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2017年1月27日金曜日

ク語法の真実 その0 萬葉学会の不掲載理由

ミ語法の論文をA雑誌にク語法の論文をB雑誌に投稿したことを以前書きました。どちらも2016年9月19日に郵送しています。日本国内ですから9月中に投稿先へ到達したはずです。そのうち萬葉学会へ投稿したク語法の論文が不掲載と決まりました。

不掲載の理由は以下です。

「
所見
論題:「言はく」は「言ふこと」か
評定:不採用

評言:本論はク語法の語構成を「活用語連体形+あく」と捉え、「あく」は四段活用動詞であって、「ものごとの存在が五感を通じてはっきりと知覚される」「その存在がはっきりと知覚される」意味があるとする。

そして、ク語法による名詞句を「~することは明確であるのに/明らかである」として情態副詞「明らかだ」節のように解釈している。

仮説としてアク接尾がもと四段動詞だと考え、その仮設された語義・語性からク語法の用例群を検証するという方法は誤りではない。

さらに、ク語法に対して明確な知覚の表明という、モーダルな意味があると捉える点は興味深い。

しかしながら、本論は仮設動詞アクの語義分析ではなく、ク語法という準体句相当の語法の解析を目指しているはずである。

文法上の名詞句の働きとして、構文上にモーダルな意味が付加されているのか、それともアクそれ自体の語義によっているのかが、本論では明らかではない。

さらに明確な知覚という場合、上代では、「世の中は空しきものと知るときしいよよ益々悲しかりけり」の副助詞「し」は副詞性助詞として「知れば知るほどに」と程度強調を表す例がある。

つまり明確に知られるという場合には、副助詞などによる「とりたて」が存在する。そうしたとりたて表現に対して、ク語法はどのように異なるのかを明らかにしないと、仮設動詞アクの語性を適用しても解釈可能だというだけでは新知見とは言いえない。

また形式名詞の有無に関わらず、明確ではない知覚(けっして朧気というのではない)すなわちplainな知覚に対して特立される形でなければ、「アク」によるク語法の価値がないから、それとの対比がどうしても必要になる。

意見としていえば、仮設動詞アクを想定することは、ク語法による動詞名詞句に具体的な意味傾向を付加することになるが、ク語法という文法的環境下ではその具体性は捨象されて準体句のあり方とは異なり、〇〇のような機能を負担するに至ったという形で改めて立論されるべきものと思う。
」

原文は改行されていませんが、モニタの上で読みやすくするために句点「。」ごとに改行しました。以下はこの決定と理由を受け取ってすぐに萬葉学会に送った反論です。二、三箇所誤字があったのでそこだけは訂正してあります。

「
××先生

お示しいただいた不採用の理由に対する意見を以下に記します。

                                        江部忠行

ク語法は用言を体言化する用法である、あるいは、アクという形式名詞が付加されたものであるという従来仮説と本稿が大きく異なるため、なかなか理解されがたいだろうと考え、異例とも言える大量の用例の検討を行ないました。

>本論は仮設動詞アクの語義分析ではなく、ク語法という準体句相当の語法の解析を目指しているはずである。

本稿はク語法の成立を明らかにすることが第一の目的です。仮定した四段動詞アクは終止形の場合と連体形の場合があります。連体形の場合準体句を形成しますが、準体句の場合も他の活用語の準体句に順ずるものであると考えた解釈を示しました。とくにアクの準体句だけに特別な用法があるとは思いません。「はっきりと知覚される」という意味の動詞の準体句と考えて何ら矛盾することころはありません。

>文法上の名詞句の働きとして、構文上にモーダルな意味が付加されているのか、それともアクそれ自体の語義によっているのかが、本論では明らかではない。

様相性(modality)の研究が盛んですが、言明が命題と様相とにはっきりと区分されはしません。様相性を表わすとする語のどこまでが命題の一部なのかどこからが様相を表わすのか区分できる研究者はいないと思います。事実数理論理学では命題に様相性演算子が付加されたものもまた命題です。命題と様相という区分は多分に便宜上のものと考えます。たとえば「に違いない」は様相を表わすと言う意見が一般的のようですが、これを命題の一部と捉えても何ら問題はありません。対応する英語のmustがあるからその訳語を様相性を表わす表現と看做しているに過ぎません。言語学における様相性(modality)は印欧語の直説法や仮定法などの法(mood)に準ずるものとして考えられたものですが、それと同じものが日本語にあるか否かは難しい問題だと思っています。

様相性について本稿は「アクが証拠性を担う助動詞であると断定してよいかは現時点で判断が付かない」と述べるに留めました。この証拠性はevidentialityの意味で使いました。日本語の様相性の問題は今後の課題としたいと思います。

アクの担う意味については用例の解釈の中で十分に示したと考えます。従来のク語法は用言の体言化という仮説では解釈が難しいものを解釈できたと思います。

>上代では、「世の中は空しきものと知るときしいよよ益々悲しかりけり」の副助詞「し」は副詞性助詞として「知れば知るほどに」と程度強調を表す例がある。

上代語の「し」の意味については十分に解明されていません。「知れば知るほど」の意味は「し」ではなく「いよよ益々」にあると考えるべきではないでしょうか。「し」の意味については、それを程度強調と捉える従来説に対して、別稿を用意しています。いずれにせよ、「し」の語義とアクの解釈は別の問題です。

>そうしたとりたて表現に対して、ク語法はどのように異なるのかを明らかにしないと、仮設動詞アクの語性を適用しても解釈可能だというだけでは新知見とは言いえない。

「し」が「とりたて」であるか否かを別にして、「とりたて」とアクが関連するとは考えていません。そのことは大量の用例の検討から明らかだと思います。ク語法が用言の体言化であるという従来説も、そう仮定すれば歌意が通じるという理由から定説と扱われているに過ぎません。しかし本稿の仮説は記紀万葉の歌や続日本紀宣命の散文の解釈に新たな境地を開いたと考えます。公開して研究者ならびに記紀万葉の愛読者の参考に供する意義は十分にあると考えます。

>形式名詞の有無に関わらず、明確ではない知覚(けっして朧気というのではない)すなわちplainな知覚に対して特立される形でなければ、「アク」によるク語法の価値がないから、それとの対比がどうしても必要になる

ク語法は用言を体言化するものであるという従来の仮説との対比は大量の用例の検討の中で十分に為されていると考えます。

>仮設動詞アクを想定することは、ク語法による動詞名詞句に具体的な意味傾向を付加することになるが、ク語法という文法的環境下ではその具体性は捨象されて準体句のあり方とは異なり、〇〇のような機能を負担するに至ったという形で改めて立論されるべきものと思う。

本稿ではアクが終止形の場合と連体形の場合の区別を検討しています。終止形の場合は準体句となりません。そのことが用例の解釈の上で従来説と大きく異なる結果を与えます。「具体性が取捨される」とは考えていません。あくまでも「明確に知覚する」という意味が程度の大小はあれ残存しています。

いずれにしましても、本稿はク語法の成立を明らかにすることを第一目的としております。その目的は十分に果されたと考えます。
」

あとで気付いたのですが、査読者の言う「plain」は英語本来の意味ではなく、査読者が仮説した意味のようです。おそらく「限定修飾語が付かない」という意味に査読者は解釈しているようです。また査読者の言う「モーダル」は様相(modal)とは異なる意味であって、仁田義雄氏などの提唱する日本語のモダリティの意味のようです。

査読者は

>仮説としてアク接尾がもと四段動詞だと考え、その仮設された語義・語性からク語法の用例群を検証するという方法は誤りではない。

と述べていますが、古代の未知の語の意味の推測にはその方法しか使えません。国語学の論文に特有な非論理的な推論の「その3」で述べましたが、意味を仮定して歌意が通れば良しとする方法を査読者は証明と考えているのでしょうか。このような非論理的な方法を用いるならば、国語学は学問ではなくなってしまいます。

査読者はまた、

>ク語法という文法的環境下ではその具体性は捨象されて準体句のあり方とは異なり、〇〇のような機能を負担するに至ったという形で改めて立論されるべきものと思う。

と述べていますが、これでは天動説に対して地動説の論文を提出したところ地球が静止していることを証明せよと言っているようなものです。査読者の信奉するであろう従来説はク語法を品詞の切り替えだけをし意味を失った形式名詞と見るものです。

しかし本稿で仮定するアクという四段動詞にそのようなsemantic bleachingが起こったとは考えていません(※)。

以前にも書きましたが、万葉集等の古典は学者の占有物ではありません。国民の財産です。その正しい理解を妨害するような査読は国民の権利を蹂躙するものと言っても過言でありません。

※ Semantic bleachingは意味の漂白と訳されます。しかし漂白は他動詞の語感が強い。意味の色落ちと理解すべきでしょう。現象としては、

0-1 学校へ行く

0-1の助詞の「へ」は「辺(あた)り」の意味の名詞から発達したと考えられていますが、もしもその仮説が正しければ、本来の「辺り」という意味を失って方向を示す文法機能だけを担うようになったことがsemantic bleachingです。

(つづく)

最後に重要な注意点があります。ネットは著作権を放棄したと考える人もいるようですが、それは違います。また、著作権が放棄されたものならば無断引用は可能と考える人もいるようですが、それも違います。その点、十分にご注意ください。本ブログのすべての記事および本稿の著作権は著者である江部忠行が保有するものです。殆どの人にこのような注意書きが不要なのですが、ほんの僅かな人がいるために書かなくてはなりません。まあ、そういう裁判を起こせばこの研究が注目されるかもしれないというメリットはあります。

2017年1月26日木曜日

国語学の学会というギルドと五円玉に働く念力

小学生の頃に見たテレビ番組です。五円玉の穴に紐を通して縛ります。長さは10-15cm。その端を指で摘まんで五円玉をぶら下げ、「動け、動け」と念を送り続けます。程なくすると五円玉が少しずつ動き始めます。番組の出席者は一同に驚いていました。

早速真似してやってみました。何もしていないのに念を送るだけで五円玉が動きます。次に紐をテーブルの端に固定して念を送ってみました。すると全く動きません。何もしていないのではなく、紐を支える手を本人が気付かないほど僅かに動かしていたのです。それが積み重なって五円玉が動き出すという仕掛けですが、紐の長さも重要です。それで固有振動数が決まります。

このブログに発表したズハの論文、A雑誌に投稿したミ語法の論文、B雑誌に投稿したク語法の論文ともう一本の論文の合計四本の論文を、大学の国文科を卒業して高校で古文を教えていた知人に読んでもらいました。知人は嬉しい指摘と残念な指摘の両方をしてくれました。前者は論文としての水準が高いこと、後者は掲載される可能性が非常に低いことでした。水準が高く、かつ、従来の定説を覆す論文の著者が外部の人間であれば、国語学の雑誌に認められるはずがないのだそうです。

その意見を聞いたときの私の気持ちは半信半疑でした。それまで所属していた(今も所属している)学会では考えられないことだったからです。しかし知人はいくつかの実例をあげてもくれました。知人はガラパゴス化という言葉を使いましたが、ギルドと私は感じました。既得権益を部外者に渡さないための排他的な団体という意味です。

多くの学会ではギルドを作ろうとしても作れません。発表の場は世界中にあります。日本の学会が外部の人間の論文を掲載しなかったら、その著者は海外の雑誌に投稿すれば良いのです。しかし知人がガラパゴスという国語学に限れば、発表の場はほぼ国内に限られます。国際的な研究が為されている学会ではあれば、そのようなギルドは維持できませんが、国語学会のような国内に限られた学会であれば維持できます。

とすると、問題は学会の各会員がギルドの維持を目指す行動をするか否かになります。私が今まで参照した国語学の学会誌の「日本語の研究」、「国語学」、「萬葉」、「国語と国文学」、「国語国文」に掲載された論文の著者は、
① 大学の国文科などの教員
② 国文科の学生や院生
③ 国文科卒で中学高校などの教員
に限られます。もちろん、掲載されたすべての論文を調べたわけではありません。漏れもあるでしょう。しかし今まで読んで論文については大部分が①、稀に②、更に稀に③でした。

今まで所属していた(今も所属している)理系の学会の場合は著者の大部分が企業の研究者です。実験を行なうには高価な設備と機器が必要です。その点で企業が有利だからです。大学に限れば、これも予算の関係でしょう、旧帝大の教員と学生が圧倒しています。寺田寅彦氏や中谷宇吉郎氏の時代のような予算を使わない研究をしているのは、国内ならば予算が少ない大学の研究者、海外ならば名前が東欧風や中国風の研究者に多い。

国語学の研究のうち雑誌に発表されるのは大学関係者のものが殆どです。それ以外の著者の論文を少なくとも私は読んだことがありません。しかし、萬葉学会や日本語学会の会員のうち文学部以外の卒業生はどれだけなのか、彼らの投稿数はどれほどなのか、その数字もゼロなのでしょうか。

私は自分が書いた論文について、海外の見知らぬ研究者や学生から別刷りを送って欲しい、引用文献の写しが欲しいなどの依頼を受けるのは珍しくありませんし、初対面の大学の先生や他企業の研究者に電話で問い合わせをしたことが何度もあります。いずれも親切に対応してもらいました。同じことを国語学の大学教員に対して行なったことがありますが、「私の論文は各大学の図書館が所蔵していますから近くの大学に問い合わせてください」のような、今までの自分の中の常識から言えば不親切極まりない対応ばかりでした。理系の研究者であれば自分の研究を知って欲しいと考えているので、特にお願いしていないにも関わらず論文集や論文の別刷りを送っていただくことも頻繁にありました。

その違いについて件の知人に尋ねたところ、それが国語学の教員の外部の人間に対する当たり前の態度であると言われました。私が問い合わせをした人たちがとくに変わっていたわけではなく、一般的な対応なのだそうです。自分たちの研究は非常に専門性が高い、ゆえに外部の人間の理解するところではない、ゆえに相手にするのは無駄な時間である。そのように考えているのでしょうか。

理系の学問の世界に非専門家が入っていくことは困難です。専門的な教育が担うのは知識の養成だけでなく、数学などの論理的な思考の訓練を含みます。前者は本から知識を得られますが、後者はスポーツや楽器演奏の実技のようなものです。誰かコーチがいないと出来ません。問い合わせをする人は同じ専門家に限られます。だから親切に応じるのでしょうか。

一方、万葉集や源氏物語は専門教育を受けていなくても読めます。それゆえ非専門家が参入することがあり得ます。また海外から問い合わせが来るなどということは滅多にありません。見知らぬ人に慣れていないから、そして見知らぬ人は非専門家に限られるから、閉鎖的になるのでしょうか。あるいは次のようなこともあるのかもしれません。

文学と科学技術の間に相互理解がないことは、C. P. Snowが1959年のThe Two Culturesで指摘しています。しばしば引用されるという箇所を私訳します。


ある集まりによく出席していた。参加者は、伝統的な文化の基準では、皆教養のある人たちとされる。彼らの格好の話題に、科学者は信じられないほど本を読まないというのがあった。一二度挑発的な質問をしたことがある。「あなた方のうち何人が熱力学の第二法則の定義を言えるのですか」と。無視されたり否定されたりした。だが、科学の世界では、この質問は「シェイクスピアを読んだことがありますか」と同じなのである。

今にして思えばもっと簡単な質問をすれば良かった。たとえば、「質量や加速度の意味がわかりますか。これは科学の世界では字が読めますかと同じなんですよ」と。そうすれば、その教養のある人たちの、せいぜい十人に一人には、私の言葉の意味が通じただろう。物理学の巨塔は日々成長を続けている。西洋の知識人でも、その大多数が見通せる度合いは、新石器時代のご先祖と変わらないのである。


文学部の人たちが理系の学部の人は本を読まないと指摘するかもしれませんが、理系の学部の人たちが文学部の人は科学を知らないということはありません。個々の場合ごとに考えれば良いことです。無理に一般化する必要がありませんし、一般化が可能でもありません。もしも文学部の卒業生が理系の学会誌に論文を投稿した場合、学歴や職歴は査読に影響しません。論文の内容だけで判断されます。展開される推論に誤りはないか、結論に新規性はあるか。論点はそれだけです。今まで誰も言わなかったことを正しい推論で述べていればその論文は受理されます。

その逆はどうなるか。国語学に特有の非論理的な推論で指摘してきたように国語学の論文には感性(感情)に基く推論が用いられます。そのような論文が査読を通るということは査読する人たちも非論理的な推論をするということです。国語学は本来は科学ですが、現状は文学や芸術の仲間なのでしょう。論理ではなく感性(感情)に基く判断や推論が為されます。そのような判断は客観性に欠けることは言うまでもありません。

日本語学会の投稿規定に投稿原稿査読の二重秘匿性という項目があります。「と思われる」式の非論理的な推論が主体であれば、査読結果が査読者の感性(感情)の影響を強く受けるのは仕方のないことです。そのような影響を避けるには、不掲載の場合の理由を明らかにして投稿者との間で意見交換を行なう理系の学会で一般に用いられている方法にすべきではないでしょうか。国文学が感情的な判断であることを否定しませんが、国語学は言語学であって自然科学あるいは社会科学に属する分野です。そこに非論理的な推論を持ち込むことに問題があります。

文学部の卒業生が理系の論文を投稿しても学歴が文学部卒だからという理由で拒絶されることはあり得ません。査読者は論文の新規性と推論の妥当性だけを見るからです。一方、他学部の卒業生が国語学の論文を投稿した場合はどうでしょう。査読者の中にSnowが指摘するような「科学者は信じられないほど本を読まない」ことをしばしば話題にする学風(culture)があれば、必要以上に問題点を探そうとするかもしれません。また、その問題点の指摘に非論理的な「と思われる」式の推論を用いるかもしれません。逆に投稿者が専門家であれば、問題点を探そうとする努力が必要に満たないかもしれません。問題点が認められても非論理的な推論の結果見逃すかもしれません。

非専門家だから間違いがあるはずだと思って読めば、間違いでないものを間違いとしてしまうのは、冒頭で述べた五円玉の振り子に念を送る話と同じです。専門家だから正しいと思って読めば、間違いであっても間違いでないとしてしまうかもしれません。これも五円玉の振り子と同じです。

非専門家に古典文学は理解できないという間違った思い込みと、「と思われる」式の非論理的な推論があいまって、結果として国語学の学会をギルドにし、投稿された部外者の論文を不掲載としてきたのではないでしょうか。知人の言うことは、そのような歴然とした悪意はなくとも、結果としてそのような状況を作り上げているという点で正しかったと思うに至りました。

2017年1月16日月曜日

国語学の論文に特有の非論理的な推論 その5 現代語を基準とする時としない時

橋本進吉(1951)はこのブログでも取り上げたズハの語法の起源を助詞の「は」がない形に求めます。磐姫の歌とされる

5-1 かくばかり恋ひつつあらずは高山の磐根しまきて死なましものを 万03-0086

の表現の原形は

5-2 かくばかり恋ひつつあらず高山の磐根しまきて死なましものを

であったと述べます。同論文は次の例をあげています。なお、「治る」でなく「直る」は原文のままです。

5-3 手術しないでは直らない。
5-4 手術しないで直らない。

両者の違いは助詞の「は」の有無です。橋本氏は「は」の役割を「手術しないで」が連用中止法でなく修飾語であることを明示するためのものだと述べます。連用中止法とは9-3のように連用形で一旦文が切れる用法です。

5-5 手術しないで、(そして)治らない。

助詞の「は」がないと5-4は5-5の意味とも解釈できます。そのような誤解を防ぐために「手術しないで」が「治らない」を修飾していることを明示するのが「は」の目的だと橋本氏は述べます。

5-3と5-4は同じ意味か、5-3の助詞の「は」の役割は単に5-5と混同されることを防ぐだけか、という疑問が生じますが、それは別途検討します。ここでは橋本氏の主張が正しいものとします。しかし、それでも問題が残ります。上代語の「ず」と現代語の「ないで」、上代語の「は」と現代語の「は」、上代語の「ずは」の結合と現代語の「ないでは」の結合がすべて同じ意味だという保証がありません。同論文は以上のことを自明の如く扱いますが、そうであるという保証はありません。

同論文の別の箇所から引用します。

「  苦労をせずに金をまうけたい。

の如き希望を表はす文に於ては

  苦労をせずには金をまうけたい。

といって「苦勢をせず」といふ条件を特にきはだたせる事は出来ないのである。しかるに問題の歌の「は」は、後の例に於ける「は」と同等の用法であって、古代に於てはかやうな場合にも打消の場合と同等に「は」が用ゐられたものと見られるのである。」

同論文は現代語で「苦労をせずには金を儲けたい」と「は」を挿入できないが、上代には「かくばかり恋ひつつあらずは」のように「は」を用いて語尾を願望で結ぶことができたとする仮定を新たに提案しています。

なお、「見られるのである」とは「判断される」「理解される」の受身の意とも「見ても良い」の可能の意ともとれますが、判断されるという受身は自明でありません。であれば仮定の追加です。

最初の引用箇所では、上代語の「ず」、「は」、「ずは」が現代語訳と完全に同じ意味かどうかの保証がないにも関わらず、あるかの如くに扱い、今度は上代語と現代語は違って当然と扱う。どちらも簡単には答えが出せない問題です。ですが、一言も触れぬまま、同じであることが自明、同じでないことが自明と決めてしまっています。

橋本進吉氏のような「石橋を叩いて渡らない」と評される慎重な研究者でもこのような他の分野の研究者の目には乱暴な推論をしています。これ以上の例を他の論文からあげることはしませんが、国語学ではこのような例は珍しくありません。


引用文献
橋本進吉(1951) 「上代の国語に於ける一種の『ずは』について」 『上代語の研究』 (1951 岩波書店)

2017年1月15日日曜日

国語学の論文に特有の非論理的な推論 その4 強意と詠嘆

日本語の古典文法に登場する特有の意味に強意と詠嘆があります。現代語に強意の助詞や詠嘆の助動詞はあるでしょうか。外国語の文法に強意や詠嘆という言葉は登場するでしょうか。

大野晋(1993)の173ページに次の記述があります。


各種の文法書または辞書を見ると、シまたはシモを「強調」の助詞だと説明している。しかし、考えてみると、最近の古典日本語の文法書は「強調」という用語、何でもかでも押しこめる傾きがある。コソも強調、ゾも強調、ナムも強調、テも強調、ヲも強調、ニも強調、ドモも強調・・・・・・、何でも強調の一語でそれを覆う。強調でもよいが、それならば強調の中で、ナムとヲとニとの間にはどんな違いがあるのかが説明されなくてはならない。ところが何もかにも強調の一語で終りとする。それでは対象は何ら明らかにされない。シまたはシモは、もし強調とすればどこにその特質があるのか、そのことを追究することが必要である。


それよりも、そもそも強調や強意と呼ばれる意味の語が本当にあるのでしょうか。現代語でも「こそ」は使われます。

4-1 今こそ実行すべきだ。

この「こそ」は今」を強調しているのでしょうか。今より前でもなく今より後でもない、丁度今という意味です。今以外を排除する意味があります。

4-2 あの人は愛想こそ良いが何を考えているかわからない。

この「こそ」は「だけは」で言い換えられます。

4-3 あなたこそ不満があるんじゃないですか。

この「あたなこそ」は「むしろあなたに」で言い換えられます。これら1-1から1-3の「こそ」に共通する意味は「それ以外の排除」のようです。更に多数の例文を検討すれば「こそ」の本質に迫れるかもしれません。少なくとも「強意」とは言い切れないようです。

4-4 籠もよ み籠持ち 掘串もよ み掘串持ち この丘に 菜摘ます児 家聞かな 名告らさね そらみつ 大和の国は おしなべて われこそ居れ しきなべて われこそ座せ われこそは 告らめ 家をも名をも


ねえ。ああ…よ。▽強い感動・詠嘆を表す。

と説明しています。もちろん、「ああ、籠よ、素晴らしい籠を持ち」と現代語訳しても状況と大きく矛盾しませんが、かと言って、現代人の若者が初対面の娘の持ち物を見て、そう言うでしょうか。「おや、良い籠をお持ちですね」ぐらいではないかと思います。本当に強い感動を表わすのでしょうか。

4-5 男もすなる日記といふものを、女もしてみむとてするなり 土佐日記

「すなり」と「するなり」の二つの「なり」がありますが、前者の終止形に付く「なり」は「音がする」の意味であり、そこから伝聞・推定を表すとされます。ただし、それは今日の理解であって、戦前は「詠嘆」の意味とされていた時期もありました。

古語辞典や古典文法書には多用される「強意」や「詠嘆」は他の言語の辞書に(すべての言語を調べたわけではありませんが)あまり用いられません。自然言語の中に、そもそも強意や詠嘆の意味の語が発生しうるのでしょうか。

強意と仮定すれば歌意が通る。詠嘆と仮定すれば歌意が通る。そのような論理的と言えない推論の結果、強意や詠嘆の意味が割り当てられてしまった語があるのではないでしょうか。

私は今まで「強意」や「詠嘆」とされた表現を幾つか検討しましたが、そのうちのいくつかはそのような意味がないらしいこと(※1)を示しました。

※1 回りくどい言い方ですが、未知の単語の意味の解釈は仮説と検証という方法を取らざるを得ず、絶対にこうであるという証明ガ不可能なのです。


参考文献
大野晋(1993) 『係り結びの研究』 (岩波書店)

2017年1月14日土曜日

国語学の論文に特有の非論理的な推論 その3 歌意が通ること

国語学の論文ではしばしば歌意が通ることで未知の語の意味を証明したかのような記述があります。国語学の論文に特有の非論理的な推論に述べましたが、願望の助詞とされる「な」について濱田敦(1948a)に次の記述があります。


この「な」は例へば、
いざあぎ振熊が痛手負はずは鳰鳥の淡海の海に潜き潜き勢那和   古事記歌謡38
此の丘に菜摘ます児家吉閑名告らさね   万01-0001
の如く、上に述べた「ずは」と云ふ形に伴はれて現れ、又「ね」と相対照して用ゐられてゐる事などから、この「な」が願望表現である事が容易に理解せられるであらう。


最初の古事記歌謡は振熊の軍勢に追われ、勝ち目がないと悟った忍熊皇子が入水する直前に詠んだものです。敗戦は避けようがない。ならば、敵の手にかかるよりは、と考えた結果の入水でしょう。その次は万葉集の冒頭を飾る有名な雄略天皇の御製です。この丘で菜を摘んでいる娘は素敵な籠と素敵な掘り串を持っていると述べ、続けて「家聞かな。名のらさね。」と歌います。

願望というのですから濱田氏はおそらく「鳰鳥の淡海の海に潜き潜きせなわ(勢那和)」を「カイツブリのように琵琶湖に入水したい」、「家聞かな」を「家を聞きたい」と解釈したのでしょう。

歌意が通るというのは、その場の状況に整合する、矛盾しないという意味です。飛び込もうと思えば飛び込める状況で「入水したい」、聞こうと思えば聞ける状況で「聞きたい」と言うでしょうか。不自然です。もっと相応しい意味がありそうです。

前回も書きましたが、水の入ったコップを手にする人が「水が飲みたい」と願望するでしょうか。そのような感情を意識する前に水を飲んでいます。もしも願望であれば、水を飲むのに誰かの介助や許可が必要など、自分の意志だけで飲めない場合です。上記の二例も願望する状況であり得ません。状況に整合しないのですから、歌意が通るとは言えません。

もしも歌意が通ったとしても、それはその状況で発話される多数の可能性の一つというだけであって、「家聞かな」と「家を聞きたい」が同じ意味である保証はありません。

前回の国語学の論文に特有の非論理的な推論 その2 感性の国のアリスに国語学の論文の「歌意が通るならば語の解釈の仮定が正しい」とする推論と数式の「両辺の値が同じならばXの値の仮定が正しい」とする推論は意味が大きく異なると書きました。数式の場合は

X - 3 = 1

に

X = 4

を代入すれば両辺は同じ値になります。左辺も右辺も数値を表します。だから等号で結べるのです。しかし

「家聞かな」=「家を聞きたい」

という等号が成立する保証はありません。左辺と右辺の意味が同じかどうか確定しません。右辺の意味を仮定しても状況に整合する、矛盾しないというだけです。それが国語学の論文の推論と方程式の解法との違いです。両者を混同してはいけません。

未知の語の意味は演繹で求められません。それが可能なのは絶対的に正しい辞書がある場合に限られます。 しかし語が未知であればそのような辞書が存在し得ません。演繹で求められないならば仮定と検証に基く推論以外に語の意味を知る方法はありません。

もしもこの「な」が願望を表わすならば、すべての「な」について願望の意味が状況と整合しなくてはなりません。しかし願望で統一して解釈できないことが分かっています。そのために小学館の『日本国語大辞典 第二版』 や三省堂の『時代別国語大辞典 上代編』をはじめとする国語辞典、古語辞典はこの「な」を主語の人称で場合分けして、願望、意志、決意などを表わすとしています。

あたかも天動説が惑星の運動を説明するために新たな仮説を付け加えたのと同じです。「な」の意味に関する仮説は複雑化しています。

これに対して本居宣長(1785)は現代の国語学者より科学的な方法を用いています。宣長は「な」を一律に「む」と同じ意味だとする仮説を提出しています。ただしその方法は例外が生じます。宣長はその例外について誤字を疑っています。一つの仮説で一律に説明できれば良いのですが、できない場合に新たな仮説を追加するよりは、データの再検討を考えるほうが科学的とは言えます。


参考文献
本居宣長(1785) 『詞の玉緒』 『本居宣長全集 第5巻』(1970 筑摩書房)
濱田敦(1948a) 「上代に於ける願望表現について」 『國語と國文學』 25(2)
『時代別国語大辞典 上代編』 (1967 三省堂)
『日本国語大辞典 第二版』 (2001 小学館)

 

2017年1月13日金曜日

国語学の論文に特有の非論理的な推論 その2 感性の国のアリス

アリスは裁判の証人として呼ばれますが、王様がアリスを退廷させるために急遽法律を作ります。王様の非論理性が暴かれる太字の部分に私訳を付けました。

At this moment the King, who had been for some time busily writing in his note-book, cackled out ‘Silence!’ and read out from his book, ‘Rule Forty-two. All persons more than a mile high to leave the court.’
「決まりの42番。身長1マイル以上のものは皆退廷すべし。」
Everybody looked at Alice.
‘I’m not a mile high,’ said Alice.
‘You are,’ said the King.
‘Nearly two miles high,’ added the Queen.
‘Well, I shan’t go, at any rate,’ said Alice: ‘besides, that’s not a regular rule: you invented it just now.’
「その上、それはちゃんとした決まりじゃない。今作ったんでしょ。」
‘It’s the oldest rule in the book,’ said the King.
「法律集で一番古い決まりだ。」
‘Then it ought to be Number One,’ said Alice.
「だったら、決まりの一番のはずよ。」
The King turned pale, and shut his note-book hastily. ‘Consider your verdict,’ he said to the jury, in a low, trembling voice.

Alice's Adventures in Wonderland by Lewis Carroll
CHAPTER XII. Alice’s Evidence

国語学の論文に特有の非論理的な推論に他分野の研究者が国語学の論文を読むときにしばしば遭遇する非論理的な推論について書きました。他分野の研究者はちょうど今引用した箇所のアリスのような気持ちになります。なぜ「決まりの42番」が「一番古い決まり」なんでしょう。

国語学の論文にしばしば現われる非論理的な推論の一つに後件肯定(affirming the consequent)があります。

カラスならば黒い。

から

黒いならばカラスである。

と結論してしまうことです。逆は必ずしも真ならずです。国語学ではこの非論理的な推論がしばしば未知の語の意味の決定に用いられます。つまり、

語の解釈の仮定が正しいならば歌意が通る。

から

歌意が通るならば語の解釈の仮定が正しい。

と断定してしまうのです。これが言えないのは当然ですが、しばしば証明のように扱われます。国語学の研究者の多くはこのような推論が次のような数学の推論と同じだと考えているようです。

X - 3 = 1

ここでX=4と仮定して上の式に代入すると

4 - 3 = 1

X=4であるとした仮定は正しい。したがってX=4である。

上の「歌意が通るならば語の解釈の仮定が正しい」と下の「両辺の値が同じならばXの値の仮定が正しい」は意味が大きく異なります。これは意外と難問かもしれません。次回正解を示します。それまでに考えておいてください・

では、なぜ国語学の論文に非論理的推論が多用されるのでしょうか。それは論文を書く人も査読する人も普段論理を用いないからです。何度も繰り返しますが、論理的であることと頭が良いことは別です。普段論理的な思考をしないでいると論理的にものを考える力が退化して行きます。思考力は筋肉と同じです。使わなければ衰えます。
文学は絵画や音楽の仲間です。理系の学問や法学や経済学と違い、論理より感性が優先されます。ただし、美大の先生は絵画や彫刻を作り、音大の先生は作曲や演奏をしますが、国文科や英文科の先生は普通は自分で詩や小説を書きません。もっぱら鑑賞するだけです。

文学部の先生方は研究対象の詩歌や小説戯曲の中に論理を追うことが稀です。言葉や表現が与える印象に敏感な代わりに、論理に鈍感になっているのではないでしょうか。

そう考えるとAlan Sokalの悪戯の論文がなぜ雑誌の査読を通ってしまったかも理解できます。哲学も文学同様に論理ではなく感性に頼る判断を行なっていたとすればどうでしょう。だから、難解な専門用語や数式や外国語の持つ印象に惑わされ、そこにある論理の誤りを見抜けなかったのではありませんか。

論理が主体の学問分野であれば、読者が追うのは論理の流れだけです。そこに難解な専門用語や外国語が使われていたとしても、それに目を奪われることはありません。推論が論理的かどうかだけを判断します。これに対して、感性が判断を決定する分野では、論理の流れではなく、使われる単語の印象が重要な役割を演ずるのではないでしょうか。だからSokalの悪戯が通ってしまったのではないでしょうか。その論文はインターネット上に公開されていますが、学生が見ても容易に間違いを指摘できるものです。


同じ文章を読んでも、論理で判断する習慣のある研究者は論理の流れを見、感性で判断する習慣のある研究者は文章表現の効果や使われる単語の与える印象に反応してしまう。それがSokalの論文の誤りを見抜けなかった理由ではないでしょうか。

もう一つ付け加えるならば、理系(や恐らく法律などの分野)の研究者は文章の意味は理解できて当たり前と考えます。多義的な表現に出会うことは滅多にありません。そしもあったとすれば書き手の責任ですし、また、その前後を読めば多義性は解消されます。ましてや即座に理解が出来ないような比喩が用いられることはありません。文章が伝える内容は明解であり、難解な部分があるとすれば、その伝える内容がどのような推論でもたらされたかが、途中の省略が多すぎるなどの理由で即座に思い付かない場合です。

一方、文学の場合、多義的に解釈できることがしばしばあり、何らかの比喩表現と推測されても、その比喩が何を表わすかが分からない、あるいは確定しないことがしばしばあります。論語のような哲学書には長い注釈が必要です。その意味が言語が表面的に伝えるものとは大きく違うことも珍しくありません。分からなくて当たり前の世界です。そうであれば、論理を追うことを諦めるのかもしれません。一方、分かって当たり前の世界に住んでいれば、論理が追えれば理解できるのですから、とことん論理を追おうとします。

知人が内田義彦氏の著作を紹介してくれました。氏は経済学史が専門ですが、難解な専門用語の使用が経済学を分かり難くしているとし、外来語や専門語の不必要な使用を戒めています。しかし、理系の学問の場合、難解な用語を使ったために、推論の誤りが隠蔽されることはありません。読者は論理の流れだけを見ていて、用語の難解さに惑わされないからです。そう考えて、ひょっとすると経済学は感性の学問の部分があるのではないかと思い至りました。哲学も、本来は論理を考える学問だったものが、何時の間にか感性の学問になってしまったのではないか。そのように考えていくうちに、Sokalの悪戯が通ってしまったことの理由を理解できました。

2017年1月12日木曜日

万葉集は誰のものか 日本語は誰のものか

万葉集や源氏物語などの日本の古典は日本語話者全員が共同所有する財産です。日本語という言語もそうです。一部の人たちの占有物ではありません。日本の古典には日本の自然や古代の日本人の文化が描かれていることから、国民の財産と言い替えても良いでしょう。

何をそんな当たり前のことをと思う人も多いでしょう。日本の古典や日本語が日本語話者や日本国民の財産であることに異論はないはずです。

万葉集など上代の言語にはよく分からないことがたくさんあります。ク語法やミ語法の意味はわかっていません。このブログでとりあげたズハの語法の意味もわかっていません。国語学の論文に特有の非論理的な推論に少し書きましたが「今は漕ぎ出な」の「な」の意味もはっきりしません。

一方国語国文系の学会事情に詳しい知人は、従来説を覆すような説を部外者が論文に書いても掲載される可能性は非常に低いだろう、と言います。もしもそれが事実であれば、悪意の有無は別にしても、国民の財産である古典文学の意味を国民が知ることを妨害する行為と言えます。

理系のある学会の論文誌の査読を頼まれたことがあります。編集委員は今までにない新しい説なのでぜひ掲載したいと言います。最初に査読した人の結論は棄却だったのですが、その人が通すかもしれないと私の名前をあげたそうです。今までにない説であれば、途中の推論が妥当であればですが、ぜひ自分たちの雑誌に掲載したいと考えるのは当然です。

国語系の学会も同じと思っていたのですが、もしも外部の人間が新説を投稿しても掲載しないとすれば、理系の学会とは別な文化がそこにあることになります。理系の学会は国語系の学会の基準で言えば、論文の著者の大部分が外部の人間です。世界中で同じテーマが研究されています。日本の学会だけが内部の人間のためのギルドになったとしても、ギルドの効果は発揮できません。外部の人間の投稿を拒絶すれば彼らは外部の別な論文誌に投稿します。しかし国語系の学会ではギルドが有効に機能します。研究の殆どが日本でしか行なわれていないからです。

以上はあくまでも仮説です。ギルドがあると仮定しても、それは理系の学会では機能しえませんが、国語系の学会では十分に機能することは確かめられます。このブログをお読みの方々の中にも国語系の学会から見れば「外部の人」となる方があるはずです。もしも国語学の学会が新しい説を推論が妥当であるにも係らず拒絶したとすれば、それは国民の共有財産の私物化になりはしないでしょうか。前回とりあげた法廷で争われた査読の妥当性に新たな判例を追加することになるでしょう。古典文学や日本語は一部の学者たちのものではなく日本語話者や日本国民の共有の財産だからです。

なお前回の記事で重要なのは論文の著者と審査した学会のどちらが勝ったかではなく、裁判所が査読の方法に一定の基準を示したことです。もしも意図的に外部の人間を排除するギルド的な査読が行なわれるとしたら、その学会は論文の著者だけでなく財産の所有者である国民全員の権利を妨害したことになります。