Google Analytics

2019年9月3日火曜日

JBJ-03 上代文学会事件 その三 論理と説得術

話が前後するが、「説得力」は科学の言葉ではない。こう書くと「人文学はhumanitiesであってscienceでない」という反論が予想されるが、その反論は論理的でない。重要なのは名前でなく実体である。名前は記号に過ぎない。深緑色の板を黒板と言う。黒板は記号であり、実体は深緑色の板である。人文学と呼ぼうと、人文科学と呼ぼうと、humanitiesでも、Kulturwissenschaftでも、言語学はその中に含まれる。ドイツ語のWissenschaftは科学とも学問とも訳される。記号としての名前が科学であろうが、学問であろうが、そこで行われるのは真理の探究である。用いられるのは説得術(rhetoric)ではなく論理(logic)である。学者や研究者は論理的妥当性を追及し、政治家や商人は大衆を納得させる。学術論文の物差しとして「説得力」を用いるのは「説得力」がない。

民事調停の席上で乾善彦氏は「私は地動説を信じていない」と言った。私が科学の歴史を述べたことへの反論のつもりだろう。しかし、それは反論にならないどころか、「説得力」という評価基準の無意味さを明らかにする。地動説は乾善彦氏にとって「説得力」がないということになる。では、乾善彦氏はニュートンの第二法則との矛盾をどう説明するのか。

F = p/t
ここで、Fは力、pは運動量、tは時間である。

太陽と地球だけの系を考える。太陽が地球の周りを公転するとしたら、系の重心はどういう運動をするか。楕円運動である。では運動量の時間変化つまり力はどこから供給されるのか。高校で習う程度の易しい力学で乾善彦氏は論破される。説得力は主観であり、個人の理解力に左右される。そのようなものを科学(学問)の評価の基準にできると言うのか。記号としての名前を、科学と付けようが、学問と呼ぼうが、その営みは客観的でなくてはならない。

国語学者が地動説を信じなくても科学の進歩には影響がない。しかし、国語学(万葉学)の論文や発表の評価基準に個人の理解力に左右される「説得力」を据えるなら、国語学は1mmも進歩しない(※)。

※ これはlogicではなく、rhetoricである。念のため。


0 件のコメント:

コメントを投稿