Google Analytics

2016年12月5日月曜日

かくばかり恋ひつつあらずは その3 条件文

例文3-1は否定条件文です。

3-1 太郎が犯人でないならば花子が犯人である。

ここで

T = [太郎が犯人]
H = [花子が犯人]

とすると、例文3-1は次のように書けます。

¬T⊃H    (3.1)

式(2.2)を用いると

(¬T⊃H) ≡ (T∨H)    (3.2)

です。つまり3-1の意味は

T∨H = [太郎が犯人]マタハ[花子が犯人]

と同値です。つまり、犯人は太郎マタハ花子に限定されます。包含的論理和ですから二人が共犯の場合を含みます。このように

¬A⊃B

の形の否定条件文は選択肢がAマタハBに限定される意味になります。念の為にA∨Bの二重否定をとった上でド・モルガンの法則を用いて次のように変形してみます。

(A∨B) ≡ (¬¬(A∨B)) ≡ (¬(¬A∧¬B))    (3.3)

つまりAマタハBはAデナイカツBデナイの否定でもあり、太郎と花子がともに犯人でないことがないと主張します。もちろん、例文3-1が真であるか偽であるかは確定しません。あくまでも話者の意見であり、話者がT∨Hが真であると信じ、そう主張しているにすぎません。

条件文が因果関係と独立であることが「ずは」の解釈ではしばしば見過ごされてきました。例文3-2はどうでしょう。

3-2 毒を飲めば死ぬ。

D = [致死量以上の毒を飲み、その後に吐き出すことや解毒剤を飲むことをしない]
S = [死ぬ]

とすると、

D⊃S (3.4)

と書けます。式(3.4)が主張するのはDナラバS、つまりDが真であるときSが真であることのみであり、Dが原因でSが生じるとまでは言っていません。因果関係は偶然付随するだけです。因果関係が逆の例文を示します。

3-3 食中毒を発症したならば付属の食堂で食事をしていた。

C = [X年Y月Z日から数日以内に企業または学校Wに所属する人が食中毒を発症した]
T = [発症の数日前に社員食堂または学校の食堂で食事していた]

C⊃T    (3.5)

中毒は食べたことが原因で起こったのですから、条件文では前件が結果であり後件が原因です。

このように条件文は前件と後件の関係を主張するに過ぎません。因果関係には独立です。

逆は必ずしも真ならずと言います。A⊃BからB⊃Aとは言えません。それにもかかわらずそのような主張をするのを前件否定の誤謬と言います。A⊃Bから¬A⊃¬Bを導くこともこの誤謬です。しかし現実にはそのような推論が行なわれることがあります。式(2.5)に示すように対偶は常に同値です。

つまり、

(¬A⊃¬B) ≡ (B⊃A)

ですから、A⊃BからB⊃Aを導くこともA⊃Bから¬A⊃¬Bを導くことも同じ誤謬なのです。

Geis and Zwicky(1972)は前件否定の誤謬に陥ることを誘因的推論(invited inference)と呼びました。次の例を考えます。

3-4 バカは死ななきゃ治らない。

S = [死ぬ]
N = [バカが治る]

とおくと、例文3-4の主張は

¬S⊃¬N    (3.6)

です。これを

S⊃N    (3.7)

と解釈するのが誘因的推論です。

式(3.6)に式(2.2)と式(2.9)を用いると、

(¬S⊃¬N) ≡ (S∨¬N) ≡ (¬(¬S∧N))    (3.8)

が得られます。つまり例文2.4は森の石松の無鉄砲振りが[死ぬ前に治る]ことが偽であると言うにすぎません。けして式(3.7)のように[死ねば治る]とは主張していません。もしも文例3-4を式(3.7)の意味に解釈する人が現代人の中にあるとすれば、それは医学の発達と関係があるかもしれません。[手術しないと治らない]を[手術すれば治る]と誤解するのは、医師がそのように発話する場合手術の成功に自信があるからです。しかし例文3-4の表現が誕生したときはどうでしょう。そのような誤解が生じかねないのならば、そもそもそのような表現は行なわれなかったはずです。
もう一つ例を挙げます。

3-5 仕事の邪魔をしたら明日映画に連れていかないよ。

そう言われた子どもはおとなしくしていれば映画に連れて行ってもらえると考えます。誘因的推論はJ⊃¬Eから¬J⊃Eを推論するのですが(ここで、Jは[邪魔する]、Eは[映画に連れて行く]です)、そう推論するのは事前に映画に連れて行く約束をしていたか、あるいはGriceの公準(Grice's Maxims)にある量の公準、「必要以上のことは言うな(Do not make your contribution more informative than is required)」があるからです。もしも映画に連れて行く予定がなかったら、言及するはずがありません。誘因的推論は興味深い研究テーマではすが、理由なく発生するものでありません。

本節の最後に自然言語の論理の問題に触れます。例えば、次の例はどうでしょう。

3-6 試験を受けないと合格しない。

ここで、

U = [試験を受ける]
G = 「合格する」

とすれば、例文3-6は、

¬U⊃¬G    (3.9)

です。

式(3.9)からU⊃G(受ければ合格する)と推論する人は希です。殆どの人が試験を受けても合格しない現実を知っています。なお対偶のG⊃Uは3-7でなく3-8です。

3-7 合格するならば試験を受ける。
3-8 合格した状態にあるならば試験を受けた状態にある。

現代日本語の動詞終止形は一般的事実と未来を表します。例文3-6は一般的事実であり、過去でも未来でも、どの場所でも、当事者が誰でも成立します。これに対し、例文3-7は特定の時刻の特定の人物の未来の動作です。式3-7は

(U⊃G)⊃M(U)     (3..10)

と書けます。ここで、

M(X) = [未来に動作Xを行なう]

とします。式(3.10)の意味は「試験を受けるならば合格するということが真であるならば未来に試験を受ける」です。また、動詞終止形を用いて「AするならばBする」と言ったとき、Bの動作はAと同時かその後に行なわれると解釈されます。以上が3-7が3-6の対偶にならない理由です。なお過去の指標の「た」があるときは、時間的順序が義務的になりません

3-9 合格したならば試験を受けた。

例文3-9は一般的事実の表現と見れば、3-6の対偶です。個人の感想と見れば、3-7の過去です。一般的事実と解釈されうるのは時間的順序が義務的でないからです。

このような現象は現代日本語に限らずどの言語にもあります。自然言語を用いた解釈は常に論理の誤解の危険性を伴います。

(つづく)

最後に重要な注意点があります。ネットは著作権を放棄したと考える人もいるようですが、それは違います。また、著作権が放棄されたものならば無断引用は可能と考える人もいるようですが、それも違います。その点、十分にご注意ください。本ブログのすべての記事および本稿の著作権は著者である江部忠行が保有するものです。殆どの人にこのような注意書きが不要なのですが、ほんの僅かな人がいるために書かなくてはなりません。まあ、そういう裁判を起こせばこの研究が注目されるかもしれないというメリットはあります。

参考文献(刊行順)
本居宣長(1785) 『詞の玉緒』 『本居宣長全集 第5巻』(1970 筑摩書房)
大岩正仲(1942) 「奈良朝語法ズハの一解」 『国語と国文学』 19(3)濱田敦(1948) 「肯定と否定―うちとそと―」 『国語学』 1
橋本進吉(1951) 「上代の国語に於ける一種の『ずは』について」 『上代語の研究』(1951 岩波書店)
林大(1955) 「萬葉集の助詞」 『萬葉集大成 第6巻 言語編』 (平凡社)
鈴木一彦(1962) 「打ち消して残るところ - 否定表現の結果」 『国語学』
田中美知太郎(1962) 『ギリシア語入門』 岩波書店
Michael L. Geis and Arnold M. Zwicky (1971), On Invited Inferences, Linguistic Inquiry
吉田金彦(1973) 『上代語助動詞の史的研究』 明治書院
大野晋(1993) 『係り結びの研究』 (岩波書店)
伊藤博(1995)『万葉集釈注』全20巻 集英社 1995-2000
小柳智一(2004) 「『ずは』の語法 仮定条件句」 『萬葉』 189
栗田岳(2010) 「上代特殊語法攷 『ずは』について」 『萬葉』 207

注釈書
体系 日本古典文学大系 『万葉集 1』 岩波書店(1957)
新編全集 新編日本古典文学全集 『万葉集 1』 小学館(1994)
新体系 新日本古典文学大系 『万葉集 1』 岩波書店(1999)

(本ブログのすべての記事および本稿の著作権は記事の著者である江部忠行に属します)

0 件のコメント:

コメントを投稿