Google Analytics

2017年11月28日火曜日

To sue or not to sue その6 高山善行(2005)の問題点(4) 主観と客観の混交

高山善行(2005)の問題点(1) 演繹でない推論に「4 主観的意見と客観的事実が区別されていない。」と書いた。

学術論文に主観的意見を書くことに問題はない。していけないのは主観を客観の如く書くことと主観的意見を根拠に推論を行なうことである。

同論文の第1節に連体形「む」の用法に「不明な点が多い」として

まず, 《仮定》については, 《推量》との違いが明らかでない。接続法による仮定表現との関係もはっきりしない。《婉曲》については, 本当に「やわらげ」ているかどうか疑わしいし, 「やわらげ」なければならない必然性も明らかでない。
と主観的意見を述べ(主観であることが明らかならば問題ない)、その理由として、

このような疑問が生じてくるのは, 《仮定》《婉曲》が直感的理解にとどまり, 具体的な言語事実に即した記述分析がなされていないことに起因する。

と「理由なき断定」を行なう。根拠を示さないなら高山氏の主観的な感想でしかない。事実、下の引用文献のリンクを辿ればわかるように、山本淳(2003)は従来の方法で高山善行(2005)と同じ結論を導いている。

続いて、第1.2節で、助動詞「む」の連体用法を「モダリティ論,モダリティ表現史の問題として捉え直してみたい」と述べ、現代語で推量の助動詞が連体修飾語となりにくい例をあげて、

このような問題は, 現代語だけ, 古代語だけを扱う立場では気づきにくいが, 史的対照の観点に立つと顕在化してくるものである。
」と断定する。

これも根拠が示されていない。主観をあたかも客観的事実のように表現している。しかし、同様の指摘は既にある。山本淳(2003)から引用する。

このように説明されている推量辞「む」の連体形は、古典にしばしば使われているのに対し、現代語では、
  彼にそんな酷いことは言えようはずもない(作例)
のように、ごく稀にしか使われず、一般的な言い方とは見なされない。つまりは、「む」を出自とする口語の「う」あるいは「よう」が、連体形の用法を「む」から十分には引き継いでこなかったと考えられるのである。
山本氏が古典語の「む」と現代語の「よう」の対比しか記述していないのに対して、高山氏は「む」と「だろう」以外に、終止形「なり」、「けむ」などを追加しているが、例が増えただけであって、古代語で連体用法が盛んに使われたのに現代語では衰退したという点で同じ論旨である。

さらに、高山善行(2005)の上記引用箇所に続く次の記述。

それは, モダリティ表現史を明らかにする上での重要な課題の一つと言える。

これも主観的な感想である。古代語と直接対応がない「そうだ」や「に違いない」を追加したため「表現史」とは言えなくなってしまった。助動詞の用法の変化を辿るということであれば、「む」と「う」「よう」の変化だけに絞るべきである。語源や構成が違う単語をモダリティの名前で一括りにしても得られるものは少ない。Palmer (2001)が細かな検討を行なっているように、印欧語の直説法と接続法(subjunctive)とアメリカ先住民やパプア・ニューギニアの言語のrealisとirrealisは良く似た使われ方をする。一方、主節で使われるか、疑問文や否定文ではどうかという点で異なる。言語類型学の扱う問題は殆どがそうだろうが、ムードとモダリティも、荒っぽく見ればどれも同じ、細かく見れば一つ一つ違うという、当たり前の現象、つまり高山氏の言う課題があちこちにある。

第1.3節に

これまで, 連体用法「む」を正面から取り上げた研究はほとんど見られず, 助動詞研究の中で最も扱いにくいテーマの一つと言える。その背景には, 伝統的な助動詞研究が抱える方法論上の問題があると思われる。
」とある。

高山善行(2002)が引用して高山善行(2005)が引用しなかった和田明美(1994)や高山氏が見ていないかもしれない山本淳(2002)がある以上、「ほとんど見られず」とは言えない。また、「扱いにくいテーマ」かどうかも客観的にはわからない。一番の問題は「伝統的な助動詞研究が抱える方法論上の問題があると思われる」である。「思われる」ならば、誰が見てもそう思う状況だろうが、これは高山氏だけの感想である。「と思う」と書くべきである。

続いて、

しかしながら, 本稿のテーマに関しては,一般的な方法は通用しにくいと思われる。連体用法「む」は現代語に置き換えにくいため, われわれ現代人にとっては「む」の意味解釈がきわめて困難である。大量の用例を帰納したとしても, その問題が解消するわけではない。「む」の使用条件,使用文脈といった周辺的な情報は蓄積されるだろうが,「む亅の性質を直接的に捉えることはできない。
」とある。

 「通用しにくいと思われる」は「通用しにくいと思う」とすべきである。「思われる」は万人がそう思う場合の表現である。「われわれ現代人にとっては「む」の意味解釈がきわめて困難である」も主観表現である。では、ロゼッタ石の碑文はなぜ現代人が解読できたのだろう。仮説と検証という科学的手段を用いたからである。今までの国語学が行なってきた現代語からの類推で解読しようとするから解決できないのである。古代語の母語話者でない我々が感覚的に意味を理解するのは言うまでもなく無理である。高山善行(2005)が主張する演繹的方法が行なえないことも既に見てきた通りである。仮説を立て、検証し、棄却されたらまた別の仮説を立てる。その繰り返し以外の方法はない。

第1.3節は更に、

 だが, 野村(1995),尾上(2001) が指摘するように, 「む」の基本的意味を《推量》と見ることには問題がある。また, 多義的なモダリティ形式の文末用法での意味を安易に文中用法へとスライドさせるべきではない。「む」については, 文中用法と文末用法を別個に精査した上で, 両者を総合するという手順をふむ必要がある。
」と続く。

「 多義的なモダリティ形式の文末用法での意味」は多義的な表現である。モダリティ形式が多義的なのか、その文末用法が多義的なのか。また、モダリティ形式は「む」と同義なのか、他の助動詞の「らむ」「けむ」を含むのか。モダリティ論という曖昧な表現を用いたために意味がわかりにくくなっている。

「スライド」の使い方は萬葉学会のQ氏のplainの使い方を彷彿とさせる。用言の意味が終止形と連体形で変わらないとは言い切れないが、あるとすれば非常に例外的である。終止形「む」と連体形「む」の意味が異なるならば語源が異なる別の単語と見るべきである。両者が同じ単語であるならば、疑うべきは推量とされる終止形「む」の意味である。問題なのは「安易にスライドさせる」ことではなく、「む」の意味を推量と決め付けたことであろう。

「文中用法と文末用法を別個に精査した上で, 両者を総合するという手順をふむ必要がある」は高山氏の主観的意見であるから「必要があると私は考える」とすべきである。

この後の推論の部分にも主観と客観の混交があり、それが間違った結論を導くのだが、それについては既に述べた。

最後に前回までと同様の引用を行う。

「公表された作品については、みる人ぜんぶが自由に批評する権利をもつ。どんなにこきおろされても、さまたげることはできないんだ。それがいやなら、だれにもみせないことだ。」

藤本弘(藤子・F・不二雄)氏の「エスパー魔美」からの引用である。「法華狼の日記」さんのサイトに詳細な解説とそれに対する読者の反論と議論がある。セリフに漢字が少ないことから窺えるように、この漫画は小中学生を読者と想定したものである。自分の論文が批判されて怒っていたら理系の研究者はやっていられない。相互批判は学問の共同体の当然の権利であり、それが学問を発展させるのである。この当然すぎる常識を萬葉学者たちが受け入れてくれることを祈る。


引用文献
Reichenbach, Hans (1951) The Rise of Scientific Philosophy.
Popper, Karl (1959) The Logic of Scientific Discovery.
Popper, Karl (1972) Objective Knowledge: An Evolutionary Approach.
北原保雄(1984)『文法的に考える』(大修館書店)
和田明美(1994)『古代日本語の助動詞の研究ー「む」の系統を中心とするー』(風間書房)
Palmer, Frank R. (1979) Modality and the English Modals.  飯島周訳『英語の法助動詞』(桐原書店)
Palmer, Frank R. (1990) Modality and the English Modals. 2nd ed.
Palmer, Frank R. (2001) Mood and Modality, 2nd Edition.
高山善行(2002)『日本語モダリティの史的研究』(ひつじ書房)
山本淳(2003)「仮定・婉曲とされる古典語推量辞「む」の連体形」 山形県立米沢女子短期大学紀要 38, 47-62, 2003-06-30
高山善行(2011)「述部の構造」 金水敏ら(2011)『文法史』 (岩波書店)の第2章
高山善行(2014)「古代語のモダリティ」 澤田治美編(2014)『モダリティ 1』 (ひつじ書房)に収録


0 件のコメント:

コメントを投稿