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2019年9月4日水曜日

JBJ-04 上代文学会事件 その四 日常の場と研究の場


説得術(rhetoric)は一般に修辞法と訳される。そのため美文を書く方法と誤解する人が多いようである。比喩や押韻は文彩(figure of speech)という。それは説得術の一部であって全体ではない。古代ギリシアでは政治や司法が投票に委ねられていた。政治家として成功するため、裁判に勝つため、不可欠の技法であった。この説得術をソークラテースやプラトーンは嫌ったが、アリストテレースは研究対象として取り上げた。以上のことは以前書いた。

説得術(rhetoric)は人間の論理の錯覚を利用する。権威を信じやすい傾向を利用するものをargumentum ad verecundiam(権威に帰する論法)、その逆をargumentum ad hominem(人に帰する論法)、多数意見に従う傾向を利用するものをargumentum ad populum(多数に帰する論法)と言う。何故ラテン語の名前が付いているのか。それだけ古くから研究されてきたからである。

権威や多数に従うのは日常生活では安全な方策である。村の長老が「そのキノコには毒がある」と言い、大人たちが「あの山には猛獣がいる」と言う。それを信じた者の多くが生き残り遺伝子を残した。皆が「あいつは嘘つきだ」と言ったなら、その人物の言うことを信じない。信じなかった人たちの多くが遺伝子を残した。だからこの傾向は安全に生きるための進化の賜物である。自分で考えることも事実かどうか確認することもせず、権威や多数に従っていれば安全である確率が高い。

しかし、中には疑う人たちもいた。本当に猛獣がいるのか。毒があるのか。皆が嘘つきと言う人の意見が実は正しいのではないか。そう考えた人たちが知識を増大させ、誤りを修正し、社会を発展させてきた。研究は権威や常識を疑うことから始まる。日常生活の場と研究の場は区別しなくてはならない。この事件の「答弁書」「準備書面」を閲覧して感じたのは被告が日常生活の論法をそのまま研究に適用していることである。

「原告には専門家としての上代文学研究者に対する敬意が欠けている」と被告は言う。大学の教員だから無条件に正しいとする被告の主張に論理的妥当性がない。権威に帰する論法(argumentum ad verecundiam)の好例である。原告が証拠として提出した書籍販売サイトの購入者の書評を「ネット上の匿名者による無責任な書評」と一蹴する。これは人に帰する論法(argumentum ad hominem)である。

上代文学会だけではない。萬葉学会も同じである。客観より主観、論理的妥当性より権威や多数意見に従うように感じる。

橋本進吉は「たとえ童児の言っていることでも真実であれば信ずべきである」と言ったと言う。大野晋はそれをしばしば引用して「日本では発言の中身を吟味する前に発言者が何者なのかを問題にしすぎる。学界が閉鎖的になって研究に発展性が乏しいのはそのせいだ。」と話していたという。誰が言ったかではなく何を言ったかが重要なのは科学技術の世界では大学一年生にも常識である。誰もわざわざ言いはしない。橋本進吉や大野晋がなぜ言ったか。国語学の世界にその常識が通用しないからである。日常の場の論法を研究の場に持ち込んでいる。これでは研究者を名乗れないし、敬意も得られない。

科学者は謙虚である。家庭や職場では横暴かもしれない。しかし、いったん研究の場に立てば、権威を疑い、多数意見を疑い、自分自身をも疑う。自分が絶対に正しいなどと思う人はいない。一般人に敬意など強要しない。理解が得られなければ客観的で論理的に妥当な説明をする。

萬葉学会の乾善彦氏は「私は地動説を信じていない」と言うが、万葉学者の多くは地動説を信じているようである。理由はおそらく「学校で習ったから」「学者が正しいと言うから」「皆がそう言うから」だろう。科学者は仮説が観測事実と整合するかを確認する。しかし、地動説を信じる理由を「天文学の観測事実を説明できる仮説が他にないから」という人は万葉学者の中に少ないと思う。地動説を信じないという乾善彦氏も信じると言う他の万葉学者も一般人と変わらない。科学技術に関して万葉学者は素人だから仕方がない。問題は万葉集の研究についても一般人と同じ判断をすることである。

説得力などという日常の場の論法を研究の場に持ち込んではいけない。自分たちが敬意を払われて当然と思うならば、国文科で教育を受けていない一般人は間違って当然と考えてしまう。自分を権威と思えば「ひっかかる」などという主観的判断で他人の説を評価する。自分に理解力がなくても相手に説得力がないと思いこむ。誰が言ったかではなく、仮説が観測事実に整合するか、結果を受け入れられるかの主観的な印象ではなく、論証の過程が論理的に妥当であるかが重要である。

福井直樹氏の『自然科学としての言語学』を読んでいたら、「(科学的方法が理解されなくて)絶望的になる」という言葉が出てきた。こちらが研究の場の共通語である論理で語っても、相手が日常の場の説得術に従うならば、話はなかなかかみ合わない。

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