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2018年1月31日水曜日

TSONTS-25 高山善行(2005)を何故批判するのか(5) 違いを説明する義務

Q5. 高山善行(2005)に論文としての価値はありますか。
A5. 学術論文が備えるべき要件とされるのは独自性(originality)と新規性(novelty)と重要性(significance)です。他人の真似でないことが独自性です。以前査読者による盗用の話をしましたが、国語学の学会がこの点を全く考慮していないのが不思議です。新規性は今までになかった発見や考え方です。既に誰かが言ったことや書いたことと同じでは新規性の面から価値がありません。他の研究者の研究に役立つかが重要性です。高山善行(2005)の場合、連体用法の「む」は未解決の問題なので重要性は問題ありません。問題になるのは新規性です。似た論文が存在するのに引用していません。気付かなかったでは済まされません。論文の著者は似た論文を調べて探し出し違いを説明する義務があります。山本淳(2002)にあまりに似すぎています。また「む」が非現実を表わすとする説は山田孝雄(1908)が述べたものです。少なくともこの二つの論文と比較し、違いを述べなくてはいけません。理科系の論文の査読者であれば引用させ違いを説明させます。

上記に加え、実験や調査のデータに間違いがないこと、結論を導く推論に誤りがないことが当然求められます。また、論文のテーマや題材が持つ本質的な難しさは別にして、記述の仕方をわかりやすくすることも求められます。もちろん、数式が難しいから数式を使わずに書けなどという要求は認められません。わかりやすくというのは、データの提示などです。高山善行(2005)はAとBという二つの表現の共起関係の比較を行ないますが、AとBの母数が大きく違い、AはBの6倍近くあります。ということは、Aの共起が11例、Bの共起が2例であった場合、Bの共起の確率が大きいということです。高山氏は大きな違いのみ数字を示していますが、母数を示さないとAの共起例が多く受け取られやすくなります。また違いが小さい場合は数字を示していません。Aの共起例を3例示し、Bの例が一つしかなかったと書いている箇所がありますが、それでは母数の差からBが共起しやすいという高山善行(2005)と逆の結論が導かれます。データの提示のわかりにくさは査読で指摘すべきでした。

何度も書きましたが、「演繹的方法を用いた」というのは誤りです。これが訂正されない限り論文を受理できません。というのは、経験科学において演繹的方法で何かが発見されることがないからです。星座の配置から結論した、宇宙人から電話があった、と書くのと変わりません。著者の恥となることですから、査読者は注意すべきでした。事実、高山善行(2005)が用いた推論は、演繹でなく、二段階の遡及推論による仮説の提示です。調べた範囲で共起例がなかったという結果から共起できないという一般法則を仮定し、さらにその理由として、連体「む」が非現実を表わすからであるという理由を仮定しています。

高山氏の名誉のために付け加えれば、このような仮説の提示をあたかも正しい推論から得られた結論の如く扱う国語学者が少なからず存在します。しかしまた、国語学者がそのような間違いを犯すことが問題です。学生や一般人が信じてしまいます。「金谷武洋氏なほもて批判さる、いはんや高山善行(2005)をや」というのはそういう意味なのです。一般人が間違う以上に学生や国語学者の卵が影響を受けるのが問題です。

本稿が参考にしたのは田川拓海氏のこのブログ記事です。

いつものおまじないを書いておきます。こういう常識をわざわざ書かなくていけないのも情けなくはあります。

「公表された作品については、みる人ぜんぶが自由に批評する権利をもつ。どんなにこきおろされても、さまたげることはできないんだ。それがいやなら、だれにもみせないことだ。」

藤本弘(藤子・F・不二雄)氏の「エスパー魔美」からの引用である。「法華狼の日記」さんのサイトに詳細な解説とそれに対する読者の反論と議論がある。セリフに漢字が少ないことから窺えるように、この漫画は小中学生を読者と想定したものである。自分の論文が批判されて怒っていたら理系の研究者はやっていられない。相互批判は学問の共同体の当然の権利であり、それが学問を発展させるのである。この当然すぎる常識を萬葉学者たちが受け入れてくれることを祈る。

※ このブログの記事のことは萬葉学会にメールして以下の伝言を高山善行氏に伝えるようお願いしました。宛先には萬葉学会編集委員長の関西大学の乾善彦氏も入れてあります。ですから必ず伝わっていることと思います。伝言の部分を再掲します。


高山善行殿

高山善行(2005) 「助動詞「む」の連体用法について」 『日本語の研究』  1(4), 1-15, 2005の問題点を次の記事で論じています。

高山善行(2005)の問題点(1) 演繹でない推論
https://introductiontooj.blogspot.jp/2017/11/to-sue-or-not-to-sue-2.html

高山善行(2005)の問題点(2) データの整理が不適切である
https://introductiontooj.blogspot.jp/2017/11/to-sue-or-not-to-sue-3-20052.html

高山善行(2005)の問題点(1再) 演繹でない推論(つづき)
https://introductiontooj.blogspot.jp/2017/11/to-sue-or-not-to-sue-4-20051.html

高山善行(2005)の問題点(3) モダリティの理解不足
https://introductiontooj.blogspot.jp/2017/11/to-sue-or-not-to-sue-5-20053.html

高山善行(2005)の問題点(4) 主観と客観の混交
https://introductiontooj.blogspot.jp/2017/11/to-sue-or-not-to-sue-6-20054.html

今後も継続する予定です。上記記事並びにその継続記事に対して意見があればコメントまたはメールにて連絡をお願いします。



引用文献
山田孝雄(1908)『日本文法論』(宝文館)
山田孝雄(1936)『日本文法概論』(宝文館)
Reichenbach, Hans (1951) The Rise of Scientific Philosophy.
Popper, Karl (1959) The Logic of Scientific Discovery.
Popper, Karl (1972) Objective Knowledge: An Evolutionary Approach.
野崎昭弘(1980)『逆接の論理学』(中公新書)
北原保雄(1984)『文法的に考える』(大修館書店)
和田明美(1994)『古代日本語の助動詞の研究ー「む」の系統を中心とするー』(風間書房)
Palmer, Frank R. (1979) Modality and the English Modals.  飯島周訳『英語の法助動詞』(桐原書店)
Palmer, Frank R. (1990) Modality and the English Modals. 2nd ed.
村上陽一郎(1994)『科学者とは何か』(新潮社)
Palmer, Frank R. (2001) Mood and Modality, 2nd Edition.
高山善行(2002)『日本語モダリティの史的研究』(ひつじ書房)
安田尚道(2003) 「石塚龍麿と橋本進吉--上代特殊仮名遣の研究史を再検討する」 『国語学』 54(2), p1-14, 2003-04-01
山本淳(2003)「仮定・婉曲とされる古典語推量辞「む」の連体形」 山形県立米沢女子短期大学紀要 38, 47-62, 2003-06-30
高山善行(2005)「助動詞「む」の連体用法について」 『日本語の研究』  1(4), p1-15, 2005
Priest, Graham (2008) An Introduction to Non-Classical Logic, Oxford University Press.
Cruse, Alan (2011) Meaning in Language: An Introduction to Semantics and Pragmatics (Oxford Textbooks in Linguistics) Oxford University Press. 
高山善行(2011)「述部の構造」 金水敏ら(2011)『文法史』 (岩波書店)の第2章
高山善行(2014)「古代語のモダリティ」 澤田治美編(2014)『モダリティ 1』 (ひつじ書房)に収録
高山善行(2016)「中古語における疑問文とモダリティ形式の関係」 『国語と国文学』 第93巻5号 p29-41


2018年1月28日日曜日

TSONTS-24 高山善行(2005)を何故批判するのか(4) 素人と専門家

Q4. 一介の素人に過ぎないあなたが何故専門家の高山善行氏を批判するのですか。
A4. 最初に確認しておきます。私は高山善行氏が書いた論文を批判しているのであって、高山善行氏の人格を批判してはいません。対象は高山善行(2005)という論文です。

論文の価値は誰が書いたかで決まりません。何が書いてあるかです。ニュートンが言おうとアインシュタインが言おうと正しいことは正しく、間違いは間違いです。だから専門家が書いたとか言ったとかは内容の評価に無関係です。

以上は科学的に正しい説明です。理系の学生なら教養課程から叩き込まれて身体に染み付いた考えです。法学や経済学も基本的な考えは同じです。だから、そもそも理系や法律や経済の人たちからそのような質問は出てきません。

そのような質問をするのは文学部の卒業生、人文系の人に限られます。そして、彼らは科学的に正しい説明に納得しません。人文系の人たちには別な説明をしないとなりません。

専門家とは何ですか。専門家の認定は誰が行なうのですか。高山善行氏は愛媛大学で国文学を専攻しました。愛媛大学が文学士(死語?)と認定しました。高山氏は文学の専門家と言えるでしょう。

しかし論文を書くということについて専門家でしょうか。高山善行(2005)に「本稿では演繹的方法を用いる」(第2.1節)とあり、AbstractにThis paper ... based on a deductive method.とあります。もしも理系の学生が高山善行(2005)を書いて、そこに演繹的方法を用いたとか、based on a deductive methodと書いたならば、指導教官から大目玉を食らうでしょう。論文を書くための基本的な論理を理解していないからです。

高山氏は高山善行(2005)を書いた時点では論文を書くことについて専門家とはとても言えません。専門家でないことは演繹の意味の誤解で十分ですが、他にも、データの整理の仕方や先行文献の引用の仕方から、論文を書く上での基本的な作法を心得ていないことがわかります。論文というのは関連する文献を調べ、類似した文献があるなら引用して違いを説明する義務があります。高山善行(2014)でも高山善行(2005)を先駆的論文と自賛しています。とすると、高山善行(2014)を書いた時点でも専門家とは言えません。

高山善行氏はmodalityの専門家でしょうか。ホピ語をevidentialityの例としてあげたことから、Frank Palmer(2001)を引用しながらも読んでいないことが明らかになりました。また同時にmoodやmodalityの基本的な意味を理解していないことも明らかになりました。このことは前回の高山善行(2005)を何故批判するのか(3)に書きました。

大学の国文科では国語学と国文学の両方を教えられています。前者は言語学という社会科学あるいは自然科学の一分野であり、理性と論理に基きまます。後者は広義の文学観賞であり、感性が重んじられます。一人の人が両方の専門家でありえなくはありません。しかし国語学の論文がしばしば非論理的な推論に基くのは、論理(logic)と修辞(rhetoric)が混同されたためではないでしょうか。

萬葉学会のある人が「理系の研究では仮説を検証して、矛盾がなければ、一つの仮説として成り立つのではないかと思いますが、ことばの場合は、他の形式との比較と差異の検証が必要になります。」と反科学的なことを平気で述べたので驚きました。たしかに論理的にそうかもしれないけれど、感覚的に信用できない。そういうことを学問の場で口にすること自体信じられません。もしも信用できないなら、どこかに間違いがあるのです。論理的に正しいが間違いであるということはあり得ません。

言い忘れました。私も論文を書き、国際的な雑誌に受理されています。その点では十分に専門家のつもりです。査読の経験もあります。言語学に関して素人かもしれません。しかしそれは高山善行氏も同じです。

いつものおまじないを書いておきます。こういう常識をわざわざ書かなくていけないのも情けなくはあります。

「公表された作品については、みる人ぜんぶが自由に批評する権利をもつ。どんなにこきおろされても、さまたげることはできないんだ。それがいやなら、だれにもみせないことだ。」

藤本弘(藤子・F・不二雄)氏の「エスパー魔美」からの引用である。「法華狼の日記」さんのサイトに詳細な解説とそれに対する読者の反論と議論がある。セリフに漢字が少ないことから窺えるように、この漫画は小中学生を読者と想定したものである。自分の論文が批判されて怒っていたら理系の研究者はやっていられない。相互批判は学問の共同体の当然の権利であり、それが学問を発展させるのである。この当然すぎる常識を萬葉学者たちが受け入れてくれることを祈る。

※ このブログの記事のことは萬葉学会にメールして以下の伝言を高山善行氏に伝えるようお願いしました。宛先には萬葉学会編集委員長の関西大学の乾善彦氏も入れてあります。ですから必ず伝わっていることと思います。伝言の部分を再掲します。


高山善行殿

高山善行(2005) 「助動詞「む」の連体用法について」 『日本語の研究』  1(4), 1-15, 2005の問題点を次の記事で論じています。

高山善行(2005)の問題点(1) 演繹でない推論
https://introductiontooj.blogspot.jp/2017/11/to-sue-or-not-to-sue-2.html

高山善行(2005)の問題点(2) データの整理が不適切である
https://introductiontooj.blogspot.jp/2017/11/to-sue-or-not-to-sue-3-20052.html

高山善行(2005)の問題点(1再) 演繹でない推論(つづき)
https://introductiontooj.blogspot.jp/2017/11/to-sue-or-not-to-sue-4-20051.html

高山善行(2005)の問題点(3) モダリティの理解不足
https://introductiontooj.blogspot.jp/2017/11/to-sue-or-not-to-sue-5-20053.html

高山善行(2005)の問題点(4) 主観と客観の混交
https://introductiontooj.blogspot.jp/2017/11/to-sue-or-not-to-sue-6-20054.html

今後も継続する予定です。上記記事並びにその継続記事に対して意見があればコメントまたはメールにて連絡をお願いします。



引用文献
山田孝雄(1908)『日本文法論』(宝文館)
山田孝雄(1936)『日本文法概論』(宝文館)
Reichenbach, Hans (1951) The Rise of Scientific Philosophy.
Popper, Karl (1959) The Logic of Scientific Discovery.
Popper, Karl (1972) Objective Knowledge: An Evolutionary Approach.
野崎昭弘(1980)『逆接の論理学』(中公新書)
北原保雄(1984)『文法的に考える』(大修館書店)
和田明美(1994)『古代日本語の助動詞の研究ー「む」の系統を中心とするー』(風間書房)
Palmer, Frank R. (1979) Modality and the English Modals.  飯島周訳『英語の法助動詞』(桐原書店)
Palmer, Frank R. (1990) Modality and the English Modals. 2nd ed.
村上陽一郎(1994)『科学者とは何か』(新潮社)
Palmer, Frank R. (2001) Mood and Modality, 2nd Edition.
高山善行(2002)『日本語モダリティの史的研究』(ひつじ書房)
安田尚道(2003) 「石塚龍麿と橋本進吉--上代特殊仮名遣の研究史を再検討する」 『国語学』 54(2), p1-14, 2003-04-01
山本淳(2003)「仮定・婉曲とされる古典語推量辞「む」の連体形」 山形県立米沢女子短期大学紀要 38, 47-62, 2003-06-30
高山善行(2005)「助動詞「む」の連体用法について」 『日本語の研究』  1(4), p1-15, 2005
Priest, Graham (2008) An Introduction to Non-Classical Logic, Oxford University Press.
Cruse, Alan (2011) Meaning in Language: An Introduction to Semantics and Pragmatics (Oxford Textbooks in Linguistics) Oxford University Press. 
高山善行(2011)「述部の構造」 金水敏ら(2011)『文法史』 (岩波書店)の第2章
高山善行(2014)「古代語のモダリティ」 澤田治美編(2014)『モダリティ 1』 (ひつじ書房)に収録
高山善行(2016)「中古語における疑問文とモダリティ形式の関係」 『国語と国文学』 第93巻5号 p29-41


2018年1月14日日曜日

TSONTS-23 高山善行(2005)を何故批判するのか(3) モダリティ

Q3. 高山善行(2005)はモダリティ論の立場なのですか。
A3. 従来の方法との違いが感じられません。

高山善行(2005)の「はじめに」から引用します。

助動詞「む」は連体用法で《仮定》《婉曲》を表すと言われ, 古典文法では, 「仮定婉曲用法」の名で知られている。しかし実際には, この用法での「む」の性質はよくわかっていない点が多い。本稿では, この問題をモダリティ論の視点から捉え直す。そして, 連体用法での「む」の機能を明らかにすることを目標とする。

中古語の「む」の連体用法は「仮定」「婉曲」の意味を持つと言われています。それを「モダリティ」論の立場から捉え直すというのですが、モダリティの特長を利用した解析を行なっているようには見えません。高山善行(2016)の注3に「本稿での「モダリティ」は「モダリティ形式」を指す。「推量の助動詞」と読み替えても構わない。」とあります。高山善行氏はこのブログの存在を知っています。恐らく読んでいるはずです。違いをコメントしてくれると助かります。

高山善行氏から訂正が入ることを前提に書きますが、高山氏はFrank Palmerの言う意味のmoodやmodalityを理解していないようです。定義が違うというのでありません。Palmerの著書を読んだが理解していないという意味です。なぜそう考えたかを順を追って説明します。高山善行(2014)に次の記述があります。

メリ、終止ナリはそれぞれ、(視覚、聴覚で得た情報をもとにした判断)という意味特徴をもち、「証拠性」(evidentiality)の形式とされる。「証拠性」とは、その事態に関する情報の出所(視覚・聴覚、伝聞など)に基づいた判断を表し、他言語(ホピ語など)においても見られる(Palmer (2001: 8)ではモダリティの一種とされている)。

高山善行氏はevidentialityをmodalityと必ずしも考えていないようです。萬葉学会の査読を思い出してください。閑話休題。Evidentialityにかんして私はFrank Palmer(2001)ともう一冊を読んだだけですが、どちらの本にもHopi語の例はありませんでした。高山善行(2002)の参考文献の中にFrank Palmer(1979)を飯島周氏が訳した『英語の法助動詞』がありました。そこから引用します。

言語によっては,文法的な時制の体系(temporal systems)を持たず,’文法化された’法的な区別(’grammaticalized’ modal distinctions)を持つ(Lyons 1977: 816)ものがあることも重要である.たとえばアメリカインディアンのホピ語(Hopi)には(Whorf 1956 :57-64,207-19), 3種の’時制’があるが,これはLyons(1968: 311)によれば’法(moods)’として記述するほうが適切である.第1は一般的な真実の陳述,第2は知られている,または知られていると思われる出来事についての報告,第3はまだ不確定の範囲にある事件に関するものである.第2と第3は,非法(non-modal)および法(modal)として対照的に見えるが,第2は過去時の事件, 第3は未来の事件を一般に示す.この言語での時の指示は本質的に法性の指示に由来する.

第二版のFrank Palmer(1990)の当該箇所と照合しましたが、特に問題のある翻訳ではありません。高山氏はこの記述からHopi語のmodal pastをevidentialityと判断したようです。しかし、それは高山氏がmoodの意味を理解していないからです。英語のmoodは印欧語の特長を薄めてはいますが、直説法(indicative)、仮定法(subjunctive)、命令法(imperative)が残っています。直説法は現実にあったこと、今起こっていることを表します。仮定法と命令法は非現実を表します。それを法的(modal)と言います。直説法は現実を表わすので非法的(non-modal)です。Moodとは非現実を表わす表現法です。高山氏はmoodの現実対非現実の対立をevidentialityと取り違えています。

高山善行(2005)は「む」が連体修飾語となるときの意味として「非現実」をあげていますが、もしも「む」がmodalityを表わすのであれば、それは当然のことです。Modalityは非現実を表わす形式(irrealis)を用いた表現法です。モダリティ論と言いながら、moodやmodalityの本質的な意味について理解していません。結局、高山氏のモダリティ形式は推量の助動詞の言い替えであり、モダリティ論は推量の助動詞をモダリティ形式と言い替えて行なう議論です。これではてれすこ(telescope)とすてれんきょう(天体望遠鏡)の違いでしかありません。

さらに、以上のことから、高山善行氏は少なくとも高山善行(2014)を書いた時点でFrank Palmer(2001)を読んでいないこともわかります。本の中には多数のevidentialityの例が出てきます。あの言語とこの言語が何度も参照されています。十ページも読めば嫌でも覚えますから、わざわざ関係のないHopi語を例にあげません。

いつものおまじないを書いておきます。こういう常識をわざわざ書かなくていけないのも情けなくはあります。

「公表された作品については、みる人ぜんぶが自由に批評する権利をもつ。どんなにこきおろされても、さまたげることはできないんだ。それがいやなら、だれにもみせないことだ。」

藤本弘(藤子・F・不二雄)氏の「エスパー魔美」からの引用である。「法華狼の日記」さんのサイトに詳細な解説とそれに対する読者の反論と議論がある。セリフに漢字が少ないことから窺えるように、この漫画は小中学生を読者と想定したものである。自分の論文が批判されて怒っていたら理系の研究者はやっていられない。相互批判は学問の共同体の当然の権利であり、それが学問を発展させるのである。この当然すぎる常識を萬葉学者たちが受け入れてくれることを祈る。

※ このブログの記事のことは萬葉学会にメールして以下の伝言を高山善行氏に伝えるようお願いしました。宛先には萬葉学会編集委員長の関西大学の乾善彦氏も入れてあります。ですから必ず伝わっていることと思います。伝言の部分を再掲します。


高山善行殿

高山善行(2005) 「助動詞「む」の連体用法について」 『日本語の研究』  1(4), 1-15, 2005の問題点を次の記事で論じています。

高山善行(2005)の問題点(1) 演繹でない推論
https://introductiontooj.blogspot.jp/2017/11/to-sue-or-not-to-sue-2.html

高山善行(2005)の問題点(2) データの整理が不適切である
https://introductiontooj.blogspot.jp/2017/11/to-sue-or-not-to-sue-3-20052.html

高山善行(2005)の問題点(1再) 演繹でない推論(つづき)
https://introductiontooj.blogspot.jp/2017/11/to-sue-or-not-to-sue-4-20051.html

高山善行(2005)の問題点(3) モダリティの理解不足
https://introductiontooj.blogspot.jp/2017/11/to-sue-or-not-to-sue-5-20053.html

高山善行(2005)の問題点(4) 主観と客観の混交
https://introductiontooj.blogspot.jp/2017/11/to-sue-or-not-to-sue-6-20054.html

今後も継続する予定です。上記記事並びにその継続記事に対して意見があればコメントまたはメールにて連絡をお願いします。



参考文献
山田孝雄(1908)『日本文法論』(宝文館)
山田孝雄(1936)『日本文法概論』(宝文館)
Reichenbach, Hans (1951) The Rise of Scientific Philosophy.
Popper, Karl (1959) The Logic of Scientific Discovery.
Popper, Karl (1972) Objective Knowledge: An Evolutionary Approach.
野崎昭弘(1980)『逆接の論理学』(中公新書)
北原保雄(1984)『文法的に考える』(大修館書店)
和田明美(1994)『古代日本語の助動詞の研究ー「む」の系統を中心とするー』(風間書房)
Palmer, Frank R. (1979) Modality and the English Modals.  飯島周訳『英語の法助動詞』(桐原書店)
Palmer, Frank R. (1990) Modality and the English Modals. 2nd ed.
村上陽一郎(1994)『科学者とは何か』(新潮社)
Palmer, Frank R. (2001) Mood and Modality, 2nd Edition.
高山善行(2002)『日本語モダリティの史的研究』(ひつじ書房)
安田尚道(2003) 「石塚龍麿と橋本進吉--上代特殊仮名遣の研究史を再検討する」 『国語学』 54(2), p1-14, 2003-04-01
山本淳(2003)「仮定・婉曲とされる古典語推量辞「む」の連体形」 山形県立米沢女子短期大学紀要 38, 47-62, 2003-06-30
高山善行(2005)「助動詞「む」の連体用法について」 『日本語の研究』  1(4), p1-15, 2005
Priest, Graham (2008) An Introduction to Non-Classical Logic, Oxford University Press.
Portner, Paul (2009) Modality (Oxford Surveys in Semantics and Pragmatics), Oxford University Press.
Cruse, Alan (2011) Meaning in Language: An Introduction to Semantics and Pragmatics (Oxford Textbooks in Linguistics) Oxford University Press. 
高山善行(2011)「述部の構造」 金水敏ら(2011)『文法史』 (岩波書店)の第2章
高山善行(2014)「古代語のモダリティ」 澤田治美編(2014)『モダリティ 1』 (ひつじ書房)に収録
高山善行(2016)「中古語における疑問文とモダリティ形式の関係」 『国語と国文学』 第93巻5号 p29-41

2018年1月12日金曜日

TSONTS-22 高山善行(2005)を何故批判するのか(2) 演繹

Q2. 高山善行(2005)は演繹に基いていないのですか。
A2. いません。間違いは二つあります。「しない」と「できない」を混同している点と「できない」の理由が内部なのか外部なのかを区別していない点です。

まず「しない」と「できない」の違いを述べます。高山善行(2005)は「用言+む+人」の表現を源氏物語、枕草子、蜻蛉日記から127例採取し、時間、場所の表現に対して共起制限(co-occurrence restriction)があるから、「時空の座標軸上に「人」を位置づけることができない」と書いています。

同論文の4.1節から引用します。

時間・場所表現との共起, テンス形式の生起に制約がある。そのため, 時空の座標軸上に「人」を位置づけることができない。また, 存在詞, アスペクト形式の生起, 人の数量にも制約が見られた。そのため, 現実世界に実在する「人」のく存在〉〈動きの様態〉〈数量〉について描写することができない。なお, ここでの「現実世界」とは, 「作者が作品中において現実のものとして表現する世界」のことであり, いわゆる「史実」とは異なる。

先日図書館の席にいたら一つ置いて隣に座っていた人が長々と放屁しました。すぐに立つのはあてつけがましいので、少し間を置いてから、予定の行動のように席を立ちましたが、おかげで次の例を思い付きました。「光源氏は放屁できない」です。

源氏物語から光源氏の動作に関する表現をすべて抜き出します。これは127例なんてものではないでしょう。数万はあるんじゃないでしょうか。12700例と仮定しましょう。その中に放屁を意味する表現があるかです。私は源氏物語を通読したことがありません。そのような表現がなかったと仮定しましょう。

源氏物語から光源氏の動作に関する表現を12700例抜き出したが、放屁と共起する例は一つもなかった。したがって光源氏は放屁できない。これが高山善行(2005)流の解釈です。人間である以上しないということはありません。したという表現がなかったからと言ってできないとは言い切れません。

以上が「しない」と「できない」の違いです。Alan Cruse(2011)を参考にしました。高山善行(2005)は「共起しなかった(しにくかった)」という観察結果から「表現できない」という一般法則を帰納しています。帰納するには例が少なすぎます。127例あるじゃないかという人はHempelのカラスのパラドックスを参照してください。Wikipediaなどよりも野崎昭弘(1980)の説明がわかりやすく正確だと思います。

次は「できない」の原因が内部か外部かの違いです。火星人が地球に来て動物園を観察したとします。火星人の目は人間とほぼ同じですが、檻だけが見えないとします。火星人はたくさんの動物園のライオンの檻を何度も観測して、ライオンは園内の特定の領域から外へ出られないと帰納的に結論しました。間違いありません。檻があるのですから。しかし火星人の目に檻は見えません。

その後特殊な観測装置を使い、ライオンがそこから出れらない特定の領域を取り囲むように鉄製の柵が設置されているのを発見しました。火星人の科学者のある者は次のように考察しました。ライオンは特定の領域から外へ出ることができない。従って当該の領域の内部に観覧者が入らないように柵を設けたのだ。高山善行(2005)の主張する演繹はこのような考えです。つまりライオンの側に原因があるとするのです。

演繹とは前提から必然的に結論が導かれることです。ライオンがある領域から外へ出られないから柵を設けて領域の内部へ人が入らないようにしているのではなく、柵を設けたからライオンが領域の外へ出られないのです。それと全く同じように、「む」が現実を表現できないから「む」に非現実を表わす意味があるのではなく、「む」に非現実を表わす意味があるから「む」が現実を表現できないと考えるべきです。

高山善行(2005)は「む」には現実を表現できない性質があり、その性質のために「む」が非現実を表わすと考えているようです。これは萬葉学会の査読者が構文に意味が付加されると考えたのと似ています。しかし言語はそのような超自然的なものではありません。言語学は実在するものを扱う経験科学です。

そもそも経験科学が演繹により新知見を得ることはあり得ません。演繹は前提の中に存在していたものを取り出す操作です。もしも演繹で経験科学上の新発見があるとしたら、前提の中にあったものを見落としていたということです。

いつものおまじないを書いておきます。こういう常識をわざわざ書かなくていけないのも情けなくはあります。

「公表された作品については、みる人ぜんぶが自由に批評する権利をもつ。どんなにこきおろされても、さまたげることはできないんだ。それがいやなら、だれにもみせないことだ。」

藤本弘(藤子・F・不二雄)氏の「エスパー魔美」からの引用である。「法華狼の日記」さんのサイトに詳細な解説とそれに対する読者の反論と議論がある。セリフに漢字が少ないことから窺えるように、この漫画は小中学生を読者と想定したものである。自分の論文が批判されて怒っていたら理系の研究者はやっていられない。相互批判は学問の共同体の当然の権利であり、それが学問を発展させるのである。この当然すぎる常識を萬葉学者たちが受け入れてくれることを祈る。

※ このブログの記事のことは萬葉学会にメールして以下の伝言を高山善行氏に伝えるようお願いしました。宛先には萬葉学会編集委員長の関西大学の乾善彦氏も入れてあります。ですから必ず伝わっていることと思います。伝言の部分を再掲します。


高山善行殿

高山善行(2005) 「助動詞「む」の連体用法について」 『日本語の研究』  1(4), 1-15, 2005の問題点を次の記事で論じています。

高山善行(2005)の問題点(1) 演繹でない推論
https://introductiontooj.blogspot.jp/2017/11/to-sue-or-not-to-sue-2.html

高山善行(2005)の問題点(2) データの整理が不適切である
https://introductiontooj.blogspot.jp/2017/11/to-sue-or-not-to-sue-3-20052.html

高山善行(2005)の問題点(1再) 演繹でない推論(つづき)
https://introductiontooj.blogspot.jp/2017/11/to-sue-or-not-to-sue-4-20051.html

高山善行(2005)の問題点(3) モダリティの理解不足
https://introductiontooj.blogspot.jp/2017/11/to-sue-or-not-to-sue-5-20053.html

高山善行(2005)の問題点(4) 主観と客観の混交
https://introductiontooj.blogspot.jp/2017/11/to-sue-or-not-to-sue-6-20054.html

今後も継続する予定です。上記記事並びにその継続記事に対して意見があればコメントまたはメールにて連絡をお願いします。



参考文献
山田孝雄(1908)『日本文法論』(宝文館)
山田孝雄(1936)『日本文法概論』(宝文館)
Reichenbach, Hans (1951) The Rise of Scientific Philosophy.
Popper, Karl (1959) The Logic of Scientific Discovery.
Popper, Karl (1972) Objective Knowledge: An Evolutionary Approach.
野崎昭弘(1980)『逆接の論理学』(中公新書)
北原保雄(1984)『文法的に考える』(大修館書店)
和田明美(1994)『古代日本語の助動詞の研究ー「む」の系統を中心とするー』(風間書房)
Palmer, Frank R. (1979) Modality and the English Modals.  飯島周訳『英語の法助動詞』(桐原書店)
Palmer, Frank R. (1990) Modality and the English Modals. 2nd ed.
村上陽一郎(1994)『科学者とは何か』(新潮社)
Palmer, Frank R. (2001) Mood and Modality, 2nd Edition.
高山善行(2002)『日本語モダリティの史的研究』(ひつじ書房)
安田尚道(2003) 「石塚龍麿と橋本進吉--上代特殊仮名遣の研究史を再検討する」 『国語学』 54(2), p1-14, 2003-04-01
山本淳(2003)「仮定・婉曲とされる古典語推量辞「む」の連体形」 山形県立米沢女子短期大学紀要 38, 47-62, 2003-06-30
高山善行(2005)「助動詞「む」の連体用法について」 『日本語の研究』  1(4), p1-15, 2005
Priest, Graham (2008) An Introduction to Non-Classical Logic, Oxford University Press.
Portner, Paul (2009) Modality (Oxford Surveys in Semantics and Pragmatics), Oxford University Press.
Cruse, Alan (2011) Meaning in Language: An Introduction to Semantics and Pragmatics (Oxford Textbooks in Linguistics) Oxford University Press. 
高山善行(2011)「述部の構造」 金水敏ら(2011)『文法史』 (岩波書店)の第2章
高山善行(2014)「古代語のモダリティ」 澤田治美編(2014)『モダリティ 1』 (ひつじ書房)に収録
高山善行(2016)「中古語における疑問文とモダリティ形式の関係」 『国語と国文学』 第93巻5号 p29-41

TSONTS-21 高山善行(2005)を何故批判するのか(1) 科学の方法

Q1. なぜ高山善行(2005)を問題にしたのですか。
A1. 萬葉学会のP氏が言うには、私の論文には「モーダルな意味」と「構文的な理解」の説明がないからacceptできないそうです。私が理解していたmodalityと査読者のいう「モーダルな意味」が異なります。査読者の定義するmodalityは何かとP氏に尋ねましたが、満足な説明はありませんでした。

古典語のモダリティの論文は高山善行氏が多く書いています。そこで同氏の一連の論文を読んでみました。高山善行氏はFrank Palmerの著作など英米の文献を引用していますが、Palmerらの定義と異なる理解をしているようです。そこにすれ違いの原因があったのではないかと思いました。査読者のQ氏が高山善行氏と同一人物かどうかはわかりませんが、モダリティにかんしては同じような理解をしています。

「構文的意味」も高山善行(2002)を読み、そういう意味だったのかと気付きました。それについては別途書くことにします。

高山善行(2005)をとりあげたのは「演繹」の誤用です。高山氏だけに限りませんが、国語学の論文を読んで気付くのは遡及推論をあたかも論証の如く考える人のあることです。遡及推論とは結論から原因を推論することです。ロッカーの中のコートのポケットに入れたままの財布から金がなくなっていた。太郎が盗んだとすれば結果と整合する。従って原因は太郎が盗んだからだ。このような推論が正しくないのは言うまでもありません。論理学では後件肯定の論理的誤謬と言います。

前件が正しいならば後件が正しい
1 太郎が盗んでいるならば財布に金が無い

1が正しいなら対偶(後件否定)も真(正しい)です。

後件が正しくないならば前件は正しくない
2 財布に金があるならば太郎は盗んでいない

しかし、前件否定と後件肯定は間違いです。

3 太郎が盗んでいないならば財布に金がある
4 財布に金が無いならば太郎が盗んでいる

以上は中学の数学レベルですが、萬葉学者は意外と3が間違いであることに気付かないかもしれません。思考力というのは筋肉と同じで使わないと衰えて行きます。高校の数学レベルの次の問題はどうでしょう。この問題はGraham Priest (2008)からとりました。It is easy to check that the following inferences are valid.とあります。

(A∧B)⊃C ⊢ (A⊃C)∨(B⊃C)
(A⊃B)∧(C⊃D) ⊢ (A⊃D)∨(C⊃B)
¬(A⊃B) ⊢ A

上の式の記号は、∧は「かつ」、⊃は「ならば」、∨は「または」、¬は「でない」と読む。また⊢の記号は推論を表し、左側から右側が論理的に導けると言う意味です。演繹とは何かを判断するには少なくともこの程度の問題が解けなくてはいけません。

理系の人なら暗算で解けます。私も解けます。しかし、萬葉学者の大部分は解けないと思います。頭が悪いからですか。違います。訓練しないから鈍ってしまったのです。

未知の単語の意味を仮定して歌意や文意が通ればその意味が正しいとする方法が国語学の論文にしばしば登場しますが、その方法は上に述べたように論理的誤謬です。

5 連体形の「む」が非現実を表わすならば非現実を表わすと仮定して文意が通る
6 非現実を表わすと仮定して文意が通るならば連体形の「む」は非現実を表わす

上の5は正しい。しかし5の後件肯定の6は間違いです。国語学者の中には6のような推論を演繹と考える人があるようです。高山善行氏もその一人と思います。

このQAは田川拓海氏のブログの「金谷武洋氏への批判記事のまとめ、あるいはFAQ」を参考にしました。正確には金谷武洋氏への批判ではなく金谷氏の著書への批判です。理系の世界では研究者の人格とその意見を別に扱うことが厳しく躾けられます。金谷武洋氏の著書を批判するなら、いわんや高山善行氏の論文をや。国語学、日本語学の研究を担うのは国語学者、日本語学者です。彼らの著書や論文が与える影響は金谷氏の著書以上に大きいのです。さらに、「言語学のような経験科学」において演繹で新しい発見が為されることはありません。演繹は前提の中から結論を取り出す操作です。新しいものを生み出しようがありません。そのような間違った方法論は国語学の健全な発展を阻害します。この二点から、いわんや高山善行説をや、となるのです.

いつものおまじないを書いておきます。こういう常識をわざわざ書かなくていけないのも情けなくはあります。

「公表された作品については、みる人ぜんぶが自由に批評する権利をもつ。どんなにこきおろされても、さまたげることはできないんだ。それがいやなら、だれにもみせないことだ。」

藤本弘(藤子・F・不二雄)氏の「エスパー魔美」からの引用である。「法華狼の日記」さんのサイトに詳細な解説とそれに対する読者の反論と議論がある。セリフに漢字が少ないことから窺えるように、この漫画は小中学生を読者と想定したものである。自分の論文が批判されて怒っていたら理系の研究者はやっていられない。相互批判は学問の共同体の当然の権利であり、それが学問を発展させるのである。この当然すぎる常識を萬葉学者たちが受け入れてくれることを祈る。

※ このブログの記事のことは萬葉学会にメールして以下の伝言を高山善行氏に伝えるようお願いしました。宛先には萬葉学会編集委員長の関西大学の乾善彦氏も入れてあります。ですから必ず伝わっていることと思います。伝言の部分を再掲します。


高山善行殿

高山善行(2005) 「助動詞「む」の連体用法について」 『日本語の研究』  1(4), 1-15, 2005の問題点を次の記事で論じています。

高山善行(2005)の問題点(1) 演繹でない推論
https://introductiontooj.blogspot.jp/2017/11/to-sue-or-not-to-sue-2.html

高山善行(2005)の問題点(2) データの整理が不適切である
https://introductiontooj.blogspot.jp/2017/11/to-sue-or-not-to-sue-3-20052.html

高山善行(2005)の問題点(1再) 演繹でない推論(つづき)
https://introductiontooj.blogspot.jp/2017/11/to-sue-or-not-to-sue-4-20051.html

高山善行(2005)の問題点(3) モダリティの理解不足
https://introductiontooj.blogspot.jp/2017/11/to-sue-or-not-to-sue-5-20053.html

高山善行(2005)の問題点(4) 主観と客観の混交
https://introductiontooj.blogspot.jp/2017/11/to-sue-or-not-to-sue-6-20054.html

今後も継続する予定です。上記記事並びにその継続記事に対して意見があればコメントまたはメールにて連絡をお願いします。



参考文献
山田孝雄(1908)『日本文法論』(宝文館)
山田孝雄(1936)『日本文法概論』(宝文館)
Reichenbach, Hans (1951) The Rise of Scientific Philosophy.
Popper, Karl (1959) The Logic of Scientific Discovery.
Popper, Karl (1972) Objective Knowledge: An Evolutionary Approach.
野崎昭弘(1980)『逆接の論理学』(中公新書)
北原保雄(1984)『文法的に考える』(大修館書店)
和田明美(1994)『古代日本語の助動詞の研究ー「む」の系統を中心とするー』(風間書房)
Palmer, Frank R. (1979) Modality and the English Modals.  飯島周訳『英語の法助動詞』(桐原書店)
Palmer, Frank R. (1990) Modality and the English Modals. 2nd ed.
村上陽一郎(1994)『科学者とは何か』(新潮社)
Palmer, Frank R. (2001) Mood and Modality, 2nd Edition.
高山善行(2002)『日本語モダリティの史的研究』(ひつじ書房)
安田尚道(2003) 「石塚龍麿と橋本進吉--上代特殊仮名遣の研究史を再検討する」 『国語学』 54(2), p1-14, 2003-04-01
山本淳(2003)「仮定・婉曲とされる古典語推量辞「む」の連体形」 山形県立米沢女子短期大学紀要 38, 47-62, 2003-06-30
高山善行(2005)「助動詞「む」の連体用法について」 『日本語の研究』  1(4), p1-15, 2005
Priest, Graham (2008) An Introduction to Non-Classical Logic, Oxford University Press.
Portner, Paul (2009) Modality (Oxford Surveys in Semantics and Pragmatics), Oxford University Press.
Cruse, Alan (2011) Meaning in Language: An Introduction to Semantics and Pragmatics (Oxford Textbooks in Linguistics) Oxford University Press. 
高山善行(2011)「述部の構造」 金水敏ら(2011)『文法史』 (岩波書店)の第2章
高山善行(2014)「古代語のモダリティ」 澤田治美編(2014)『モダリティ 1』 (ひつじ書房)に収録
高山善行(2016)「中古語における疑問文とモダリティ形式の関係」 『国語と国文学』 第93巻5号 p29-41

2018年1月11日木曜日

TSONTS-20 萬葉学会の何が問題か(5)

Q5. 査読者の交替を要求しなかったのですか。
A5. それ以前に反論さえ認めないと言っています。

理系の学会は投稿者と査読者は対等です。査読者が理解不十分で査読に相応しくないと判断すれば当然の権利として編集者に査読者の交替を要求します。萬葉学会はそれとは全く別の常識が支配する世界です。以下は私の推測です。国語学者であれば当然の発見の如く書くでしょうが、常に客観的に表現することを訓練された理系人の控えめな書き方は国語学者たちから見れば「説得力がない」かもしれません。国語学者風に書いてみましょう。

萬葉学会は未熟な投稿者を専門家である国語学者が指導育成すると考える。国語学者は不可謬であり、その発言は絶対の真理である。投稿者はけして逆らってはならない。天は人の上に査読者を作り、人の下に投稿者を作る。萬葉学会はそう考えるのである。

投稿者は査読者の言い付けを遵守して論文を改良すること。ゆめ査読者が間違っているなどと思ってはならない。書き直して論文の価値が下がったとしたら、それは投稿者が査読者の真意を誤解したからである。萬葉学会の聖なる書物にはそう書かれている。

そのような方法で審査する限り、従来説を覆すような画期的進歩は起こらない。人間は自分を物差しとしてしか評価できない。自分を超えるものの価値が理解できるだろうか。結局は査読者たちの常識に整合する論文ばかりが掲載される。「萬葉」にここ十年ほど画期的な論文が掲載されただろうか。従来説の焼き直しばかりではないか。地動説を唱えるものを有罪とするようなやり方は科学(知的活動)を停滞させるばかりか逆行させる。

萬葉学者は論文を文学作品と同じと理解している。新しい発見があることは重要でない。結論が従来説と同じであっても、当該の論文が用いたとは別の例えが使われていれば説得力があると感動する。海外の専門家が書いた言語学の定番の教科書が引用されていれば、たとえその引用が誤訳であっても良い。大切なのは正確さでなく説得力なのだから。権威の発した言葉は錦の御旗となる。たとえ上下逆に掲げていたとしても。

慣れないことをするものではありませんね。断定的に書くという点では国語学者風でしたが、決まり文句の「思われる」「だったのである」を使い忘れました。

Thomas KuhnのいうParadigme shiftを実現するには、国際的な学会(理系はすべてそう)が採用しているように、投稿者と査読者は対等である、という原則を貫くべきです。でないと、査読者の思いも寄らなかったような新しい発見は出てきません。国語学に進歩がないとしたら、そのような審査方法が原因なのかもしれません。ちなみに、「ミ語法の」論文のほうは、三名の査読者があり、反論も認められました。また、今回のク語法の論文の査読理由のような、明晰でない日本語や意味が不明な英単語の使用もありませんでした。今まで書いてきた理系の論文もそうでした。萬葉学会だけたまたま不明瞭な文章を書く人に当たり、萬葉学会だけ査読に反論が認められないのかもしれません。 


参考文献
Kuhn, Thomas (1996), The Structure of Scientific Revolutions, 3rd Ed. (Univ. of Chicago Press)



TSONTS-19 萬葉学会の何が問題か(4)

Q4. なぜク語法の論文をブログに公開したのですか。
A4. 査読者による盗用を防ぐためです。萬葉学会は何ら盗用対策を講じていません。

高山善行(2005)の問題点(6) 引用すべき論文が引用されていないに書きましたが、村上陽一郎(1994)の第5章の「窃盗同様の行為」の節から引用します。


もっと極端な事例として知られるのは、次のようなレフェリー絡みの話である。興味深い内容の論文原稿があるレフェリーの手許に回ってきた。そのレフェリーは、その論文にケチを付けて、著者に変更の要求とともに返送すべきである、という審査結果を出した。編集委員会が、この結果に基づいて手続きをしている聞に、このレフェリーは、当の論文の重要な部分を自分の論文に仕上げて、さっさと審査を通過させ、発表してしまった、というのである。これでは、窃盗と言われでも仕方あるまい。


そういうことが起こりうることは誰もが予想することです。国際的な学会では、投稿した原稿のコピーのすべてのページに渡る日付の入った受領の穿孔印を押して返却するなど、何年何月何日にどういう内容の投稿をしたかの証明が為されます。萬葉学会ではそのような初歩的な対策さえ為されていません。

あなたは知らない人に領収書もなく現金を預けますか。学会誌へ投稿するということはそれと同じです。アイデアのような形のないものは盗んでも証拠が残りません。

人間の記憶力は曖昧です。誰かから聞いた話や何かで読んだ話であっても、年月の立つうちに、自分が昔から考えていた、となるのです。また、他人のアイデアを聞いても、そこに自分の考えを付け加えれば、二人の共同のアイデアでなく、自分だけのものと思う人もあります。

安田尚道(2003)のような事例は石塚龍麿が自分のアイデアを書き止めていたからこそ明らかになったのです。国語学の雑誌に論文を投稿し、それが査読者に犯意がなくても結果として登用されることがないとは言えません。


参考文献
村上陽一郎(1994)『科学者とは何か』(新潮社)
安田尚道(2003) 「石塚龍麿と橋本進吉--上代特殊仮名遣の研究史を再検討する」 『国語学』 54(2), p1-14, 2003-04-01