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2017年8月30日水曜日

萬葉学者であるとはどのようなことか? その5 「コウモリであるとは」とはどのようなことか?

万葉学者たちの書いた論文を読んで不思議だったのは、何故そのような非論理的な推論をするのか、何故そのような論文が査読を通って掲載されたのか、さらには、何故その論文が好意的に引用されているのかだった。非論理的な推論については以下に書いた。


ミ語法の論文とク語法の論文を書き、それぞれA雑誌とB雑誌に投稿した。幸いにも、 A雑誌は審査を通り掲載が決定した。一方、B雑誌と書いた萬葉学会の『萬葉』は不掲載となったらしい。と言うのは、正式な不掲載の通知を貰っていないからである。編集委員のP氏はその文書を「公文書」と呼び、「公文書」を送ることを約束してくれたが、数日後に届いたその「公文書」に学会の法人印も署名もなく、このような文書なら誰でも作れてしまう。これでは正式な文書と言えないとP氏に伝えたが、未だに正式な文書は届いていない。

P氏とのやりとりで痛感させられたのは、今まで付き合ってきた人たち、学校の先生、先輩、友人、職場の上司、先輩、同僚、学会や取引先の人々との間では通用した、今まで私が常識だと思っていたことが通じないことだった。私文書を公文書と呼ぶような間違いは言葉遣いに敏感な人でなければ別に珍しくないし、正式文書に印鑑を押さないことも、ずっと大学にいたような人にはわからないのかもしれない。問題はそれ以前のことだった。高校生でもわかる程度の簡単な論理が通用しない。

また、既に紹介した萬葉学会のQ氏による査読の結論の論理の展開が非常に主観的なことも驚きだった。これでは「私はこの論文を良いとは思わないので、拒絶する」というのと同じである。理系の世界ではそのような論法は通らない。理系に限らず、法学や経済学でも同じだろう。人文学者特有なのかもしれないが、少なくとも萬葉学者たちも我々非萬葉学者も万葉集という同じものを見ているはずなのに、違って感じているのだろうかという疑問が生じた。

そこで思い出したのがトマス・ネイゲルの論文である。その邦訳のタイトルが「コウモリであるとはどのようなことか」である。ブログの記事に「萬葉学者であるとはどのようなことか?」というタイトルを付けた。また、藤子・F・不二雄こと藤本弘氏の作品からも引用した。しかし、萬葉学者たちから「我々を犬やコウモリに例えるとはどういうことか」という苦情が出ないとも限らない。常識的にはそのような誤解はあり得ないが、どうも萬葉学者たちを私は、十字軍の時代のキリスト教徒がサラセン人を、逆にムスリムたちがフランク人を見ていたのと同じように見ていたのかもしれない。つまり、、自分たちの常識では測れない、思いもよらない考え方をする人たちとである。その対策として、人間同士の例として、グリフィンの「私のように黒い夜」やヴァルラフの「最底辺」を、木に竹を接ぐように付け加えたりした。

しかし、よく考えてみれば、前回示したヴィトゲンシュタインのウサギとカモの錯視のように、多義的なものの複数の意味を知らなければ、どちらか一方に、つまりウサギにだけやカモにだけしか見えない。したがって、萬葉学者の誤解は「犬やコウモリに例えるとは」ではなく、それ以前の、「萬葉学者であるとはどのようなことか」という文言に向けられるかもしれない。だから、グリフィンやヴァルラフを紹介するまえに、このタイトルの意味を解説すべきであった。

「コウモリであるとは」の「である」とは何か。断定なのか「として生きる」という意味なのか。次の例を比較されたい。

5-1a 我輩は猫である。
5-1b 我輩は猫だ。

両者に違いが感じられるだろうか。感覚の問題であるから、多数決で決めるしかなかろうが、違いがないと感じる人が多数であると私は思う。

5-2a コウモリであるとはどのようなことか?
5-2b コウモリだとはどのようなことか?

5-2bは私には多少苦情を言うニュアンスが感じられる。もしもそのように感じる人が多ければ、この「である」は単なる断定の意味ではなく、感じる人の数に比例した割合で「コウモリとして生きる」という意味が含まれているのであろう。また、ネイゲルの論文を読んだことがない人には5-2aであっても、何か苦情を申し入れるようなニュアンスが感じられるかもしれない。この記事のタイトルの「萬葉学者であるとは」という文言にもそれと同じことが言える。そのような誤解が萬葉学者の側から寄せられるかもしれないことに私は前もって気付くべきであったと今にして気付いた。

また、「コウモリであるとは」の「とは」は引用である。相手が言ったこと、誰かがいったこと、自分が言ったことのいずれかを引用して、「どのようなことか」と問うのである。日本語では疑問を呈することがしばしば詰問と認識されうる。次の例を見られたい。

5-3a What's this?
5-3b これは何だ。
5-3c 何だろ、これ?

ある英語の本の原文が5-3aであり、5-3bは翻訳である。翻訳者は話し手が怒っていると思ったようである。正しい訳は5-3cである。5-3bを「これは何か」としても、多少詰問のニュアンスが残る。

したがって、「コウモリであるとはどのようなことか」は「とは」と疑問があいまって、相手が何かを「コウモリである」と断定したのに対して、疑問を呈している、あるいは詰問していると判断されうる。「萬葉学者であるとはどのようなことか」も相手が「私は萬葉学者である」と名乗ったのに対して、何か苦情を言おうとしていると判断されかねないことに改めて気付いた。

「コウモリであるとはどのようなことか」は多義的であり、そのために分かりにくい表現である。そこが面白くもあった。ネイゲルの論文集のタイトルに永井均氏がこの文言を選んだのもそれが理由だと思う。しかし、それはウサギとカモの両方に見えることに気付いた段階で言えることであって、多義性に気付かず、ウサギかカモかどちらかだと信じている段階では無用な誤解を受けかねない。

このタイトルは引用の「とは」と詰問の可能性のある「どのようなことか」ではなく、「コウモリであるのはどんな感じか」のように訳すべきだったと思う。少なくとも、ネイゲルが論文で何を言おうとしたのかが読者に分かりやすかった。





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