Google Analytics

2017年9月8日金曜日

質的記述 その3 論理的に考えようとしない万葉学者たち

内井惣七氏の著書だったか、流行の「ロジカル・シンキング」は本を読んで身に付くようなものではないと書いてあった。そのような当たり前すぎることをわざわざ書かなくてはいけないのは、本を読むだけで論理的思考力が身に付くと考える人が少なくないからであろう。私も内井氏と同じことを書く。論理的な思考力は訓練でしか身に付かないし、訓練さえすれば誰でも身に付けられる。

上代語の研究の先行文献を読む出して驚いたのがあまりにも多い非論理的な推論であった。そのことについて、その1その2その3その4その5に書いた。これらの非論理的な推論は、理系であれば、あるいは法学などの専攻者であれば、簡単に見抜ける程度のものである。そのような非論理的な推論で結論を導く方法は、理系の論文であれば、おそらく法律の分野でも、査読を通らない。万葉学の世界では通る。何故か。論文の著者がその推論が非論理的であることに気付かないように、査読者もまた気付かないのか。あるいは前回書いたArgument from authorityによる審査が行われるのだろうか。万葉学者とそのたまご、つまり大学の国文科の教官と学生が書いたものなら通すが、どこの馬の骨か分からない一般人の書いたものなら通さない。そういうことが行われているのだろうか。

どちらも可能性がある。このような場合、理系の人間は、両者の一次結合を仮定する。また、見過ごしの可能性を必ず考慮する。

式3-1 非論理的な論文が掲載される原因 = 査読者が論文が非論理的であることを見抜けないこと × その確率 + 査読者が著者の権威に基く審査を行なうこと × その確率 + それ以外の原因 × その確率

非論理的な推論は大野晋氏のような超一流の学者の論文にも見られる。高校生のころ私が使っていた現代国語の受験参考書に大野晋氏の文章が取り上げられ、その論理の矛盾を指摘させる設問があった。国語の著名な学者の文章に高校生でも見付けられる論理的矛盾があるという、その受験参考書の著者の指摘に、目から鱗が一枚落ちるのを感じた記憶がある。最近読んだ本では、香西秀信氏の『議論入門』大野晋氏の『日本語について』の文章に現われた「文字」という語の不正確な定義をとり上げている。自分の議論に都合が良いように用語を定義する方法は詭弁の初歩であるが、意識的なのか無意識なのか、万葉学者の書く文章にしばしば観察される。

大野氏の例をあげて理由は以下である。そのような超一流の国語学者であっても論理的に不確かな部分があるのだから、超一流とまでは言えない多くの査読者たちが論理を間違えるも仕方ない。従って、式3-1の第一項は十分考慮されるべきである。

理系の人間は学生時代に論理を徹底して鍛えられる。自分が行なった実験や観察から何が言えて、何が言えないか、毎回時間を掛けて考えさせられ、間違えれば、教官や先輩にすぐに指摘される。そして、その理由を徹底した議論で叩き込まれる。 それを学生時代繰り返す。実験データの整理のためやシミュレーションのためにコンピュータのプログラムを作る。論理を間違うとプログラムが動かない。あるいは間違った答えが出てくる。大学入学した時から毎週数学の講義がある。黙って話を聞くのではない。手を動かして問題を解けなければ、試験に通らない。数学は人間が設定した公理から演繹だけで導かれるものである。それぞれの専門教育の中で、微分方程式を立てたり(もちろん、立てた方程式は解く)、複雑な積分をするようなことは日常の業務の一環である。

論理の訓練は筋肉の鍛錬と同じである。日々の訓練が一箇月後、一年後、十年後に大きな違いとなって現われる。逆に、使わないでいるとどんどん劣化して行く。名前は失念したが、ある大学のある研究者が、武道の達人と一般人の反射神経、筋力、その他の運動能力を比較した。その結果わかったのは、武道の達人が人並み外れた反射神経や筋力を持っているわけではないこと。六十歳の達人はその年齢なりに老化していること。しかし、その武道において、初心者の若者を全く寄せ付けない。何故か。筋肉の動かし方の訓練が出来ているのだと言う。その武道の基本となる筋肉の使い方や身体の動かし方がある。それを素早く確実に行なえるのは訓練の賜物だと言う。

理系や、そして恐らく法学の、人たちと万葉学者とでは、論理的な思考力は大人と幼児ほど違う。片手でねじ伏せられる。場合によっては指一本で倒すこともできるかもしれない。それほどの違いがある。これはQ氏の査読の結果の文章を読み、P氏とのやり取りの中で、実感させられたことである。

国民の財産である万葉集の研究が、本居宣長、富士谷成章、鈴木朖と言った人たちの後、どれだけ進展したのだろうか。新しい文法用語はたくさん登場したが、宣長らの時代に分からなかったことが分かるようになったとか、間違って解釈されていたものが正しく解釈されたという事実が、一体いくつあるのだろう。せいぜい片手か両手かで数えられるほどではないだろうか。江戸時代の現代との科学、工学、医学、農学などの進歩と比べて、お話にならないほどの遅さではないか。

論理の訓練を始めるのに遅いも早いもない。万葉集の研究を進展させたければ、そのような訓練を今日から始めることである。次の問題は、適切な論理の問題集がないこと。野矢茂樹氏の問題集を見てみたが、人文系の人が挫折感を味わわないように調整したのか、問題が易しすぎる。

次の問題はどうだろう。手元の論理学の教科書に
It is easy to check that the following inferences are valid.
と書いてあった。

(A∧B)⊃C ⊢ (A⊃C)∨(B⊃C)
(A⊃B)∧(C⊃D) ⊢ (A⊃D)∨(C⊃B)
¬(A⊃B) ⊢ A

上の式の記号は、∧は「かつ」、⊃は「ならば」、∨は「または」、¬は「でない」と読む。また⊢の記号は推論を表し、左側から右側が論理的に導けると言う意味である。 

大学の理科系学部卒で、仕事で数学や物理を使っていた人なら暗算で出来るはずである。しかし、万葉学者は全員が出来ないと思う。理系から見れば簡単すぎる問題が万葉学者に解けない。

万葉学が殆ど止まっているように見えるのもそれが原因であると思う。

0 件のコメント:

コメントを投稿