果の入水でしょう。その次は万葉集の冒頭を飾る有名な雄略天皇の御製です。この丘で菜を摘んでいる娘は素敵な籠と素敵な掘り串を持っていると述べ、続けて「家聞かな。名のらさね。」と歌います。

論文の著者は「容易に理解せられるであらう」と書いていますが、願望というのは著者の仮定です。その仮定を著者はこのたった二首で検証しようとしています。

願望と仮定して歌意が通る、すなわち、歌が詠まれた状況に相応しい現代語訳となる、と私は考えません。しかし著者は歌意が通ると考えたのでしょう。もしも歌意が通ったとしても僅か二首での検証は、願望という仮定を担保するに十分でしょうか。

願望という仮説に疑義があるのは次の点です。水の入ったコップを手にする人が「水が飲みたい」と願望するでしょうか。そのような感情を意識する前に水を飲んでいます。もしも願望であれば、水を飲むのに誰かの介助や許可が必要など、自分の意志だけで飲めない場合です。上記の二例も同じです。飛び込もうと思えば飛び込め、聞こうと思えば聞ける状況で願望するでしょうか。

その疑問を別にしても、わずか二例で仮定の検証を終えて良いのでしょうか。それが国語学の論文に特有な論理なのです。財布の中の金がない。お前が盗んだと仮定すれば状況に合致する。したがってお前が犯人である。それと変わりません。

かくばかり恋ひつつあらずは その0 仮説と検証でこのような話をしました。明治時代生糸の出荷港である横浜に西洋の商人たちが住み始めた。英語話者が飼い犬を呼ぶのにCome here!と言った。それを見ていた日本語話者がその発話を「かめや」と聞き、その犬の名前を「かめ」と仮定した。また「かめや」の「や」を日本語と同じ意味と仮定した。すると「シロや」「ポチや」と同じように、「かめ」が犬の名「である事が容易に理解せられ」ました。

明治時代の日本人は英語の真の意味を知らなかった。しかし「歌意」は通った。それと引用した論文の願望の意味の決定の間にどんな違いがあるのでしょうか。

「かめや」も「願望」も不十分な検証しか為されていない仮定です。

かくばかり恋ひつつあらずは その1 従来の仮説で説明したように、否定の条件文として一律に解釈できないとされる「あらずは」を本居宣長(1785)は「あらむよりは」と仮定しました。一方橋本進吉(1951)は「あらずして」と仮定しました。こう書くと、橋本論文は「ずは」が「ずして」の意味を表すことを導いているではないか、と反論する人もあるかもしれません。しかしその「証明」は仮説の追加です。仮説を追加することにより、論理に敏感でない人にそう見えているだけです。そのことは後日説明します。なお論理に敏感かどうかは頭が良い悪いとは別です。日本の高校生が間違えない「は」と「が」の区別を、日本語を学ぶ外国人はどんなに優秀でもしばしば間違えます。その違いは訓練の有無だけです。

宣長説と橋本説のどちらの仮定も特殊な「ずは」を一応は説明します。しかしどの「ずは」も同じ意味に解釈できないのは何故でしょうか。天動説が惑星の運動を説明するために追加の仮定を必要としたように、新たな仮定を要求するのが二人の仮説です。大岩正伸(1942)とそれを継承する小柳智一(2004)が「あらずは」を「あらぬためには」と仮定したのも、濱田敦(1948)とそれを継承する栗田岳(2010)が望まない状況を避けようとする感情が「あらば」と言うべきを「あらずは」と言わせたと仮定したのも、すべて仮定の追加です。しかし国語学の研究者の中にはそれを証明と考える人もあるようです。

そのような複雑な仮説に対して、一つの仮定、すなわち「まし」「てし」「もが」を仮定表現(仮定法)を表す形と仮定することで(事実「まし」は反実仮想とされます)、「ずは」を一律に条件文と解釈できるとするのが本稿の仮説です。仮説は単純なものが優ります。これを「オッカムの剃刀」と言うのだそうですが、自然科学の研究ではわざわざ名前を付ける必要もない当然の考えです。

古語や古代の語法の意味の解釈はすべて仮定とその検証で調べられ、場合によっては不十分な検証のまま定説となってきました。また伝統的な国語学の方法ではしばしば仮定を多数追加して複雑にしてしまっていました。かくばかり恋ひつつあらずは その5 本稿の仮説で述べましたが、伊藤博(1995)の「「ずは」は、集中最も難解な語法で、永遠に説明不可能であろうといわれる。」という予想が有名ですが、それは検証が不十分な仮説をあたかも証明と看做してきた従来の国語学の方法が原因と考えます。論理的に正しい方法を用いさえすれば、既に説明したように「ずは」は単純な仮説で解けてしまいます。

国語学が進歩を停止した学問であるなら、非論理的な論理を許容してきたからです。科学的に正しい推論を用いるならば、従来謎とされてきたことは謎でなくなります。

このブログでは今後も科学の正しい手順を用いて、従来説を再考して行きます。「かくばかり恋ひつつあらずは」で数理論理学の式を用いました。大学教養で習う程度の初歩的なものですが、それでも抵抗を感ずる人があるようです。しかし文学が言語を用いた芸術であるなら、言語の正確な解釈が為されなければ正しい文学の解釈に到達できません。言語は論理から成り立ちます。

言語の論理を解釈するときに自然言語を用いるとしばしば非論理性が覆い隠されます。上代語を正しく解釈するには現代の言語学の主流である数学的な記述を避けて通れません。数式を用いるのは複雑で分かりにくい表現を単純で分かりやすい表現にするためです。もちろんニュートンのプリンキピアのように微積分を使わず自然言語と幾何学だけで力学を説明することは出来ます。しかしプリンキピアがその説明の方法のためにとても分かりにくくなっていることを忘れないでください。

最後に重要な注意点があります。ネットは著作権を放棄したと考える人もいるようですが、それは違います。また、著作権が放棄されたものならば無断引用は可能と考える人もいるようですが、それも違います。その点、十分にご注意ください。本ブログのすべての記事および本稿の著作権は著者である江部忠行が保有するものです。殆どの人にこのような注意書きが不要なのですが、ほんの僅かな人がいるために書かなくてはなりません。

参考文献(刊行順)
本居宣長(1785) 『詞の玉緒』 『本居宣長全集 第5巻』(1970 筑摩書房)
濱田敦(1948a) 「上代に於ける願望表現について」 『國語と國文學』 25(2)
濱田敦(1948b) 「肯定と否定―うちとそと―」 『国語学』 1
橋本進吉(1951) 「上代の国語に於ける一種の『ずは』について」 『上代語の研究』(1951 岩波書店)
伊藤博(1995)『万葉集釈注』全20巻 集英社 1995-2000
小柳智一(2004) 「『ずは』の語法 仮定条件句」 『萬葉』 189
栗田岳(2010) 「上代特殊語法攷 『ずは』について」 『萬葉』 207

注釈書
体系 日本古典文学大系 『万葉集 1』 岩波書店(1957)
新編全集 新編日本古典文学全集 『万葉集 1』 小学館(1994)
新体系 新日本古典文学大系 『万葉集 1』 岩波書店(1999)

(本ブログのすべての記事および本稿の著作権は記事の著者である江部忠行に属します) 


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