読売新聞の大手小町に美人の友達といるときの体験談がある。
美男美女でない(私もそうだし、ここを読む人の多くがそうであると思うが) 人でも、美男美女の友人知人と同席したり、当人の話を聞いたりすることで、ある程度までだろうが、その体験を理解することができる。
6-1a What is it like to be a handsome man or a beautiful woman?
6-1b 美男美女であるとはどのようなことか?
6-1c 美男美女はどんな感じ(気分)か?
6-1aは疑似体験が可能であり、言葉によっても伝えられる(※)。しかし、コウモリと一緒にいても6-2aは分からない。
6-2a What is it like to be a bat?
6-2b コウモリであるとはどのようなことか?
6-2c コウモリはどんな感じ(気分)か?
※ これは以下に記すように正しくない。
美男美女でなくても美男美女の感じや気分を体験できると多くの人が考える。美男美女が実際に体験しているものと体験できると思う人が体験するものが同じかどうかは別の問題である。しかし、コウモリの感じや気分を理解できたり言葉で説明できたりすると考える人は稀であろう。ネイゲルがコウモリを選んだ理由はそこにある。
美男美女でなくても美男美女の感じや気分を体験できると多くの人が考える。美男美女が実際に体験しているものと体験できると思う人が体験するものが同じかどうかは別の問題である。しかし、コウモリの感じや気分を理解できたり言葉で説明できたりすると考える人は稀であろう。ネイゲルがコウモリを選んだ理由はそこにある。
コウモリがコウモリとして感じるものを言語で、つまり客観的に、説明できないとしたら、心というものを脳の中の化学物質の移動や電気現象と客観的に対応させられない。心を唯物論で扱えない。
ネイゲルのコウモリの論文の概要は以上である。
科学者の端くれとして、私は唯物論が正しいと考える。つまり、心は脳の中の化学物質や電荷の挙動で一意的に記述できると考える。コウモリの感じや気分を言語で説明できないのは、言語が脳内の現象に完全に対応していないからである。一方、心の現象は完全に対応している。
そのように私は考えるが、ここで長々とネイゲルに反論しても、反論になっていないと当人からいわれるかもしれない。哲学は子供のような問いをいつまでも続けることである。その答えは誰かから教えられるものではない。自分で考えて、考え抜くのが哲学である。
ネイゲルの哲学に興味がある人には次の本を薦めたい。トマス・ネイゲル著、岡本裕一朗 、若松 良樹訳、「哲学ってどんなこと?」 (昭和堂)。特に「コウモリであるとはどのようなことか?」を読んで挫折した人が理解し直す良い読書となると思う。
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