Google Analytics

2017年7月1日土曜日

萬葉学者であるとはどのようなことか? その2 説得力



Σωκράτης
ἔλεγές τοι νυνδὴ ὅτι καὶ περὶ τοῦ ὑγιεινοῦ τοῦ ἰατροῦ πιθανώτερος ἔσται ὁ ῥήτωρ.

Γοργίας
καὶ γὰρ ἔλεγον, ἔν γε ὄχλῳ.

Σωκράτης
οὐκοῦν τὸ ἐν ὄχλῳ τοῦτό ἐστιν, ἐν τοῖς μὴ εἰδόσιν; οὐ γὰρ δήπου ἔν γε τοῖς εἰδόσι τοῦ ἰατροῦ πιθανώτερος ἔσται.

Γοργίας
ἀληθῆ λέγεις.

上記はプラトーンの「ゴルギアス」(459A)からの引用である。

ソークラテース 「今の話は、たとえ健康の問題であっても医師よりレートールに説得力があるということですね。」
ゴルギアス 「さらに言えば、大衆の前では、という意味です。」
ソークラテース 「大衆が無知だということですか。確かに、知っている人の前では、レートールは医師ほど説得力がないでしょうから。」
ゴルギアス 「おっしゃる通りです。」

※ 大学の教養課程で選択科目の古典ギリシア語を履修したように記憶しているが、講義の記憶がないし、単位も取得していない。従って稿者の訳は心もとないことこの上もない。岩波文庫の『ゴルギアス』などで専門家の訳を参照されたい。ブログで引用しなかったのは著作権の問題がよく分からなかったからである。

レートール(ῥήτωρ)とは大衆の前で演説する人である。弁論家と訳されることが多い。ゴルギアスは有名な弁論術の教師であった。薬を飲むことや手術を受けることを勧めるのに、自分は医師に代わって患者を説得できると言う。医学的に理路整然と説明するよりも、弁論術を使うほうが患者を納得させられるからである。つまり相手に専門的知識や論理的な理解力がない場合に説得力を発揮するのが弁論術である。

萬葉学会のP氏はしばしば説得力がある、ないと言う。それではまるで萬葉学者が無知であり、そのために論理的な説明を受け入れないというのと同じではないだろうか。萬葉学者にとって説得力とは何だろう。また、それはどういう意味を持つのだろう。

説得力については、国語学の論文に特有な非論理的な推論の「その6」に書いた。

次の推論は論理的に誤りである。しかし国語学の論文に多用される。「お前が盗んだならば私の金がない」の条件文は真である。しかし「私の金がない」が真だとしても、そこから「お前が盗んだ」と結論できないことは高校の数学で習った通りである。だが、それと同じ論理構造で、「AならばBである」と「Bである」から「Aだったのである」と結論することは、錚錚たる国語学者たちの論文にしばしば見られる。「古代に於てはかやうな場合にも打消の場合と同等に「は」が用ゐられたのであるならば、私の仮説が間違いとは言えない」と「私の仮説は正しい(と私は考える)」から「古代に於てはかやうな場合にも打消の場合と同等に「は」が用ゐられたものと見られるのである。」と結論する推論である。

また、「非論理的な推論」の「その1」で紹介した例では、「「な」は願望の意味を持つ」とする仮説を、たった二首の歌で検証し、歌意が通ることから、「「な」が願望の意味を持つ」と結論する。仮説を立て、それを用例で検証する方法は科学的に正しいが、仮説の検証が二例では、それこそ説得力がない。さらに、歌意が通るとはその状況で矛盾がないという意味でしかない。推測した単語の意味が正しければ歌意が通るが、歌意が通ったからと言って推測した意味が正しいとは言えない。逆は必ずしも真ならずである。

このような推論が説得力を持つのは、ゴルギアスとソークラテースが認めるように、大衆が無知である場合である。ギリシア時代でも現代でも相手が論理に敏感なら通用しない。大学の理工系や法学系の学部に学んだ人なら一目で論理的な矛盾を見抜くに違いない。

それが何故萬葉学者には通じてしまい、むしろ説得力があるという肯定的な評価に反転するのか。萬葉学者とのやり取りを通じて、私は次の仮説を得た。萬葉学者は学術論文を論理ではなく感性で読む。

この「仮説」という言葉も萬葉学者たちからしばしば誤解されるのであるが、「根拠がない、信頼性の低い思い付き」ではない。コペルニクスの地動説も、マクスウエルの電磁気学の理論も、アインシュタイの相対性理論も、いずれも反証が未だ現われていない仮説である。自然科学も言語学も、数学や法学とは異なり、公理や法律から演繹するような証明が行えない。帰納法しか適用できない。その帰納法も、実は、多くの事実から仮説を立てたに過ぎない。カール・ポパーは白いスワンを何万回観察したからと言って、スワンのすべてが白いと言いきれないと言っている。ヨーロッパ人は長い間スワンは白いものだと信じていた。それがオセアニアに黒いスワン、日本語ではコクチョウと言うが英語ではblack swanが、存在することを知り、スワンは白いという仮説は覆された。

なお、Popper (1934)の日本語訳の「科学的発見の論理」では白いスワンが黒いカラスに置き換えてある。日本語の白鳥は白い鳥の意味であるから、誤解を恐れてカラスに置き換えたのかもしれない。しかし白いカラスは未だ発見されていない。一方黒いスワンはオセアニアに生息する。したがって、個別の観察結果を幾ら積み重ねても帰納という推論が出来ないという例としては、カラスよりもスワンが相応しい。日本語訳を読む方は注意されたい。

本題に戻る。多くの大学で国語学と国文学は同じ学科で教えられる。国文学は感性が判断基準である。友人は某黒ラベルは某スーパードライよりはるかに旨く、その違いは比べるまでもないと言う。私は某クラシックラガーを好む。もちろん某スーパードライや某一番絞りが好きだという人も多数存在する。その主張は客観的な論理で導かれず、各自の味覚という感性に依存する。これが国文学の判断基準だと思う。しかし国語学は違う。言語という自然現象(あるいは社会現象)を対象とする自然科学(あるいは社会科学)である。そこに感情は入り込めない。すべては論理が決める。

以上が本来の姿であるが。国語学者は国文学者と兼務の場合も多い。教育の過程で理工学系や法学系のような論理的思考を訓練されることもない。日本人の英語力は大学入学時点が最も高い水準にあるという笑い話がかつてあったが、萬葉学者の論理的思考能力も大学入学時点が最も高くその後は衰退して行くのかもしれない。誤解して欲しくないが、論理的思考力は頭の良さとは違う。それは訓練で鍛えられるものであり、訓練を怠るとたちまち衰える。筋力と似ているかもしれない。古代人は老若男女が徒歩で日本中を旅した。それは足腰の筋力が鍛えられていたからである。

萬葉集の「ずは」の語法を調べていて、私は古代人が現代人が及ばない論理的思考能力を持っていたことに気付いた。テレビもインターネットも映画も雑誌もない時代。言語と思考で現代よりも脳が鍛えられていたと私は考える。遺伝子は上代人も現代人もほぼ同じであるから、論理的思考力の差は日々の生活の中の訓練の違いと考えたい。

何度も脱線したが、国語学に特有な非論理的推論と説得力という語の多用は、感性が判断の基準の国文学の側からもたらされたものではないだろうか。そのように今は考えている。

萬葉学者から学んだ萬葉学者に説得力のある慣用句で結ぶならば次のようになろう。 萬葉学者にとって学術論文とは文芸作品だったのである。だからこそ、彼らは理性より感性を重んじ、客観的な論理の妥当性を能動的に検証しようとしなかった。カントは論理学をアリストテレス以来進歩がないと断言したが(『純粋理性批判』の第二版への序文)、同じことは国語学にも言える。宣長以来大きな進歩がないことの原因は、論理より説得力を重視してきた姿勢にある(このように断定するのが説得力があるのだろうか)。

参考文献
Popper, Karl (1934) The Logic of Scientific Discovery, (English translation by the author 1959).
濱田敦(1948a) 「上代に於ける願望表現について」 『國語と國文學』 25(2)
橋本進吉(1951) 「上代の国語に於ける一種の『ずは』について」 『上代語の研究』 (1951 岩波書店)
Popper, Karl (1963) Conjectures and Refutations: The Growth of Scientific Knowledge.
Popper, Karl (1972) Objective Knowledge: An Evolutionary Approach,, Rev. ed., 1979.

0 件のコメント:

コメントを投稿