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2016年12月1日木曜日

はじめに

表題は三上章氏の「現代語法序説」に倣いました。

中学校の国語の授業で動詞の活用を学びました。その規則性がとても不思議でした。動詞の活用は何故できたのだろう。不思議に思い、やがて忘れていました。

高校に入り岩波新書の金田一春彦著「日本語」、泉井久之助著「ヨーロッパの言語」などを読み、将来は大学で言語学を学びたいものだと考えていました。

高校三年のとき旺文社の受験雑誌の記事を読み考えが変わりました。文系の学問は個人でも学べるが理系の学問は大学でないと学べない。そのような内容だったと思います。国語と物理が得意でした。文系進学のクラスにいたにもかかわらず夏休み明けに志望を理系に変更しました。

運良く大学に現役で合格できましたが、数学の微積分を殆ど学んでいない身ですから、ε-δ論法など煙に巻かれた感じでした。数学の単位を落として留年。理学部物理は夢のまた夢。工学部某学科になんとか進級できました。そこでも数学が必要になります。高木貞治著「解析概論」や佐竹一郎著「線形代数学」などを読み直しました。他人の何倍も時間を掛けて読めば自分にも理解できることに気付きました。

半導体の会社に就職し研究所に配属されました。進学できなかった物理出身の同僚に負けたくない一心でバークレーやランダウのシリーズを毎晩読んでいました。半導体の工場は良く言えば風光明媚な場所にあります。他にすることがなかったのです。その頃には数学が得意であると言えるようになってもいました。

それから二十年以上経ち、あるとき大野晋氏の動詞活用の起源の説を知りました。それをきっかけに大野晋氏、橋本進吉氏、山田孝雄氏らの著書や論文を読み始めました。最初は感心するばかりでしたが、やがて疑問も生じてきました。しかし、考える材料がありません。幸い英語が多少読め、数学も何とか人並になっていたので、欧米の言語学の著書や論文を読むことにしました。現代の言語学は応用数学と言っても良いものになっています。著者の経歴を見ても数学の出身者が多数いました。

アメリカやオーストラリアには多数の先住民の言語があります。旧ソ連邦内にも多数の少数言語があります。それらの言語と比べると日本語と英語の違いなどは無いようなものと感じました。指示代名詞の形が時制で変化するものもあります。多彩な言語の論理構造の理解に、若い頃に必死で学んだ数学や物理の抽象的な思考の経験が役立ちました。

言語類型学や数理論理学の知識を得てから万葉集等を読むと従来の国語学で顧みられなかった現代日本語とは違う上代語の論理構造がおぼろげながら見えてきました。動詞の活用の起源についても、大野氏の説を越えるものは無理だと思っていましたが、その糸口が見付かりました。そのような小さな発見を繋いで行くと、突然に上代語の秘められた論理構造の一端が出現することがあります。その発見を繋ぐと、さらに大きな発見に導かれます。

助動詞や助詞の意味が少しずつわかってきました。ミ語法やク語法、伊藤博氏が「「ずは」は、集中最も難解な語法で、永遠に説明不可能であろうといわれる。」と記した次の例のような特殊とされる「ずは」の語法の意味も、意外と単純な論理構造から出来ていることがわかりました。

1-1 かくばかり恋ひつつあらずは高山の磐根しまきて死なましものを 03-0086

特殊とされる「ずは」の解釈には「ずは」を「ん(む)よりは」と読み替える本居宣長説と「ずして」と読み替える橋本進吉説があります。他にも大岩正伸氏の説や鈴木一彦氏の説がありますが、詳細は後日述べます。宣長説なら「これほど恋しているぐらいならいっそのこと死んだ方がましだ」、橋本説なら「これほど恋していないで死んでしまいたい」となります。今日の万葉集の解説書はそのいずれかです。

しかし、ここで疑問が生じます。ひとつは「とらずはやまじ」のような否定の仮定条件文に解釈される特殊でない「ずは」とそれと違う解釈がなされる特殊な「ずは」がそもそもあるのだろうか。どちらも同じ解釈は出来ないだろうかというものです。もう一つは宣長説にせよ橋本説にせよ、万葉集の巻二の巻頭を飾るには単純すぎる内容ではないかというものです。「かくばかり恋つつあらずは」で始まる類歌がいくつかあるのは、それだけ文学的に優れていたからではないだろうか。そのような疑問も生じます。

ミ語法は「山を高み」というような助詞の「を」と形容詞語幹と不明な語尾「み」からなる語法で、「山が高いので」と因果関係を表わすとされています。しかし、では何故そこに対格を示す「を」があるのかという疑問が生じます。これについては某雑誌に2016年9月に投稿しました。掲載が決定した時点でこのブログで取り上げます。もしも不幸にして不掲載となった場合は全文をこのブログに掲載します。

ク語法は「恋ふらく」「悲しけく」などの語法で動詞や形容詞を名詞化するとされています。 しかし、ここにも幾つか疑問があります。例えば次のような「なくに」の形のク語法の歌が万葉集に約150種あるのに対して、「ぬに」の形の、つまりク語法でない歌が非常に少ない。

1-2 み吉野の三船の山に立つ雲の常にあらむと我が思はなくに  03-0244

そのため「思はぬに」に対して「思はなくに」は詠嘆を表わすと言われてきました。上代語の文法には詠嘆や強意の語が数多く使われます。しかしその詠嘆は語法の中にあるのか、意味の中にあるのかはっきりしません。和歌が何らかの感情を表わすならば、詠嘆は意味から生じるのではないだろうか。結論を書くとク語法は名詞化でも詠嘆でもないことが分かりました。これも同じく2016年9月に別な雑誌に投稿しました。掲載または不掲載が決定した時点でこのブログで紹介します。

この他に「き」と「けり」、「つ」と「ぬ」、「む」と「まし」、「らむ」と「らし」などの助動詞の本質的な意味、「は」と「も」、「ぞ」と「なむ」などの助詞の意味、動詞や形容詞の活用の起源、各活用形の意味についてもこのブログで述べる予定です。

(本ブログのすべての記事および本稿の著作権は記事の著者である江部忠行に属します)

5 件のコメント:

  1. 初めて読ませていただきました。
    言語学は数学の抽象的・段階的思考と相性がよく、言語といった概念の究極的起源や論理構造の発展は、数学で記述できると思っています。しかし、言語学的話題と数学的な段階思考を持ち合わせている場所は、非常に少なく、ごく一部の人間の学術的な研究活動に限られてしまいます。
    なので、ここでそのような専門的思考で解いていくというアプローチを持った方に初めて出会うことができ、とても光栄です。
    これからの更新を楽しみに待たせていただきます。

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    1. コメントありがとうございます。ブログを始めてこんなに早くコメントがあるとは思いませんでした。こちらこそ光栄です。

      私が金田一春彦著「日本語」、泉井久之助著「ヨーロッパの言語」などを読んだのはちょうど今のあなたの年齢のときです。プロファイルを拝見しました。小遣いが少なかったので本が擦り切れるまで何度も読みました。

      昔KLからの研修生を長野県の工場へ案内したことがありますが、大都会のKLから来ると夜が静か過ぎて眠れないと言っていました。

      すぐに返信したつもりですが、操作を間違えたので再投稿します。

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  2. コメントありがとうございます。ブログを始めてこんなに早くコメントがあるとは思いませんでした。こちらこそ光栄です。

    私が金田一春彦著「日本語」、泉井久之助著「ヨーロッパの言語」などを読んだのはちょうど今のあなたの年齢のときです。プロファイルを拝見しました。小遣いが少なかったので本が擦り切れるまで何度も読みました。

    昔KLからの研修生を長野県の工場へ案内したことがありますが、大都会のKLから来ると夜が静か過ぎて眠れないと言っていました。

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  3. 江部さん

    この論説を拝読させていただき、自分が、なぜ古文に興味を持てなかったか理解できました。徒然草、枕草子、源氏物語のサイドリーダーを、それぞれ高校1年、2年、3年の夏休み中に読み、内容を頭に入れること。冬休みは百人一首でした。それは「受験」のため。これが古文の勉強でした。基礎は基礎ですので読み込み理解する事は必要と思いますが、本来の美しさを味わうことなく通り過ぎてしまいました。国文学というのは、今や死にゆく学問分野の一つのように思えます。そんな分野への新たな光明になると良いと思います。 NT

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    1. コメントありがとうございます。拙い原稿を最後まで読んでいただき光栄です。

      文学の理解には言語の正確な理解が必須です。奈良や平安の時代の人たちが言いたかったことが正しく理解されているか。万葉集の現代語訳を読む時しばしばそう感じます。我々の先祖はそんな単純な歌を詠んだのか。本当はもっと深い意味なのではないか。

      「ミ語法」「ク語法」「ズハの語法」と奈良時代の日本語を考えてきました。その中で気付いたのは、当時の人々が現代人以上に論理的にものごとを表現してことです。少なくとも私の場合には、論理式に変換して初めて理解したこともあります。

      国語学が停滞しているとすれば、そこから抜け出すには、数理的な言語学の光を当てることではないかと思います。

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