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2017年8月31日木曜日

萬葉学者であるとはどのようなことか? その7 この炭酸を、うまい!と思ったあなたは大人です。

You can try a taste of his ice cream, but if it tastes the same as yours, that only means it tastes the same to you: you haven't experienced the way it tastes to him.  There seems to be no way to compare the two flavor experiences directly.

あなたは彼のアイスクリームを味見できるが、あなたのと同じ味だったとしても、あなたに同じ味だったに過ぎず、彼に感じられる味を体験していない。二人の味の体験を直接比べる方法は無さそうである。

Thomas NagelのWhat Dpes It All Mean?のOther Mindsの章からの引用です。翻訳書が出ています。昭和堂の『哲学ってどんなこと?』です。ここに書いた訳は私訳です。翻訳書はもっと上手に訳しているはずです。

タイトルは近くのスーパーで買った清涼飲料に貼ってあったシールの文言です。ウィルキンソンのトニックウォーターに近い苦い味です。「大人」を「二十歳以上」と入れ替えては意味を為しません。

7-1a この炭酸を、うまい!と思ったあなたは大人です。
7-1b この炭酸を、うまい!と思ったあなたは二十歳以上です。 

7-1bは広告の役目をしない。ここでいう大人は年齢ではない。甘くない味をうまい!と思える成熟した味覚を持つことである。

永井均氏は「コウモリであるとはどのようなことか?」のあとがきに
これは大人のための哲学書である。二つの合意を込めて、私は本書をそう規定したい。第一に、この本は子供向きではない。第二に、この本は思想書ではない。
と書いている。原文に傍点がある部分を太字にした。

永井均氏の定義で大人と子どもの別は「大人は「内部」におり、子供は「外部」に立つ」と言う。「著者ネーゲルは、一貫して「内部」の立場を保持し」ているとも言う。哲学と思想の区別は、永井氏によると、結論を重視するのが思想書、結論に至る思索を重視するのが哲学のようである。どちらも永井均氏の定義に基く。「内部」と「外部」が何であるか今の私には分からない。

炭酸飲料のコピーと同じく、大人と言われることで、くすぐられる人に向けたものかもしれない。

トマス・ネイゲルの哲学が大人(内部)の立場を保持しているかというと、私は違うと思う。そもそも、哲学は子供の疑問を持ち続けないと出来ないと思う。

空はなぜ青いのか。なぜ月はずっと付いて来るのか。私が赤と感じるこの色を他人も同じに感じているのか。そういう疑問は子供の頃多くの人が感じたはずである。しかしそれを考え続けていては大人の日常生活の妨げになる。少なくともしなくてはならない仕事をする時間を奪う。だから多くの人は大人になる過程で、このような哲学的疑問を放棄する。

その一部を放棄しなかった人は科学者と呼ばれる。アリストテレースなどの時代の哲学の疑問の一部は科学者に受け継がれた。

アインシュタインは言う。

The important thing is not to stop questioning. Curiosity has its own reason for existence. One cannot help but be in awe when he contemplates the mysteries of eternity, of life, of the marvelous structure of reality. It is enough if one tries merely to comprehend a little of this mystery each day.

以上は雑誌Lifeのアインシュタインの追悼記事に記者が記したものである。息子とその家を訪ねた際にアインシュタインがその息子に語った言葉だそうである。

大切なのは疑問を止めないことだ。好奇心にはそれが存在するだけの理由がある。永遠の謎、生命の謎、現実の世界の素晴らしい仕組みの謎を真剣に考えるとき畏敬の念を感ぜざるを得ない。この謎のほんの一部を日々知ろうとするだけで十分である。

大人が途中で考えるのを止めてしまうような、たとえば友人がアイスクリームを食べて感じる味と自分が感じる味が同じものかどうか、ということを真剣に考え続けるのが哲学である。子供の心を持ち続けなくては出来ないのが哲学である。

万葉集の言葉や語法の解釈も同じである。偉い先生がそうだと言っても、本当にそうなのかと疑い続けるような、子供の感覚がなくては、その本当の意味に辿り着けない。萬葉学者の百人が賛成しているんだからもう良いではないか。いつまでも疑問を持ち続けるのは子供だ。そう言われてめげてはいけない。本居宣長、富士谷成章、鈴木朖などの諸氏が成果を上げたのは、子供の疑問を持ち続けたからである。明治以来、国語学は進歩したかもしれないが、記紀万葉の解釈があまり進展していないように見えるのは、萬葉学者が大人に成り過ぎたからではないだろうか。 

アインシュタインやネイゲルのように、子供の問いを大人の頭で考え続けるとき、分からなかったことがわかるようになるのである。少なくとも科学の研究者は、子供の疑問を、大人の訓練された思考力で考え続けきた。だから科学は進展したのである。同じことが萬葉学で為されないのは少なくとも大人の論理の訓練を怠ったからであり、萬葉学者の多くは子供のように疑問を持ち続けることをも怠っている。もしもそうであるなら、そのような訓練を厭わないはずだから。







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