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2017年6月26日月曜日

萬葉学者であるとはどのようなことか? その1 What is it like to be a scholar of the Man'yōshū?

藤本弘(1978)に次のような哲学的な問いがある。

「
犬が二匹いる。
一匹は飼い犬。かわいがられてエサもキチンともらえるが、つながれている。
もう一匹は野良犬、自由だが、いつも腹をすかしている。
どっちが幸せだと思う?
」

藤本弘(藤子・F・不二雄)氏は、働くことを勧められた路上生活者にこの質問をさせている。後者が幸せであるから自分は自由な生き方を選んだ、と人間を犬に例えて語っているようにも聞こえる。しかし、地下道おじさん(実は金持ちの会社社長)は続ける。

「
正解はね、「犬に聞かなきゃわからない」
」

人間の意識を持ったまま当該の犬の状態にあると仮定しても正しい答は得られない。犬の目で見、犬の耳で聞き、犬の舌で味わい、犬の心で考えてはじめて犬の立場が理解できる。

残念ながらこの問いは我らが藤子不二雄が世界初ではない。アメリカの哲学者のThomas Nagelは"What is it like to be a bat?"という論文で同様の議論を展開している。ただし、Nagel (1974)の主張は、コウモリにならなければコウモリの感じていることが分からないというよりも、人間やコウモリの意識が脳内の化学的、電気的作用に還元できないことに重点を置いている。Nagel (1974)は「コウモリであるとはどのようなことか?」のタイトルで邦訳され、同名の論文集に収められている。

その立場にならなければ、その気持ちが分からないというのは、何も犬やコウモリに限らない。同じことは人間同士でも起こる。Griffin (1961)は白人が黒人として、Wallraff (1985)はドイツ人がトルコ人として生活することで、初めて見えてきたものを記している。アメリカ社会の黒人やドイツ社会のトルコ人は多数派である白人やドイツ人と脳や感覚器官が異なるわけではない。社会的立場のために彼らに接する側の態度が異なるのである。多数派の一員であった彼らが少数派の立場に身を置くことで、束の間(人生の年月に比べれば)ではあるが、少数派の成員であるという理由だけで、多数派から少数派へ向けられる視線、言葉、時には暴力を体験する。それは生まれながらの少数派の体験に比べれば取るに足らないことかもしれないが、多数派から少数派への立場の転換による急激な変化という点で、敏感に感じ取れたかもしれない。

上代語の研究の投稿を始めるまで私が属していたのは理系の技術者や研究者のコミュニティである。論文を四本書き、うち二つをA雑誌とB雑誌へ投稿した。幸いA雑誌にはアクセプトされたが、B雑誌の萬葉学会からは掲載を拒否された。編集者のP氏から査読者のQ氏の不採用の理由を送ってもらったが、今までの理系の論文の審査とは全く異質のやり方であった。まず、査読者へ反論が出来ない。P氏は投稿した論文の価値を認めると言いながら、査読者の判断に従うと言う。編集者は両方の意見を聞き、少なくとも名目上は公平な立場で採否を決めるのが通常の学術論文の審査である。しかるに、萬葉学会はそのようば手続きを踏まず、査読者の判断が絶対と言う。

その後P氏とやり取りをすることになった。そこで受けた印象は、世の中にはこのような考え方をする人がいるのかというものだった。高校入学以来の同級生や先輩後輩、各教科の担任、大学の教員、就職してからノ同僚や先輩後輩、上司、部下、仕事で付き合う他社の技術者や大学などの研究者にそのような考え方をする人がいなかった。P氏だけではない。万葉集から現代語までの研究論文を読んでも、他分野であれば通用しない非論理的な推論が堂々と書かれていることも驚きだった。

どうすれば萬葉学者たちを私が理解することが出来、萬葉学者たちに私を理解してもらえるのか。なぜ彼らは理系の技術者や研究者と異質の考え方をするのか。沢山の「なぜ」に圧倒されそうであるが、その一つ一つについて考えて行きたい。

参考文献。
Clore, Gerald L.; Jeffery, Katharine M. (1972) Emotional role playing, attitude change, and attraction toward a disabled person., Journal of Personality and Social Psychology, Vol 23(1), Jul 1972, 105-111.
Griffin, John Howard (1961) Black Like Me. (Houghton Mifflin, Boston) 『私のように黒い夜』(至誠堂、1974)
Halsell, Grace (1969). Soul Sister: The Journal of a White Woman Who Turned Herself Black and Went to Live and Work in Harlem and Mississippi. (World Publishing Company, New York) 『黒い肌は知った』 (サンケイ新聞社、1970)
Mowat, F. Never Cry Wolf (New York: Dell Publishing Company,1963).
Nagel, Thomas (1974). "What Is It Like to Be a Bat?". The Philosophical Review. 83 (4): 435–450
藤本弘(1978) 「地下道おじさん」 『マンガくん』1978年09号 小学館、『藤子・F・不二雄大全集』5-3(2010 小学館)に収録。
Wallraff, Günter (1985) Ganz unten Beschreibung des Schicksals von illegal eingeschleusten Arbeitern. 『最底辺』 (1987、岩波書店)

2017年2月18日土曜日

「ちょっと疲れました」

οἷς οὖν οὕτω δέδοκται καὶ οἷς μή, τούτοις οὐκ ἔστι κοινὴ βουλή, ἀλλὰ ἀνάγκη τούτους ἀλλήλων καταφρονεῖν ὁρῶντας ἀλλήλων τὰ βουλεύματα. 

これを信じる人と信じない人に話し合いの接点はなく、それぞれの考えにおいて必ず互いを見下すことになる。

プラトーン(※)の「クリトーン」(※)からの引用です。

※ 大学の教養課程でギリシア語を履修したので母音の長短を区別しないと気がすみません。誰だって自分の名前を間違って発音されると嫌でしょう。日本語訳はリンク先のサイトが単語や文法を解説しているので、それを参考にしました。

ミ語法やク語法の論文を書くまでは国際的な科学の学会誌への投稿しか経験しませんでした。日本語の論文を書くのも初めてでした。それまで常識だと思っていたことが国語学の学会では常識でないことに気付きました。

国際的な学会では著者と査読者は対等です。大人が大人の論文を評価するのですから当然です。査読者(reviewer)が不受理(reject)と判断した場合編集委員(editor)は著者(author)にその理由を知らせます。著者は査読者に誤解があれば(あると思えば)指摘しますし、理由に間違いがあれば(あると思えば)反論します。しかし国語学の世界で査読者は不可謬と考えられているようです。不受理と決まった場合通常は理由を知らせないのだそうです。国際的な学会の常識から見ればとても信じられません。しかし国語学の学会から見れば、おそらく理由を知らせるほうが非常識なのかもしれません。

国際的な学会、理系の学会しか経験しなかった私が、日本国内だけの学会、文学系の学会に論文を投稿し、その反応を見て、今まで常識だと思っていたことが、国語学という未体験の世界では常識でなかったことを知りました。恐らく、国語学の学会の人たちも私の常識が理解できないかもしれません。二つのcultures(校風や学風などの風に近い)の常識がぶつかり合いました。

文学と科学技術の間に相互理解がないことは、C. P. Snowが1959年のThe Two Culturesで指摘しています。有名な箇所を引用して私訳を付します。

「
A good many times I have been present at gatherings of people who, by the standards of the traditional culture, are thought highly educated and who have with considerable gusto been expressing their incredulity at the illiteracy of scientists. Once or twice I have been provoked and have asked the company how many of them could describe the Second Law of Thermodynamics. The response was cold: it was also negative. Yet I was asking something which is the scientific equivalent of: Have you read a work of Shakespeare’s?
」

「
ある集まりによく出席していた。参加者は、伝統的な文化の基準では、皆教養のある人たちとされる。彼らの格好の話題に、科学者は信じられないほど本を読まないというのがあった。一二度挑発的な質問をしたことがある。「あなた方のうち何人が熱力学の第二法則の定義を言えるのですか」と。無視されたり否定されたりした。だが、科学の世界では、この質問は「シェイクスピアを読んだことがありますか」と同じなのである。
」

C. P. Snowが指摘するのは文系と理系の違いではなく、文学という感性の学問と科学という理性の学問の学風(cultures)の違いでしょう。法学や経済学は後者に含まれます。前者の仲間は音楽や美術や演劇などです。「ダメよ~ダメダメ」や「ラッスンゴレライ」が面白いかどうかは論理で決められません。判断する個々の人の感性の問題です。多数決を取るにしても、権威とされる人物の判断は他の人の意見の何倍や何十倍の価値を持ちます。加重多数決と書いたのはその意味です。

タイトルは現在の私の気持ちでもありますが、少し前に萬葉学会とのやりとりで先方の担当者(編集委員?)から言われた言葉です。人間は他人から理解されない場合、意見が否定された場合、最初は相手を説得しようと試みますが、それが難しいとわかると相手を無視する言動をとります。実験心理学と言うと、日本では動物を対象とすることが多いのですが、アメリカは人間を用いた実験を平気で行なってきました。そのお陰で、そのような人間の行動が明らかにされました。しかし実験は人類が薄々気付いていたことを確認しただけです。最初に引用したようにプラトーンがソークラテースの言葉として伝えています。

もちろん私も何故こんな常識が通じないのだろうと考えてはいました。さすがに「疲れた」などとは書きませんでした。それは国際的な学会の中で様々な考えの人がいることを見聞きし、様々な常識がぶつかり合うことを経験したからでもあります。他人と理解しあうには時間が掛かることを実体験として知っています。国語学の研究者の主体は大学の教員です。普段「先生」と呼ばれ、知識や思考力で劣る学生を相手にしていることも関係しているのでしょうか。自分が正しく相手が間違いであるという結論に到達する速度が速いのかもしれません。

国語学は言語学の一分野です。言語学は経験科学です。したがって感性ではなく論理で判断されるはずです。しかし大学の教育制度では国文学と国語学は同じ学科です。今まで「国語学の論文に特有の非論理的な推論」を連載してきました。現象を記述しましたが、何故そのような推論が行なわれるかを述べませんでした。

新聞の短歌や俳句に応募して不採用になったとしても理由を知らされません。文学賞に応募しても同じでしょう。文学や美術、音楽の評価は個人の主観に依るからです。「ダメよ~ダメダメ」が何故面白いか、あるいは面白くないかは論理で説明できません。短歌や俳句や小説が不採用だとしても、その理由を論理的に示すことはできません。感性の問題ですから、反論を許せば永遠の水掛け論になるでしょう。

国語学は本来は言語学という経験科学ですが、事実上は国文学に属し、国文学の感覚的な理由付けで論文が書かれてきたのではないでしょうか。そう考えると、国語学の論文の非論理性の理由がわかり、萬葉学会の査読者の思考の辻褄が合います。「思われるから」という主観を前提とした推論は国文学の研究者由来のものでしょう。「理由無き断定」も感性に基く判断だからでしょう。「逆は真なり」はさすがに芸術でも許される論理ではありませんが、それは研究者たちが論理の訓練を怠ったからです。萬葉学会の査読者は、流行のモダリティを取り入れた論文で雑誌を飾りたい、と考えたのかもしれません。もちろん、それは学術論文を書く方法や査読する方法として不適切であり、改めるべきものであることは言うまでもありません。学術論文は美学で評価されるものでなく、その学問の発展にどれだけの貢献をする(した)かで価値が測れるものです。

「ずは」の語法が永久の解けないなどと言われたのも、国語学が科学になっていなかったのが原因ではないでしょうか。仮説と検証という経験科学の方法を用いれば、既に見たように簡単に解けてしまいます。

2017年2月1日水曜日

ク語法の真実 その6 リンゴが落ちるのを見て誰もが重力を発見するだろうか

 ニュートンがリンゴの実が落ちるのを見て重力を思い付いたとする説には疑問があるそうです。したがって、火星の軌道を見てそれが楕円であると気付くか、とすべきかもしれませんが、それではリンゴと重力ほど分かりやすくはないでしょう。最近今まで通じた常識的な議論が通じないことを経験しました。ニュートンの発見への疑義を書いたのは、一つの間違いを指摘して全体を否定するような詭弁への予防線です。

 熟したリンゴの実が木から落ちる。その光景を見た人はどう考えるでしょうか。「物体はすべて落下する」、「昔からそう決まっている」、国語学の研究が宣長の時代から大きな進展を見せないのは、そう考える人が国語学の学会の主流だからではないでしょうか。「あれも当たり前である」、「これも当たり前である」、そこで思考を中止するから新しい考えが出てこないのです。自然科学が進歩したのは、そこで立ち止まらずに、「なぜ落下するのか」と考える人がいたからです。

 空から目に見えない多数の粒子が降り注いでいる。それがリンゴの実を押すのである。国語学の論文に特有の非論理的な推論 その6 説得力に述べたような「説得力」はあります。しかし、では、風船はなぜ上昇するのでしょうか。正解は大気に働く重力が風船に働くものより大きいからです。目に見えない粒子でも説明できないことはありません。そのような仮説は多数の人が時間を掛けて考えれば何十と出てきます。いや、何百かもしれません。しかし、様々な検証の中で棄却され、生き残る仮説は僅かです。

 地球とリンゴが引き合うのである。この仮説は大胆です。ここを読む人は、ニュートン以前の時代に生きていたとして、同じことを思い付く自信はありますか。このような推論を仮説検証法と言いますが、Charles Sanders Peirceはabductionと呼びました。演繹のdeduction、帰納のinductionに対比させた命名ですが、誘拐の意味でもあるのでretroductionと呼ばれることも多いようです。

 推論の方法は他に演繹と帰納があります。演繹は問題の中に答えが存在します。帰納は観察の積み重ねです。仮説は簡単に言えば結果を見て原因を推測することです。かくばかり恋ひつつあらずは その0 仮説と検証に述べた「かめや」の方法です。国語学の論文に特有の非論理的な推論 その3 歌意が通ることに述べましたが、国語学の論文で未知の語の意味の推測に多用され、国語学の世界ではしばしば証明と混同されます。

 違いは何でしょうか。仮説検証法は多数の仮説を検討するに対して国語学の「逆は真なり」は一つの仮説を提出するだけです。また仮説検証法が多数の検証を行なうに対して「逆は真なり」は通例一つか二つの検証しか経ません。なぜでしょうか。答えは簡単です。仮説を考え出すのは発想力が求められ、その発想力を誰もが備えていないのです。一つの仮説しか思いつかないことも珍しくありません。国語学の世界は特にそうです。一つしか思いつかないから、それ以外にないと考えてしまい、それをあたかも証明された事実のように錯覚してしまうのです。

 仮説は一旦誰かが思い付けばコロンブスの卵と同じで、仮説を考える苦労をしたことがない人には当たり前に見えてしまいます。国語学の世界にはそのような苦労をした人は少ないでしょうから、他人の仮説が何の苦労もなく自然に出てきたものと思ってしまうのでしょう。しかし無から有を生じせしめるabductionは非凡な才能が要求され、誰もが容易に行なえるものではありません。だからこそ科学の発展を決定する発見を為したのは少数の天才たちなのです。

 ここで、萬葉学会の査読者と編集委員に聞きたいのですが、ク語法がアクという動詞に由来するものであり、その動詞が知覚を意味するという説は、加行延言と言われた江戸時代から平成の今まで一度でも登場したでしょうか。一度も登場しなかったというのは本稿で述べた説が簡単に思いつくような単純なものでない証拠です。ク語法を見た誰もがそこに知覚するという意味を読み取らないのは、リンゴが落ちるのを見た誰もが重力を発見しないのと同じです。

 萬葉学会の査読者は非論理的な修辞法の「理由無き断定」を用いて、「新知見とは言いえない」と言い切っていますが、今まで謎とされてきた「なくに」という打消のク語法、「ざらなくに」という二重打消のク語法の理由が合理的に説明されただけでも十分に新知見なのです。


参考文献
Umberto Eco (Ed), Thomas A. Sebeok (Ed), (1988) The Sign of Three: Dupin, Holmes, Peirce (Advances in Semiotics), Indiana University Press.

2017年1月31日火曜日

ク語法の真実 その5 萬葉学会の査読の妥当性

 2016年9月19日付けの郵便で送付し、同年9月25日付けの葉書で受領の連絡があったク語法の論文「「言はく」は「言ふこと」か」は、萬葉学会の査読者に不掲載と判断され、萬葉学会がその査読を承認しました。不掲載の理由はク語法の真実 その0 萬葉学会の不掲載理由に示しました。萬葉学会の査読の妥当性について考えてみたいと思います。

 理由を再掲します。

「
所見
論題:「言はく」は「言ふこと」か
評定:不採用

評言:本論はク語法の語構成を「活用語連体形+あく」と捉え、「あく」は四段活用動詞であって、「ものごとの存在が五感を通じてはっきりと知覚される」「その存在がはっきりと知覚される」意味があるとする。

そして、ク語法による名詞句を「~することは明確であるのに/明らかである」として情態副詞「明らかだ」節のように解釈している。

仮説としてアク接尾がもと四段動詞だと考え、その仮設された語義・語性からク語法の用例群を検証するという方法は誤りではない。

さらに、ク語法に対して明確な知覚の表明という、モーダルな意味があると捉える点は興味深い。

しかしながら、本論は仮設動詞アクの語義分析ではなく、ク語法という準体句相当の語法の解析を目指しているはずである。

文法上の名詞句の働きとして、構文上にモーダルな意味が付加されているのか、それともアクそれ自体の語義によっているのかが、本論では明らかではない。

さらに明確な知覚という場合、上代では、「世の中は空しきものと知るときしいよよ益々悲しかりけり」の副助詞「し」は副詞性助詞として「知れば知るほどに」と程度強調を表す例がある。

つまり明確に知られるという場合には、副助詞などによる「とりたて」が存在する。そうしたとりたて表現に対して、ク語法はどのように異なるのかを明らかにしないと、仮設動詞アクの語性を適用しても解釈可能だというだけでは新知見とは言いえない。

また形式名詞の有無に関わらず、明確ではない知覚(けっして朧気というのではない)すなわちplainな知覚に対して特立される形でなければ、「アク」によるク語法の価値がないから、それとの対比がどうしても必要になる。

意見としていえば、仮設動詞アクを想定することは、ク語法による動詞名詞句に具体的な意味傾向を付加することになるが、ク語法という文法的環境下ではその具体性は捨象されて準体句のあり方とは異なり、〇〇のような機能を負担するに至ったという形で改めて立論されるべきものと思う。
」

 査読者の誤解は次の点です。

5-1 仮説としてアク接尾がもと四段動詞だと考え、その仮設された語義・語性からク語法の用例群を検証するという方法は誤りではない。

 査読者は「逆は真なり」という国語学の論文でしか通用しない論法が証明であると考えているのでしょうか。未知の語の意味を知るには仮説と検証の方法しかありません。未知の言語には辞書も文法書もありません。ある意味を仮定し、それが妥当であるか多数の用例について検証を重ねる。それ以外の方法はありません。

5-2 ク語法に対して明確な知覚の表明という、モーダルな意味があると捉える点は興味深い。

 少なくとも私はこのアクがmodalityを表すと断言していません。ク語法の真実 「言はく」は「言ふこと」か その3 仮説の検証に

「
このことから、アクが証拠性を担う助動詞であると断定してよいかは現時点で判断が付かない。口語訳はアクの意味を強調したが、上代人の語感と同じかどうか。証拠性云々は別にして、助動詞に近いものだったのかもしれない。
」

と記すに止めました。

 この証拠性はevidentialityの訳語として用いたものです。Palmer (1986)はevidentialityをそれがirrealisであればmodalityに含めていますが、Portner (2009)の著書ではevidentialityをmodalityに分類する立場としない立場を紹介しています。私が書いた論文ではク語法は活用語の連体形にアクという四段動詞が付いたものですが、それが現に知覚されている状態ではrealksですから、Palmerに従うにしてもmodalityとは言えなさそうです。なさそうと書くのは、正直に言って、現時点でこれをeventialityと言って良いのかどうか判断が付きませんし、ましてや、それがmodalityかどうかも私には分かりません。それを明らかにするには様々な角度からの検討が必要です。この論文の扱う範囲を大幅に超えるものです。

5-3 本論は仮設動詞アクの語義分析ではなく、ク語法という準体句相当の語法の解析を目指しているはずである。

 査読者はそう思ったのかもしれませんが、この論文が目指すのはク語法の起源と意味の解明です。なぜそのように誤読したのか分かりません。萬葉学会の編集委員は普通は教えない不掲載の理由を特別に教えたと言いますが、このような誤解に基く不掲載の判定があるのであれば、今後もすべての論文の査読に理由を明らかにすべきです。でなければ、万葉集の解釈に貢献するかもしれない良質の論文が査読者の誤解のために水泡に帰してしまいます。萬葉学会が万葉集の解釈の発展を目指すのであれば、不掲載の場合の理由を開示し、誤解があれば誤解を解くよう努力すべきです。

5-4 文法上の名詞句の働きとして、構文上にモーダルな意味が付加されているのか、それともアクそれ自体の語義によっているのかが、本論では明らかではない。

 論文ではアクがそのような意味であるから構文がそのような意味となると説明しています。査読者はそもそもmodalityをどう捉えているのか。名詞句がmodalな意味を与えるようなmodalityのシステムが世界のどの言語にあるというのか。査読者はmodalityを誤解しているように私には思えます。もしも誤解してないというなら、査読者のmodalityの定義を明らかにしていただきたい。

 言語学におけるmodalityは様相論理(modal logic)と表裏一体のものです。国語学の分野は様相論理と独立にモダリティを考えているようです。それで言語の解釈に問題がなければ様相論理は不要と言う考えもあるようですが、それができないからこそ英語圏では可能世界に基く様相性の定式化が試みられたのです。様相論理の簡潔で正確な説明は小野寛晰(1994)が良いと思います。可能世界についてはLewis (1986)が綿密な議論を展開しています。最近名古屋大学出版会から和訳の『世界の複数性について』が出ました。

 このモダリティについて、編集委員からそれがmodalityと異なるなら査読者の言うモダリティを構文と読み替え、構文を明らかにせよという要求が出ました。しかし構文についてはク語法の真実 「言はく」は「言ふこと」か その3 仮説の検証で50以上の例文の構文を検討しました。これ以上何を書けというのでしょうか。査読者や編集委員は自分の論文でも私が今回検討した以上の多数の用例の構文を検討しているのでしょうか。自分ができないことを他人に要求しているように思えます。

5-5 さらに明確な知覚という場合、上代では、「世の中は空しきものと知るときしいよよ益々悲しかりけり」の副助詞「し」は副詞性助詞として「知れば知るほどに」と程度強調を表す例がある。

 これについては前回触れました。査読者はそう考えるかもしれませんが、それが正しいという根拠はありません。

5-6 つまり明確に知られるという場合には、副助詞などによる「とりたて」が存在する。

 査読者独自の考えを前提にしてしまっています。

5-7 そうしたとりたて表現に対して、ク語法はどのように異なるのかを明らかにしないと、仮設動詞アクの語性を適用しても解釈可能だというだけでは新知見とは言いえない。

 前提が査読者独自の考えである以上、この査読者の主張が正しいという根拠はありません。従来説ではク語法は用言の名詞化であって特別な意味がないとされてきました。しかし「なくに」は詠嘆を表すとされ、その説と矛盾します。

 その長らく説明不能だった「なくに」に対して新しい説明を与えました。それだけでも十分な知見とは言えないのでしょうか。

5-8 また形式名詞の有無に関わらず、明確ではない知覚(けっして朧気というのではない)すなわちplainな知覚に対して特立される形でなければ、「アク」によるク語法の価値がないから、それとの対比がどうしても必要になる。

 私は「はっきりとした知覚」と書きました。そのような知覚の集合の補集合は「はっきりとしない知覚」です。つまり、ぼんやりとした知覚でないことを強調するために「はっきりと」という副詞を用いました。査読者は英語のplainの意味を「限定修飾語が付かない」の意味に解釈しているようです。そうであれば、査読者の言う「plainな知覚」は「はっきりした」でも「ぼんやりした」でもない知覚という意味になりますが、「はっきりした」でない知覚は補集合の意味の説明のとおり「ぼんやりした知覚」です。とすれば査読者の言う「plainな知覚」は空集合です。したがって対比は不要です。

5-9 意見としていえば、仮設動詞アクを想定することは、ク語法による動詞名詞句に具体的な意味傾向を付加することになるが、ク語法という文法的環境下ではその具体性は捨象されて準体句のあり方とは異なり、〇〇のような機能を負担するに至ったという形で改めて立論されるべきものと思う。

 これは地動説の論文に対して地球が静止していることの証明を要求するようなものです。

 査読者はク語法を「ク語法という文法的環境下ではその具体性は捨象され」たものと捉えているようです。従来説はそのとおりです。しかし本稿はク語法に「はっきり知覚される」という意味があるとするものです。地球は静止しているという従来の仮説に対して地球は動いているという新しい仮説を提案するものです。そこでsemantic bleachingについて述べよというのでは、論文のどこをどう読んだのでしょう。

 これに対して、査読者が誤解するような書き方に問題があると言う人もあるかもしれません。そのような議論が成り立つなら、Allan Sokalの論文を掲載したSocial Textの査読に何ら落ち度がなく、価値があるかのように誤解させる書き方をしたSokalに問題があると言うのでしょうか。デタラメの論文を掲載してしまったSocial Textの編集者の判断が誤りです。

 ただし論文が掲載に値するか迷った場合、それを掲載するのは正しいやり方です。疑わしきは罰せずは論文の査読にも言えます。明らかに間違いと言えない場合は掲載して判断を後の研究に委ねるべきです。

 今回の萬葉学会の査読とそれを承認した萬葉学会の行為は、国民の財産である万葉集の正しい解釈の研究の健全な発展を妨害する行為と言えます。


参考文献
David Lewis (1986), On the Plurality of Worlds, Blackwell.
Robert Frank Palmer (1986), Mood and Modality, Cambridge University Press, Cambridge.
小野寛晰(1994)『情報科学における論理』(日本評論社)
Paul Portner (2009), Modality, Oxford University Press.






2017年1月29日日曜日

国語学の論文に特有の非論理的な推論 その6 説得力

C'est un langage estrange que le Basque ...
On dit qu'ils s'entendent, je n'en croy rien.

Basque is really a strange language ...
It is said that they understand one another,
but I don't believe any of it.

Joseph Justus Scaliger (1540-1609)

以上はDeutscher (2005)より引用。

バスク語は実に変わった言語だ・・・
バスク人同士は理解し合うと言うが、私は全く信じない。

 国語学の論文に特有の非論理的な推論という題名でその5まで書き綴ってきました。他分野の研究者から見れば非論理的なことは明らかですが、国語学の研究者同士はその推論で理解し合えています。ということは、そこに何らかの規則性があるはずです。でなければ、国語学の研究者同士の議論が噛み合わなくなってしまいます。つまり、国語学の論文は闇雲に非論理的な推論を積み重ねているのではなく、非論理的ではあるが国語学の学会内では他の研究者を説得するに十分な推論が使われているはずです。そのような非論理的ではあるが国語学の学会内では妥当な推論とされるものを説得力のある推論と呼ぶことにします。国語学の学会の中で非論理的な推論のすべてが妥当とされるのではなく、一部のものだけが説得力を認められているのです。

 ここで「説得力」という言葉を使ったのは論理でなく感情に訴えて信じ込ませる意味にしばしば用いられるからです。理系では使われない言葉ですが、哲学ではどうでしょう。八木沢敬(2014)から引用します。

「
こういうぐあいに大まかに流れをなぞってみると、この議論はかなり説得力があるようにみえる。多くの論客は、このレベルで説得されて(結論)を受け入れるか、もしくは説得されないままでいながらも議論の欠点を指摘することもできず当惑するか、どちらかである。
」

「
これはある程度説得力のある論法のように見えるかもしれないが、非の打ちどころは大いにある。
」

 ここでも説得力は論理的でなく感情に訴える論法のような印象を与えています。国語学の論文の例を金水敏(1989)から引用します。

「
これは説得力のある説明であり,多くの研究者に影響を与えた学説となった。しかしながら,ここに疑問を呈したい。
」

 やはりここでも論理的に正しいという意味ではなく一見正しく見えるという意味に使っているようです。国語学会特有の推論を表すに妥当な言葉と思います。

6.1 説得力の一 逆は真なり
 説得力のある推論の第一は「逆は真なり」です。論理的な推論は「逆は必ずしも真ならず」ですが、国語学では単語の意味の推定にこの「逆は真なり」がしばしば用いられます。かくばかり恋ひつつあらずは その0 仮説と検証に書いた「かめや」の方法です。国語学の論文に用いられたものは国語学の論文に特有の非論理的な推論に濱田敦(1948a)の例を示しました。濱田氏に個人的な恨みがあるわけでは勿論ありません。同様の例は国語学の論文に多数あります。存命著者の場合は気分を悪くされるのではないかと考えたからです。

 この論法を論理式で書くと次のようになります。

A⊃B, B ⊢ A

AならばBである。Bである。従ってAである。

お前が私の財布から金を盗めば私の財布に金がない。私の財布に金がない。従ってお前が盗んだのである。

「な」が願望の意味であるという仮定が正しければ歌意が通る。歌意が通る。従って「な」が願望の意味であるという仮定が正しい。

 どれも同じです。単なる検証の不十分な仮説なのですが、国語学ではこの方法がしばしば証明の如く扱われます。

6.2 説得力の二 現代語を基準にしたりしなかったり
 国語学でしばしば用いられる非論理的な推論は国語学の論文に特有の非論理的な推論 その5 現代語を基準とする時としない時に書いたものです。国語学の巨人である橋本進吉氏の論文、橋本進吉(1951)から例を引用しました。「かくばかり恋ひつつあらずは」の「あらずは」を現代語の「いないでは」に対応させる説明です。しかしこれは簡単でありません。橋本氏の推論が正しいためには「あらず」と「いない」、「あらずは」と「いないでは」、上代語の「は」と現代語の「は」のすべてが一対一に対応することが証明されなくてはなりません。しかしそのような証明を橋本氏は行なっていませんし、橋本氏以前に行なわれてもいません。とすると、現代語を基準にする方法は非論理的な推論ですが、国語学では説得力を持ちます。

 この方法で問題なのは、上代語と同じ用法が現代語にないときです。その場合に橋本進吉(1951)は「古代に於てはかやうな場合にも打消の場合と同等に「は」が用ゐられたものと見られるのである。」で片付けています。対応する表現が現代語にあれば、現代語でそういう言い方をするのだから上代語でもそういう言い方をしたのだと言い、対応する表現が現代語になければ、現代語がそういう言い方をしないからと言って上代語もそういう言い方をしなかったとは言えないと言う。実に自分勝手な論法です。理系の世界ならば「ちょっと待ってください」ですが、国語学の世界ではそれでも説得力を持つのが不思議です。

6-3 説得力の三 加重多数決
 他の研究者の記述も強い説得力を持ちます。たとえその記述が何ら論理的な推論の結果でなくともです。これは文学や芸術分野の感性による判断の影響だと考えます。ある絵や彫刻を見て、ある音楽を聴いて、それを美しいと感じるかどうかは個人的な感覚です。その場合は多数決が意味を持ちます。しかし論理の世界は別です。天動説と地動説で多数決をとる意味はありません。科学は文学や芸術のような感性で決定されるものでないからです。

 他の研究者が歴史に残る大御所であれば多数決に一人数票の効果があることは言うまでもありません。それが加重の意味です。しかし理系の世界ではノーベル賞学者の意見でも間違いは間違いです。昔の学会誌には論文について書簡で討論が行なわれることがありましたが、ノーベル賞受賞者のある研究者が熱力学の第二法則について学生並みの間違った解釈をしているのを見たことがあります。他の研究者から誤りを指摘されていました。このように論理が支配する世界では大御所であろうと駆け出しであろうと誰が言ったかではなく何を言ったかが基準で判断されます。その点で国語学は科学の世界と異なっています。

6-4 説得力の四 仮定の追加
 国語学の論文に特有の非論理的な推論 その3 歌意が通ることに書きましたが、願望の「な」は願望と解せない場合があります。そのために新たな仮説を追加して、主語の人称に応じて意味が変わると仮説を修正しています。理系の世界ではこのような仮定の追加は仮説の信憑性を失わせます。例えば天動説は惑星の運動を説明するため、惑星を内惑星と外惑星に分け、それぞれについて仮定を付け加えています。しかし国語学ではこのような仮定の追加は大目に見られるようです。一見して他に説明する仮説がなければ、その仮説が絶対的に正しい、現実と合わないのは仮定が足りないのだ、だから仮説を修正するしかない、という論法かもしれません。理系の世界ではその場合、その仮説の正しさを疑い、他の仮説を考えます。

6-5 説得力の五 早い者勝ち
 萬葉学会へ投稿したク語法の論文はク語法の真実 その0 萬葉学会の不掲載理由に示したように、大変残念な結果になりました。正直言って悔しく思います。論文を書くためにどれだけの時間と労力を費やしたか。それを査読者の信じる仮説と違うという理由だけで拒絶されました。しかもその査読者の判断を萬葉学会が承認しました。全く不当な判断だと思います。

 その後の萬葉学会とのやり取りで「従来説でもク語法を説明できている」という意味(文言は違います)の指摘を受けました。天文学にたとえれば次のような論法です。惑星の運動は天動説で説明が出来ている。地動説は後から出てきた説だから、天動説に対して優位性を示さなくてはならない。ここまで理不尽なことを言われるとは思いませんでした。理系の世界では天動説に対して地動説を提出することはそれだけで価値があります。同じ現象を違う仮説で説明できるからです。何らかの有意性はその後の比較検討の中で示されるものです。それが国語学の学会の論法だから従えと言うのなら、私は反論します。その論法は科学でないからです。国文学は芸術かもしれませんが、国語学は言語に関する科学です。そこに必要なのは論理的な推論であって、感覚的なあるいは感情的な説得力ではありません。

6-6 説得力の六 理由無き断定
 論理に窮した場面で特に用いられるのが理由を示さず断定することです。論理がないのだから理由を示しようがありません。断定することで一見絶対的真理であるかのような印象を与えます。論理に窮した劣勢から起死回生の妙手に見えますが、通じるのは論理に疎い相手だけです。

 ク語法の真実 その0 萬葉学会の不掲載理由に示された次の文言です。

「
そうしたとりたて表現に対して、ク語法はどのように異なるのかを明らかにしないと、仮設動詞アクの語性を適用しても解釈可能だというだけでは新知見とは言いえない。
」

 「新知見とは言いえない」と断言していますが、理由は示されていません。とりたて表現云々は査読者独自の意見ですが、仮にそれが正しかったとしても、それとの違いを明らかにしないと何故新知見と言いえないのでしょう。恐らく査読者自身が理由を「言いえない」のではないでしょうか。同様の方法は「説得力の二」に示した橋本進吉氏の「と見られるのである」にも言えます。論理に疎い読者に対してだけ有効ですが、論理に窮した場面を救う起死回生の修辞法です。

 芥川龍之介の『侏儒の言葉』の「批評学」に興味深い記述があります。Mephistophelesが言う「半肯定論法」も同類でしょう。「畢竟それだけだ」の理由が示されていません。「木に縁って魚を求むる論法」はまさに萬葉学会の査読のモダリティ云々や文法化云々がそれでした。

 最初に戻りますが、バスク語は非論理的でありません。バスク語は近隣のフランス語やスペイン語から見て異質な言語です。日本語や英語、フランス語、スペイン語は対格性言語ですが、バスク語は能格性言語です。Dixon (1994)の用語を用いて、他動詞の動作主をA、他動詞の動作対象をO、自動詞や述語形容詞の唯一の項をSとします。現代日本語はAにガ格を、Oにヲ格を、Sにガ格を用います。ガ格が主格であり、ヲ格が対格です。このような言語の性質を対格性と言います。これに対して、Aに能格(ergative)を用い、OとSに絶対格(absolutive)を用いる言語の性質を能格性と言います。この程度のことはWikipediaにも書いてありますが、対格性や能格性という現象はさらに奥が深いのです。それだけで専門書が一冊書ける程です。

 さわりだけを説明しても何が何だか分からない能格性ですが、そのために欧州でバスク語が難解とされてきたのです。しかしバスク語は対格性言語と同じ程度に論理的です。そこがバスク語と国語学の論文に用いられる推論の違いです。

(つづく)

 最後に重要な注意点があります。ネットは著作権を放棄したと考える人もいるようですが、それは違います。また、著作権が放棄されたものならば無断引用は可能と考える人もいるようですが、それも違います。その点、十分にご注意ください。本ブログのすべての記事および本稿の著作権は著者である江部忠行が保有するものです。殆どの人にこのような注意書きが不要なのですが、ほんの僅かな人がいるために書かなくてはなりません。まあ、そういう裁判を起こせばこの研究が注目されるかもしれないというメリットはあります。

参考文献

濱田敦(1948a) 「上代に於ける願望表現について」 『國語と國文學』 25(2)
橋本進吉(1951) 「上代の国語に於ける一種の『ずは』について」 『上代語の研究』 (1951 岩波書店)
金水敏(1989)「「報告」についての覚書」『日本語のモダリティ』(くろしお出版)
Robert M. W. Dixon (1994), Ergativity, Cambridge University Press
Guy Deutscher (2005), The Unfolding of Language, William Heinemann, London.
八木沢敬(2014)『神から可能世界へ』(講談社)

2017年1月28日土曜日

ク語法の真実 その4 「言はく」は「言ふこと」か 結論

 ク語法を「連体形+アク」と考え、そのアクを「はっきりと知覚される」という意味の四段動詞の終止形や連体形と仮定して万葉集、記紀歌謡、続日本紀宣命を解釈できることが示された。本稿の仮説が正しいとすれば、次のことが言える。

1、ク語法は用言の体言化でなく、用言の意味が「はっきりと知覚される」「明らかである」状態を表わす語法である。

2、従来詠嘆とされてきた「なくに」や「なけなくに」「ざらなくに」は相手の誤解を解くための発話である。

3、過去の状態や動作の体言化とされてきた「しく」はその状態や動作の記憶が蘇える意味である。

4、形容詞のク語法はその形容詞の意味が強く知覚されること、実感されることである。

5、「まく欲り」「まく欲し」の上接語に「見る」が多い理由が合理的に説明される。

6、重複とされてきた「言はく…言ふ」の「言はく」はその意味が「言うことには」でなく、言う行為や伝達される内容が明らかになることや明らかであることを示す。

 本稿の仮説による新しい解釈は上代人の伝えたかった意味に多少は近付くものであると確信する。


註1 動詞の自他の交替に関しては諸説があるが、解決を見ない。様々な言語に生ずる現象であることだけは確かである。

註2 金田一春彦1955の「既然態」を「既然相」と言い替えた。Comrie 1976は既然相を相に含めないが、それが絶対とは言えない。


(2016年9月19日付の郵便で萬葉学会に投稿した論文の原稿は以上)

 最後に重要な注意点があります。ネットは著作権を放棄したと考える人もいるようですが、それは違います。また、著作権が放棄されたものならば無断引用は可能と考える人もいるようですが、それも違います。その点、十分にご注意ください。本ブログのすべての記事および本稿の著作権は著者である江部忠行が保有するものです。殆どの人にこのような注意書きが不要なのですが、ほんの僅かな人がいるために書かなくてはなりません。まあ、そういう裁判を起こせばこの研究が注目されるかもしれないというメリットはあります。 


参考文献
Aston 1877 A grammar of the Japanese written language, 2nd ed. (古田東朔1981による)
Aston 1904 A grammar of the Japanese written language, 3rd ed. (カリフォルニア大学のサイトで閲覧)
有坂秀世1940 「シル(知)とミル(轉)の考」 『国語と国文学』 『国語音韻史の研究 増補新版』(1957 三省堂)に収録
有坂秀世1944 「国語にあらはれる1種の母音交替について」 『国語音韻史の研究』 (明世堂) 『国語音韻史の研究 増補新版』(1957年 三省堂)に収録
金田一春彦1950 「国語動詞の一分類」 『言語研究』(名古屋大学) 15     『日本語動詞のアスペクト』(1976 むぎ書房)に収録
金田一春彦1955 「日本語動詞のテンスとアスペクト」 『名大文学部研究論集』(名古屋大学) 10 文学 4 『日本語動詞のアスペクト』(1976 むぎ書房)に収録
大野晋1955 「万葉時代の音韻」『万葉集大成 6言語編』(1955 平凡社)
大野晋1957 「校注の覚え書」 『日本古典文学大系 万葉集1』(1957 岩波書店)
北條正子1973 『品詞別日本文法講座 10 品詞論の周辺』 (1973 明治書院)
井手至1964 「ク語法(加行延言)アクの説は悪説か」 『国文学 解釈と鑑賞』 29年11号
井手至1965 「万葉集のク語法」 『人文研究』 16(3)大阪市立大学
木下正俊1972 「なくに覚書」 『万葉集研究 第1集』(1972 縞書房)
Bernard Comrie 1976, Aspect, Cambridge University Press
古田東朔1981 「外の人々から見たク語法」 『香椎潟』 26 福岡女子大学山田小枝1984 『アスペクト論』(三修社)
日本国語大辞典 第2版(2001 小学館)
山口佳紀2009 「家持歌『悲しけくここに思ひ出』考」 『美夫君志』 79号 『古代日本語史論研究』(2011 風間書房)に収録
金水敏2011 『文法史』(2011 岩波書店)
小田勝2015 『古典文法総覧』(2015 和泉書院)

ク語法の真実 その3 「言はく」は「言ふこと」か 仮説の検証

3.1 動詞に下接した場合
 ク語法の構造を仮説に従って検証する。まず、動詞のク語法の例をあげて、本稿の仮説に基いた口語訳を解釈として示す。口語訳は現代語として自然であることよりも、アクの意味を際立たせることを目的にして、上代語と現代語の単語を一対一に対応させた。

 アクの主語となる動詞の時制が現在の場合、「はっきりと知覚される」は状況に応じて「見える」「聞こえる」「匂う」「わかる」「知られる」「感じられる」「明らかである」などと訳す。また、主格と対格を入れ替えて、「ある事実がはっきりと知覚される」を「(人が)ある事実を実感する」などとも訳す。

3.1-1 寺々の女餓鬼申さく(申久)大神の男餓鬼賜りてその子産まはむ   万16-3840
解釈 あちこちの寺の女餓鬼が申すのがはっきりと聞こえる…。
 「申さく」は従来「申すこと」と口語訳されてきた。また、しばしば原文にない助詞を補って「申すには」とも訳されてきた。本稿の仮説に従えば、「女餓鬼申さく」は「女餓鬼申す(連体形)+アク(終止形)」である。連体形の「申す」の意味は前節で述べた行為のコトである。「申さく」は「申しているのがはっきりと知覚される」である。現代語らしく言い直すならば「聞こえる」あるいは「分かる」が相応しい。従来の口語訳でも歌意は通じるが、本稿の仮説にしたがったほうが、そこにク語法を使う積極的な意味付けが理解できると考える。

 「申す」と「申さく」の違いは、前者が伝聞や推定を含むのに対して、後者はそれが確かに存在することを話し手が近くで確認したことを強調する。このことから、アクが証拠性を担う助動詞であると断定してよいかは現時点で判断が付かない。口語訳はアクの意味を強調したが、上代人の語感と同じかどうか。証拠性云々は別にして、助動詞に近いものだったのかもしれない。

3.1-2 白真砂御津の埴生の色に出でて言はなくのみぞ(不云耳衣)我が恋ふらくは(恋楽者)   万11-2725
解釈 …言わない内容が知られるばかりである、私が恋していることが知られる場合は。
 連体形の「言はぬ」の意味は前節で述べた伝達される内容のコトである。

3.1-3 み吉野の玉松が枝ははしきかも君が御言を持ちて通はく(加欲波久)   万02-0113
解釈 …あなたのお言葉を持って通っているのがはっきりと分かります。

3.1-4 相思はずあるらむ子ゆゑ玉の緒の長き春日を思ひ暮らさく(晩久)   万10-1936
解釈 …[長き春日を]悩みながら日を送るのが明らかである。
 3.1-1と1-3、1-4のク語法のアクは終止形である。

3.1-5 直に逢はずあらく(阿良久)も多く敷栲の枕去らずて夢にし見えむ   万05-0809
解釈 直接会わないでいるのを実感することが多く…。

3.1-6 梅の花散らく(知良久)はいづくしかすがにこの城の山に雪は降りつつ   万05-0823
解釈 梅の花の散るのが見えるのはどこか…。
 3.1-5と1-6はアクに上接する動詞連体形が状態や動作を表わす。

3.1-7 めづらしき人に見せむと黄葉を手折りぞ我が来し雨の降らくに(零久仁)   万08-1582
解釈 …雨が降っているのが明らかなのに。

3.1-8 萩の花咲きのををりを見よとかも月夜の清き恋まさらくに(益良国)   万10-2228
解釈 …益々(萩が)好きになるのが明らかなのに。
 3.1-7と1-8はアクの連体形に助詞の「に」が下接した例である。

3.1-9 我がここだ偲はく(斯努波久)知らに霍公鳥いづへの山を鳴きか越ゆらむ   万19-4195
解釈 私がこれほど思い慕っているのが明らかなのを知らないで…。

3.1-10イ …前つ戸よい行き違ひうかがはく(字迦々波久)知らにと… 古事記歌謡22
3.1-10ロ …己が命を殺せむとぬすまく(農殊末句)知らに… 日本書紀歌謡18
3.1-10ハ …大き戸よりうかがひて殺さむとすらく(須羅句)を知らに… 日本書紀歌謡18(一云)
解釈 それぞれ、窺っているのが、盗もうとしているのが、殺そうとしているのが、明らかなのを知らないで…。
 3.1-9と1-10は「知らに」の前にク語法を使用することで話し手の憤りが感じられる。

3.1-11 天下の公民を恵び賜ひ撫で賜はむとなも、神ながら思しめさく(佐久)と詔りたまふ天皇が大命を、諸聞きたまへと詔る。 続日本紀宣命 第1詔
解釈 …[神ながら思しめ]すことが明らかであると…。
 3.1-11のアクも終止形である。これを自動詞と考えたのはここに敬語がないためであるが、助動詞化しているのかもしれない。


3.2 打消しの助動詞に下接した場合の一 単純否定と逆接
 万葉集には約150例の「なくに」の形のク語法がある。いくつかを引用し、本稿の仮説に従った解釈を述べる。

3.2-1 宇治間山朝風寒し旅にして衣貸すべき妹もあらなくに(有勿久尓)    万01-0075
解釈 …衣を貸してくれる娘もいないことが明らかなのに(知りながら寒く吹くのか)。
 上代語の「に」は単なる接続助詞であって、順接や逆接の意味を持たない。順接や逆接が問題になるのは口語訳のときである。現代日本語では順接か逆接かのどちらかを選択しなければならないからである。具体的には「ので」か「のに」となる。ここで後者を選択したのは、次の理由による。
 
 この歌が否定的事実の「あらぬ」が明らかであると強調するのは、聞き手(この場合は風)がその事実の逆の「あり」と誤解しているかもしれない(と話し手が考えている、あるいは考えていることにしている)からである。そのような場面を現代語で表現する場合には逆接の接続詞が選択される。
 打消しが用いられるのは、「そうでないことが明らかである」という相手の誤解の可能性を否定するためである。現代語の肯定で使われる「全然」(誤用とされる)が正にその例であろう。「全然良い」は「良くない」と聞き手が思っている(と話し手が考えている)ときに限り使用される。「全然」そのものに否定の意味はないが、否定とともに用いられる副詞であるから、その使用は話し手の否定的な意図を表わす。

 以下、話し手に聞き手の誤解を否定しようとする意図があると思われる例をあげる。
3.2-2 苦しくも降り来る雨か3輪の崎狭野の渡りに家もあらなくに(不有国)    万03-0265
解釈 …雨宿りする家もないことが明らかなのに。

3.2-3 軽の池の浦廻行き廻る鴨すらに玉藻の上にひとり寝なくに(宿名久2)    万03-0390
解釈 …鴨でさえ藻の上に独りで寝ないことが明らかなのに。

3.2-4 春なればうべも咲きたる梅の花君を思ふと夜寐も寝なくに(祢奈久尓)    万05-0831
解釈 …梅の花よ、あなたを思って私が夜も寝ないでいることが明らかなのに。

3.2-5 滝の上の3船の山に居る雲の常にあらむと我が思はなくに(不念久尓)    万03-0242
解釈 …雲が常にあると私が思っていないのが明らかなのに。

3.2-6 明日香河川淀さらず立つ霧の思ひ過ぐべき恋にあらなくに(不有国)    万03-0325
解釈 …思い忘れてしまうような恋でないことが明らかなのに。
 
 以上の「なくに」はすべて逆接の「ないのに」と訳された。


3.3 打消しの助動詞に下接した場合の二 二重否定と逆接
 次に、2重否定の例をあげる。

3.3-1 吾が大君ものな思ほし皇神の継ぎて賜へる我なけなくに(莫勿久尓)   万01-0077
解釈 …[継ぎて賜へる]私がいないのでないことが明らかなのに(いないとお思いかもしれませんが)。

3.3-2 今さらに君はい行かじ春雨の心を人の知らずあらなくに(不知有名国)   万10-1916
解釈 …春雨の(あなたを帰さないために降る)気持ちに人が気付かずにいないのが明らかなのに(それでも帰ろうとするのは気付いていないからですね)。

3.3-3 ま葛延ふ小野の浅茅を心ゆも人引かめやも我がなけなくに(莫名国)   万11-2835
解釈 …私がいないのでないことが明らかなのに。

3.3-4 思はずもまことあり得むやさ寝る夜の夢にも妹が見えざらなくに(美延射良奈久尓)   万15-3735
解釈 …お前の姿が夢にも見えていないのでないことが明らかなのに。

 二重否定が用いられるのは相手が否定している事実を更に否定して肯定するためと考える。つまり、最初の否定は相手の誤解であり、次の否定はその誤解の否定である。そのような心理がなければ二重否定でなく「あらくに」「知らくに」などと肯定で表現したであろう。


3.4 打消しの助動詞に下接した場合の三 単純否定と順接
 次のような場合は順接に訳される。

3.4-1 月読の光りに来ませあしひきの山きへなりて遠からなくに(不遠国)    万04-0670
解釈 …遠くないのが明らかなので。

3.4-2 ちはやぶる神の社に我が懸けし幣は賜らむ妹に逢はなくに(不相国)    万04-0558
解釈 …返していただきましょう、恋人に会わないのが明らかなので(願を掛けたが、その通りにならなかったことが明らかなので)。
 現代日本語はこのような場合に可能動詞を使って「会えない」と言う。「会えないのが明らかなので」と訳すべきかもしれない。

3.4-3 渡り守舟早渡せ一年にふたたび通ふ君にあらなくに(有勿久尓)    万10-2077
解釈 …早く船を出して渡してください、一年に二度通ってくる君でないのが明らかなので。

3.4-4 愛しと我が思ふ妹は早も死なぬか生けりとも我れに寄るべしと人の言はなくに(云名国)    万11-2355
解釈 …人が言わないのが明らかなので。

以上は命令の理由を説明する状況である。


3.5 打消しの助動詞に下接した場合の四 単純否定と終止形
 次に「に」の付かない終止形のアクを用いる「なく」を検討する。以下の用例の「知る」は有坂秀世1940が述べるように自動詞であろう。この「知る」の口語訳は「分からない」が相応しいと考える。

3.5-1 岩戸破る手力もがも手弱き女にしあればすべの知らなく(不知苦)    万03-0419
解釈 …(手弱女であるから腕力に頼らないとすれば)どうして良いか分からないのが明らかである。

3.5-2 春の雨はいやしき降るに梅の花いまだ咲かなく(未咲久)いと若みかも    万04-0786
解釈 …まだ咲かないことが明らかである(見ての通り確認されている)…。

3.5-3 茂岡に神さび立ちて栄えたる千代松の木の年の知らなく(不知久)    万06-0990
解釈 …樹齢が分からないのが明らかである。

3.5-4 天の川去年の渡り瀬荒れにけり君が来まさむ道の知らなく(道乃不知久)    万10-2084
解釈 …(荒れてしまったので)道が分からないのが明らかである。

3.5-5 はろはろに鳴く霍公鳥我が宿の植木橘花に散る時をまだしみ来鳴かなく(奈加奈久)…    万19-4207
解釈 …(ホトトギスが)来て鳴かないことが明らかである。
 

3.6 形容詞に下接した場合
 以下、形容詞のク語法を検討する。感情や感覚がはっきりと知覚されることを「実感する」と、形状や状態がはっきりと知覚されることを「はっきりしている」と機械的に訳す。前者は「強く感じる」「つくづく思う」など、後者は「明らかに…」などの代案も考えられるが、いずれが上代人の語感に近いか。

3.6-1 …痛けく(伊多家苦)の日に異に増せば悲しけく(可奈之家口)ここに思ひ出 いらなけく(伊良奈家久)そこに思ひ出 嘆くそら安けなく(夜須家奈久)に…    万17-3969
解釈 …痛みを実感することが日ごとに増すと悲しみを実感する。ここで思い出して辛さを実感する。そこで思い出して嘆く心が静まらないのを実感するが…。

3.6-2 玉津島見てしよけく(善雲)も我れはなし都に行きて恋ひまく思へば    万07-1217
解釈 …良いと実感することも私にはない…。

3.6-3 恋しけく(恋家口)日長きものを逢ふべくある宵だに君が来まさずあるらむ    万10-2039
解釈 恋しさを実感する日が長いものだが、逢うのが当然であることが明らかな宵でさえ…。

3.6-4 我が命の長く欲しけく(欲家口)偽りをよくする人を捕ふばかりを    万12-2943
解釈 …長生きをしたいと実感している…。

3.6-5イ …前妻が肴乞はさば立柧棱の実の無けく(那祁久)をこきしひゑね 後妻が肴乞はさば柃(いちさかき)実の多けく(意富祁久)をこきだひゑね…     古事記歌謡9
3.6-5ロ …前妻が肴乞はさば立柧棱の実の無けく(那鶏句)をこきしひゑね 後妻が肴乞はさば柃(いちさかき)実の多けく(於朋鶏句)をこきだひゑね…     日本書紀歌謡7
解釈 …実の無いのがはっきりしているのを…実の多いのがはっきりしているのを…。

3.7 「し」に下接した場合
 過去の事実が「はっきりと知覚される」というのは記憶が蘇えりその光景がはっきりと思い浮かぶことである。

 「しく」が「せく」とならないのは、単音節が理由ではないかと考える。母音の連続を避ける方法には、前の母音を落とす、後ろの母音を落とす、二つの母音が融合する、母音の間に子音を挿入する、の4通りの方法があるが、どれが選択されるかは現時点で明らかではないようである。

 ク語法の他の例はすべて母音が融合する。「し」にアクが下接した場合だけ、アクの母音が落とされる。回想の「き」の連体形とされる「し」は単音節語が由来であろう。一方、推量の「む」がかつては「あむ」であり、打消しの「に」(連用形)がかつては「あに」だったとするのは大野晋1955の説であるが、それが正しいとすれば、そちらは2音節である。これらの助動詞が動詞と完全に融合していない時代には、アクがついて「あまく」や「あなく」となっても元の語の半分の音節は残される。しかし、「し」が単音節であれば、「せく」となっては識別されにくい。また、単音節であれば、その音節にアクセントがあるので、それだけ音節の形を保ちやすい。そのために、「し」の場合に限り、アクの頭母音を落としたものと考える。

 同じことは、二段活用や上一段活用の連用形に「あむ」や「あに」が付いた場合にも言える。使役を表わす「す」や自発や受身を表わす「る」が二段活用や上一段活用、サ変、カ変に付いた場合に子音を介在されるのも同じ理由ではないだろうか。稿者は「し」の母音が2重母音であったとは考えない。その理由は新たな仮定に基づくため説明が非常に長くなる。別稿としたい。

 以下、「しく」を「はっきりと思い浮かぶ」と機械的に訳す。

3.7-1 住吉の名児の浜辺に馬立てて玉拾ひしく(拾之久)常忘らえず    万07-1153
解釈 …玉を拾ったことのはっきりと思い浮かぶその光景が長いこと忘れられない。

3.7-2イ 我が背子をいづち行かめとさき竹のそがひに寝しく(宿之久)今し悔しも    万07-1412
3.7-2ロ 愛し妹をいづち行かめと山菅のそがひに寝しく(宿思久)今し悔しも    万14-3577
解釈 …背中合わせに寝たことのはっきりが思い浮かぶのが今となっては悔しく思われる。

3.7-3 秋の野の尾花が末を押しなべて来しく(来之久)もしるく逢へる君かも    万08-1577
解釈 …来たことのはっきりと思い浮かぶその行為の効果も覿面で…。

3.7-4 夜のほどろ我が出でて来れば我妹子が思へりしく(念有49)し面影に見ゆ    万04-0754
解釈 …物思いに耽っていたことのはっきりと思い浮かぶその姿が(面影に見ゆ)。

3.7-5イ 道の後古波陀嬢子は争はず寝しく(泥斯久)をしぞもうるはしみ思ふ     古事記歌謡46
3.7-5ロ 道の後古波陀嬢子争はず寝しく(泥辞区)をしぞうるはしみ思ふ     日本書紀歌謡38
解釈 …共寝をしたことのはっきりと思い浮かぶのを…。


3.8 「む」に下接した場合の一 
 「む」が未来の事象を表わす場合は現代語にそれに相当する語がないので、動詞に直接下接した場合と同じに口語訳して問題ない。「む」が推量の場合は「はっきりと知覚される」よりも「に違いない」が現代語として相応しい。意志の場合は「したいと強く感じる」と機械的に訳す。

3.8-1 我が里に大雪降れり大原の古りにし里に降らまく(落巻)は後    万02-0103
解釈 …[古りにし里に]降るのが見られるのは後である。

3.8-2 あしひきの山の黄葉にしづくあひて散らむ山道を君が越えまく(超麻久)    万19-4225
解釈 …山道をあなたが越えて行くのが目に浮かんでいます。
 3.8-1と8-2の「む」は未来に実現することである。

3.8-3 草枕旅の宿りに誰が嬬か国忘れたる家待たまく(家待真國)に    万03-0426
解釈 …家族が待っているに違いないのに。

3.8-4 絶えず行く明日香の川の淀めらば故しもあるごと人の見まく(見國)に    万07-1379
解釈 理由があると人が見るに違いないが。
 3.8-3と8-4の「む」は推量であろう。

3.8-5 母刀自も玉にもがもや戴きてみづらの中に合へ巻かまく(阿敝麻可麻久)も    万20-4377
解釈 …髪の中に入れて巻きたい気持ちが強く感じられる。

3.8-6 我が家ろに行かも人もが草枕旅は苦しと告げ遣らまく(都気夜良麻久)も    万20-4406
解釈 …旅は苦しいと連絡してやりたい気持ちが強く感じられる。
 3.8-5と8-6の「む」は未来でも推量でもなく願望と考えたい。


3.9 「む」に下接した場合の二 「欲り」「欲し」「惜し」が下接する場合
 「まく欲り」「まく欲し」の上接語は「見る」が圧倒的に多く、他に「聞く」や口に出す意の「かく」が約1例ずつある。見る対象や聞く対象がはっきりと知覚されることは見ることや聞くことと同義である。また、自身の行為をはっきりと知覚することはその行為の実現に他ならない。事実、「見まくほり」「聞かまくほり」は「見たい」「聞きたい」と、「懸けまくほり」は「叫びたい」などと口語訳されてきた。

 他に「まく惜し」があるが、これも上接の動詞が表わす事象が実現されてはっきりと知覚されることが「惜し」の対象である。上接語は「散る」が多い。従来どおり「するのが惜しい」と口語訳して問題ない。

3.9-1 見まく欲り我がする君もあらなくに何しか来けむ馬疲るるに    万02-0164
解釈 会いたい(会うことの実現を私が願う)あなたもいないのが明らかなのに…。

3.9-2 …霍公鳥いまだ来鳴かず 鳴く声聞かまく欲り(伎可麻久保理)と朝には門に出で立ち夕には 谷を見渡し恋ふれども1声だにもいまだ聞こえず    万19-4209
解釈 …「鳴く声を聞きたくて」と…。

3.9-3 …問はまく(問巻)の欲しき我妹が 家の知らなく…    万09-1742
解釈 …問うことが実現するのが望まれるあの子の家が分からないことが明らかだ。
 意訳すると、聞いてみたいあの子の家が分からないことに気付いた。

3.9-4 梅の花散らまく(知良麻久)惜しみ(怨之美)我が園の竹の林に鴬鳴くも    万05-0824
解釈 梅の花が散る(のを実感する)のが惜しくて…。

3.9-5 ひさかたの天見るごとく仰ぎ見し皇子の御門の荒れまく(荒巻)惜しも    万02-0168
解釈 …荒れる(のを実感する)のが惜しい。

(つづく)

 最後に重要な注意点があります。ネットは著作権を放棄したと考える人もいるようですが、それは違います。また、著作権が放棄されたものならば無断引用は可能と考える人もいるようですが、それも違います。その点、十分にご注意ください。本ブログのすべての記事および本稿の著作権は著者である江部忠行が保有するものです。殆どの人にこのような注意書きが不要なのですが、ほんの僅かな人がいるために書かなくてはなりません。まあ、そういう裁判を起こせばこの研究が注目されるかもしれないというメリットはあります。

参考文献
Aston 1877 A grammar of the Japanese written language, 2nd ed. (古田東朔1981による)
Aston 1904 A grammar of the Japanese written language, 3rd ed. (カリフォルニア大学のサイトで閲覧)
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有坂秀世1944 「国語にあらはれる1種の母音交替について」 『国語音韻史の研究』 (明世堂) 『国語音韻史の研究 増補新版』(1957年 三省堂)に収録
金田一春彦1950 「国語動詞の一分類」 『言語研究』(名古屋大学) 15     『日本語動詞のアスペクト』(1976 むぎ書房)に収録
金田一春彦1955 「日本語動詞のテンスとアスペクト」 『名大文学部研究論集』(名古屋大学) 10 文学 4 『日本語動詞のアスペクト』(1976 むぎ書房)に収録
大野晋1955 「万葉時代の音韻」『万葉集大成 6言語編』(1955 平凡社)
大野晋1957 「校注の覚え書」 『日本古典文学大系 万葉集1』(1957 岩波書店)
北條正子1973 『品詞別日本文法講座 10 品詞論の周辺』 (1973 明治書院)
井手至1964 「ク語法(加行延言)アクの説は悪説か」 『国文学 解釈と鑑賞』 29年11号
井手至1965 「万葉集のク語法」 『人文研究』 16(3)大阪市立大学
木下正俊1972 「なくに覚書」 『万葉集研究 第1集』(1972 縞書房)
Bernard Comrie 1976, Aspect, Cambridge University Press
古田東朔1981 「外の人々から見たク語法」 『香椎潟』 26 福岡女子大学山田小枝1984 『アスペクト論』(三修社)
日本国語大辞典 第2版(2001 小学館)
山口佳紀2009 「家持歌『悲しけくここに思ひ出』考」 『美夫君志』 79号 『古代日本語史論研究』(2011 風間書房)に収録
金水敏2011 『文法史』(2011 岩波書店)
小田勝2015 『古典文法総覧』(2015 和泉書院)